那須野が原の花や木など

 

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 先月末、長女の運転で出かけた「那須野が原」にあった、レストランで、昼食を戴きました。その玄関脇にあった、木が珍しかったのでスマホで撮影したものです。そして、席に座ってから、周りの緑が素敵でしたので、これも撮ってみました。

 東京で過ごした時間が長かったからでしょうか、行楽で出かけるのが、西の八ヶ岳や富士山、信州長野の近辺ばかりを訪ねて来た私でしたが、今回、那須塩原の周辺に、初めて出掛けたわけです。

 皇室や明治の元勲たちが好んで御用邸や別荘や牧場を、この地に設けましたから、それほど魅力的で、実益的な地だったわけです。明治維新政府の要人、特に長州藩や薩摩藩の藩士たちが、こぞって用地を取得したわけです。

 栃木の県令(県知事)をした三島通庸(いしまみちつね)は、塩原街道を建設し、那須野が原の開墾のための那須疏水を設け、人の住めない地を、肥沃な地に変えた、その功績は大きかったのだそうです。「土木県令」とあだ名されるほど、道路御意性にも熱心でした。国道4号線(奥羽街道)の整備も手掛けています。後に、警視総監の要職に就く、旧薩摩藩士でした。54歳で病没しています。

 今回は訪ねませんでしたが、塩原温泉には、文人たちが好んで逗留したのだそうです。そこで構想を練り、執筆した人に、明治期の名作、「金色夜叉」を塩原温泉で執筆した徳富蘆花、その他に、夏目漱石、国北独歩、与謝野晶子と鉄幹などがいたそうです。

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神の健やかさのために

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 『新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。 (詩篇981節)』

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 『僕のただ一つの努力は、いつか自分にできる限りのことで、パパを助けるとことだけです。僕を今も神学に引き留めているのも、そのことができると言う希望だけです。もしその希望がなければ、これ以上慰めのないことはありません。』

 これは、南ドイツで長年牧会をされた、クリストフ・ブルムハルトが、後年語った言葉です。主への献身の理由、神学を学ぶ動機が、《パパ》だと告白したのです。よく、人の誕生を、〈ある星の下に生まれた〉といった表現があります。運命的な出来事のことですが、メットリンゲンという南ドイツの村で、牧師として仕える父ブルームハルトの子として、クリストフ・ブルームハルトは、184261日に生まれています。

 その誕生の翌日に、教会員の若い姉妹のゴットリービングの精神錯乱問題、悪霊の蹂躙の様子を、村長や教会の長老たちが、その調査を開始したのです。クリストフが、どのような家庭で育ったのか、70歳の頃に、バートボルに転居し、その街の教会の聖日曜日の礼拝で、こうも語ったのでした。

 『私の少年期の思い出の最大なものは、私が、父の家で少年として経験したものであった。メットリンゲン教会で、神の力の証明がはっきり示された後でも、父の家には非常な暗黒があり、あらゆる悪魔が跳梁(ちょうりょう)しており、山のような災いが侵入しようとしていた。しかも、事態が真に厳しく困難になった時には、いつも私たちは、私たちの讃美歌を歌い、神の国を賛美した。そして心の中で、「わが魂よ、主をほめまつれ」と言っていたそのようなことと共に、私は成長した。それ以外のことを、私は知らない。』

 どんな家庭で、どのような親に育てられるかは、だれも選び取れません。私たちの4人の子どもたちも、地方の街の単立のキリスト教会に仕える私と家内を、親として育っています。光り輝く世界を見つつも、その光の影をも見て育ったのです。いわば、「教会の子」であったのです。様々な背景の方々がやって来ては、教会が形成されていたのですが、子どもたちの人間観察の眼は、けっこう鋭いものがあったのではないでしょうか。

