うな丼

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今日は、しきりに「うな丼」が食べたいのです。きっと「土用の丑(うし)の日」が近くて、お腹が何かを感じているのかも知れません。検索してみましたら、今年は<7月29日>だそうです。<腹時計>に、一週間ほどの誤差がありましたが、結構近いので驚いてしまいました。『よく食べた!』と見栄を張りたいのですが、偶にしか食べませんでした。

何時でしたか、天竜川の河畔にあった、「鰻屋」でご馳走して頂いたことがありました。川の流れを眺めながらだったからでしょうか、旧友と再会したからでしょうか、本当に美味しかったのです。結構、値の張った物だったのでしょう。どこでも<特上>を食べれば,満足できるのかも知れませんが,<並>だと、『食べた!』だけで、舌鼓を打つまではいかないのかも知れません。

食道楽の父でしたが、鰻を宅配してもらって食べたことはなかったと思います。子どもの頃に住んでいたあの街には、寿司屋はあっても、鰻を焼いて出す店はなかったのです。台湾では、輸出用に養殖をしていて、何時だったか、お客さんにもらったと言って、真空パックのタレ付きの焼き鰻を頂いたことがありました。期待したのとはちょっと味が違ったのですが、感謝して食べました。

こちらでは「鰻魚manyuマンイイ」と呼んで、ぶつ切りの料理が出されてきます。頂いたことがありますが、開いて、骨を抜いて、醤油に漬けながら、備長炭で団扇を使いながら焼き上げた、あの日本式の鰻の味が忘れられないので、ちょっと残念でした。誰が、あんな風に調理し始めたのでしょうか。「日本料理」が、世界文化遺産に登録されるのは、『もっともだなあ!』と思うのです。繊細で、手が混んでいて、持ち味を生かし、美しいのです。<匠(たくみ)の味>と言うのでしょうか。

『食べたい!』 のは、食いしん坊だからだけでなく、健康だからでしょう。と言うことで、今度帰ったら、誰かに期待しないで、自前で食べようと思っています。父が入院中に、『食べたい!』と言ったので、神田まで行って買って、父に届けた、あの父の贔屓(ひいき)の「鰻屋さん」に行ってみましょう。そう言えば、今年の一月の帰国時に、長女と次男と家内の四人で、食べていました。

(写真は、美味しそうな「うな丼」➡︎WMより)

孤児

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1955年(昭和30年)に、作詞が宮川哲夫、作曲が利根一郎、歌が宮城まり子で、「ガード下の靴みがき」と言う歌が世に出ました。

1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない

(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった……
お母さん、病気なんだ……」

2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ

3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ

これは、戦争後の子どもたちの哀感を歌った歌です。少なくとも上の兄たちは、この靴磨きの少年と同じ世代で、上野や新宿や立川の駅頭で、靴磨きをしていても不思議ではありませんでした。ところが兄たちや弟や私には、実の両親がいましたし、当時は、中部の山の中で生活をしていたので、このような境遇とは無縁で、恵まれていたわけです。

父は、鉱山技術を学んでいて、国内ばかりではなく、朝鮮や満州に、技師として働いていましたから、所帯を外地で持っていたら、終戦を、遼寧省で迎えてたかも知れません。そんな可能性があったのですから、二人の兄と私は<残留孤児>になっていたことだってありそうです。靴磨きの少年の様子を、ぼんやりと思い描きながら、この歌を聞き、口ずさんでいたのを思い出すのです。

この少年たちは、自活していたのか、仕切り屋の親方に、靴磨き道具一式をあてがわれ、働いた分の何割かをもらっていた、戦争孤児が多かったのでしょう。新宿の青梅通り沿いに、今でも、JRの線路の東側と西側をつなぐ地下道があると思うのですが、ここに身寄りのない子たちがいたのを覚えています。篤志家のみなさんが、この少年たちのお世話をして、社会に送り出した功績は大きいと思います。また、アメリカに<里子>として行った子も多かったそうです。

あのような、社会から置き去りにされていた子どもには、生存力や生命力が強く、特別な<守り>があったのでしょうか、もう七十代を過ぎておいででしょう。好々爺、好々婆になって、ひ孫たちに囲まれて、幸福(しあわせ)に微笑み返されていたら好いですね。誰にも、辛い過去があるのですから。

