出逢いと別れ

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『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(1コリント人2章9節)』

 2000年代に入る直前になりますが、兄のように慕っていた牧師さんに誘われて、アメリカ北西部、オレゴン州にある一つの教会を訪ねたことがありました。その教会は、Portlandと言う大きな街に隣接する Beaverton にあって、教会全体で私たちを大歓迎してくれたのです。Mehl 牧師がサインしてくれたみことばが、上記のあq聖句です。

 空港からホテルに着きますと、部屋のテーブルの上に、白い布製のバッグに、果物とクッキーやチョキレートやチーズがいっぱいに入れられて置いてありました。中にはカードがあって、歓迎の旨が手書きされて入れてありました。そのカードには 100$札" が添えられていたのには驚かされたのです。

 父親や母親にもらって以来の《お小遣い》で、遠足気分が盛り上がってしまいました。どうも牧師夫人のアイデアだそうで、どんな歓迎ぶりだったかがお分かりいただけると思います。この街から北の方角に、Mt.フッドがそびえていて、お隣の「バラの町」(The City of Roses)」と呼ばれるポートランドのベッドタウンなのでしょう。そこはアメリカで、メル牧師も奥さまも、他の州qの出身でした。

 この教会のメル牧師さんは、背の高い方で、私と同世代でした。聖書学校時代の学友同士で結婚されて、お二人の男のお子さんがおいで、当時は公務員だったのですが、今は献身されておいでと聞きました。メル師は、しばらく白血病と闘っておられて、牧師室を訪ねた時は、ちょうど Chemotherapy の治療の日でした。私たちが待つ中に、帰って来られて、大きな腕でハグの歓迎をしてくれたのです。

 その様子を、男性の秘書が苦い表情をして俯いて、椅子や机などを白い布で拭いていたのです。キモ治療をしたら、握手とかハグは禁物なのです。感染しやすいので要注意で、それを心配した秘書の方の行動だったようです。当のメル牧師さんは、そんなことはお構いなしで、ニコニコしながら談笑していたのです。こちらが注意すべきでしたが、それほど遠路をやって来た一行を暖かく受け入れてくれていたわけです。

 この教会には、40人近いスタッフがいて、歓迎会の時に、互いに挨拶を交わしたのです。訪問団には、他に一人の、同じ団体の牧師さんと、小学生のお嬢さんの混じる兄弟姉妹とがいました。そのお嬢さんも白血病を病んでいて、そんな親密さがあって参加されたそうです。メル牧師さんは、殊の外、このお嬢さんに気を使っておいででした。

 スタッフの中に、近くの街で、以前伝道されていたのですが、疲れ果ててしまって退職されていた方が、ロン牧師さんと出会い、その交わりの中で癒され、招かれて、その教会の奉仕に迎えられたと、涙を流しながら感謝して話してくれました。そういった方々が何人かいて、互いに受け入れ合い、感謝しながら、素敵な教会を形成されておいででした。

 私たちのところに、アメリカからやって来られた宣教師さんたちも同じなのですが、立場や呼称といったものへの拘りを持たないので、権威主義に流れることがなく、みなさんが友人のように接してくれました。それでも神の権威を持たれているのが分かる、実に柔和な教会人が、このメル牧師さんたちでした。美味しい日本式ステーキハウスに招いてくださった時の写真が、残っています。

 この方が書かれた本が、全米のキリスト教界のベストセラーになっていて、孫も娘も私も、愛読の一書に加えています。その一冊の題名は、” God Works Night Shift “ で、Golden Medarion という、アメリカのキリスト教出版の賞を受けたものです。聖書学校で出会った親友のロイ牧師に謹呈されて出版されています。同じ州で牧会をしていて、毎晩、電話で激励し、祈り、支えてくれた友への感謝が巻頭に記されてあります。

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 そのロイ牧師が、他の州で奉仕をした帰り、ご自分で操縦する飛行機の事故で亡くなってしまったのです。その時に、その教会に所属し、教会の domitory (寄宿舎)に住んで、学校で学んでいた長男がいました。そんなことで、不思議な関わりのある、このお二人には感謝でいっぱいなのです。『Ron meal 牧師は、2003530日に、家に帰られました。』と言う教会のお知らせを聞きました。私たちが訪ねて、四年ほど経った時のことでした。

 実はこの牧師さんたちの所属する団体で、中国宣教をされた方が、中国の政変で国外退去になり、日本にやって来られ、東京近辺で宣教活動をされたのです。私は、メル牧師さんの教会での歓迎会で、『戦後間もない時、私の家内の家では、みなさんの教団から、最初の日本宣教をされた宣教師夫妻の家庭集会が行われていたのです。』と話しましたら、驚いたり喜んだりしてくださったのが昨日のようです。

