アジア圏訪問記

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 「写真」、ある街の中華ラーメン店の壁に、一葉の写真が貼られてあります。世界中探しても、そして、ここ日本で見つけようとしても、この手の写真はありません。選挙や宣伝のためではなく、ただ、ラーメンや中華料理を食べた記念に、その店で撮ってくれたものです。

 この街は国でもあり、80%以上の国民が、中華系ですから、写真は、公用語では picture、通用語では照片(zhaopian)と言うのでしょう、そうシンガポールなのです。かつて、「苦力(kuri)」と呼ばれて、中国大陸から出稼ぎでやって来た人たちが多く住み着いて、スラムの様な中国人街を形作ったそうです。

 ここでは英語なんか聞こえません、中国語、とくに福建省からの移民が多いので、闽南语(minnanyu)や福州話が飛び交っているのです。そんな中で、甘肃省(Gānsù Shěng)出身の方がやっている中華料理店で、その店の壁一面に、写真が貼られている中の一葉が、家内と娘と私、そして店長さんが写ったものなのです。

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 長女が贔屓(ひいき)にしている店で、人懐っこいので、友だちの様に店主ご夫妻と交わりを持っていました。英語でです。シンガポールでは、きっと一番の美味しい店で、店主が大陸の中央部の出身で、麺を手作業で伸ばして、伸ばしてを繰り返して細麺にする手延べの様子を、performance してくれるのです。中国でも、これほど美味しい「蘭州(兰州lanzhou)拉面(麺)」や餃子や他の料理は食べたことがありませんでした。

 学校が休みに入ると、娘が呼んでくれて何度も訪ねたのです。一度、市内を散策していた時に、家内が体調を崩して、救急車で運ばれて、国立病院で診てもらったこともあるのです。娘が納税者だからでしょうか、単に旅行の訪問者だからでしょうか、その治療費を請求されなかったのです。それで、すっかりこの国が気に入ってしまったのです。
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 もう一つは、中国語で、榴莲(liulian)と言うドリアンが美味しいのです。街中に、ドリアンだけを売る市場が、繁華街を外れた所にあって、山積みにされてあるのです。その中から、店の方が選んでくれて、独特のナタの様な包丁で割ってくれ、テーブルで食べさせてくれるのです。シンガポールでは獲れずに、タイからの輸入なのだそうで、新鮮で、しっかり熟していて食べ頃の物は、ほっぺが落ちるほど美味でした。

 匂いで嫌われる南洋の果物ですが、味は「果実の王様」で、家内もすっかり好物になってしまったほどでした。このシンガポールでは、公共交通に、これを持って乗れないように、法律で禁止されているのだそうです。

 赤道直下に位置しながら、暑さを感じないほど住み心地の良い街なので、また訪ねてみたいと思うのです。そう、蘭州面やリューレンの味に誘われてしまうからかも知れません。旧日本軍が、北の国境付近から自転車部隊で南下して攻め込んだことで有名です。その戦争被害の monument があって、ちょっと辛い思いもしたのです。

 アジア圏は、そう言った話が多いのですが、戦後は、植民支配を脱したアジア諸国は、日本人の謝罪を受け入れ、戦後の復興の様に驚かされて、経済躍進のモデルの様に思っていてくれるのです。

(ウイキペディアのチャイナタウン、蘭州拉麺、ドリアンです)

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義を愛し行う人を

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『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2章1節)』

 国政選挙、衆議院議員の選挙が、本日、10月27日に投票が行われます。何時も思うのは、アメリカの第三十九代のカーター大統領が、大統領に選ばれた時に、お母さまが、一つの聖書のことばを、息子のジミーに送ったことです。それが、次の聖句なのです。

『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(新改訳聖書 ミカ6章8節)』

 義に立って、義を行う政治家、誠実な心で政務あたり、謙遜に、世界と一国を治める神と共に歩むことを、このお母さまは息子に願ったのです。信仰者の母の助言を聞く政治家こそ、神が一国を治める者に求めている資質や思いや気構えなのです。カーター大統領は、その主任演説で、この聖書の箇所を引用しています。

