また咲いた!

.

.
 『空に、こんなにたくさんの重たい雨があるんだろうか?』と思ってしまうほど、雨降りが続いています。雨がなくては日本の農業は成り立ちませんが、降り過ぎて、桃や葡萄の生産農家は、悲鳴を上げています。『出荷がおぼつかないんです!』と、笛吹市の友人が知らせて来ました。止み間に収穫された桃が、先週、家内の妹から送られて来ました。『日照が少なくて、糖度が足りないんです!』と言っています。でも、とても甘くて、美味しく戴きました。

 きっと今頃の時期の雨を歌ったのでしょう、作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎の「雨」がありました。

1 雨がふります 雨がふる
  遊びに行きたし 傘はなし
  紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 
  緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
  いやでもお家で遊びましょう
  千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
  けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
  小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
  お人形寢かせど まだ止まぬ
  お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
  昼もふるふる 夜もふる
  雨がふります 雨がふる

 まさに、「・・・昼もふるふる 夜もふる」雨ですが、うんざりするのも感謝するのも同じですから、感謝することにしましょう。

 有名な「洪水物語」があります。40日、40夜、雨が降り続けたのです。方舟(はこぶね)に乗った8人の人を残して、全地は水で滅んだのです。アララト山の中腹に、方舟は漂着して、ノア夫妻と3人の息子夫妻が助かりました。すると「虹」が見えたのです。そして声がありました。

 『“それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。””わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。”』とです。

 この約束ゆえに、地球は洪水で、水没することはなさそうですが、中国大陸も日本も、この暴雨の中で、この約束を握って生きて行きたいものです。来週には、梅雨前線は、後退してくれそうです。燦燦と降り注ぐ真夏の陽を、一身に浴びたいものです!

そんな雨の中、” morning glory “ の朝顔が、また咲きました。

.

何のその

.


.
 週末の雨の早朝の朝顔です。肌寒いのに、《何のその》で咲いています。朝ごとに、ベランダに出て眺めると、生かされてある実感を味わえるのです。今季の朝顔の葉の勢いが弱いのですが、それでも強く咲き誇っています。好い週末をお過ごしください。

.

.

.
 旅行のできない今、「坊がつる讃歌(作詞:神尾明正、補作:松本征夫、作曲:竹山仙史)」の歌を聞いて、行ったことのないこの山(盆地や湿原の九重連山
)を、訪ねたことのある、阿蘇や霧島や由布院の風景に重ねて思い描いております。ここも豪雨で、被害があったのでしょうか。

1.人みな花に 酔うときも
残雪恋し 山に入り
涙を流す 山男
雪解(ゆきげ)の水に 春を知る

2.ミヤマキリシマ 咲き誇り
山くれないに 大船(たいせん)の
峰を仰ぎて 山男
花の情(なさけ)を 知る者ぞ

3.四面(しめん)山なる 坊がつる
夏はキャンプの 火を囲み
夜空を仰ぐ 山男
無我を悟るは この時ぞ

4. 出湯(いでゆ)の窓に 夜霧来て
せせらぎに寝る 山宿(やまやど)に
一夜を憩う 山男
星を仰ぎて 明日を待つ

5.石楠花谷(しゃくなげだに)の 三俣山(みまたやま)
花を散らしつ 篠(しの)分けて
湯沢に下る 山男
メランコリーを知るや君

6.深山紅葉(みやまもみじ)に 初時雨(はつしぐれ)
暮雨滝(くらぞめたき)の 水音を
佇(たたず)み聞くは 山男
もののあわれを 知る頃ぞ

7.町の乙女等(おとめら) 思いつつ
尾根の処女雪 蹴立(けた)てつつ
久住(くじゅう)に立つや 山男
浩然(こうぜん)の気は 言いがたし

8.白銀(しろがね)の峰 思いつつ
今宵(こよい)湯宿(ゆやど)に 身を寄せつ
斗志(とうし)に燃ゆる 山男
夢に九重(くじゅう)の 雪を蹴る

9.三俣の尾根に 霧飛びて
平治(ひいじ)に厚き 雲は来ぬ
峰を仰ぎて 山男
今草原の 草に伏す

 この歌は、九州大学の学生たちが、山小屋のアルバイトをしていた折に、神尾が替え歌として作詞したそうです。きっと九州で生まれていたら、この山にも登ったことでしょう。中・高校時代に、弟がM君と言う同級生と、よく山登りに出掛けていました。M君は山に魅せられて、山男になって、山小屋に籠もってしまったそうです。私も最初の職場の上司が、信州人で、よく奥多摩の山歩きに連れて行ってもらいました。