 その後、このメル牧師に会わせたくて、家内を連れて、ビーバートンを訪ねたことがありました。結婚三十年の記念も兼ねてだったのです。日曜日に礼拝に出席した後、ちょうど娘たちがそこに来ていて、メル牧師は親子だと分かったようでした。

 下の娘の家族は、メル牧師の親友、ロイ牧師さんの始めた教会の礼拝に集い、婿殿は、時々青年たちへの務めをしています。長男、長女、次女、次男の4人の子どもたちが、礼拝を守ったことがあります。今は孫たちも学生会に加わって、次女夫婦と共に教会生活を送っております。

 所属する団体や教団は、歴史性の違いで、ちょうど上着やコートの作りや製造所が違うのと同じなのでしょうか。〈違うこと〉ではなく、《同じこと》を共有できる喜びがあって交流ができるのです。訪問をお誘いくださった牧師さんが、先月召されたのです。いつかは、その時が来るのですが、出逢ってお交わりをせていただいた方々が、最近、主の御許に帰って行かれています。懐かしくも楽しかった交流は、忘れられません。でも、同じ馳せ場を走り抜けたみなさんとの再会の望みがあると言うのは、なんとも素晴らしいことではないでしょうか。

(写真は現在のこの教会のHPによる礼拝の様子です)

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通学路の関門を通り過ぎて

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 詩人の辻征夫に、「まつおかさんの家 」という題の詩があります。

ランドセルしょった
六歳のぼく
学校へ行くとき
いつもまつおかさんちの前で
泣きたくなった
うちから 四軒さきの
小さな小さな家だったが
いつも そこから
ひきかえしたくなった
がまんして 泣かないで
学校へは行ったのだが

ランドセルしょった
六歳の弟
ぶかぶかの帽子かぶって
学校へ行くのを
窓から見ていた
ぼくは中学生だった
弟は
うつむいてのろのろ
歩いていたが
いきなり 大声で
泣きだした
まつおかさんちの前だった

ときどき
未知の場所へ
行こうとするとき
いまでも ぼくに
まつおかさんちがある
こころぼそさと かなしみが
いちどきに あふれてくる
ぼくは べつだん泣いたって
かまわないのだが
叫んだって いっこうに
かまわないのだがと
かんがえながら 黙って
とおりすぎる

 松岡さんの家に、よく吠える犬がいたのでしょうか。それとも怖いお爺ちゃんが、家の前を通ると、彼らをにらんでいたのでしょうか、お兄ちゃんも弟も、通学路、しかも家の近くに「難関」があったようです。それでなくとも、初めての一人での登校で、気の弱い兄、そして弟が、同じような体験を、小学校一年時に繰り返したのです。

 「初めての学校(幼稚園)」、「初めてのお使い」などは、多くの子は、ドキドキものなのでしょうね。私は、そう言ったドキドキ感とか、親と離れがたい経験とかがないのです。幼稚園などなかった山村に住んでいたので、幼稚園通いなどありませんでした。お遊戯とかブランコ遊びとか積木などで遊んだ経験もありませんでした。小学校の入学式にも、入院中で行けなかったのです。幼児教育の欠落です。

 父が、靴から靴下、Yシャツ、帽子、制服からランドセルに上履き入れなど、全てを買い揃えてもらったのに、退院後に写真を撮っただけだったのです。東京に出て、時々、行った小学校では、家で甘やかされた<内弁慶>の私でしたが、それでも物怖じも、登校拒否はなかったのです。違った環境には、順応できたのでしょう。ですから、体調がよくて、たまに行く学校の教室に、同級生が何人もいるのが珍しくて、いたずらをしては、叱られていたのです。だから叱られ経験は溢れるほどにありました。

 ですから私には、「まつおかさんの家」経験がないことになります。東京に出て来て住んだ街の近所に、守田さん、権藤さん、月下さんなどの家がありました。四十過ぎになってでしょうか、ある時、その隣近所の家の前を、市内のミニバスに乗って通過したのです。どなたも引っ越してしまっていた様です。思い出の中にだけ残っている風景になっていて、寂しい思いをしたのです。

 華南の街で、幼稚園のそばに住んでいたことがありました。年度初めの登園風景をよく目にしたことがあります。泣きじゃくって、送ってきてくれたお父さんやお母さん、お爺ちゃんやおばあちゃんから離れられない子が、必ずいました。今でも、ぐずってる子がいそうですね。きっと自立の時期の早い欧米では、そんな光景は見られないのでしょうか。