 必要があって、主のもとにやって来た人たちは、救いや解放を求めていました。私たちは、カウンセラーではありません。祈祷師でもありません。召された務めは、《神のことば》を、淡々と説くことでした。もちろん、祈りもしました。癒しを求め、解放を求めて祈ったのです。そして癒しがあり、解放がありました。

 責められたり、無能呼ばわりされたり、成功している牧会者と比べられたりされました。あからさまに詰(なじ)られることもありました。きっとクリストフにも、そんなことがあったのでしょう。

 このバートボルの街の教会の敷地の脇には、うず高く歩行補助の松葉杖や歩行器などが積まれていたのだそうです。ヨーロッパ中から、癒しや奇跡を認めて、人々がやって来たからです。クリストフが、癒しを祈り、解放を祈った結果でした。

 ところが、奇跡だけを人びとが求め、主なる神さまを求めていなかったのです。〈宗教的エゴイズム〉に批判的になっていきます。地上の幸福を最大のこととする態度に対して、医学を補完する役割を、神に期待する態度、神を自分の召使と考える態度に対して、クリストフは厳しいことばを語ります。

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 『われわれの心が燃えるのは、神の栄光のためであって、われわれの肉のためではない。神の健やかさのためであって、われわれの健やかさにためではない!』とです。

 それで、彼は、そういった祈りをや、やめてしまうのです。『みなさん、聖日曜日の朝の礼拝に、主のみことばを求めてやって来て、礼拝を守りなさい!』と講壇からから語って、奇跡や癒しの祈りをやめてしまいます。奇跡の周りに集まる人がいなくなり、主が、その日曜日に語る「主のことば」に、耳を傾けるようになっていきます。

 『イエスは勝利者だ!』から、その勝利を賛美するのが、キリストの教会でありクリスチャンなのです。イエスさまの《義》、《栄光》、《尊厳》、《威光》、《力》を、礼拝や普段の生活の中で賛美し、高らかに歌うことが、私たちの信仰の喜びなのでしょう。

 ですから、『イエスは勝利をとられた 十字架の上で イエスは勝利をとられた 十字架の上で イエスは勝利を すでにとられた イエスは勝利を すでにとられた』と、《神の健やかさのために》、今朝も賛美するのです。

(“ Christian clip art “ のイラストです)

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キキョウの花が咲く

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 6月最後の日の朝、「桔梗」が、ベランダで咲きました。清楚な白色の花びらを見せてくれています。西方にある道の駅で買った苗です。下の紫色の桔梗は、昨日の散歩の途上、道路側に咲いていたものです。

 梅雨が開ける前に、秋の花が咲いたのですが、真夏の暑さの中に、清涼な気分を楽しませてくれる花なのですね。

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道、道、そして道

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 人には、防護本能(防衛本能でしょうか)があるのでしょうか、〈老い〉との対決に違いなく、こちらに越してきてから、車がないこともあって、散歩に励んできたのです。思い返してみますと、『ずいぶん歩いて来たなあ!』と言うのが正直な思いです。

 『正しい人の行く道は平らです。あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。(イザヤ267節)』

 山道も、畦道も、外国の道も、車の故障で高速道の端も含めて、この二本の足は、歩き続けてきたので、感謝の思いで、足元を見つめているのです。でも、上を見ないといけません。そこには、どんな凸凹道でも、「平にならされる神」がおいでだったのに気付いて、驚かされています。さまざまな道があるのです。

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「アジアンハイウエー(道路元標 日本橋起点)」

「ASIAN highway 1 終点 トルコのカプクレ)」

「天空の道(熊本阿蘇山)」

「金色の道(JR青森駅)」

「アッピア街道(ローマ街道)」

「日光例幣使街道」

「甲州街道(江戸名所絵の〈日野津〉」

「鯖街道」

「哲学の道(京都)」

「道(映画)」

「奥の細道」

「行く道 来た道」

「帰り道」

「route 66」

「country roads」

「アメリカへの道(新島襄がアメリカ船で密出国した函館港)」

「登山道」

「わたしは道であり・・・(救いに至る道はイエスさま)」

 