 また、アメリカでも、大統領選挙が、来月早々、11月5日に行われます。これからの世界情勢にとっても、極めて重要な選挙になります。日米両国で行われる選挙で、ただに神を畏れ、神の御旨にかなった人材が選ばれる様にと願っております。私たちの持つ参政権の義務を果たそうと思う朝です。

(ウイキペディアのアポロ8号から撮った地球です)

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平和と平安を祈る

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 アメリカのWest coast のRainbow で、次女が送ってくれた写真です。そして家内の散歩の道にタワワに咲き、芳香を放っていた金木犀です。自然界は、香り高く、美しいのです。こんなに美しい地球の上で、人間だけが、どうしてこんなに争い合うのでしょうか。人と人、地域と地域、民族と民族、思想と思想、価値と価値の間に、いつも争いが見られます。

 「平和(平安)」を祈る様に、万物を創造なさった神が願っておいでです。心の中に平和が来ます様に、また、神の都である「エルサレム」の平和を祈ります。さらに住んでいる街、県都、国都、遣わされ街、そして子どもたちの住む街の「平安」を祈っています。そんな日の繰り返しの今なのです。

(ウイキペディアのエルサレム、Rain bow 、金木犀です)

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博多でなくだれを待つのか

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 「待合室」、昔々の物語で、大陸に渡るために、博多の駅で、連れの男性を待っていた婦人が、そこにいました。やり直しの人生を海を越えた地で始めようとしていた様です。ところが最終列車が着いても、待ち人は、そこにやって来る様子がありません。駅長さんが来て彼女に何か話しかけていました。不安の中で、木製の長椅子に座って待ち侘びる顔が大写しにされて、その映画は終わろうとしていました。

 実は、そこに来ようとする直前に、その男性は殺されてしまっていたのです。期待が裏切られ、大陸への夢敗れ、実に悲しいエンディングの場面のセピア色の待合室が、とても印象的でした。悲喜交交(ひきこもごも)、喜怒哀楽、さまざまな人生の場面があるのが、この待合室なのでしょう。

 これまで駅やバス停や港や空港や船着場のベンチに、私も座っていたことが、何度も何度もありました。出雲市駅、高尾駅、上野の何十倍もの広い上海紅橋駅、サンパウロの空港、アモイの港などなどの待合室で、一人ポツンと座っていた自分の姿が思い出されるのです。

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 もしかすると、人生の旅路のターミナル駅の待合室で、だれを、何を、何時かを座って待っているのが、自分の今なのかも知れません。今や乗換を待っている状況にあるに違いありません。どこから来て、どこにいくのでしょうか。

♬ 福音の汽車に乗ってる 天国行きにー(ポッポー)
罪の駅から出ーて もう戻らない

切符はいらない 主の救いがある それでただ行く(ポッポー)
福音の汽車に乗ってる 天国行きにー 🎶

 子育て中、教会学校で、私たちの子どもたちが思いっきり賛美していたのが、この歌でした。出発は「罪の駅」、行き先は「天国」、列車名は「福音」だとあります。罪が赦されて、神の子の身分をいただくと、この始発駅から乗車できるのです。乗車賃は「無料」なのです。先払い、代理払いと言った方が正しいでしょうか。親がではなく、救い主イエスさまが、十字架の上で払ってくださった、《血の代価》によって、その切符を握って、人は赦されるのです。

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 私たちの一番下の子が、『イエスさま、ありがとう!』と泣きながら祈った日がありました。もう今や四十代半ばで、体調不良の親父を気遣って、この日曜日の昼過ぎにやって来てくれたのです。新宿で、お菓子や干し芋をたくさん買って、それを手にぶら下げながらです。もう一つ、医療用ウオッチを持ってでした。いつもは、浅草名物の「草餅」持参なのです。父親同様に親を泣かせた子でしたが、彼の帰っていく姿を眺めながら、この歌を歌っていた日々を思い出したのです。

