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娘婿が、長野県の南信にある高校で、英語の補助教師をしていた時に、『近くの村で、村歌舞伎があるので、今すぐに来ない!』と誘われて、家内と一緒に車に乗って、大鹿村に出かけました。ちょうど休みの月曜日だったでしょうか。務めていた頃と違って、日曜日は、説教をする日で、その準備と責務に縛られ、月曜日が長らくい休養日だったのです。
江戸時代に始まり、ご禁制の中を続けられてきた村歌舞伎で、小屋掛けですが、しっかりした演目を、本家本元の歌舞伎座に負けず劣らずに上演していました。『こんな辺境なアルプスの麓の村の農民が、《藤原伝授手習鑑〜手小屋〜》の演目を見て、武士の生き方に喝采をあげ、投げ銭をして楽しんできたのだ!』と、驚きを感じたのが第一印象でした。私も投げ銭をしたのですが、舞台に届きませんでした。
主君のために息子・小太郎の首を身代わりに差し出すような侍の物語が、農民たちに大喝采されていたと言うことは、士農工商の「農」にあたる民が、そう言った武士の生き方に共鳴し、感化されていたと言うわけです。田を起こすために鍬を振るうだけではなく、「読み書き算盤」を学ぶ機会が、村の中にもあったわけです。
日本人の識字率の高さは、庶民への教育の結果でした。それに驚かされたのが、幕末期から明治期に、日本を訪れた欧米人でした。書を読み、文字を書き、釣り銭を間違えない日本人にでした。しかも正直さも兼ね備えていたのです。辺境な地で、歌舞伎が上演されて、それを観劇し、そこには、「武士道」の影響を受けた者たちの子孫が、日本人なのに違いありません。
甲斐武田氏の「甲陽軍鑑」に、「武士道」と言う語が三十回ほど出て来ていて、戦場での武勇が中心になって記されています。徳川幕府のもと、p佐賀の鍋島藩には、「葉隠(はがくれ)」と言う書がまとめられて、おもに普段の武士の心得が記されています。そこには「四誓願の武勇」の忠義、孝行、慈悲が述べられているのです。格別に藩主への忠義が、臣下に求められていました。
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佐賀県は、律令制下には西海道、「肥前国(長崎県も含めてです)」で、徳川幕府の下では、鍋島氏の佐賀藩(鍋島藩とも言いました)、唐津藩(藩主の改易があって明治維新前は小笠原氏が治めていました)が置かれていました。県都は佐賀市、県花は楠の花、県木は楠(くすのき)、県鳥はカササギ、県の人口は80万人です。申し訳なくも、この県も通過県でした。
弥生時代を代表とする、その時期の国内最大規模を誇る「吉野ヶ里(よしのがり)遺跡」が、県の西部にあって、古代の浪漫に思いを馳せるにはもってこいの地に違いありません。北の青森、「三内丸山遺跡」と比肩しています。私は、多摩川の流れに近い「七つ塚」と呼ばれる「貝塚」に魅せられて、時間があると出かけては、木片で地を掘っていました。そこには、土器のかけらや鏃(やじり)などがあって、それを収集したことがあったのです。古代人の生活を想像しただけで、心が溢れるような気分にされたのです。科学する心があったからでしょうか。
そんな気分を満たすように、この吉野ヶ里遺跡は、集落の防護のために、濠で囲まれているので「環濠集落(かんごうしゅうらく)」と呼ばれて有名です。中国や朝鮮半島にも見られるもので、その関連が強いと考えられています。やがて古墳時代になると、この集落の濠に、さまざまなものが投げ捨てられ、埋められてしまいます。今になって考古学者が、掘り返して考古学の的となっているようです。
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またこの県では、古来、「唐津焼」や「有田焼」や「伊万里焼」の焼き物が有名で、とくに欧米人が好んで買い求めてきた歴史があるのです。茶器には蒐集の趣味が、私にはありませんが、ただ、「唐津焼」の素朴な作りと焼きの素顔は好きで、いつまでも眺めていたくなります。
そう言えば、中学の修学旅行で、京都の龍安寺の「枯山水」、「石庭」に行ったことがありました。多くの古代の建物などを、京都や奈良で見たのですが、その「石庭」には、なんとも言えない感動を覚えてしまったのです。廊下から眺めていた庭は、帰る時間が来ても、去り難い思いで、ずっと、そこにいたかったように、唐津の陶器には魅せられてしまうのです。
14才の中坊にしては、なんだか「わび」とか「さび」に関心があったようで、それなのに仏門には入らずに、母と同じ道のキリスト教徒になってしまいました。そう言えば、この肥前国には、長崎や熊本天草と同様、キリシタンたちが多かったそうです。
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宣教師と共に、長く過ごした街に、アメリカ人宣教師が始められた福音派の教会が、国立大学の近くにありました。その教会の牧師さんが、佐賀県人で、温厚な方で、何度も集まっては一緒に賛美をした方でした。でも、優しい眼差しの中に、時としてキラリと鋭い眼光を見せていたのを、私は見逃さなかったのです。それが印象的でした。お身体を壊されて、他の県の教会に転任されていかれました。
私たちの教会に来られて、信仰を持たれた若いご婦人を、保育園で保育助手として働けるようにしてくださったのです。人を、余所者を外見などで判断しないで、ありのままに受け入れてくださった方でした。お元気でいらっしゃるでしょうか。
政治家で、佐賀県の出身の保利茂という方がおいででした。苦学して学校を出られて、政治家になった方でした。福岡出身の広田弘毅に重なって見えるのです。お父さまは車夫をされていて、お母様は「お蚕(かいこ)」をしたりしていて貧しかったので、中学校に進むことができなかったほどでした。鉄工所の工夫をしていたのです。
向学心の志を捨て切れず、東京に出て、助けてくださる方がいて、中央大学に学び、報知新聞、東京日日新聞の記者になっています。その後、政治家に転身し、自民党官房長官、幹事長、労働大臣、衆議院議長などを歴任した、優れた政治家でした。吉田茂に高く評価された人でした。佐賀県人では、そのような方々を存じ上げております。みなさん、『そうにゃ人物じゃったね!(とても良く出来た人でした)』、でした。やはり優れたり、出来た人を送り出した県というのは、県全体の評価が高いのかも知れません。
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福岡、長崎、熊本の各県と共に、沿岸で接する有明海には、「干潟(ひがた)」と、「不知火(しらぬい)」の自然現象が見られて、注目されてきました。とくに「不知火」は蜃気楼の現象で、かつては見られて、注目され続けてきましたが、今では、さまざまな理由、例えば夜間が照明の故に明るくなってしまったりが原因で、ほとんど見られなくなってしまいました。
Aurora 現象と同じように、この「不知火」は、見たい願いがありますが、それ以上に見たいのは、「青い地球」です。被造物が、どれほど美しく造られているかを見て、創造主をほめたたえたいものです。『昨日は、温泉ば行って、ゆっつらーとしてきたばい。』、佐賀県にも、多くの温泉地があるようです。素敵な県であります。
(吉野ヶ里遺跡、唐津焼陶器、有明海、武雄市にある県木の楠です)
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