山歩き

 

 

『広島県広島市南区、広島港の東に位置する元宇品は 一見すると島には見えませんが、実際は橋でつながった島で、かつては宇品島と呼ばれています。そこに咲く、「イズホオズキ」です。』とありました。こんなに寒い季節に、見るものを楽しませる様に咲く花は、私たちの保半の様です。今年も、[HP/里山を歩こう]が配信していただき、楽しみです。

最近、山歩きをしていないのです。何年か前に、正月2日に、森林公園から抜けて行く山道を歩いたりしました。幼い日に、兄たちの後を追って、山に分け入って、木通(あけび)を取ってきて、米櫃(こめびつ)で追熟して食べたりしたことがあったのが、山歩きの最初だったのを思い出しています。山の崖から、兄たちの作った手製に橇(そり)で滑り降りたのも思い出します。

探検もよくやったのです。基地作りもしたでしょうか。東京に出てきても、三多摩は田舎で、里山や小高い丘などがあって、自然が溢れていました。そう、自然からの距離が遠くなってきているのに気づきます。家内と、何度か山歩きをしたので、『今年こそは!』のお正月です。

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地産地消

 

 

今まで、「たらふく食べる」経験が二度ほどあります。こちらの有名なホテルのレストランには、バイキング形式で、中華料理、日本料理、西洋料理、そしてケーキやパンやアイスクリーム、蕎麦まであるのです。ご主人が政府関係の仕事をされていて、そのホテルの招待食事券を頂いて、この方の夫人と家内と3人で出掛けたのです。

刺身、寿司、生牡蠣、ローストビーフ、チーズなどが、ふんだんにあって、食べ終わったら、「コンゴの蛙」の様になって、破裂寸前でした。美味しいし、珍しかった物もあって、喉に剣を当てないで、食べて、ちょっと罪責感を覚えてしまったのです。帰宅して、恥ずかしくなってしまいました。

外国で、日本食と洋食が食べられる機会なんて、そんなに多くないので、〈食べダメ〉を決め込んでしまったのです。食い意地の汚さに、我ながら呆れてしまい、つい地が出てしまったわけです。母が、『高貴な人と、食事を共にする時は、剣を喉に当てなさい!』と教わっていたのですが、偉い人はいなかったので、つい油断してしまったわけです。

もう一回は、小学校に上がる前の年の夏でした。山奥にたった一軒の店があって、そこで季節の果物、桃を売っていたのです。どこかに行った帰り、父と二人でした。いくつ食べたでしょうか、父は制限なく食べさせてくれたのです。家に帰ったら、ゲリをしてしまって、母が父を怒っていたのを覚えています。

二回とも、美味しかったのです。「腹八分」が健康と、長寿の秘訣だと言われています。山梨県の棡原(ゆずりはら)村は、長寿で有名な村だと言われていました。その一つの理由は、その村は、山間の村で、閉鎖されていて、外部からの食べ物が入ってこなこないのです。ところが、地域間の流通が始まって、加工品を食べ始める様になってから、長寿村の名を失ったと聞いています。

何を食べるかが大切です。その生活する土地で作られた食物のを食べる、つまり、《地産地消》が人の体に一番好いのだそうです。私たちは、この13年間、この国の空気を吸い、水を飲み、野菜や肉や魚を食べてきました。でも外資系のスーパーがあって、そこでは輸入食料があり、それを食べる機会が増えたようです。日本製食料は、よその食べ物なわけです。

今朝、家内は退院して、その足で、日本で治療を勧められましたので、空港から日本に帰ろうとして搭乗手続きをしたのです。ところが、ドクターストップで、明日に延期になってしまい、家に戻ってきたのです。それで、夕食に、残っていた物で、野菜スープを作ったのです。「あご出汁」で味付けをしたので、美味しかった様です。食べ物が食べられるとは感謝なことですね。

(山梨県上野原町に吸収合併された棡原の部落です)

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昨日

 

 

