交わりの手

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実に活き活きとした81歳のご婦人と、一昨日お会いしました。紅をさして、素敵な身なりをし、上品な英語を話しておいででした。ご主人を亡くされてから、男の子三人を女手一つで育てたと聞きました。長く教師をされておいでだったようです。娘が不思議な出会いをした、いろいろと助けてくださる友人なのだそうです。

好いですね、年齢や人種や国籍を超えて、<友だち付き合い>をしてくださるとは、素敵な女性です。娘に紹介されて、しばらくお交わりをしました。子育て中は、このシンガポールも、まだまだ貧しい時代だったに違いありません。でもそう言った苦労を見せないで、ずっと笑みを湛(たた)えておいででした。

両親が日本からではなく、なぜか中国から来たと言う、<遠来の客>だからでしょうか、今週、『夕食を一緒にしましょう!』と、家内と娘とともに誘われました。単なる観光旅行でしたら、こう言った機会などありませんが、九年もの間、娘が住んで来た町の中で、培われた関係の一つの祝福の雫に、親として預かれるのでしょうか。

実は、戦争中に、マレー半島を南下して来た日本軍が陥落させたのが、このシンガポールなのです。その戦火の中で、多くの中華系の民間人の方々が犠牲になっておいでです。マレーシアと狭い海峡で挟んだ国境地帯に、その当時の記念碑があります。最初に、こちらに来ました時に見学をしたことがありました。そう言ったことがあった国なのです。

東南アジアには、そう言った記念碑が多くあって、日本人は、否応無く、そう言った<過去の事実>と出会わざるを得ないのです。追い詰められた日本が、活路を見出そうとして取った侵略や進軍の歴史の足跡があるからです。「窮鼠猫を噛む」と言ったことばが、当時の日本の置かれた状況だったのでしょうか。いずれにしろ弁解は効きませんね。

そんな過去を知っている世代なのに、恨みの代わりに<交わりの手>を延べてくださる、寛容さには頭が下がる、素晴らしい出会いであります。

(写真は、シンガポールに周辺諸国です➡︎WMより)

海って好いな!

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今日は、窓から眺められる海浜を散歩してみました。沖合に相当の数の貨物船が停泊していました。荷下ろしや荷積みの順番を待っているのでしょうか、夏の海にノタリノタリとしていたのです。その船の間を、小型の高速艇が走り回っていましたから、きっと税関関係の船なのかも知れません。この辺りから、もう少し西のマレーシアに行きますと、有名なマラッカ海峡があり、東アジアの国々との間を航行する貨客船の通過で有名な海峡です。

海浜には、歩行と自転車の道路が分けてあり、歩いたり走ったり、両親に見守られながら、小さな子どもが電動自動車を運転していました。平日の昼前後でしたから、退職された年代の老夫婦が多かったでしょうか。潮風が吹いていて、木陰は涼しくて、実に気持ちが好かったのです。砂浜に寄せて砕ける波の音を聞いていると、何となく落ち着いて来ました。

街中では年配者が働いている様子を、よく見掛けています。娘に聞きますと、高年齢層に雇用を拡大しているそうで、生活の安定のために必要が見られるようです。食堂や商店の従業員の間には、特に多く見られます。日本も、建築現場や看護や介護の職域などの労働力の不足が見られ、外国人労働者の受け入れが急務だと言われています。

ここシンガポールも、外国人労働者が目立っています。散歩中に、瓦礫をトラックの荷台に積み込んでいたのは、イスラムの服装をした二人のご婦人でした。マレーシア人かも知れません。そういえば前回の訪問時に、マレーシアのジョーホールバルからシンガポールの税関を通過した時に、多くのマレーシア人がオートバイに乗って帰宅している様子を見かけました。越境労働者がいないと、シンガポールの街が機能しないからだそうです。

道路工事や建築工事のような、<3K(きつい、汚ない、危険)>業種は、どこの国でも敬遠されるのでしょうか。これから、道路が陥没しても、修復工事が何週間も遅延してしまうことになりそうですね。農業も林業も水産業も、後継者不足労働力の受給を自国で賄えなくては、国は成り立ちません。大きな課題ですが、労働観の見直しが必要な時代のようです。綺麗な服で働けるサービス業界に、若者が群れているのが気になります。

さて潮騒を聞いていると、そんな巷のことが忘れられて、原点回帰の感じがしてまいりました。海って好いな!