 で松岡兄弟は、どうなったのでしょうか。家に逃げ帰らないで、通り過ぎたのは偉かったですね。浅草生まれの彼が育ったのは、向島の「花街」と「鳩の街」の間でした。戦後の東京の復興の中を過ごした方なのでしょう。きっと小学生のお二人は、浅草から東武鉄道で大平下駅まで来て、大平山に遠足で来たこともあったのでしょうか。山にない浅草周辺の子供にとっての山は、大平山だったことでしょう。14歳で詩作を始めています。育ったのは東京の歓楽街でしたが、詩情を持った少年になって、教師をしながらの詩人として生涯を終えています。

(「向島」の古写真です)

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焼き鳥の味などを

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included meatball, grilled chicken with leeks, grilled liver.

 

 幼かった頃の子どもたちの写真が、今でも冷蔵庫や壁に掲げられてあります。あどけない表情は、良心への全幅の信頼に満ちて穏やかです。

 ツギを当てたズボンを履いたり、シャボン玉を膨らませ飛ばしたり、おんぶされていたり、お母さんのスカートを掴んでいたり、桜の下でに全員写真も、写真入れにはあることでしょう。

 まだ車を持てない頃、りんご箱を自転車の荷台につけて移動したり、オートバイに乗せたり、車が来て夏休みや正月休みには、いろいろなところに連れて行った時の写真もあります。

 子育ては、もう遠い昔の出来事のようになって、ちょっと色褪せた写真のように、記憶も薄れつつあります。

 新米の親をしていた街で、近所のお母さんたちが三、四人、アパートのわが家を見上げながら、越して来たばかりの親子の様子を、心配してくれていたこともありました。そのお母さんたちの子を集めて、公民館で、日曜学校をしたりしてたのです。

 あの子たちは、もう六十代になっているのでしょうか。話すことのできなかった静ちゃん、イタズラなトンちゃん、お転婆なマキちゃん、カッコつけの男の子もいました。『そう、もう六十か!』の今日ですが、彼らも何か思い出しているでしょうか。

 救急車を呼んだことも、大怪我も、手術も、入院もありました。道路工事でガス管が損傷してしまい、『シュー!』と漏れ出して、消防士の促しで避難したことも、上階の家のガス爆発で、命からがら助かったことも、すんでの自動車事故もあったのです。

 海水浴に行くのに、気持ちよく坂道を下っていたら、突然前方に躍り出た旗振りの警察官に停止させられ、丘の陰の机の上でキップを切られたこともありました。白バイを追尾して叱られたこともあったのです。子どもたちは、『お父さん、悪くないよね!』と同情してくれました。

 そう言えば、人を送る車が、カーブでドアーが開いてしまって、次男をこぼしてしまったことがありました。ルームミラーに、道路の上にに座っている姿を見て気づいたのです。大ごとにならなかったのも、神さまの憐れみでした。

 ラーメンを食べたことも、小僧寿しを買ってきたことも、サーティーワンのアイスクリームを食べたことも、ケンタッキーフライドチキンを食べ、コーラと焼き鳥の秘密バーティを開いたこともありました。そんなでみんな大きくなって、独立(でていって)しまいました。

 今や関東平野の北辺の街で、二人だけの生活になって、思い出すことの多い日々を送っているこの頃です。やっぱり自慢できる道のりではなく、恥多き一生だったのでしょう。でも、聖書に次のようにあります。

 『恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。 (イザヤ544節)』

 これは、不実なイスラエルに送った神ことばですが、短気で欠点ばかりで顔を赤らめて、過去を思い出している今の私への神の憐れみでもありそうです。人の一生は、やり直せないところが、好いのかも知れません。秋の日を窓辺で浴びながら、巴波川の流れのほとりで、大平山の上に輝く陽を、穏やかに仰ぎ、来し方を懐かしんでいる、静かな秋の午後です。

 ええ、もちろん、孫たちの写真も、冷蔵庫に、磁石て貼り付けてあります。これからは進学、恋愛、就職、家庭建設と、いろいろな節目が待っていそうです。富士も、男体山も、筑波山も、まぢかな大平山も、秋景色の中に見え隠れしています。

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江戸の息吹が感じられて

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 11月11〜13日の日程で、二年間隔で行われてきた、栃木市恒例の「秋まつり」がありました。だしかいかんをしゅかいじょうに、私たちの住むアパートの前の目抜き通りも出汁の巡行が行われ、各町内の「山車」が出ていました。前回はコロナ禍で中止になりましたので、四年ぶりの開催だったようです。市の広報によりますと、次のような「とちぎ秋まつり」の案内があります。