今、省立医院の住院部B区14楼17区18号室の窓辺で、外の通りに面した所にいます。Night Shiftでお世話くださった方が、朝番で来てくださった婦人と一緒に、家内の体を拭いたり、着替えをして下さったり、細々としたことをし、家内に夜中の状況の申し送りをして、8時過ぎに帰って行かれました。

この方が、入院中の費用の支払い、お世話の担当表の作成、全てのことを《司令塔》の様になって、して下さっています。ご主人やご両親などでされている、海産物の商社のお仕事もあり、高校生のお子さんがいるのですが、多くの犠牲を払って仕えていて下さるのです。朝番で来て下さったのは、検察官をされている若いご婦人で、二人の子のお母さんです。

10時前に、こちらの方と結婚され、高校に通っておられる男の子を持つ、家内の若き友人(日本人のお母さん)が来て下さいました。大学受験の準備を始めている息子さんの受ける"TOEFL"ために、〈英語の単語帳作り〉をして上げながら、お世話下さっています。再来年、日本の大学に〈帰国子女枠〉として、また中国の大学に進学の予定です。ほとんど毎日、ここに来て細かなことをして下さっているのです。

毎日、午前・午後・夜と三交替で、一人、また二人と、元旦から今日六日まで、間断なくお世話をして、支えていて下さるのです。午後一時になると、また何人かのご婦人が来てくださる様です。

外国で病んで、入院生活をするのは、大変さを感じますが、多くの愛を受けて、なんの不自由もないことに、大いに感謝しているところです。かえって受ける愛の大きさと、多さとに圧倒されております。申し訳なさを言うと、『你们跟我们是一家/あなたたちは私たちの家族だよ!』と言ってくれています。

この国で、家族扱いを受けるなんて、すごい特権ですね。四人の息子娘たちに代わって、彼ら以上に敬意や愛や親切を示して頂けるのは、在華13年の祝福のすべてです。今、午後番のご婦人が、差し入れの食べ物を持参して来てくれ、申し送りをされて、朝番の方が、ご主人と小さな子どもさん二人の待つ家に帰って行かれました。

(ここからは夕方に記しました)日曜日に、病院で過ごすのは、一昨年の初に札幌の整形病院に入院以後、初めてのことです。病棟の向こうの小高い山の裾野が、低い雲に隠れて見えます。静かな日曜の午後になりました。12年の間、いつもお世話下さったご婦人が来てくれました。大学の法学部の先生です。あの検察官のお母さんは、この方の教え子です。今夜は、古書を買取販売する方のご夫人がお世話下さいます。下の世話までみなさんがして下さるのです。また四人の方が見舞って下さいました。感謝で一杯です。

(1月6日記す)

 

ダメ

 

 

数年前、こちらに出向されて会社経営に当たっておいでの方のご夫人から、「電気餅つき機」を頂きました。昨年末も、餅をつく予定でしたが、叶いませんでした。日本人って、お祝い事のある時には、餅をついたり、おこわを炊いたりするのですが、「もち米」には、いつも食べているお米とは違った役割がある様です。

こちらでは、「糯米nuomi(日本語表記で〈糯〉とも書く様です)」と言います。こちらでは、お米にもち米を混ぜて、野菜などを入れた炊き込みご飯が食べられます。でも、世は「正月」、昭和人の私は、《角餅》を炭火のコンロにのせた網の上で、焼き目のついたのを、お雑煮でも、のり巻き餅でも、黄粉餅でも、また母が作ってくれた〈砂糖じょうゆ〉のお餅が食べたくなってしまいました。

東アジアの米所の国々では、この「餅」を食べる習慣があります。“ウイキペディア”に、『中華文明圏において、「餅(ピン)」は主に小麦粉から作るなどの粉料理(麺餅中国語版))全般を指し、焼餅・湯餅(饂飩雲呑餃子の原型)・蒸餅(焼売饅頭の原型)・油餅などに分類され[2]、小麦以外のヒエ、アワ、コメなどの粉から作るものは「餌(アル)」と呼んで区別があった。「餌」を蒸した「餻(カオ)」、小さいものを「円(ユワン)」、他の食材を包んだ「団(トワン)」、日本で知られる飯粒を搗いたいわゆる餅は「餈(ツー)」と呼んだという[3]。日本ではこの「餈」に相当するものが他の食材と合わせて多様な「餅」に発展した。朝鮮でも「떡(トック)」といい、東アジア圏では現在も節会縁起祝賀行事など特別な節目に饗されることが多い。』とあります。