 最近は、病院や薬局への道、図書館への道、食べ物を買うためにお店に行く道を歩むことばかりになりました。昨日は、採り立ての野菜を買いに、〈ゆうゆうプラザ〉に、これは自転車で出かけたのです。ついでに、入浴施設にも寄ってみました。

 いつも聞いてきたのは、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ30章21節)』と言われる主の声でした。これって永遠不動、永遠不変の道なのです。

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将来と希望を与えてくださる主がいてこそ

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 『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。 (箴言17章17節

 千葉県下の私鉄電車の社員だった兄を、何度か訪ねたことがありました。ちょうどその頃、自動車学校に、運転免許証を取るために、通っていたのです。少し運転を覚えたばかりだった私は、兄の勧めるままに、駅前に待機していた、同じ会社のタクシー部門の緑ナンバーの営業車で、運転の練習をしたのです。ところが未熟な私は、道路脇の溝に、落輪をしてしまいました。

 困ったのは兄でした。東京の本社で、この営業車を、無免許運転して、しかも落輪てしまったことが、問題になってしまったわけです。将来を嘱望され、若いうちは現場に置かれた兄だったので、赦されたのです。そんなことがあって、自転車運転の興味が削がれてしまった私は、父にもらったお金で、九州旅行してしまったのです。

 免許証は、原付自転車だけは乗れたのですが、子どもが二人になった時に、普通自動車免許証に再挑戦の必要を感じたのです。手っ取り早かったのは、アメリカの免許証は、学校に通わずに、助手席に乗った親が指導して、実地練習をし、学科試験が合格すれば、運転実地試験に進められて、免許が入手できるのです。

 ちょうど、義兄がグアム島への旅行を誘ってくれ、義姉の家に宿泊している間に、免許取得に挑戦することになったのです。三度失敗して、諦めた私を、義姉の主人が、もう一度のchallenge を促してくれたのです。それで学科試験が合格しました。義父母が、ブラジルに行く前に、そこにいて、義父が助手席に座って、激励してくださったのがよかったのか、実地試験に合格したのです。

 勇躍、アメリカの統治領のグアムの license を手に帰国したのです。県の免許センターに行き、免許証の発行をお願いしたら、免許証を発行した地で、3ヶ月間の滞在期間の記録が必要だと言われたのです。この計画は、水泡に帰し、県南の自動車学校に入学して、やり直したのです。近所で同年の方が、『オヤジが、坊主をしながら、教官をしているから、そこに行ったらいいよ!』で、最短時間数で、卒検に受かったのです。

 それ以来、中古車ばかりを乗り継いで、十三年間運転から遠ざかっていたので、加害者にならないように、免許の更新をしないで、失効になって今日に至っています。

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 われわれ世代は、〈ナナハン(750cc/ HARLEY-DAVIDSON〉、国産の〈メグロ(650cc)〉や〈陸王〉などのバイクには憧れがあったのです。とても乗れる立場ではなく、諦めました。それでも車は、〈トヨタクラウン(今ならレクサスになるでしょうか)〉を手に入れたかったのです。山麓にある別荘のような家に住んで、この車に乗って、歩く時には、〈REGAL〉の靴を履きたいなと思ったものです。

 ところが、主は、『あなたは、高校生が乗り古したバイクで、中古車センターに並んでいるサニーで十分です。靴も、靴センターの特売品が似合います!』と仰りたかったのでしょう、まさに、その通りになりました。今は、事故の代替の中古折り畳み自転車に、ハアハアと喘ぎながら、健康管理と言いながら跨いでいます。

 教会だって、各戸にトラクト配布をしながら、当時ブームが去って、斜陽産業となって閉鎖されていたボーリング場を見ては、『これに手を加えて、500席くらいの礼拝堂にして、賛美チームが、楽器を演奏し、〈500人教会〉くらいで、素敵な礼拝を捧げたい!』と願っても、『あなたに、そんな多くの信徒のいる教会を任すことにできない!』と言われたようでした。それでも、聖職に召された驚きで、主と教会に支えられた日々が懐かしく思われます。