(写真は、WMによるシンガポールの「イーストコースト」です)

誕生日

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今月、八月は、家内と長女と次男、そして次兄の誕生月です。それに長男夫人が、7月末でした。<夏休み>の最中ですので、学校や級友たちと会わない間に迎えるので、忘れられてしまいやすいようです。

昨夕は、私たちの住んでいる街から、シンガポールの大学にやって来ているご家族と夕食を共にしました。ご主人は市内の大学の物理学の教師です。この方の奥様が、家内の誕生日を知っておられたのです。小学校一年の息子さんが、『何をお祝いしよう?』と三日も考えた末に、一枚の誕生カードを書いてくれました。気持ちが込められ、立体的な<デコレーションケーキ>が絵の中心に置かれていて、家内と、何と私も描いてくれてありました。

その他に、家内へのプレゼントは、<保温水筒>で、これも私用も添えていてくれたのです。この心配りに家内も私も、とても嬉しく、<ドイツ料理>の夕食を共にしました。運河が夕映えにきらめいて、熱帯の佇まいの中で、誕生日を祝われた家内は大喜びしていました。

その誕生を両親が愛でてくれたのでしょうけど、すでに召されていますが、こう言った形で、お祝いをされるとは思いもよらなかったのでしょうか、家内は、とても嬉しそうにしていました。生きていると、こんなに素晴らしいことがあるのですね。

中国のみなさんとレストランで食事をすると、決まって<一悶着>起こるのです。食事代を誰が払うかで、『私が!』、『僕が!』、『あたしが!』と、結構激しい戦争になるのです。すったもんだの末に、支払い者が決まると、一件落着なのです。ご馳走になった方は、『次は私が!』と心に決めるのです。

昨日は、久しぶりの再会の歓談も兼ねていましたので、結局、娘がトイレに行く振りをして、払ってしまったのです。このご主人も、トイレに息子を連れて行く振りをされて、払いに行ったら、支払い済みで、機会を失って席に戻って来られて、困っておいででした。

誕生会と再会を果たして、モールの中でハグを交わして、それぞれ家路に着いたシンガポールの繁華街の宵でした。

(写真は、シンガポールのモールの風景です➡︎百度より)

客家人の国

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ここシンガポール は、中華系住民が、77%をしめているそうです。かつて「苦力(クーリー)」と言われた労働者として、貧しかった中国の広東省や江西省や福建省から出稼ぎに来た人たちの子孫が多いとのことです。街中の中華街の中に、この華僑のみなさんの「記念館」があって、初めて旅行して来た時に、連れて行ってもらいました。当時の生活用品や道具の実物が展示されていて、その生活振りの大変だったことが分かりました。

華僑のみなさんは勤勉だったので、コツコツ働いて財をなし、子弟に高等教育を受けさせて政府の要人や軍人になり、近代国家を建て上げ、東南アジアでは、最も裕福な都市、国家となっています。「建国の父」と言われるのが、「リ・クワンユー」です。今は、息子さんが代わって政治責任の地位にありますが、並々ならぬ統率力と決断力とで、国を作り上げた功労者であります。

福建省や広東省には、北の方から戦乱を逃れて、移住して来た人たちで、「客家(クジアー)」と呼ばれる人たちがいます。あの世界文化遺産に登録されたことで有名な「土楼」に住んで有名な人たちでもあります。不屈の生命力に富んだ人たちで、新天地を求めて東南アジアにやって来て、働いた人たちが数限りなくいたそうです。このリ・クワンユーは、この<客家人気質>を具現した人物で、イギリス統治から独立した国を、長く導いて来たことになります。

どの国家にも、重要な転換期に、特別に選ばれた人材がいて、そう言った人たちが国を興し、歴史の節目節目に現れて、<中興の祖>として,その能力や賜物を発揮した人物がおいでです。東京都区内と同じほどの面積の国でありながら、商業都市としてアジアの要になっているのです。数年前に、家内が治療のために行った病院では、低額の治療費で好いとしてくれ、外国人(日本人だからでしょうか)を優遇してくれたのには、驚かされました。そんなこともあって、この国の更なる繁栄と平和を願はされている私であります。

(写真は,百度による「シンガポールの街並み」です)

三年振りに

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居間の円テーブルに向かって座り、日本茶(「伊藤園抹茶入り緑茶」とティーバッグに印刷してあります)を飲みながら、十九階の娘の家の窓越しに、海を眺めています。大型の貨物船が三艘、錨を下ろしているのが見えます。雲り空で気温は、それほど高くありません。時間がゆったりと流れている、赤道直下の午後であります。街中から外れた海沿いの住宅地なのですが、三年ぶりの訪問で、この窓から見える風景を、新しいビルが邪魔をしているのが、少々残念でなりません。