 最後の山歩きは、諏訪湖の近くの入笠山でした。家内を連れての12月、軽装で出掛けて、遭難しかけてしまいました。私の街では前日、雨でしたが、入笠山は雪でした。でも、その頂上からは四方八方見渡せて、八ヶ岳が目の前にありました。夏に連れ出せなくて、そこを見せたくて登ったのですが、無事家に帰り着きました。まだ五十代でした。

(〈絶景壁紙.com〉から九重山のミヤマキリシマです)

.

好い一日を

.

.
 いつも思うことですが、真っ黒な鉢の中の土から、こんな濃紫の色、ビーロードの様に、綺麗な花が咲くのが、不思議でたまりません。この朝顔を見ながら思ったことですが、苦界の中で,業の子として生まれた赤子は、罪の子でありながらも、王宮に生まれた王女と同じ命を受け継ぎ、愛くるしさをたたえているのですね。生まれた背景が違っても、命は尊厳の中にあります。人は植えますが、養い育ててくださる《命の付与者》の業にちがいありません。

 何度目の朝を迎えたことでしょうか。昨日と打って変わって、朝日が西側の窓から射し込んできます。今日も好い一日でありますように!

.

神秘的な力

.

.
「新聞奨学生ガイド」に、次の様な記事があります。

 『宮澤賢次の有名な詩「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」のモデルといわれる斎藤宗次郎は1877年岩手県花巻市に生まれた。小学校教諭をしていたが、無教会主義キリスト教者の内村鑑三に影響を受け、生徒に聖書や内村の日露非戦論を教えたため退職せざるをえなくなる。

 それから20年間、宗次郎は新聞配達をして清貧の暮らしを送った。新聞配達を天職と感じ、東京朝日や万(よるず)新報など十数種類、20キロ以上の新聞が入った大風呂敷を背負い、駆け足で配達したという。それだけでなく、配達や集金の際、病人を見舞い、悩みや相談を聞き、道端で遊ぶ子供たちに菓子を分け与え、地域の人々に慕われた。そのため、内村鑑三のもとで伝道者となるために上京する時には、駅に200人以上の人が見送りに来た。宗次郎は、晩年、多くの弟子に裏切られた内村に終生つくして、その最後を看取った。

 宮澤賢次は日蓮宗の信者だったが、宗派を超えた交流があった。集金に行った時、招き入れられ一緒にレコードを聴いたりした話が宗次郎の日記にみられる。賢次の散文詩「冬のスケッチ」にも宗次郎を模したらしい「加藤宗二郎」という人物が登場する。そして、「雨ニモマケズ」の詩の中に新聞配達をする宗二郎の姿を重ねる人も多い。
今、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」新聞を配っている君たちも、その日々に経験すること、人々とのつながりがきっと将来の糧となるだろう。新聞奨学生ガイドはそんな君たちを応援しています。』

 ここに登場する斎藤宗次郎は、何を言われても、何されても、怒ることなく、柔和に生きた人だったそうです。同じ岩手県下の盛岡藩、藩士の子、稲之助は、短気で喧嘩っ早く、札幌農学校に入学するのですが、教授と殴り合いをしたりするほどでした。その荒くれぶりが、次の様に伝えられています。

 『ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。』

 ところが、宗教的な改心を遂げた後、全く変えられて、「モンク(伝道師)」と渾名されるほどに、変えられたのが、新渡戸稲造でした。後に、台湾総督の技師、京都大学や東京大学の教授、国際連盟の事務次長などを歴任し、今なお高く評価を得ているの稀有な国際人でした。