 『江戸との舟運そして日光例幣使街道の宿場町として栄えた栃木市には商人の心意気が残っています。とちぎ秋まつりは、明治7年(1874)栃木県庁構内で行われた神武祭典を起源とし、明治26年(1893)栃木県最初の商業会議所開設認可に係る祝典では、万町一丁目・二丁目・三丁目、倭町二丁目・三丁目及び泉町の6台の山車が参加し、さらに明治39年(1906)神明宮・招魂社祭典では、室町の山車が参加して現在の祭りの形が出来上がったとされています。昭和12年(1937)の市制施行祭以降は、市の発展の祭礼として曳き出され、今日では、2年に一度、11月に栃木市の象徴である蔵造りの街並みを舞台に、江戸・明治時代に作られた絢爛豪華な江戸型人形山車が華やかに市内を練り歩きます。』

 明治初期には栃木県の県庁所在地でしたので、鳴り物入りで始められた祭礼は、江戸期から下野一帯の商業の中心地であったので、とりわけ豪華で、人々の目を見張ったものだったのでしょう。農家は米の刈り入れを終えて一段落し、商家は歳末商戦に向けて忙しくなっていく狭間で、始められたのでしょう。江戸期に端を発して、子や孫によって受け継がれた「文化」、「交流」の意味でも、大切な時期に、行われてきたのでしょう。

 私たちも、ここに越して来て4年になりますが、大通りが、文字通りに大通りであることが、こんなに人で溢れている様を見て、初めてのように納得し、本当に驚いているのです。かつての「秋まつり」は二十万もの人で溢れていたのだそうです。鉄道が敷設される以前から、近郷近在から、人々が集まってきて、買い物とお祝いの時を持ってきたのでしょう。今日の通りの脇には、出店が軒を連ねて、現代風の若者好みの食べ物が売られています。

 店の中には、友好親善都市である、北海道の滝川市からの出店もあり、北海道名産が並んでいました。『昔の夢よもう一度!』で、県庁所在市の誇りを取り戻したいのでしょうか、市の発展が掲げられています。かつては日光例幣使街道、みつわ通り、銀座通りには、人が溢れていたと言われても、さっぱり想像できませんでしたが、昨日今日の人の波を見ての納得の日であります。

 若い人たち、とくに市内の高校生たちが動員されて、自分たちの街の文化や伝統に目を向け、将来の発展につなげるべく、volunteer(ボランティア)をされていて、素敵でした。ラジオ体操仲間の方が、綺麗な男用の和服を召されていて、見直してしまいました。血気盛んな頃を彷彿とさせてくれ、見違えてしまいました。行き合う人が、久し振りに会ったのでしょうか、友人同士が声を掛け合いながら語り合っていました。間もなく暮れがやってくるのです。

 知り合いのご婦人にお聞きして、九基ほどの山車を覆っている綺麗に刺繍されている布の覆いが注目点とのことで、それを撮影してみました。やはり見事な芸術作品でした。目立ちませんが、江戸や京の華やかさな息吹きを感じさせられるようでした。山車は、岸和田の「だんじり」が勢いよく走るように移動させられているのですが、ここ栃木では、穏やかにそろりと曳かれていました。

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今週見かけた風景の中で

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 県の農政のお仕事をされた方で、家の屋上で花卉(かき)のお世話をされていて、先日、ラジオ体操の時にいただいた「爪蓮華(つめれんげ)」、朝焼けの中を小山に向けて走る両毛線の電車、近くの巴波公園の黄色く色づいて落葉中の「木」、散歩の途中の川岸に咲いていた可愛い黄色の「花」、散歩道の脇で咲く「オーシャンブルー(琉球朝顔)」です。

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ただのジイジでありたい

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 以前住んでいた街の裁判所に、犯罪を犯し、警察に逮捕されたフィリピンの方に依頼されて、一度だけでしたが、その小法廷に出掛けたことがありました。そこは、やはり判決が下されるので、厳粛な雰囲気で溢れていたのです。それよりも、さらに大きな法廷での出来事で、気になることがありました。

 182cmも身長がある被告が、被告席に立っている様子が写真にありました。ところが、この人の左右両隣に、頭ひとつほど背の高い役人が立っているのです。ちょっと異様な雰囲気が溢れて感じられていました。この人は、人気があり有能な人でしたが、その〈人物像〉を低く見せようとしてでしょうか、比較して小さく見えることを際立てる意図で、そう言った演出がなされていたに違いありません。

 背の高さが、人間的な偉大さを表すとは思いませんが、衆目にさらされる被告の〈大きさ〉を嫌う意図がうかがえて納得させられたのです。ナポレオン嫌いな人が言い出したのでしょうか、〈劣等感〉を言い表す言葉に、「ナポレオン・コンプレックス」と言う揶揄する意味の造語があるようです。ナポレオンは短躯の人だったと見られ、背の低いことの劣等感を言い当てられたのです。