街は,<生き物>なのでしょうか、時間と共に、どこの街も変わってしまいます。実は,この海の向こうに陸地が見えるのですが、そこはインドネシアなのです。今朝、娘が出勤する前に、『今日は<ヘイズ(煙霧)>があるかも知れないよ!』と言って出かけて行きました。この時期に、インドネシアの農村や山村で、<焼畑>をしていて、その煙が、海峡を挟んだ対岸から吹き込んで来るのです。両国の政府間で話がなされているのですが、一向に改まらないで、昔のまま同じような問題で、ここシンガポール住民は苦しんでいるようです。

どんなものか聞いてはいましたが、実体験できるかも知れないと思って、海と船と対岸に目やっているのですが、海岸の樹木の葉が揺れているのが見えますが、風向きが反対に吹いているのでしょうか、やって来ません。考えようによれば、伝統農業の一つの風物詩なのでしょうけど、工業化したこの国のみなさんにとっては、<公害>に違いありません。

日本のある地方では、<野焼き>というのをするそうですが、化学肥料などなかった時代には、こうやって農業を営んできたのですから、自然農法としては価値がありそうです。対岸の島では、何が植え付けられているのでしょうか。きっと芋とかモロコシなどかも知れません。

赤道直下で飲む緑茶も、随分と美味しいものです。お昼には、娘が買って冷蔵庫に入れておいてくれた、もろ味噌、梅干し、明太子、そして昨晩の残りの<チキンライス>の残りの鳥肉と野菜サラダで、家内と二人で済ませました。私たちにとっては、極上の<日本料理>と言えます。ここには長男家族も休暇で来ていて、昨日今日と一緒に過ごしております。二人の孫が大きくなって、聞き分けが好くなっていて、ジジババ気分も楽しませてもらっております。好いものです。『もう一杯!』と言った気分です。

(写真は、WMによる「シンガポール」です)

港街

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先週の土曜日、この街と台湾を結ぶ航路の港街に行ってきました。中国語では「码头matou」と言いますが、「波止場」と言うのが一番でしょうか。何度も訪ねたことがありますが、海峡を挟んで航路が再開した後は、まだ港がどこにあるのかが分らずにいました。それで、いつか台湾に船で行くことがあることを考えて、下調べに行ったのです。バスの発着場所、発車時間、所用時間などを調べました。小一時間ほどの公共バスでしたが、一停留所区間も、35ほどの停留所を経て終点までも、同じ<一元>で、日本円で16円程でした。この料金は、この8年も変わりません。公共料金が安いのが、この国の特徴でしょうか。

安いと言えば、お米も安いのです。生活必需品は、安く抑えられていて、パンなどは、日本並みの値段ですから、社会の弱者への優しい配慮があるのでしょう。さて、そこは、かつての軍港で、フランスとの間で海戦が行われたと言う歴史的な街です。前回行った時には、「海軍記念館」に入って見ました。日本の海軍との交流もあったようで、日本海軍の将官の写っている写真も展示されてありました。

イギリス海軍に倣っているそうですので、街中にイギリス風の建物が残っているかと思って、キョロキョロして見回しましたが、バス通りの主要道路からは、何も見つけることができませんでした。30階もあるアパート群が立ち並んだ箇所もあり、おおきな造船所があり、また水産卸会社が並ぶ所もあり、なかなか活気に溢れていました。お国柄でしょうか、取引のための「競(せり)」は行われていないようで、どのように海産物が捌かれるのかと思ってしまいました。何時か聞いてみたいものです。いわば近隣の「台所」と言った所なのでしょう。

そういえば、中国の海軍だけではなく、日本も、イギリスに倣ったと言われていました。私のひいじいさんは、技官将校として、イギリスに留学をしたと、父に聞いたことがありました。どんな人だったのでしょうか。この方があって父がおり、私があるわけです。何時も思うのですが、山の中で生まれたのに、海が恋しい気持ちが強烈にあると言うのは、こう言った背景があるからなのでしょうか。二つ違いの弟も、同じ所で生まれていますので、そんな思いがあるか、今度会った時には聞いてみようと思っています。炎天下を訪ねた港街の乗船場は、船が出た後で、ガランとして誰もいませんでした。

(写真は、この港の夕焼け風景です➡︎百度より)

違いを知ること

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日本人には、「対人恐怖症」が多くみられるのだそうです。これは全員が、そうだというのではなく、一般的な傾向として、民族としても、文化や地域性によっても、独特にみられることのようです。人の前に立つ時に、異常に緊張してしまう、あの、『あがってしまって、何を言って好いのか分らなくなって、頭が白くなってしまったんです!』とよく聞く、あの現象です。『家の恥にならないように!』と言う要求が、日本の社会の中にあって、言動に注意し過ぎて、緊張してしまうことが多くあるようです。