 一方、斎藤宗次郎は、耶蘇の故に、街の人々から迫害されますが、人々を赦し愛していきます。稲造の同級生であった内村鑑三の書き物を読んで感動を得ています。そして花巻を訪ねて来た鑑三と出会うのです。仏寺の子であったのに、その出会いを通して、耶蘇に方向転換をしてしまいます。やがて家族と共に上京し、鑑三の開く会合に集うのです。

 多くの弟子たちが去っていく中、終生、鑑三を師と仰いで行きます。その宗次郎は、在花巻の頃、新聞配達の途上で、宮澤賢治と交流をし、ともにレコードを聴いたり、巷談を交わします。

 賢治没後、彼の手帳に記されていたのが、「雨にも負けず」でした。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ(以下省略/「青空文庫」より)

 荒くれ男や仏門の子が、心霊上、人生上、根本的な変化を経験した点で、このお二人は共通しています。そんな神秘的な力があるのですね。

(花巻の冬の夜景です)

.

もはや

.

.
 ある詩人が、次の様な詩を発表しています。

       『倚りかからず』

もはや 
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや 
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや 
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや 
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて 心底学んだのはそれくらい
じぶんの耳目 じぶんの2本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは 椅子の背もたれだけ

 『いやー、ずいぶんとシンドイ人生だなー!』、この詩を読んだ感想です。「人」という漢字で、私たちは、他者と一括りにされるのですが、単純に文字の成り立ちは、〈支えたり〉、〈支えられたり〉している様子を、古代の中国の人たちが考えて、文字が誕生したわけです。人は、〈単立〉ではなく、〈併立〉な存在者だったのです。

 〈独立独歩〉であることは、自立した在り方ですから、成長した人の逞しさがあります。でも〈倚りかからない人〉って、寂しそうです。〈自分の足のみで立っている人〉って、倒れかかったら、誰に、何に、支えてもらうのでしょうか。それさえも必要なく、突っ張って生きて行くのは、辛そうです。

 この詩人が言う様に、〈自分の耳目〉だけで聞いたり、見たりするだけだと、偏向的で危険です。自分だけしか信じられない人って、厳しい人生を生きているのでしょう。この詩を読んで、ある日本の突っ張り傾向の政治家が、とある外国に行って、その国の首長と言葉を交わした話を思い出しました。『私は、神を恐れています!』と、絶対者への畏怖を語る言葉を聞いた直後に、わが国の首長は、『私は、神をも恐れません!』と言ったそうです。

 その〈神なき民〉、〈神不要の民〉の言葉を聞いた、その国の人々は、驚きあきれ、かの政治家は、欧米人の顰蹙(ひんしゅく)をかったそうです。神を畏れずに、権勢を誇った指導者は、ほとんどが悲惨な最後を遂げています。以前、独裁者の顔写真を掲載してありましたが、そのほとんどに、〈❌〉が印されてありました。

 かく詩を詠んだ詩人の茨木のりこは、24歳で結婚をして、配偶者を得ています。結婚生活25年で夫と死別しています。夫の死後に、夫への想いを綴った「歳月」を刊行していますから、夫には支えられて生きた人、夫を支えて生きた女性であったのです。戦争体験者で、反骨を貫いた方ですが、79歳で召された後は、遺言で、鶴岡市にあるご主人の墓に葬られました。椅子よりも素敵な伴侶が、この詩人にいたので、突っ張っただけの女性でなかったのを知って、ホッとしました。

(フリー素材のイラストです)

.

蜂蜜

.