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 素晴らしい、兄弟がいて、妻や子たちや婿や嫁や孫がいて、その上、主にある同信の愛兄姉、同じ幻を持つて、伝道をしてきた友が、私にはいるのです。今も激励してくれ、祈りで支えてくれ、少しも変わらない絆を保つことができています。夢や理想でしょうか、そこそこ野心の匂いがしていましたが、みんな謙遜にされたに違いありません。それが、《老成》と言うことなのでしょう。そんな兄と弟に、3年ぶりに、先週会えたのです。姪の入院先を、訪問中の娘と見舞った折に、昼食の席を設けてくれてでした。

 自分一人で、一人前になったように錯覚していたのが、主が備えてくださった指導者の忍耐や、書物や、先達があって、仕事を続けられたことを思い返すのです。まさに将来と希望を与えてくださる主がいてこその今であります。

(「田舎の駅」、「メグロ」、「四兄弟」です)

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共に生きるために

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 先週訪ねた「アジア学院」の、食堂の入り口に掲げてあった一幅の「絵」が、この冒頭の絵です。東日本大震災の地震で、この学院の建物も被害に遭って、倒壊してしまったのだそうです。かろうじて残ったのが、この絵画で、それを瓦礫の中から取り出して、新築された棟の入り口に掲げたそうです。まさに、地震の残骸の中に、土埃をかぶった、収穫を喜ぶ農夫の姿が残されて、黄金色で描かれていたものなのです。

 この学院の《使命》が、HPに次のようにあらわされています。

 『アジア学院の使命は、イエス・キリストの愛に基づき
個々人が自己の潜在能力を最大限に発揮できるような
公正且つ平和で健全な環境を持つ世界を構築することにあります

この使命の実践に当たって、私たちは
共に分かち合う生き方を目指して
農村指導者の養成と訓練を行っています

主としてアジア、アフリカ、太平洋地域の農村共同体に生き
働いている男女の指導者たちが
毎年職員やアジア学院に集うその他の人々と共に
学びの共同体を形成します

この共同体に根ざした学びを通して、
私たちは農村の人々が地域で自分たちの持っている
地域資源や能力を共通の目的のために分かち合い
活用する最善の方法を見出してゆくのです

共に生きるために

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 《農の安全》は、人類存続の大切な鍵だと言われて久しいのですが、もう一度職業選択ができるなら、人に優しい食物、穀物や果物や畜産品の生産にあたりたい思いがあります。そう言えば30年ほど前に、ナス、キュウリ、スイカ、枝豆、落花生などを植えたことがありました。そして、この栃木に住み始めて、狭いベランダで、トマト、ナス、イチゴ、大葉、ニラなどを育ててきました。収穫の喜びは格別です。

 親元を訪ねてくれ、月曜日に帰って行った長女に、たったの一粒の「イチゴ」を上げましたら、美味しそうに食べていました。甘いからでしょうか、油虫がついてしまうので、なかなか育てるには大変ですが、結構楽しいものです。平地で育ててみたいのですが、このアパートが気に入ってる家内は、〈引越し魔〉の私には賛成してくれません。

 鶏糞の匂い、豚舎の匂いの中、長靴を履いた職員やボランテアのみなさんが、奮闘しておいででした。農業を愛しているのでしょうか、輝いた顔をしておいででした。二十五名の学生さんたちは、授業中でお会いできませんでしたが、アジア各国から来て、一年間の学びを終えて、ご自分の国に帰っていき、有機農業の実践に取り組むようです。

