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 2006年10月3日、オーストラリアのメルボルンで、一人の人の葬儀が行われました。上に掲げたのは、その葬儀の一場面です。二人のアフリカ系アメリカ人が、棺を担いでいます。それがトミー・スミスとジョン・カーロスです。彼らは、メキシコで開催されたオリンピックの陸上競技200mで、優勝と第三位を獲得したランナーでした。

 そして、その棺の主は、64年の生涯を終えたピーター・ノーマンでした。彼は、第二位の銀メダリストで、スミスとカーロスと競い合った仲で、競技終了後も、強い友情で結び合わされていたのです。

 人類史上、歴史の時々に、語り継がれる「名場面」がたくさんあります。この写真は、その表彰台の場面を記録したものです。星条旗が掲揚される中、若き日のスミスとカーロスは、黒の手袋をして、それを天に向かって突き上げ、黒人差別に対する反対の拳(こぶし)をあげたのです。
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 ノーマンは、白人ながらも二人の行動を支持しました。それで、同じ表彰台で「人権を求めるオリンピック・プロジェクト(Olympic Project for Human Rights 略称:OPHR)」のバッジを胸に着けて表彰台に上がったのです。彼は、『肌の色など関係ない。人間はみんな平等なんだ。それを忘れてはいけないよ!』と、父に言われて大きくなった人でした。

 1964年当時、アメリカでは、アフリカ系の人たちが、まだまだ酷い差別を受けていたじだいで、それへの抗議のための示威行動でした。その行為が、「オリンピック憲章」に抵触し、その後の選手生命や、その後の活躍を封じられる結果を招きます。最も手ひどい仕打ちを受けたのは、白豪主義のオーストラリア選手のノーマンでした。二度とオリンピック選手に選ばれることなく、オーストラリア政府の公務員として奉職しますが、その俸給だけでは生きていけず、その他にアルバイトをしなかればならないほどでした。

 そんな境遇に耐えながら、一信仰者として64年の生涯を生き抜きます。ノーマンの死後、6年が過ぎた日に、オーストラリアのオリンピック委員会は、1972年に開催されたミュンヘンオリンピック大会に、13回も参加標準記録を挙げたノーマンを出場させなかったことなどの不当な扱いを、公式に謝罪しています。

 私たちの国にも、原住民のアイヌのみなさんへの差別、部落の人たちへの偏見と虐待、ハンセン氏病のみなさんへの不当な扱いなど、多くのことがあり、今だに残されています。

 子育てをした街の高校で英語を教えていたアフリカ系アメリカ人のご婦人が、私たちの事務所においでになられていました。日本人の偏見に悩まされていることを話してくれました。私たちの家においでになったり、食事に招かれたりの交わりの中で、偏見のない私たち家族に会うと慰められたとおっしゃっておいででした。

 今、オレゴン州ポートランドなど、アメリカの多くの街で、警察官の射殺事件への抗議が行われ、暴動にまで発展しているニュースを見聞きして、思い出した言葉があります。『先ほど通り過ぎて行った人が、白人であったか黒人であったかを思い出せなくなる時の到来こそが、人種差別の終わる日です!』と言っおられらのを聞いたことがあります。そんな時が、間も無くやってくるでしょうか。

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