もちろん大胆で、物怖じせずに、何でもはっきりと言える人もいますし、自由に人前で振る舞える人もおいでです。表面的には、そのように見えても、心の中では、とても緊張型で、『手のひらに人と書いて、それを飲み込みなさい!』、『人を大根か人参にように思ってしまいなさい!』と言う、対処法があるのだそうです。ちょっと、<咒(まじな)い>のようですが。

これが昂じてしまうと、人の視線がいつも気になり、赤面したり、喉がカラカラになったり、声が上ずったりしてしまいます。この傾向は、日本人の自分にもあると思うのです。ヨーロッパの教育のように、何かにつけて、『あなたは、どう思うのか?』と問われて、みんなの前で、はっきりと自分の思いや考えを主張できることを、求められて学ばなかった日本人は、それを苦手とするのだろうと思うのです。

これを、精神医学的には、「文化依存症候群」と言うそうです。先ごろ、お隣の韓国で船の沈没事故があって、大勢の犠牲者を出しました。そのご遺族の方の悲しみとも、怒りとも、絶望とも取れる様子が、映像で見られました。『アイゴーアイゴー!』と激しく泣き叫んでいたのです。私には、韓国人の級友や友人がいまして、尊敬している人が多くいます。物静かな日本人に比べて、感情の表現が豊かだと思ってきました。これは、嫌韓で記すのではありません。この韓国のみなさんの一般的な傾向を、文化的に見ると、「火病」と言い、「文化依存症候群」なのだそうです。おもに引っ込み思案の女性に見られる傾向だそうです。

ヨーロッパ人にも、アメリカ人にも、アフリカ人にも、東南アジア人にも、この「文化依存症候群」が、それぞれ特徴的に見られると言うのです。グローバル化して、国際交流が頻繁になっている現代、違った地域や文化や民族の中にある違いを知ること、人や民族性の特徴や傾向を知ることは、好い交流のために、大切なことに違いありません。

高麗

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日本の山に、「駒ケ岳」と呼ばれる山が、20もあります。例えば、甲斐駒ケ岳、秋田駒ケ岳、木曽駒ケ岳、会津駒ケ岳などです。これって、「駒」が「馬」のことであることから、馬に似た山容を見せていて、そう命名されたのだろうとしています。また「独楽(玩具のコマ)」に似てるからとも言われるのです。さらに、ある民俗学者は、他の説を主張しておいでです。

この駒ケ岳の「こま」ですが、日本語の中には、山だけではなく、他にも使われているのです。例えば、狛、高麗、巨摩、独楽などの漢字表現があります。よく地名などに用いられているようです。東京には駒沢、駒場、駒込があります。駒口、駒山、狛江、狛犬(神社の門前の左右に対になって置かれている石像)、高麗人参、北巨摩、南巨摩、佐世保独楽(郷土玩具)などがあります。

これらの地名、山名、物産名 地域名、玩具名などの呼び方の元は、「高麗(こうらい/こま)」に由来していると、宮本常一が推論しています。そうです、朝鮮半島に、紀元900年代に起こり、高句麗、百済、任那、新羅などを統一し、474年間も統治し続けた国の名なのです。この「高麗」は、五世紀ごろには、そう呼ばれ始めていて、「高句麗」と関係があります。民族的に言いますと、渡来によって、漢族と満州族(女真族)と土着の民とによって形成されているそうです。

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その「高麗」から渡来した人たちによって、日本の文化や産業が形成されていると言うのが、大方の定説です。そうしますと、日本に帰化した朝鮮半島の人々が、古里の地名に因んで、さらには古里を懐かしんで、望郷の思いから、地名や物の名に「こま」を当てたのだと言うのです。そうだとするなら困らないで好いのです。

戦乱を逃れて、中国の東北部から、朝鮮半島へ、さらに海を渡って日本列島に渡来した人が、混交しながら、主な日本人を形成し、文化も稲作も機織りも、その流れの中で伝わったのでしょうか。上海から東シナ海を渡り、五島列島、玄界灘、瀬戸内海を経て、大阪の間を結ぶエンジン機関船で何度か行き来をしました。はるか昔は、大型の丸木舟に帆を上げて、危険の中を島から島へと渡来して来たのでしょう。大変だったろうと思うのですが、何か「古代の浪漫」を感じてしまいます。そう言った人たちの末裔が、私なのだからです。

(写真は「高麗青磁(yahooより)」、下は「満族の子どもたち(満州写真館より)」)