(写真は、yahoo検索から「靴磨きの少年」です)

知恵

 

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『謝謝!』、これは中国語の『ありがとう!』で、最も有名な中国語です。スーパーの無料送迎バスに乗って、降りる時に、運転手さんに、そう小声で言うのです。そう言われた方は、ほとんど無口、無反応で聞き流していましたが、繰り返しているうちに、『慢走啊!』と返してくるようになりました。つまり、『お気をつけて!』と言う意味の祝福なのです。

これはバスだけではなく、こちらで生活をしていて、謝意を言い表す機会がある毎に、私が心掛けていることなのです。こちらでは習慣的に、いちいち、そう言ったことを言いません。『そんなこと言ったら、バカにされるだけ!』と言われますが、言われれ慣れていない相手ですが、必ず嬉しい表情をするのです。もし日本の社会が、<潤い>があるとするなら、この謝意や礼が、日常的に言葉や態度で言い表されているからに違いありません。

最近、こんなことを思っているのです。帰国して、街の銭湯に入る機会があったら、下湯を使って、湯船に入る時に、『冷えもんでございます。失礼します!』と、湯船に先に入っておいでのみなさんに言おうと思っています。昔の大人は、そう言って、<和やかさ>を醸し出して生きていたのだそうです。これって卑屈なのではありません。争いを避けるためでもありません。日本人が学び取った<知恵>に違いありません。

こちらでは、広い国土にもかかわらず、道すがら体がぶつかり合うこともあります。上手に避け合っているのですが、たまにぶつかってしまいます。ほとんどの場合、無言ですが、ある時は<舌打ち>とか『痛い!』が聞こえますので、その前に、『対不起(ごめんなさい)』と言います。こちらの方は、日本人のように『気をつけろい!』などと決して言いません。相手の行動を注意したりしないで、事実の<痛さ>だけを言い表すのです。これも<知恵>です。

名古屋にある大学の心理学の先生が、こんなことを言っていました。『若者の行動を注意してはいけません。そう言われると感情が傷つくのです。だから、<事実>だけを言うべきです!』とです。この時代の切れ易い、動物的な反応をする若者(この先生の言うことですが)に、そう接するための<知恵>であります。事実は否定できず、認めるだけですから。これって、争わないため<知恵>ではないでしょうか。

(写真は、以前日本女子サッカーが示した「謝謝」➡︎百度より)

さあ、外に出よう!

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ご多聞にもれず、こちらの子どもたちも、<ゲーム>の虜にされているそうです。面白く夢中にさせるものが、次から次へと売り出されていて、際限ありません。子どもたちばかりとは言えない、大の大人が嵌まり込んで、まるで<中毒症状>、<ゲーム症候群>となって、社会問題にもなっているようです。しかも半大人の二十代や三十代ばかりではなく、四十代や五十代にまで及んでいるのです

思い起こせば、私の育った街に一軒だけ<パチンコ屋>がありました。できたばかりの時に、父に連れられて入ったことがありました。子どもの両手に入るほどの玉を分けてもらって、父の隣で打っていたら、『チーン、ジャラジャラ!』と当たってしまったのです。あの気持ちこそ、パチンコの落とし穴、<蟻地獄>なのでしょう。何とも言えない<快感>があるのです。『どうしても止められないんです!』と言う,<パチンコ症候群>の気持ちも分かるのです。店内に景気の好いマーチが、ガンガンと流れて聞こえていました。

学校が休講で、時間を持て余した私は、新宿から松本行きの電車に飛びのって、甲府で下車、駅前のパチンコ屋に通ったのも二度や三度ではありませんでした。その後、このパチンコ、競馬も競輪も競艇もオートレース、麻雀やトランプなどの賭け事を、一切止めました。知らぬ間に深い穴の底に引き摺り込まれることを知った私は、この誘惑に勝てないと認めて、『すまい!』と決心し、今日まで生きてきたのです。宝くじも買いませんし、珈琲や食事を賭けたりもしません。