 『《共に生きるために》に基づいています。アジア学院の歴史は国内外のキリスト教会と深いつながりがあるため、その価値観はキリスト教精神によって形づくられています。例えば「三愛(神を愛し、土を愛し、隣人を愛する)」もそのひとつです。また、日本の伝統的な価値観や禅の思想からも影響を受けています。』と、この学院の《価値観》を掲げておいでです。家内は、『若かったら、ここで学びたい!』のだそうです。

(田んぼを泳ぐ鴨の姿がありました)

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とこしえへの道に

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 『私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:24)』

 暇を持て余したわけではありませんが、しげしげと自分の手や指を眺めていると、『なんとキズだらけなのだろう!』と、自分ながら驚いてしまいます。傷の上にキズがあるという状態で、数え切れない傷を負いながら、膿むことも、破傷風にかかることもなく、今日まで生きてまいりました。

 ケンカの傷跡も身体に残り、よそ見をして足の脛、あの〈弁慶の泣き所〉をぶつけて負傷したりしたのです。その痛さは、跳び上がるほどの激痛がありました。さらに、左脇腹には、大きな手術痕もあるのです。

 温泉や銭湯に行きますと、傷口を見て、ドキッとした様な目で見られるので、肘を当てて隠すことにしているのです。八九三でもなかったのに、出入りで負ったキズだと勘違いされたことがあって、人を驚かせたのです。両肩には鍵盤断裂の縫合手術跡が、お臍にはヘルニヤの手術痕、左足には静脈瘤の手術痕が残っています。親にもらった大事な身体、いえ創造主なる神さまに頂いた身体を、キズだらけにしてしまったのです。

 そればかりか、心に負ったキズだって、数えきれないのです。負った傷よりも、〈負わせたキズ〉の方が何十倍も多そうで、申し訳ないことだと自責の念に駆られます。〈負わされたキズ〉だって、原因を考えると、ほとんどのキズは、こちら側にありそうで、穴の中に隠れたいほどであります。

 この詩篇の記者のダビデは、傷の自覚があり、その痕跡を忘れていないのです。気付いたものは、どうにか対処できます。でも、〈気付かずにいる傷〉があること、それが除かれないと、心の平安や喜びを、真に味わえないので、それを探ってくださるように、主なる神さまに懇願したのでしょうか。

 もう一つ幸福感にひたることができない、〈何もの〉かがあるのを、時々、自分も感じています。神さまと自分の間に〈遮蔽物〉になっているものがるのです。人との関わりは、実に難しく、何が原因かに気付かないでいるのが、そもそもそもの原因に違いありません。それに気付かないほど、自分に甘いわけです。

 それででしょうか、イエスさまは、次のようにお話になられたのです。

 『だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 (マタイ5:2324)』

 礼拝や祈り以前に、《関係回復》をする、《和解》をすることの勧めです。いいんです、相手がそれに応答しないで、和解や仲直りを拒んで、できなくても。一番大切なのは、《対神関係》だと学びました。神さまとの間に、〈わだかまり〉を置かない努力なのです。真の《赦し》をくださるのは、創造主なる神さまだからです。人って、突っ張っていて、自己義認の生き物で、原因や発端を相手に求めがちです。

 神の前に、どうであるか、そんなことを自らに問いながら、老いを迎えて越し方に思いを向けています。でも過去だけに関心を向けていると自己嫌悪に陥るので、輝ける未来に進むべき道を、主が道普請してくださった「とこしえの道」に、思いを向けて、希望を大きくして、前進しております。

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人の言葉と預言者のことば

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 日本で、本格的な国語辞書として、19555月に、岩波書店から、「広辞苑」が刊行されています。戦争前に、「辞苑」という辞書がありましたが、それを基に、新村出の努力によって、出版刊行されています。何と、語彙数は、20万語もあったのです。

 まだ小学生の私に、父が、漢和辞典の「字源」と対で買ってくれたのだと思って、独占して使い始めたのです。各語には類似語があって、それを次々に引いていくのが面白しかったのを思い出します。多分、四人の兄弟の中では、自分が一番多く使ったと思います。使い古して、引っ越しの時にでしょうか、どこかに行ってしまったのは残念でした。