.
 大きな被害をもたらせた豪雨が、梅雨前線の停滞が原因だったと、ニュースが伝えています。河川の氾濫が、肥沃な田畑を作ったと、地理では教えられていますが、急峻な山から流れ下る水に流れは、水量を増して、一気に流れ落ちるので、日本は、度重なる水害を経験をしてきています。
 
 昨秋、人生二度目の避難生活をしました。家内が病んで入院し、治療が一段落して、退院して暫くしてのことでした。台風19号は、この地域に大雨を降らせて、近くを流れる永野川や巴波川の氾濫で、床上浸水でした。幸い、二階家でしたので、身の回りのものを持って、前夜、二階に避難し、その夜はぐっすり寝てしまいました。

 早朝、五時前に起きて、下に降りてみますと、一階部分は、どこも床上浸水で、脱いだスリッパが浮いていました。水かき、泥かきをし、やっと身の回りの整理がつき、一安心したのです。5年ほど前にも、この地は洪水に見舞われていましたが、去年の方が被害が大きかったそうでした。

 その浸水した家にい続けては、健康被害があるといけないと、友人夫妻のご子息が言って、高根沢町在住の友人に連絡してくださったのです。避難できるかどうかを打診してくださいました。その方のご好意で、事務所の二階のゲストルームをお世話くださり、被災の翌日から三週間弱の間、私たちに避難所を提供してくださったのです。

 その二階に住み始めた私たちに、地元特産のお米や柿や、ブドウやリンゴ、和菓子までお届け下り、ある方はお見舞いの志まで下さいました。避難者、寄留者の私たちへの親切は、驚くほどのものでした。そこから一度は、掛かり付けの病院に通院をさせてもらいました。

 ユダヤの格言に、

『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』

とありますが、病態が悪化する危険性は全くなく、家内は元気に守られておりました。思い返しますと、いつも多くの親切があって、私たち家族は、守られ、祝されてきたのだと分かるのです。

 第一回の避難経験は、40年ほど前の早朝に、当時住んでいたアパートでガス爆発に遭遇した時でした。階上の家で、強烈なガス漏れ引火事故があって、わが家の玄関が、爆音とともに開き、洗濯物や飼っていた鳥が焼けてしまい、ベランダの窓ガラスが割れ、駆けつけた消防署や消防団の放水で、持ち物のほとんどが水浸しになってしまいました。

 警察と消防署の事故処理の中で、『引火していても不思議でないのに、よく守られたものです!』と言われて驚きました。私だけが、ガラスの破片で頭部に刺さる怪我を負いましたが、家人への被害は全くなかったのです。家内は、次男をお腹の中に宿し、次の月が出産予定でした。近くの私たちの倶楽部に避難して、多くの友人や兄弟たちに助けで、生活の再建ができたのは、大変感謝でした。

 長女の通っていた幼稚園から、その日の朝に連絡があって、次女の世話をしてくださるとのことで、次女は憧れの幼稚園通いができて大喜びだったのを覚えています。今夏、熊本や福岡や岐阜で被災されたみなさんは、どうなさっておいででしょうか。復旧や援助によって、1日も早く元の生活に戻れます様に願っております。

.

 

うな丼

.

.
「土用の日」の今夕は、「うな丼」と、季節外れの「湯豆腐」で、夕食をすませました。三週間ほど前、行きつけのスーパーマーケットで、〈三割引〉を買って、冷蔵庫の冷凍室で保管していたのを、温めてみました。〈世間並み〉には、あまり拘らないのですが、珍しく食べて、『美味しかったわ!』と、家内が言ってくれました。火曜日の夕べの〈久しうなぎ〉でした。

.

モーニング・グローリィ

.


.
 一昨日、昨日とは打って変わって、霧雨の降る栃木市です。『梅雨が終わるかな!』が、淡い期待だった様で、もう一週間は、どうも、このまま梅雨が続くと、今朝、天気予報士の方が言っておいででした。『梅雨もまたよし!』なのですが、こんなにどんよりな日が続いてしまうと、お米や果物には申し訳ないのですが、晴れて欲しいと願ってしまいます。

 ベランダで、綺麗な紫色の朝顔が咲きました。天気など、ほとんど気にしないかの様に、静かに咲き出しています。そんなベランダの向こうに見える道路を、コロナを吹き飛ばすかの様に、爆音を響かせて、オートバイ乗りに若者が、我がもの顔で走り抜けて行きました。『いいなー!」と羨ましいがったら、家内が、『うるさいは!』と答えました。

 また静かになった、駅前通りです。

.

古桶

.