嬉嬉として遊んでいた子どもの頃が懐かしいのです。チャンバラや馬跳び、馬乗り、宝取り、鬼ゴッコ、三角ベース野球など、みんなで群れて遊んでいたのです。ああ言った遊びを、今の子どもたちの間に見なくなりました。それでも夕暮れになると、アパートの上の階から下りて来た就学前の子どもたちが、追いかけっこをしたり、石蹴りをしたりして遊んでいるのを見かけます。結構、子どもの遊びと言うのは、こちらも日本も変わらないようです。もし年寄りに聞き取り調査をしたら、面白い研究ができるだろう、などと思ったりしています。

ラジオで「紅孔雀」を放送していた夕方、その続きを聞きたくて、急いで帰って来ては、ラジオにかじりついて聞いたのが、私たちの子どもの頃でした。たくましく想像力を働かせて、ああでもないこうでもないと思い描いていたでしょうか。私たちは、<ラジオ世代>なのです。映像を見ないだけ、心の思いの中に、どうとでも想像できたのです。今でも、NHKのアナウンサーが、小学校に出向いて、<朗読会>を開くことがあるようです。何度か番組を見ましたが、子どもの集中力、想像力、感動が、ものすごいのに驚かされたのです。

子どもたちを、外に連れ出したいものです。面白い新発見、体験が溢れているのですから。子どもたちを食い物にするような、ゲーム産業や塾通いをさせる進学熱にも大反対です。さあ、電源を切って、大自然に触れられる外に、子どもたちよ、出よう!

(写真は、”百度”による、この町の可愛い「子どもたち」です)

鼻たれ小僧

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すみません、ちょっと汚い話題で、ゆるして下さい。
時々見かける光景ですが、着飾った妙齢の女性が、<手鼻>を噛んでいるのです。『うーん!』とうなってしまうのですが、お父さんやお母さんがしていたようにしているのでしょうか。今朝も、区政府の隣にある運動場の方を散歩していたのですが、その帰り道で、それを見てしまいました。

紙が貴重な時代、鼻をかむのに紙はなかなか持ち歩くことがなかったので、結局は、一番習慣化された自然な方法でしてしまったのでしょうか。そう言えば、子どもの頃、農家のおじいさんが、そうしてるのを見たことがありました。父は、背広にワイシャツにネクタイ、それに<チリ紙>とハンカチをポケットに入れていましたから、そうするのを見たことはありませんでした。

すぐ上の兄の友だちで、袖をテカテカにしていた先輩が、何人かいました。何故かと言うと、鼻を袖で拭いて、それが乾いてしまったていたからです。<手鼻>の方法を知らなかったからでしょうか。そう言えば、最近、<鼻たれ小僧>を、全く見かけません。食生活の栄養が良くなったからだと言われているようです。戦争が終わって貧しい時代に、よく見られたことでした。

バスに乗ると、注意事項が書かれて掲出されています。<痰を吐かない!>とです。テレビで野球選手やサッカー選手が、緊張のためでしょうか、よく<唾(つば)>を吐いているのを見ます。あれって、子どもたちに、教育上、躾上、よくありませんね。そう言えば喧嘩をする時に、両手に唾をして、士気を上げていたのを思い出します。

文明化し、物が豊かになって生活が裕福になるに連れて、行動形式が変わって行くに違いありません。ロンドンもパリもニューヨークも東京も、昔は同じだったのでしょう。何時か、大理石で美しく床を張った、綺麗なレストランで食事をしていた時に、隣の席の男性が、『グワグワグワ、ペッ!』とやったので、瞬間的に立ち上がってしまったのです。『こんな所で!?』と、考えられない行動だったからです。『自分の家の食卓ではしないのでは?』と思ったりしました。

時々、ティッシュにとっているご婦人を見かけますが、公共バスの運転手が、運転席の窓を開けて、やっているのを、よく見かけます。後続の電動自転車などにかからないか心配してしまうのですが。最近、信号無視、運転中の携帯使用が、ほとんど見られなくなっています。次は、『ペッ!』の番ですね、運転手さん!