 国語辞典とか百科事典で有名なのは、「ブリタニカ」や、「ウエブスター」があります。それには及びませんが、「センチュリー大辞典」と言う辞書が、発刊されました。その一冊を、癌を患っていて死期の迫っていた、あの尾崎紅葉が買い求めたのだそうです。「言語」に対する思いの強さに、驚かされます。

 江戸の芝中門前町の商家に生まれ、府立二中(東京の名門の日比谷高校の前身)から、東京帝国大学国文科に入学しますが中退、文筆活動に入り、江戸の井原西鶴を思わせる文章を著して、文壇に名を馳せたと言われています。

 その「センチュリー大辞典」ですが、その逸話を、東京都中央区の観光協会が、次の様に伝えています。

 『その紅葉と日本橋の丸善を結ぶ逸話が、内田魯庵(1868-1929)の『思い出す人々』に描かれています。魯庵は評論家、翻訳家、小説家として活躍した人ですが、当時丸善本社に書籍部顧問として入社、PR誌「学鐙」の編集や洋書の販売に尽力していました。

 明治の文壇にあって一世を風靡し、広汎な読者を獲得した紅葉ですが、若くして不治の病におかされ、余命三月を宣告されます。やせ衰えて丸善に来た紅葉は、『ブリタニカ』を注文しますが、品切れのため代わりに『センチュリー』を百何円の大金を手の切れるような札で買っていきます。紅葉は決して豊かではなかったそうです。魯庵は、死の瞬間まで知識の欲求を忘れず、豊かでない財嚢から高価な辞典を買うことを惜しまなかった紅葉に讃嘆します。

 魯庵は紅葉や硯友社の作品については批判的で、二人の仲も疎遠だったようですが、このときの「小一時間の四方山話」では、わだかまりもなく打ち解けることができたと書いています。そして誰も知らない「この紅葉の最後の頁を飾るに足る美くしい逸事」を後世に伝えるのだと言っています。「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。』

 文豪の尾崎紅葉の文章には、驚くほどの美しい言葉が用いられていて、日本語への飽くことのない愛があった様に感じられます。

 『未(ま)だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(ますぐ)に長く東より西に横はれる大道(だいどう)は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来(ゆきき)の絶えたるに、例ならず繁(しげ)き車輪(くるま)の輾(きしり)は、或(あるひ)は忙(せはし)かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来(かへり)なるべく、疎(まばら)に寄する獅子太鼓の遠響(とほひびき)は、はや今日に尽きぬる三箇日(さんがにち)を惜むが如く、その哀切(あはれさ)に小さき膓(はらわた)は断たれぬべし。』

 これは、名作で、歌にも歌われた、「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の冒頭の原文に、ふりがなが振ってあります。この作品は、1897(明治30)年11日~1902(明治35)年511日まで、読売新聞に掲載された小説でした。120年前の日刊紙に、こんな文体で、毎朝の新聞に目を通して、愛読の読者がいたのです。それでもしゃべり言葉は、次の様に、これもふりがなを振りました。

 「何だ、あれは?」、「それはどうも飛でもない事を。外(ほか)に何処(どこ)もお怪我(けが)はございませんでしたか」、「唯今(ただいま)絆創膏(ばんそうこう)を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々(わざわざ)御招(おまねき)申しまして甚(はなは)だ恐入りました。もう彼地(あつち)へは御出陣にならんが宜(よろし)うございます。何もございませんがここで何卒(どうぞ)御寛(ごゆる)り」

 会話の様子は、口語体で書かれています。江戸期にも、喋り言葉は、今と同じで、ことば数は、外来語も含めて多くなってきていたのです。近代日本語を、作り上げた一人が夏目漱石(1867~1916)だだったのですが、この漱石は、江戸落語の三遊亭圓朝(18391900年)の寄席に通って、しきりに耳を傾けたのだそうです。