確かに、この華南の街では、米粉で作った物を「饼bing」と呼んでいます。お雑煮の様にして食べるのは、日本特有の食習慣なのでしょう。普段、リヤカーにコンロを乗せ、そこで練炭火で、小麦粉に小刻みにした長ネギを混ぜて焼き上げた物を、「葱饼conbing」と呼んだりしています。本場の天津で食べたのも、小麦粉製でした。

若い頃に、二、三度、その「餅つき」をしたことがありました。つき手と、蒸したもち米に水をやってこねる人と、呼吸を合わせるのが難しかったのです。東京の郊外の農家で、餅つきをした時、つきたての餅を、大根おろしで食べたのですが、美味しかった!

角餅を切った恥の部分を、小さめに切って、干したのを、父が油で揚げて食べさせてくれました。家内が帰って来たら、餅つき機で、お餅を作ってみましょう。〈大根おろしまぶし〉がいいかな。そんなことを書いていたら、食生活で、《砂糖ダメ》と《小麦粉ダメ》と、長女が、FaceTimeで言ってきました。どうしよう?

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好朋友

 

 

広島県呉市・上蒲刈島から眺めた、瀬戸内海とそこに浮かぶ島々です。美しい景色ですね。山の中で生まれて7才まで過ごし、また仕事で、その生まれ故郷に35年住んでいましたから、海が恋しくなることがあって、時間ができると、いつの間にか、車で海を見に行くことが、唯一の贅沢だったでしょうか。「潮騒(しおさい)」が聞きたくなり、キラキラ光る海が見たくなり、美味しい白魚が食べたくなったのです。

ここでも海は、そう遠くないのですが、車を持たない生活を続けていますので、[いざ鎌倉]ができずに、手でしょうか、足をこまねいてしまっています。父が海の近くで生まれ育っていますし、旧海軍の家系だそうで、そんな血を引いているからでしょうか、どうも海が好きなのです。

「のたりのたりの春の海」、初春の海はまだ荒々しいのでしょうけど、瀬戸の内海は、穏やかなのでしょうね。小高い丘の上から撮られた、[HP/里山を歩こう]配信の写真です。こんな穏やかな一年を願っていますが、正月早々、わが伴侶は、入院生活をしております。彼女は多くの友人がいますので、お見舞いくださる方が大勢おいでです。

入院の付き添いで、お世話してくださるご婦人たちが、交代で、24時間お世話してくださっています。私が泊まろうとすると、『回家吧huijiaba!』と言われて、家に帰させられてしまっています。また家内には、「日本人奥様会」と言う若いご婦人の交わりがあって、このみなさんも、見舞ってくださったり、そばでお手伝いをしてくださっています。

今日午後、再び〈CT検査〉をします。精度の高い機器によるそうです。その検査結果によって、今後に治療方針が決まる様です。実は、医学用語が難しいので、日本語を話せるみなさんも、交代でそばにいてくださっています。彼女と仲良しのご婦人(娘たちと同世代の方です)の「老公laogon/夫への愛称」も見舞ってくださって、昨夕は通訳をしてくださったのです。多くの「好朋友haopengyou/よき友人」のみなさんに、私の「老婆laopo/妻への愛称」も、嬉しそうで、感謝しております。

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ハプニング

 

 

昨日の元旦、知人の知り合いの医師の勤める省立医院に、診察のために、家内が行きました。要入院とのことで、急遽、そのまま入院することになりました。

2011年、東日本大震災のありました直後に、東京の板橋の病院で手術を受けた、「胆嚢摘出」から7年が経過しています、その折、執刀医から、「膵炎」が将来起こりうると言われていました。その言葉の様に、その「膵炎」の治療にために入院しました。重症ではありませんのでご安心ください。知人のご婦人が、ご自分の母親の様に、昨晩、付き添っていてくださっています。