 二時間ほどいたでしょうか、「赦されること」とか、主の再臨が近い世界情勢とか、日本の罪の根源、日本政治の問題などを話していました。もう、この汽車に乗る準備ができている様です。新幹線やリニヤモーターカーではないのがいいですね。乗車準備は、「罪の悔い改め」のみです。それで、切符が発券されるのです。もう遠くから、汽笛が聞こえて来そうです。東武の新宿行き特急に乗るために帰って行く息子を、ベランダで、彼の母親がジッと見送っていました。

(ウイキペディアの待合所、D51機関車、Christian clip artsのイラストです)

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お米にまつわるお話

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 今秋、まだ真夏の様な暑さの中の米騒動の頃のことです。散歩道の田んぼに、稲穂を垂れて、収穫を待っていた稲を撮ったのが、この写真です。人の思惑一つで、米価が高騰していく現実に、人の浅はかな儲け主義、便乗主義を見て悲しくなりました。  

 実って首(こうべ)を垂れる、この稲の様に、人が謙遜であり、他者を思う心があったら、我欲を張ったりなさらないのでしょう。あの騒動の時にも、きちんと米俵、いえ米袋が並んでいたお店がありました。わが家では、無くなる寸前に、新米をいただき、スーパーの棚から米がなくなったのに気づいたのは、だいぶ経ってからでした。その新米がなくなる頃に、注文しておいた5キロ袋の県内産のお米が届いたのです。

 持て余すほどには持たない、丁度の分で生きてきたので、慌てることも、不足することもありませんでした。ただ、500円ほど米価が上がっていたのです。流通上の問題が原因なのでしょうか。急激な物価高をうんでしまう世相なのです。

 子どもの頃、米は俵に入って、米屋の店頭に積まれていました。ここ栃木の出の文学者の山本有三が、昭和18年(1943年)に、「米百俵」を戯曲として書き上げ、それが何年か前に、再注目されて、学校で教えられる様になったそうです。

 長岡藩が、戊辰戦争で、幕府軍に与(くみ)した結果、長岡の城下町は、長州藩の兵士たちに焼き払われてしまいます。食べるに事欠いた時、支藩の三根山藩から、「米百俵」の寄進がありました。藩の大参事であった小林虎次郎が願ったことがありました。次の様に、長岡市のサイトにあります。

『虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。」「この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。」

 教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲<米百俵>は大ベストセラーとなったが、時代は軍部の支配下にあり、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自主回収の憂き目を見た。

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 それから約30年後の昭和50年(1975)、長岡市が<米百俵 小林虎三郎の思想>を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。また、昭和54年(1979)と平成13年の2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。』

 お米もお金も、どう用いるかによって、その結果は歴然とします。そんな長岡からは、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、そして海軍の山本五十六元帥などの日本を背負った逸材が輩出されているそうです。

『わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。 それらは、あなたのたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。(新改訳聖書 箴言3章21~22節)』

『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4章23節)』

 知性の豊かさと思慮深さとは、「いのち」と深く関わっているので、それに磨きをかけるのを怠ってはいけないと、聖書は言います。霊的な、信仰上のことだけを求めて、知性を軽視する様には、聖書は言ってません。また感情的になってしまって、思慮に欠けてもいけません。心を、精一杯見張り、見守ることも忘れてはいけない様です。

 それに、この長岡は、花火で有名でもあります。いつか行こうと思いつつも、まだ一度も訪ねたことがありません。河井継之助という人材をうんだ街に、何か惹かれるものがあります。越後は、日本有数の米所で、美味しいご飯が食べられます。

(ウイキペディアの江戸時代の長岡を描いた錦絵です)