 「その圓朝の芸風は、夏目漱石が、高く評価していて、『その工(たくみ)が不自然でない。』、『余程巧みで、それで自然!』と言っています。まさに圓朝の噺は至高の芸だった様です。高度な表現技術を持ち合わせながらも、それを感じさせないごくごく自然な語り口で、しかも情味にあふれる芸風となっていたのである。」と評されています。それにしても、35歳で亡くなっているのは、惜しまれた死であったのです。

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 人の言葉の美しさを思う時、今、順次読んでいる「イザヤ書」の文体は、翻訳の日本語でも、美しく詩的であります。なおのこと文語訳聖書の表現が、個人的に自分は好きなのです。神からのことばを、掲示されて記したイザヤは、「主の救い」という名を持つ人でした。イスラエルの預言者として、ユダ王国(BC930年頃〜586年)の後期に活躍して生涯を送ります。

 3000年の昔に、こんな文学性を持った預言者がいて、「神のことば」を取り継いだわけです。明治期の文学の世界で、高く評価されて高名を得た尾崎紅葉の流麗な日本語も、「神のことば」には、比肩することはできません。神の愛に溢れる「ことば」には、いのちが溢れ、人を生かし、人を悔い改めさせ、永遠のいのちに至らせることができるのです。

(紅葉の生まれた芝周辺の古地図、預言者イザヤです)

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祈りの継承

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 『それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27)》

 弱冠27歳のダーフィト・シュトラウスが、イエスさまの生涯の中から、「奇跡」とか「真理」を取り除いて、〈史的イエスの探究〉と言う目標を掲げて、「聖書」を薄い書物に改変しました。1835年に、神の子ではない、人の子として「イエス伝」を著したのです。不信仰の立場で書いた書物によって、教会史の中で、非常に悪い影響力を蔓延させたのです。キリストの教会に不信仰もたらせたわけです。それに賛成するかしないかが、結果的に問われたのでしょう。

 この人は、ドイツのシュトウットガルに生まれ、子どもの頃から、神学に強い関心を示し、チュウビンゲン大学に進学して、哲学を学びました。ところが、〈直感と感情〉で聖書に向かうシュライエルマッハーに共感してしまうのです。

 『誰から影響を受け、学ぶるか?』によって、人は変えられてしまいます。変えられた彼ら、主にドイツの教会の〈聖書批判〉から生じた「新神学(自由主義神学)」の影響は、世界に広がります。それは日本の教会をも見舞うのです。海老名弾正、小崎弘道は、その筆頭だったと言えます。小崎は、聖書信仰の立場を捨てています。あのシュバイツアーは、この系譜の中の人でした。

 私は、単純に、聖書の記すことを信じている母に育てられ、その母を生かしてきた聖書を、《神のことば》と信じ続けてきました。母や家内や子どもたちが、そして自分が病気した時も、『我はエホバ、汝を癒す者なり(エホバ・ラファ 出エジプト15:26))』と、天にいます神さまを信じて祈ってきました。この「祈り」、「祈れること」に感謝して今に至っています。

 主イエスさまが、「信じる者になりなさい」と、トマスに言われたように、自分にもそう語りかけているのです。『祈って!』と、幼かった四人の子どもたちが願うので、その都度祈ってきました。今や家庭を持った子どもたちが、家族や親族の必要があると、『お父さん、お母さん、祈って!』と言ってきます。

 昨日、姪の入院先の東京・八王子の大学病院を、三年ぶりに帰ってきた長女と一緒に見舞いました。5分ほどの面会でしたが、長女は、別れ際に、従姉妹の癒しのために祈っていました。それは、少なくとも三代に及ぶ、《祈りの継承》だったのです。

(「アレオパゴスの祈り」です)