 実際の彼の身長は、168cmほどあったそうで、当時の平均的なフランス人の身長からも、決して低くなかったのですが、言葉が先走りをして、〈背の低さの劣等感〉があるように言われているわけです。日本では、秀吉が、このコンプレックスを持っていたと言われています。劣等意識は、負けず嫌いな人には、出世のバネに変えられるようです。

 主人の信長が履こうとする草履を、懐の中に入れて温めて、主人が出かける時に、屈んで、そっと差し出した話は、『にっくきやつじゃ、猿!』と言われた貧乏農夫の子の日吉丸、藤吉郎、秀吉の出世話にあるようです。ナポレオンが軍人として優秀であったのは、その劣等意識を跳ね返す、〈攻撃性〉を養ったからであったと考えられているようです。人は嫌われると、そんなことまで言われるのでしょうか。

 今日現在、世界中から、その指導性の問題点を非難されている人物も、背が低く(大柄なロシア人の中で168cmほどだそうです)、その劣等意識が〈攻撃性〉を生み出していると言われています。そう言えば、旧ソ連の指導者であったスターリンも、背が低く、高く見せるために、写真を撮る時には、撮影士に角度を変えさせたり、自らは背伸びをしたり、踵の高い靴を履くように、劣等意識を克服しようとしていたそうです(162cmだったと言われています)。彼も同じように、劣等意識のゆえに〈攻撃性〉を養い、数多くの競争相手を粛清したと言われています。

 真冬に凍った川で泳ぎ、柔道や空手に励んでいる姿を公にし、六十過ぎてダンベルなどで筋肉のレーニングをし、引き締まった体を見せ付けていました。この攻撃性の強い指導者の劣等意識は、背の低さだけではないのかも知れません。少年時代にも、諜報員時代にも、突然に国家が激変して混乱したことも、様々に劣等意識が培われた背景だと言われています。 

 私にも劣等意識がありましたが、この年になると、そんなことは、もう問題ではありません。みんな誰もが、少なから complex を持っているからです。思うのですが、六十代、七十代、さらには八十代で、一国の政治的な指導的立場に対して、今の指導者たちが野心的であるのに驚かされるのです。

 体のあちこちが痛く、古傷が痛み、栄養剤や医師の処方の薬を飲みながら、咳き込みながら、何千万、何億の国民の健康や安全を政策をもって仕えていく重い責任を負うのには、もう無理な年齢なのではないでしょうか。何の責任も持たないこの私でも、あちこち体が痛み、咳をするとチビリ、歩くと躓き、物忘れも始まっています。ただすごいのは批判精神だけが、いやに鋭くなっていることなのです。自分には甘いのにです。もう代議士になろうとも、博士号を取ろうとは思いません。ただ老妻に感謝され、孫たちに『ジイジ!』と言われたいだけなのです

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百万都市の江戸との関わり

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 東京で、最も活気のある所は、人の集まる渋谷駅前の立体交差点ではなく、物資流通、とりわけ海産物の流通が行われてきた「魚河岸」でしょうか。現在では、「築地」から「豊洲(豊洲)」に卸売市場が移転しておりますが、われわれの世代では、築地に思い入れがあるのです。東京都の広報によると、次のように、その歴史が記されてあります。

 「市」と呼ばれる物々交換の場でした。これを制度化したものが、今日の「市場」です。江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸城内で働く多くの人々の食材を用意するため、大坂の佃村から漁師たちを呼び寄せて、幕府に魚を納めさせました。一方、漁師たちは獲れた魚の残りを日本橋のたもとで売るようになり、これが「魚河岸(魚市場)」と呼ばれていたことから、現在の東京都の市場の始まりとされています。

 ほぼ同じ頃に青果市場も自然発生的に形成されたと伝えられていて、「江戸八辻ヶ原(現在の神田須田町あたり)」で始まった青果市場を基として発展してきました。

 当時、世界で最も整備され、機能的にも優れた都市であった江戸の住民のために、「市場」を設け、食品の流通を図ろうとしたのです。首都機能を円滑に進めるためでした。海産物や蔬菜を、「競り」にかけたのです。「競売」とか「オークション」と言われるのですが、生産者と消費者を結ぶ役割としては、実に優れた方法なのです。

 私は、学校に行っていた時に、蔬菜と果物の市場で、東京最大の「神田市場」でアルバイトをしたことがありました。また都下にあった、「多摩青果」でも働いたことがあったのです。「競り」で落とした蔬菜を、競場から「仲卸商」の店に運ぶ仕事でした。活気と威勢があって、楽しく働くことができたのです。