.
 オランダから来られた《 Story Teller 》が、友人の倶楽部で語った話を、友人が次の様に分かち合っていました。

 『二つの水桶に水を入れて、天秤棒で担ぎながら運ぶお爺さんは、せっせと水を運びます。前には新品の桶、後ろには古ぼけた桶を下げていました。後ろの桶は、ボロボロになっている様なものだったのです。坂道を登って行くのですが、新品の桶からは全くないのですが、古ぼけた桶からは、水が漏れています。それでもお爺さんは水を運ぶのです。

 ところが新しい桶が、古い桶に向かって、「お前はなんて役立たずなんだ。半分も水を減らしてしまって。働きゾンのくたびれ儲けだ。お前なんかさっさと辞めちまえ!」と、軽蔑を込めて言うのです。それを聞いた古桶は、ひどく落胆してしまいます。そんなしょげてる桶は、お爺さんに、「こんな役立たずの私を使うのは辞めてください。捨てるなりなんなりしてください。」と言います。それを聞くとお爺さんは、「何を言うのか、あなたはこれまで、ずっと私のために働き続けてくれたじゃあないか。今だって立派な仕事をしてくれている。」と言いました。

 お爺さんは、いつもの坂道に、この古桶を連れて行って、道端で咲いている小さな花を指差すのです。そして、「ご覧、なんて綺麗な花なんだろう。君が水をこぼしてくれたので、この乾き切った坂道に花が咲く様になったんだよ。この咲く花で、私は、どれだけ慰められ、励まされたか知れない。それはみんな、君が水をこぼしてくれたからなんだ!」と言いました。』

 この話を聞いて、父の若き日を過ごした中国に行こうとしていた時に、こう言われたのを思い出したのです。『そんなに歳をとって、しかも外国に行って、どんな働きができるのか!』と言われたことをです。それでも、私は、家内の手をとって、成田から飛行機に乗って、香港にまず行きました。1週間、いろいろな国から来た20人ほどの方たちと、オリエンテーションを受けたのです。若い人たちばかりで、老人は私たちだけでした。

 それを終えて、私たちは、寝台列車で北京に向かいました。北京には、天津の語学学校の関係者が出迎えてくれていたのです。中国本土に着いて、私たちの仲間で、老人は私たちと、もう3組の夫婦がいるだけでした。『そんな歳で、何をしようとしてるのですか?』と言う目で、同邦の若い女性に見られたのです。辛辣なことを言われて、少しの戸惑いがなかったわけではありませんが、家内と私には、長く続けた仕事を辞め、後ろ髪を振り切って、何者かに押し出され、やって来た強い《決心》があったのです。

 水漏れのする桶の様な古びた私たちへの大方の予想は、『一年ほどで終えて、帰るだろう!』でしたが、あにはからんやで13年も、中国大陸で過ごすことができたのは、私たちにも奇跡の様でした。何人もの方たちが、『歳を取られているのに、中国の私たちのために来てくださって、本当にありがとうございます!』と言ってくださった激励があったからなのかも知れません。

 友人や家族や兄弟から頂いた餞別で、異国での滞在には限りがありましたが、華南の街に着いて間も無く、大学の日本語学科で、日本語教師として働く機会が与えられたのです。ずいぶん高い俸給が与えられ、学長に、『ずっと、ここで教えてください!』と言われたほどでした。それは2人で生活をするのに、ちょうど好いほどでした。滞在期間、援助をし続けてくださったみなさんがいたのも、感謝に尽きません。

 私たちの〈こぼした水〉が、花を咲かせたかどうか分かりません。生き続け、いえ生かされ続けていることによって、ありのままの《存在の意味》があることを証明してくれたのではないでしょうか。そう言えば、学生や若いみなさんの間に、家内と私がいて、一緒の時を過ごしたことに、彼らの感謝がありました。このところ自虐傾向が強過ぎる私ですので、在華時に、『私たちと一緒にいてくださってありがとうございます!』と、何度も言われたことも申し添え、ヒビの入った珈琲カップにも、色のあせてしまったTシャツにも、まだ務めがありそうです。

(〈フリー素材〉で映画「裸の島」の一場面です)

.