(写真は、満蒙開拓時の少年たちの食事風景ですー百度より)

ニッポン

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「ニッポン」と言う名の国、そこを舞台に長く営みを積み重ねてきた「ニッポン人」、創意と工夫と改良で作り上げてきた「ニッポン文化」、これらを総称して、「日本」と言います。中国からは「倭」、ヨーロッパからは「ジパング」と呼ばれ、「黄金の国」だと思われてきたようです。

南北に細長い列島で、亜寒帯から亜熱帯の気候をようし、海産物に恵まれて、魚や貝やコンブに養われて、米飯と野菜と味噌醤油の粗食で、穏やかな民族が形成されました。先住者がいて、そこに南方や大陸からの移住者がやって来て、「ニッポン人」になったのです。様々な影響を受け入れ、それを作っては改善し工夫して、ニポン文化を作り上げてきました。

しかし、「武士道」の故にでしょうか、独特に好戦的な民であったりもしました。狭く痩せた土地からの脱出を目論んで、隣国に活路を見出し、その野心を糾弾されると、南方に石油を求め、欧米のような植民地主義に倣って、失敗しました。敗戦で、侵略者の汚名を着せられ、焼土の中で途方に暮れていたのですが、決して諦めませんでした。朝鮮戦争とヴェトナム戦争の<戦争特需>で、工業化を進め、世界の近代工業国としての地位を築きました。

世界に類い稀なる「平和憲法」によって、平和主義者に変えられ、模範のような民主主義国家を形作ってきました。今や、規律正しいニッポン人、『ありがとう!』と『すみません!』と言う謙虚なニッポン人、清潔と整頓の好きなニッポン人、努力と勤勉なニッポン人などと、高く国民性や民度を評価されています。のぼせることなく、さらに謙虚になって、次の世代、その次の世代に、これまで培ってきたニッポンと言う国を、生活圏として生きて行ける様に残しておきたいものです。

桜や蝉の声や紅葉や木枯らし、四季折々の野菜や果物ー大根や小松菜やカブや茗荷ー柿や桃や栗やアケビ、山や丘や草原や川や湖、炬燵や襖や障子や敷居や畳、お風呂や浴衣やスダレや打ち水、尺玉や仕掛けや線香花火、童謡や唱歌や民謡や演歌、万葉集や奥の細道や坊ちゃん、天丼やうな丼や蕎麦やラーメン、ステーキやハンバーグやナポリタンや豚汁、きんつばや金太郎飴や煎餅やそばがき、作り受け継いできた物は多種多様です。美味しかったり、綺麗だったり、『ホッ!』として懐かしかったりしてきたのです。

このニッポンのある一つの星である地球が、ずっとずっと永らえますように。放射能汚染も地震も津波も、食糧も子育ても医療も、天賦の才能を駆使して、問題解決に当たって行けると信じています。強さを誇らず、弱さも認め、明るく平和な明日のニッポンのために望みを高く持とう、そう決心している、室温32度、酷暑の2014年の華南の夏の盛りであります。アッ、納豆と沢庵と塩辛を忘れていました。

(写真は、”伊那市周辺の食事メモー”から、佐渡の民宿の「朝食」です)

ある夏のこと

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もう40年も前になるでしょうか、家内のすぐ上の兄が、グアム旅行に誘ってくれたことがありました。今のような七、八月の夏ことでした。まだ次女も次男も生まれる前で、長男が三歳、長女がグアムで一才の誕生日を迎えた時でした。旅行費用を義兄が出してくれて、とても楽しい旅行だったのです。その時、家内のすぐ上の姉の家族が、グアムに住んでいて、そこに家内の両親が呼ばれて、しばらく滞在していたのです。そこからブラジルの義兄のもとに行く途次でした。遠くに行ってしまおうとしていた両親を訪ねた旅行だったのです。私の母も同行しました。家内の母親と私の母は友人同士だったからでした。

この時、義姉の主人は、小学校の校長をしていました。いろいろな島内情報を持って帰ってきていました。ある週末、政府の役人が<フェスタ>と言うパーティーを開き、訪問客に食事を振る舞うと言うことで連れて行ってもらいました。到着が遅かったので、残っていた料理はわずかでしたが、異国の風習に触れることができて、結構おもしろい経験をさせてもらったのです。

