今はなき湯治場

 

 

昭和15年(1940年)に、作詞が西條八十、作曲が古賀政男による、「誰か故郷を思わざる」が発表され、多くの人に好まれて歌われました。

1 花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩を組みながら
唄をうたった帰りみち
幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を想わざる

2 ひとりの姉が嫁ぐ夜に
小川の岸でさみしさに
泣いた涙のなつかしさ
幼馴染のあの山この川
ああ誰か故郷を想わざる

3 都に雨の降る夜は
涙に胸もしめりがち
遠く呼ぶのは誰の声
幼馴染のあの夢この夢
ああ誰か故郷を想わざる

私の生まれ故郷の近くの渓谷の奥に、温泉場があります。「ラジウム泉」が湧き出て、人形峠と東西双璧の知る人ぞ知る温泉です。ガンの摘出手術をして、余命宣告をされた方々が、最後の望みを繋ごうと、人聞きに聞いて、やって来ては、男も女も同じ「冷泉」で湯治をする温泉場です。39才の時に、11時間にも及ぶ手術をした私は、術後の湯治にと、上の兄が探してくれた、この温泉場に、連れて行ってもらって、一週間ほど過ごしたことがありました。

確かに、腹部や背中に、大きな手術痕のある方たちが、狭い浴槽に浸かっては、病歴を語ったり、人形峠に出かけた話や、事業や家族について、話の花を咲かせていました。ほとんどの方が、私よりも年配者で、聞き役でした。ラムネの様に、気泡が体につく時が、薬効があるとかで、湯を動かさない様に入るのです。湧き出し口に口を寄せて、吸気している方もいました。

その後、何度も、ここに出掛けては湯治を続けたのです。ある時、家内を誘って行った時(家内は女湯に入ったのですが)、一緒に、温泉に入っていた六十代の方が、『お茶を一緒に飲みましょう!』と部屋に招いてくれたのです。床の間に、アコーデオンが置いてあって、彼が弾いて、一緒に歌謡曲を歌ったのです。山深い出湯で、昔の歌を歌ったのですが、この「誰か故郷を思わざる」もあって、うる覚えの歌詞で声を合わせました。

もう30年も前のことですが、「ふるさと」が近かったので、「花摘む野辺」も「落日」も「小川」も「山」も、ありのままの情感が、この歌に込められていました。アコーデオンの音色は、哀調があって、物悲しかったのが偲ばれます。渓谷を上り詰めた部落は、温泉町で、人家はわずかでした。冬枯れの落ち葉の細い道を歩いて出かけた日が思い出されます。

もう此処、華南の街は、私たちにとっての「第二のふるさと」になってしまいました。箱庭の様な、日本の情景とは違って、だだっ広く広がる世界であるのは、趣を異にするのですが、思いは同じです。此処で採れた物を食べ、此処で湧き出る水を飲み、此処でそよぐ風に頬を当て、朝日夕日を眺め、異国のことばを聞いて、つたなく喋ってきた年月が、此処にあります。あの温泉宿は、もうすでに廃業してしまいました。一緒に歌った方は、お元気でしょうか。さて何時まで、此処にいられるのでしょうか。

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