とりあえず、一週間ほど入院し、様子を見ながら、その後を話し合おうということでした。昨日は、もうお見舞いの多くの方が来てくださいました。その中に二人の看護士さんがいて、色々と医師と交渉してくれていました。みなさん、極めて親切にしていてくれています。

そんなハプニングの元旦でした。月末には、ビザの関係で、一時帰国を予定しています。恢復して、無事に帰国できるように願っています。家内のこと、ちょっと躊躇気味で、ブログの記事にしました。覚えていただけたら嬉しいです。

([HP里山を歩こう]から、広島県呉市蒲刈町(上蒲刈島)の「みかん」です)

から

おめでとうございます

 

 

2019年が始まりました。みなさまにとりまして、祝福の一年でありますようにお祈りいたします。

今、北京時間で3時半です。1年365日、ちっとも変わらない朝ですが、いつもの様に、期待に溢れた朝を迎えたところです。元旦の朝は、「一年の計」のある日だと言われて生きて来ました。まだこの街は寝静まっています。家内、子どもや孫たち、兄弟姉妹、仲間、隣人、全ての人が、平和を楽しみ、健康を感謝し、希望に溢れる一年であることを祈りました。

祖国、そしてこの中国、アジア圏、ヨーロッパ圏、アフリカ圏、南北アメリカ圏、太平洋圏が、和平であるように祈ります。とくに『住んでいる街の《平安》を願いなさい!』と要請されていますので、この街に住んでいるみなさんが、喜びや希望や感謝で溢れかえりますようにと願っております。

このブログの読者のみなさんの一年、一日一日が、天来の祝福で満ち溢れますようにお祈りします。

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指折り

 

 

「雪原に咲く花」と言われる「福寿草(フクジュソウ)」です。春を告げる花の代表で、「元日草(がんじつそう)」とか「朔日草(ついたちそう)」とも呼ばれるそうです。江戸の昔から、《めでたい》という意味で、言われ続けています。

「大晦日(おおみそか)」になりました。幾年(いくとせ)生かされてきたことでしょう。今日、一番、するに相応しいのは、この一年の「恵み」を、指折りしながら、数えることに違いありません。病に伏せった日もありましたが、その日だって、感謝で素敵なな日でした。健康である素晴らしさを、思い返すのは、そんな日だからです。

今住んでいる小区の門の近くに池があって、ついこの間まで、「蓮の花」が咲いていました。その池を見ると、跳び越えてみたい衝動に駆られるのです。きっとうまくいかないで、池の中に落ちるのではないかと思って、しないでいます。また、主要道路の中央には、「分離帯の柵」があります。それも超えてみたいのですが、うまく越超えられずに、ドスンと落ちそうで、しないのです。

何時までも、そんな若者の衝動に、行動が駆り立てられ、誘惑されるのですが、これって歳を重ねても、変わらないでいるのです。そんな自分に、呆れてしまいます。池や柵ではなく、まだ越えなければならない、〈心の柵〉がありそうです。妻と四人の子どもたちも、四人の孫たち、二人の兄と一人の弟、多くの友や同労者や隣人、そんな人たちが思いの中にやってきます。

13回目の越年を、ここ華南の街でしようとしています。昨日も多くのみなさんと、一年を振り返り、迎える2019年に、思いを馳せました。『奥さん、お大事に!』と、何人もの方が家内の体調を心配してくれました。年明けの1月末に、帰国の予定を話しましたら、帰りしな、門の外まで追いかけて来た、一人の娘たちと同世代のご婦人が、『きっと帰って来てくださいね!』と、涙目で言ってくれました。

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今はなき湯治場

 

 

昭和15年(1940年)に、作詞が西條八十、作曲が古賀政男による、「誰か故郷を思わざる」が発表され、多くの人に好まれて歌われました。

1 花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩を組みながら
唄をうたった帰りみち
幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を想わざる