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 この「競り」には、「符牒(ふちょう)」という、専門用語があって、数字や野菜名や作業指示などが、一般消費者に分からない様に、仲間内だけ、同業者間でだけ通じる様にしてあります。「競り」には、<手ヤリ>とか<口ヤリ>と言って、値段や個数を提示するのです。やはり独特な伝統社会です。

 その「魚河岸」を豊洲へ移転するについて、問題が露呈してしまって、紛糾していましたが、先年無事に移転しました。その「築地卸売市場」は、江戸の昔から、「魚河岸」と呼ばれてきました。『魚市場のある河岸の意で、日本橋にかけての河岸に魚河岸があったことに由来する。日本橋の魚市場は,慶長年間 (15961615) に開かれたとされ,幕府の特許を得た魚問屋が営業,江戸の隆盛とともに,本小田原町,本船町,安針町を中心として栄えた。』とあります。

 食べ物が取引されるのですから、新市場も、衛生上の安全が確保されて開業しているのです。荷受や荷運びをした市場には、生鮮品の匂いだけではなく、独特な匂いが漂っていたのを思い出します。「百万都市」の江戸の胃袋を満たすためには、物流は大きな課題だったのでしょう。

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ここ下野栃木は、巴波川、渡瀬川、利根川の流れを利用して、上流から下流へ物資等を運搬した「舟運」で、江戸(東京)に物資を運び、帰り舟にも、物資をのせて運びました。たとえば山奥から伐採した木材や竹材などを、筏に組んで運ぶ、「筏流し」が昔から行われています。しかし、逆に下流から上流に向かって、舟により物資を運ぶという事は、自然の流れに逆らう事ではないかと思われました。ところが巴波川を利用した栃木の河岸では、栃木から江戸には米や大麻、薪炭、そして鍋山の石灰等を運んでいました。そして、江戸から栃木には、糖、干鰯、酒・酢・油などを運んでいたそうです。

 江戸は、栃木だけではなく、たくさんの物資、とくに食料が集積したわけです。それを市場で、公平な「競り」と言う方法で、商いをしたのは、実に賢かったことに驚かされます。そう言えば、市場で働いていた時に、あの「競り」に一度参加してみたかったのですが、叶わなかったのが、ちょっと残念な思い出の今です。

 その川辺にすみ始めてから3年、隣家の先祖は、この「舟運」を家業にしていたそうで、一度、当時の書類などを見せていただいたことがあります。その取引が盛んだったことが分かりました。そう、耳をすますと、人のpたや物、船の往来の物音が聞こえてきそうですが、普段は鴨や鯉や白鷺が住人なのです。

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たいせつなこと

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スプーンはたべるときにつかうもの 

てでにぎれて くちのなかにあうんとおさまり たいらじゃなくくぼんでいて ちいさなシャベルみたいに いろいろなものをすくいとる でも スプーンにとって たいせつなのは それをつかうと じょうずにたべられる ということ

ひなぎくはしろい 

まんなかがきいろく ながくてしろい はなびらには はちがちょこんとすわり なんだかくすぐったいかおりがして ひろいみどりのそうげんに よりそいささやきあっている でも ひなぎくにとってたいせつなのは しろくあること

あめはうるおす 

あめはそらからおちてきて しとしとざぱざぱとおとがして いろんなものをつやつやにかがやかせ どんなあじにもにてなくて くうきとおんなじいろをしている でも あめにとって たいせつなのは みずみずしくうるおす ということ

くさはみどり

くさはおおきくのびて あまくあおいにおいで やさしくつつみこんでくれる でも くさにとってたいせつなのは かがやくみどりであること

ゆきはしろい

ゆきはつめたくかるく ふんわりそらからおりてきて まぶしくちいさなほしやすいしょうのように きらめいている ゆきはつんとつめたい ゆきはそっととけていく でも ゆきにとってたいせつなのは いつもかわらずしろいということ

りんごはまるい

りんごはあかい したくのできたりんごは きからぽたんとおちてくる かじるとなかはしろく あまずっぱいつゆがほおにはじける そしてりんごのあじがくちいっぱいにひろがる でも りんごにとってたいせつなのは たっぷりまるいということ