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苦労の跡を

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 私は、「落語」が好きで、学校に行けないで、ラジオに育てられたので、この落語をよく聴きました。みなさん話術、間の取り方に長けておいででした。惜しくも亡くなった、若い頃に聞いた金原亭馬生、兄貴的な立川談志、古今亭志ん朝などの噺は、極めて優れていると思っていました。廓噺(くるわばなし)や、呑み助の噺が多いのですが、人を、思わず吹き出させるほどに、屈託なく笑わせる話術は芸術の域です。

 とくに、金原亭馬生と古今亭志ん朝の兄弟、あの志ん生の息子たちの落語は、素晴らしいと思っています。志ん生が、満州に兵隊さんの慰問に、2年も出かけていたからでしょうか、家庭を顧みない残された家族は極貧だったそうです。その様子を、馬生が、次の言うに思い返しています。

『幼いころ家が貧しかった。寒さで夜、眠れない自分のために、母は近所の人から古い湯たんぽをもらってきてくれて、「おそば屋さんに行ってお湯をもらっておいで」といった。不慣れなそば屋に入りそびれ、外で震えていると、通りがかりの男の人が声をかけてくれた。そば屋の人に、お湯を頼んでもくれた。店には天ぷらそばをうまそうに食べている客がいて、馬生少年は思わずジーッと見入ってしまう。すると、その客は店の人に怒鳴った。「おいこのガキに早く湯をやれ、そばがまずくなっちまうよ」。馬生は帰りの夜道を湯たんぽを抱いて、泣きながら歩いたという(「わたしとおそば」から)』

 この「貧しさ」が、この人の噺(はなし)に華を添えていたのでしょう、渋い味が人情噺にあったのです。一芸を為す人には、貧しい経験が、益になるのでしょうか。野球だって同じです。苦労人という人がいたのです。稲尾和久というピッチャーがいました。こんな話を残しておいでです。

 『薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がつ来ました!』とです。また、強靭な下半身は、この漁の手伝いによって培われたわけで、276勝もした名投手でした。性格も穏やかで、多くのフアンがいて、慕われていたのです。

 『苦労は買ってでもしろ!』、わが家の4人の子たちに、安易に生きるよりも、苦労をすることを願って育てたつもりですが、つらかった話を、ぽつりぽつりと話してくれる年齢に、彼らがなってきたようです。

 三年ぶりに帰って来た長女と、県北の那須地方に、彼女の運転で、家内と三人で旅行をしました。家内の恩師が中心になって始めた「アジア学院」を訪ねたのです。何もなかった原野を切り拓いて、農業指導者の養成を、五十年続けてきたと、案内をしてくださった職員の方がおっしゃっていました。

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 国内外、とくに東南アジアにみなさんが多く、有機農法で、穀物や野菜や果物、養豚や養鶏をされて来ました。広い敷地の、門のそばに、稲の田植えを終えた田んぼが広がっていました。その田んぼに鴨が泳いでいたのです。これも農薬を使わない農法の一つで、聞いてはいましたが、実際に鴨の泳ぐ姿を見て、感動的でした。巴波の流れを泳いで、観光客に餌をねだるのとは段違いだったのです。

 地域のみなさんとの軋轢もあったり、資金繰りもあって、そに五十年の運営は苦労が多かったのでしょう。自然農法を実践する真摯な農業人がいて、目の青い欧米人の指導者やボランテアのみなさんが、イキイキと働いておいででした。出来上がった米や小麦粉で作った醤油や煎餅やクッキーを買い求めて、帰って来ました。

 ここにも「苦労」を、苦労としない人たちの夢や理想の跡が見られて、素晴らしい時でした。栃木に来て以来、家内の願いが叶えられて、長女の運転のレンターカーでの訪問でした。そういえば、その「那須野が原」は、人の住めない原野だったのが、入植して水路を開き、開墾し、青々とした田んぼや牧場が広がっていました。明治人の強靭な心や肉体、そして開拓魂が感じられたのです。

(「アジア学院」の看板と咲く菖蒲の花です)

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