2 ひとりの姉が嫁ぐ夜に
小川の岸でさみしさに
泣いた涙のなつかしさ
幼馴染のあの山この川
ああ誰か故郷を想わざる

3 都に雨の降る夜は
涙に胸もしめりがち
遠く呼ぶのは誰の声
幼馴染のあの夢この夢
ああ誰か故郷を想わざる

私の生まれ故郷の近くの渓谷の奥に、温泉場があります。「ラジウム泉」が湧き出て、人形峠と東西双璧の知る人ぞ知る温泉です。ガンの摘出手術をして、余命宣告をされた方々が、最後の望みを繋ごうと、人聞きに聞いて、やって来ては、男も女も同じ「冷泉」で湯治をする温泉場です。39才の時に、11時間にも及ぶ手術をした私は、術後の湯治にと、上の兄が探してくれた、この温泉場に、連れて行ってもらって、一週間ほど過ごしたことがありました。

確かに、腹部や背中に、大きな手術痕のある方たちが、狭い浴槽に浸かっては、病歴を語ったり、人形峠に出かけた話や、事業や家族について、話の花を咲かせていました。ほとんどの方が、私よりも年配者で、聞き役でした。ラムネの様に、気泡が体につく時が、薬効があるとかで、湯を動かさない様に入るのです。湧き出し口に口を寄せて、吸気している方もいました。

その後、何度も、ここに出掛けては湯治を続けたのです。ある時、家内を誘って行った時(家内は女湯に入ったのですが)、一緒に、温泉に入っていた六十代の方が、『お茶を一緒に飲みましょう!』と部屋に招いてくれたのです。床の間に、アコーデオンが置いてあって、彼が弾いて、一緒に歌謡曲を歌ったのです。山深い出湯で、昔の歌を歌ったのですが、この「誰か故郷を思わざる」もあって、うる覚えの歌詞で声を合わせました。

もう30年も前のことですが、「ふるさと」が近かったので、「花摘む野辺」も「落日」も「小川」も「山」も、ありのままの情感が、この歌に込められていました。アコーデオンの音色は、哀調があって、物悲しかったのが偲ばれます。渓谷を上り詰めた部落は、温泉町で、人家はわずかでした。冬枯れの落ち葉の細い道を歩いて出かけた日が思い出されます。

もう此処、華南の街は、私たちにとっての「第二のふるさと」になってしまいました。箱庭の様な、日本の情景とは違って、だだっ広く広がる世界であるのは、趣を異にするのですが、思いは同じです。此処で採れた物を食べ、此処で湧き出る水を飲み、此処でそよぐ風に頬を当て、朝日夕日を眺め、異国のことばを聞いて、つたなく喋ってきた年月が、此処にあります。あの温泉宿は、もうすでに廃業してしまいました。一緒に歌った方は、お元気でしょうか。さて何時まで、此処にいられるのでしょうか。

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終息

 

 

12月最後の日曜日になりました。中国語では、「星期天xingqitian」とか「礼拜天libaitian」と言われています。2018年、〈明治150年〉も、いろいろなことが公私にわたってありましたが、「恙無く(つつがなく)」過ごすことができて、感謝が溢れてきます。

今朝は、7℃ほどの気温ですが、予報よりも2℃ほど高かった様です。この朝顔の写真は、このブログに掲載した、最後のものです。今朝、鉢を見ますと、もう咲きそうな気配がしていません。それで「終息宣言」をします。第二期は、次男夫婦が来訪の折に、タネを持ってきてくれ、それを播いたのですが、どうも年越しの朝顔にはならない様です。でも、次々と咲いてくれて、大変楽しむことができました。

昨日は、知人の漢方医が往診してくださって、家内を診察してくださいました。先々週、大咳をしている方と2時間も、家内が一緒にいて、どうも、風邪がうつった様で、友人が往診を要請してくれました。煎じた漢方薬の匂いが、家の中に立ち込めています。《良薬口に苦し》と言いながら、家内が飲んでいます。快方に向かっています。

好い日曜日をお過ごしください。

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