この旅行の時に、グアム政府の認定の<自動車免許証>を取ったのです。三回失敗したのですが、義姉の主人に、『諦めないで!”Never give up!”』と励まされて、4回目の筆記試験で合格しました。近くの公園の中を走る、実地試験が行われ、なぜか義父が後ろの席に同乗してくれました。一発合格でした。兄の車などを闇運転していましたからだったでしょうか。免許証が交付される時、『ケイトウ!』と呼んでいました。他の誰かだと思っていたら、自分のことだったのです。本場の英語の発音と、ヘボン式ローマ字で表記した日本語読みと違っていたのです。それでも、きっと自分のことだと思って、”yes”と返事をしたのです。

その免許証は、更新手続きをしませんでしたので、もう失効してしまっていますが、今も引き出しの中にしまってあります。時々引っ張り出しては眺めるのですが、昨日のように記憶が鮮明です。義父母も義兄も、義姉の主人も私の母も、すでに天に帰って行きました。日本では感じられない、太陽のキラキラした輝き、野生の空中を飛ぶ鶏、マイマイと言った大きなカタツムリや蛙、ジャングルに鉈を持って入って行った義父が、たくさんの<アボガド>を収穫して食べさせてくれたことなど、あの時、みんな元気でした。

地上のことは、<一場の夢>なのでしょうか。現実は、すぐに過去に吸収されて行くので、そんな風に感じてしまいます。好い思い出が多いのは感謝なことです。

(写真は、グアム島の「パセオ公園」です-政府観光局より)

今朝の散歩で

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鼓楼のある旧市街の南を、大河が流れ下っています。この河は、上流で二股に分かれて、一本は、旧市街と郊外とを分け、もう一本はもう一つ外の農村とを分けて流れ下り、この二本が下流でまた合流しています。私たちが住んでいるのは、島のような形の旧市街と区分され地域で、この省都の一つの<区>に編入された地域です。かつては幾つもの村で構成されていましたが、今や工業開発の工場地帯から、旧市街から、新しい家を求めて越して来たり、新しく所帯を持とうとする若い方々が住む近代住宅地として開発されています。

聞くところによりますと、この地域と旧市街に間に、橋を架設したのは、日本企業だったそうです。それまでは、渡し舟で物や人が運ばれていたのです。水運が盛んだったそうで、その名残を感じさせる街の風情があります。今でも卸問屋の多い、川沿い(クリーク)の地域なのです。車が使われる以前は、水運を利用し、近郷近在と大量の物資の運送がなされていたと言われています。

今朝も散歩の途中に、何箇所も新しいアパート群や商業施設が、建設中なのを目にしました。驚くほどの数です。このような開発が、中国中で行われているとしたら、それは驚くべきことです。臨海部の都市への人口流入、農村部の過疎が進んで行くのでしょう。昨日、『将来、世界中の三分の二の人が都市で生活をするだろう!』と言う記事を読みましたから、まさのその動きの一つに違いありません。

河岸が整備された箇所に、数キロにわたって、この町の古代から近代までの歴史が、壁面の石板に刻まれてあります。大地震、大火、疫病などがあったこと、スペインやイギリスやアメリカからやって来た方たちが、病院や看護学校や学校を作っています。その中で、日本人の桑田何某と言う技術者が、この町の発展に尽くしたと、記されてありました。また日本軍の空襲による、家屋の消失や死者が出たことの被害の記録も刻まれていて、辺りを見回してしまいました。

この町の小学生たちが、ここで、歴史を学ぶために、好い教材となってきたことでしょう。最近気付いているのですが、この河の水量が少なくなっているのです。河の中に中州ができ、背丈のある草が生い茂っているのです。河岸の水位もずいぶん低くなって来ています。長雨が降った後、橋桁に河の水が触れそうになっていた何年か前の様子とは、段違いです。やはり、ここでも異常気象なのでしょうか。ちょっと心配です。そう言えば登り下りしていた大型の船を、最近では、ほとんど見かけなくなっています。

(写真は、”百度”による、この河に架けられた「橋(古写真)」です)

 

逆さに見ると

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この地図は、いつも見慣れて来た教科書や地図帳とは違って、上下反対、南北反対になっていて、正直言って見づらいのです。これまで、自分の生まれ育った国は、世界の中心で、<孤高の国>のように感じていましたが、実際は、ヨーロッパ社会を中心にしてみますと、日本列島は、極東、東の外れに位置していることを知るのです。