かぜはふく

かぜはめにみえないけど ほおでかんじることができて こずえをゆらし ぼうしをふきとばして ふねをはこんでいく でも かぜじとってたいせつなのは ふくということ

そらはいつもそこにある

まぎれもなくあおくて たかくてくうきにみちている そしてときおりくもがとおりすぎていく でも そらにとってたいせつなのは いつもそこにあるということ

くつはあしをつつむもの

あるくときにはいたくつは よるにはぬいでしまい ぬいだくつには ほんのりぬくもりがのこっている でも くつにとってたいせつなのは あしをつつんでくれること

あなたはあなた

あかちゃんだったあなたは からだとこころをふくらませ ちいさないちにんまえになりました そしてさらに あらゆることをあじわって おおきなおとこのひとやおんなのひとになるでしょう でも あなたにとってたいせつなのは あなたがあなたであること

 

【出典】マーガレット・ワイズ・ブラウン作、レナード・ワイスガード絵、うちだややこ訳、フレーベル社2001年初刊

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「ガラスのマルチン」と自称した人

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 新約聖書の「ヘブル人への手紙」の中に、たくさんの人の名前が出てきます。近所の方に、新約聖書を差し上げましたら、その冒頭の書、「マタイの福音書」から読み始めて、『薬の名前のようにたくさん出てきて・・・』と、戸惑いのご感想を言っておいででした。家内は、『そこは先ず飛び越されて・・・』と言って、続けて読まれるように、勧めていました。そう思う方もおいでのようです。そこに登場する人々は、神を信じ、従い通して、その生涯を「信仰者」として全うした点で、みなさんが共通しています。彼らの生きた時代、生活を営んだ環境は、けっこう厳しく、大変だったようです。

 それでも彼らの信仰は、積極的で行動的でした。敵の攻撃に対してではなく、神さまが下さる祝福に対して、いえ人生そのものに aggressive だったのです。どうして彼らは、理想的ではない時代の直中を、そんなに信仰深く生き抜くことができたのでしょうか。どんな秘訣があったのでしょうか。

 この信仰者列伝の名簿の中には載っていませんが、一人の人物を取り上げてみましょう。中世の教会が抱えていた宗教上の逸脱、聖書にもとる問題点を指摘し、「宗教改革」の狼煙(のろし)を上げた、マルチン・ルターと言うドイツ人です。彼のお父さんは、鉱山労務者でしたが、中世的な敬虔な信仰を持った人で、その家庭には厳格な空気が漂っていたようです。そんな中、4人の兄弟と4人の姉妹の中で、男の子として育ちます。彼らの家庭は、楽しく幸福な空気も満ちていたと、後になってマルチンは述懐しています。

 マルチンは、学ぶことの好きな子どもとして成長していきます。お父さんは、大学に行かせて上げようとし、1501年に、エルフルト大学に入学するのです。その学校での学びの中で、図書館の蔵書の中に埃をかぶっていたラテン語訳聖書を見付けるのです。それが彼の「聖書」との最初の出会いでした。彼が先ず読んだのは、一組の母子の物語、「母ハンナとサムエル」の記事だったそうです。それは、旧約聖書サムエル記第一1〜2章を、興味津々で読んだことで、生死への強烈な興味と関心が引き出されたのです。

 実はお父さんはマルチンに、法律学を学ばせたかったのです。それが、どの社会でもelite への道筋を作り得る学歴が得られるからでした。法律家になって、良家の女子を娶って、自分には叶わなかった、ルター家を建て上げて欲しいとの夢が、お父さんには強くあったのです。ところがお父さんの意に反して、マルチンには、「聖書」を学ぼうとする強烈な願いがあったのです。エルフルトで学んでいる間に、強烈な体験をマルチンがします。

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 当時にドイツの大学生は、短剣を腰に下げていたそうです。いかにもドイツの学生気質を感じさせる様子ですが、これが仇となって、マルチンは足の動脈を、その短剣で切ってしまう大怪我をしてしまいます。その時、『マリヤさま、助けてください!』と咄嗟に呼び掛けたのです。また、ある時は、マルチンは落雷に打たれます。その時は、聖アンナの名を呼んで、『助けてください!』と咄嗟にに叫んだのです。このアンナは、貧しい鉱山労働者の守護聖人だったからです。

 敬虔だと言われた当時のマルチンの信仰のlevel は、その程度のもの過ぎませんでした。この二度にわたる死に直面する事態の恐怖体験によって、人間の限界を痛切に覚えるのでした。形骸化された伝統的な信仰や宗教の中からは、何も助けも平安も得られないことを知らされるのです。それから、真実な救いへの渇きが与えられ、模索が始まりました。

 あの日、聖アンナに助けを求めて、一命を保たれた経験から、『助かったら、修道士になります!』との誓いを果たすべく、父の大反対を押し切り、周囲の止めるのをものともせずに「アウグスチヌス会」の修道院に入ってしまいます。