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『中国で、食べてばかりいる!』、と思っておいででしょうね。そうなんです、よく食事に招かれたり、招いたりして、食べています。<食の大切さ>こそ、中国五千年存続の中心点なのではと感じております。『生きるために食べる!』、『生きているから食べられる!』、『食べて生かされる!』のでしょう。健康だから、食べることができ、その健康を支えるために食べているのが、私たち人間に違いありません。

こちらのみなさんは、ついでに食べているようなことは決してありません。食べることや食欲を軽視したり、蔑視したりもしません。気取らないで、美味しく楽しく食べているのです。<食>が<生>の一つの中心なのです。大いに賑々しく食卓を囲んで、よく声高に喋り、朗らかでー話題豊富で、自己主張しながら、何時も隣席に気を配っています。食卓の上に運ばれた、大皿に盛られた料理を、囲んでいる全員が、自分の取り分を、全員のことを考えながら、小皿に取って食べています。私たちがモタモタしてると、自分のをさて置いて、小皿に取ってくれ、『食べろ!』と言います。

多く取っても、何度取っても意に介しません。一人一人の決めを尊重するのです。しかし恥ずかしい思いをしないために、剣を喉に当てているのです。私は、そうしていますし、みなさんが、そうされておいでです。こういった席で、子どもたちは、自分の好きな物を独り占めしないで、周りに配慮するように学ぶんでしょうか。

華南では、よく糯米(もちごめ)を食べます。一昨日の宴会では、具沢山の<混ぜ御飯>が供されました。糯米の粘りと具が好く合っていて、大変美味しかったのです。食材や味付けが似ていて、日本人好みの料理が多いのです。有名な<広東料理>に味などが近いようです。

最近、わが家では「ハンバーグ」を作って、お客さまをもてなしています。母伝授の作り方で、手製のソースの中で煮込むのです。子どもにも大人にも好評です。 お出でになられたら,ご馳走しましょう。どこの国にも、<民族料理>や<郷土料理>があります。その土地その土地、土地柄にあった食材が用意されていて、その家庭その家庭に美味しい調理法があって、伝統料理や家庭料理が出来上がるのです。明日の英気を養うのも、そんな料理を食べてでしょうか。

(写真は、アワビの養殖場です➡︎百度より)

「満月酒」

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私たちの住む街から、中国版の新幹線に乗って一時間半ほどの所に、昨日は日帰りで出掛けて来ました。麦わら帽子を被り、お祝いを持って、カンカン照りの中でした。こちらでは、赤ちゃんを「宝宝baaobaow)」と呼ぶのです。この「宝宝」を、私の教え子が出産して、祝福の行事をするとのことで、招かれて行ってきました。

お祝いに駆けつけた親族のみなさんが、次々と、この「宝宝」のいる部屋に入って来て、顔を覗き込んではニコニコと誕生を祝しておいででした。『父の兄の・・・』、『祖父の妹の・・・』と紹介されて、親族、家系の繋がりの強さを思いっきり感じさせられました。中国語には、父方の祖父には祖父の名称が、母親の叔母の娘には娘の名称が、それぞれ実に明確な呼び方があるのです。

この親族の間での、<男児>の誕生は、<姓>を継承するのですから、家系を重んじる中国の地方都市で生きて来られた一族にとっては、まさに<宝物>なのです。この「宝宝」が誕生して三十日の<お祝い>でした。ところが、まだ名前が決まっていないのだそうです。私たちの四人の子どもたちは、家内のお腹にいる間から、思案しながら、『ああでもないこうでもない?』と決めたのとは違うのが、興味深かったのです。『「木偏」の付く漢字を入れなければならないのです!』と言っておられ、『付けていただけますか!』と言われたのですが、『お二人が決めるのが一番!』と言って辞退しました。

祝福の宴には、二百人ほどが招かれ、借り切ったレストランの幾つものテーブルを、この「宝宝」と血縁のある両親の父母、祖父母の兄弟姉妹やオジやオバや甥や姪などが一堂に会していたわけです。この、まだ名のない「宝宝」を、家内は『タロウちゃん!』と呼んでいたのです。贈られた真紅の頭巾を被り、同色の嬰児服を身に纏い、首に金のネックレス、手首にも金の腕輪をしていたのです。これが<正装>なのだそうです。

この「タロウちゃん」の成長と健康、ご両親やご親族の祝福を願い、宴の途中でしたが、電車の時間もあって、教え子の弟さんに車で駅まで送ってもらい、車中の人となりました。この行事を、「満月酒」というのです。とても好い一日でした。また少し中国のみなさんの様子を知ることができました。

(写真は、「満月酒」の主役の「宝宝」です)