以前、裏日本を中心にした地図を見せてもらったことがあります。県庁所在地の名も、山も川も、上下反対に表記がされてありました。新潟県辺りから、首都圏の位置を思ってみると、日本海側の人たちの<立ち位置>が逆転していて、この人たちが表にいて、首都圏が裏に位置しているのを感じて、思いが新鮮でした。

置かれている位置を逆さにし、立場の違いを認めると、何時もと違ったものが見えてきそうです。これを<発想の逆転>と言っても好いのでしょうか。中国や南北朝鮮やモンゴルから、日本は、こう言った様子で見えるのですね。なんだか邪魔をされているようで、『どいて欲しい!』と感じるのではないかなと思ってしまいました。

「目の上のタンコブ」、ない方が好いのでしょう。私たち日本人は、広い太平洋の海に逃げ出すことができるのですが、これらの国々は、<タンコブ>の日本には、どいて欲しいのかも知れません。この地図を見て、きっと煩わしく思っているのではないかなと感じてしまったのです。

でも、友好関係が築き上げられ、この置かれた位置と距離で、協力したり助け合って行くには、ちょうど好い位置と距離ではないかと思うのです。だから、平安の御代には、遣随使や遣唐使を遣わして、親しく交流していたわけです。時々食べる「インゲン豆」が、中国産の野菜で、僧侶の手で運ばれて、日本の地に植えられて、その僧の名に因んで名付けられ、好んで食べられてきています。豆腐だって、味噌だって、醤油だって、この長い交流の中で運ばれて来た物なのです。

これまでは、見慣れた上が北、下が南の地図で、自分の位置を確認していて、右手に日本があるのだと思ってきました。これを逆転して、自分の住んでいる町のアパートの陽台(ベランダ)に出ると、ほとんど左手のはるか彼方に生まれ故郷があるのだと、改めて感じています。それでも、見る位置や方角によっても感じ方が違うかも知れません。今日は、不思議な感じを持ってしまったようです。

敵討ち

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「猿蟹合戦」、記憶に鮮明に残る物語です。ウキペディアによると、次のようです。

「蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので蟹はおにぎりとその柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えるといっきに成長して柿がたくさんなった。そこへ猿がやって来て柿が取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと木に登ったが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらない。蟹が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。」

狡賢い猿に、この子蟹たちが、親の敵(かたき)討ちをする話です。この<敵討ち>、<仇討(あだうち)>を快く思わない人たちによって、話の筋を変えて、改作し出版する人がいるようです。『<平和の時代>には、相応しくない!』と言うのが、その動機です。日本には、「曽我兄弟の敵討ち」、「高田の馬場の敵討ち」、「赤穂浪士の敵討ち」と、有名な仇討ち話があります。この「猿蟹合戦」は、中国、韓国、モンゴルにも、似た話が残っているようです。

この「猿蟹合戦」ですが、猿の子どもたちは、蟹たちに復讐をしなかったのでしょうか。ここには、「復讐の連鎖」が起こり得るのではないでしょうか。何代にも何代にも亘る<復讐劇>が繰り返されていくわけです。第三者が、仲介の労をとって、<和解>しないかぎり、永遠に続くに違いありません。

隣国の信じられないほどの日本嫌いには、驚かされます。戦前の統治への謝罪と賠償で、日本の援助や技術指導によって、工業立国となって行く時期には、このような激烈な憎悪に満ちた動きが見られませんでした。このところ、眠っていた獅子が目覚めたように、忘れていたのを、思い出した借金取りのように、俄かに牙を剥き、爪を立て始めているのです。全国民の総意でしょうか、それとも政治手法なのでしょうか、それに驚かされています。二十年ほど前に、三度ほど訪韓したことがありましたが、その時は、極めて親日的でしたが。

『親の仇を、長崎・・・』ではなく、<今>と言ったところでしょうか。憎しみよりも赦しの方が、争いよりも和解の方が、建設的なのですが。第三者の仲介の余地はないのでしょうか。次の世代に、互いに遺恨を残し、憎しみや敵対の連鎖が起こらないようにと願う、日曜の朝です。

(イラストは、「サルカニ合戦」-yahooイラストよりー)