 そこでの生活は、とても厳格でした。でも彼には苦にならなかったのです。しかし熱心になればなるほど、彼の心には平安がなくなっていったのです。敬虔に生きようとすればするほど、罪深い自分の「罪性」を知らされるのです。これは聖霊なる神の働きです。どうすることもできなく罪に苦しみ、懺悔するばかりに日々を過ごしていた、と当時をマルチンが語っています。

 そんな時に、修道院長シュタウビッツと出会うのです。マルチン、時に25歳でした。このシュタウビッツは、当時の修道僧の中では、とても聖書的、福音的な信仰の持ち主でした。彼が言うには、『主イエスさまが、私たちのために血を流してくださったのです!』と言って、《神の恵み》を強調し、『聖書を読みなさい!』と、マルチンに勧めてくれたのです。

 ある時、この院長の使いで、ローマのバチカンに、教皇宛の手紙を持参する務めに任じられるのです。バチカンに着きました。そこには、祈りながら、膝でにじり上がるなら、煉獄にいるであろう祖父母を、天国に移すことができると言われる「スカラ・サンタ(聖なる階段)」の28段の石段がありました。その階段をマルチンは上り始めました。

 数段上った時に、彼の思いに中に、『義人は、その信仰によって生きる』と言う声を聞くのです。マルチンは、自分が伝統に従って苦行をしていることが、なぜか愚かに思えてなりませんでした。それで階段の石段の途中で立ち上がって、踵(くびす)を返して、彼はドイツに帰ってしまうのです。

 熱心に信じ、仕えてきた伝統宗教の無意味なことごとに、多くの疑いを胸に秘めて帰っていきます。その思いを持ち続けながら、1511年に、神学博士の学位を取得し、ヴィッテンブルグ大学の教授に、27歳で就任します。「詩篇」、「ローマ人への手紙」、「ガラテア人への手紙」と言った聖書を学生に教えたのです。聖書を読み、学び、研究し、教えるに従って、あの時に感じた多くの疑問に、光が当てられていくのでした。それこそ「聖霊の働き」だったのです。

 マルチンが抱えていた最大の課題は、『罪深い人間は、どうすれば救われるのか?』で、それこそ彼の根本的な人生上、信仰上の疑問だったのです。そのような思いの中で、パウロが書き送った「ローマ人への手紙」に引用した「ハバクク書2章4節)」に出会うのです。あのバチカンの石段を上がる時に、閃くようにやってきた思い、『義人は信仰によって生きる。』でした。これも「聖霊の働き」でした。


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 『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(新改訳聖書ローマ人11617節)』

 そんな信仰の過程をたどりながら、1517年10月31日に、ヴィッテンブルグ城の門扉に、「九十五ヵ条の提題」を、釘で貼り付けて、あの「宗教改革」が始まるのです。マルチン・ルター、35歳でした。

 そのような教会改革の狼煙を上げ、聖書のみことばに従って立ち上がったマルチン・ルターの「信仰の特徴」を九点上げてみましょう。

  1. 「罪」を誤魔化さずに取り上げたこと(詩篇5115)
  2. 人が神のみ前で「義」とされるには信仰によること(信仰義認ローマ117)
  3. 主は、「生けるキリスト」であること(ローマ610節)
  4. キリストは、人に「内住」されること(コロサイ127)
  5. 「聖書」に基づく信仰を主張したこと(ヤコブ121節)
  6. 「祈り」に支えられる信仰を掲げたこと(1ペテロ47節)  友人のデートリッヒは『彼は13時間、最も良い時を祈りに費やしていました。』と述懐しています。
  7. 常にキリストを「賛美」したこと  彼の口には常に賛美がありました、聖歌233番「御神は城なり」を作詞しています。ドイツ議で賛美し、ドイツ語訳聖書が読まれ、ドイツ語で説教する「礼拝」が1525年に初めて行われています。
  8. 「ユーモア」を理解していたこと  『キリスト者は心朗らかでなければならない!』と言い、自らを「ガラスのマルチン」とか「弱き人マルチン博士」と自称したそうです。
  9. 「家庭の人」であったこと  修道女であったカテリーナと結婚をし、家庭を設け子どもたちを育てています。その家庭にはいつも多くの友人たちや学生たちが集まっていて、テーブルを囲んで話が行われ、賛美を歌い、民族的な普通の歌も歌われ、美味しい食事が供されていたそうです。

 宗教改革者マルチンの信仰は、溢れるほどに神の恵みと家族愛や隣人愛が溢れていました。神によく知られ、神をよく知っていた人だったのです。(19961229日の日曜礼拝でした説教に少々手を加えてみました)

(ルターが翻訳し、グーテンベルクの印刷した「ドイツ語訳聖書」です)

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