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梲を上げると男なのか

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 「梲(うだつ、以前は卯建と書いていたそうです)」、火災が起こった時に、延焼、類焼などを防ぐための防火壁で、隣家の境目に、これを置いています。この梲を持っている家に住めるのは、街中の商家などの富裕層であって、江戸の街の町民の熊さんやはっさんでは、この梲のある家には、どうも住むことは叶いませんでした。

 もし懸命に働いて、資産を作ることができるなら、借家ではなく、持ち家を建てて住めるのです。そうすると火事が起きた時に、延焼を防げる、この梲を上げることができきて、富裕層の仲間入りができるわけです。それで、そうできないのを、『梲が上がらない男!』と言ったのだそうです。

『わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。  わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(新改訳聖書 ヨハネ14章2~3節)』

 梲どころか、家を持つこともできないままで、八十路を迎えようとしている今、世間に対しては肩身が狭そうにしているとお思いでしょうか。どっこい、「永遠の住まい」があると約束されているわが身ですから、この街の一等地の “Tochigi Hills” に家を持つよりも、比べられないほどいいかなって思っているのです。

 ただ、中国の友人が、海辺の丘の中腹に、大きな墓をお持ちで、ご両親を埋葬されておいでです。お母さまが亡くなる前に、家内が、訪ねては手を握り合いながらお交わりをし、背中をさすってあげながら、お祈りもさせていただいていました。お母さまが亡くなられて、その故郷で行われた教会式の葬儀に、私たちも列席させていただき、お話もさせていただき、埋葬式にも参加させていただいたのです。

 その墓には、埋葬のスペースが広くあるので、そこに家内と私をお入れくださると言ってくださっているのです。ところが、私が召されたら、葬儀不要、墓不要、埋葬なしで、遺灰を、この今の家の脇を流れる川に流して欲しいと、家内と子どもたちに、十日ほど前に、文書でお願いしてしまいました。あの大海の見える丘のお墓には、埋葬はされそうにないと思います。

 そんなお交わりのある夫妻が、東京に、住まいと支社の事務所を兼ねた家を持っていて、事業の展開の準備をしておいでです。先日も、中国から帰られて、息子さんの運転で訪ねてくれました。漢方の薬や食べ物をお持ちになってでした。もう何度、おいでくださったことでしょうか。大きな愛を示し続けてくれています。

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 この方の会社のパンやケーキを作る工場で、従業員を交えて、週一回で聖書研究会がありました。聖書からお話をして、とても素敵な時を過ごしたのです。そこに参加していた若いご婦人が、帰国するまで、何度も何度も、お米を担いでは訪ねてくださって、一緒に祈ったのです。長江のそばの村から出稼ぎで来ておられたご婦人でした。また、ケーキやあんぱんや日式食パンまで、家に届けてくれたのです。

 中国のみなさんは、私たちが、家も持っていないのに、彼らの国と街に来てくれていることに驚いていました。梲の上がらない、いっぱしの男でなさそうな私を、軽蔑することはなかったのです。家を持っていたら、きっとどこにも動けなかったかも知れませんね。そのおかげで、13年も、国外で過ごすことができ、多くのみなさんと信仰を励まし合えたのは、格別な祝福でした。そんな私たちを物心両面で、今もみなさんが支えていてくれているのです。こんな特権に預かれて、幸せを噛み締めているところです。

 三方を見渡せるアパートに住んでいて、静かですし、冬は暖かく、真夏でも風が吹き渡りますから、住み心地が好いのです。病院と子どもたちから遠いのが玉に瑕(きず)ですが、なにやら、通院回数が増えてきて、歳を重ねた私たち両親のことを、四人の子どもたちが話し合っているようです。今の境遇に感謝しなくてはと思うことしきりです。

(ウイキペディアの岐阜の街の「梲」、「あんぱん」です)

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新しいエルサレムの到来を

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 『住めば都!』、昔の人は、そう言ったのですが、確かに昔の人だけではなく、二十一世紀に生きる私も実感して、そう言います。この6年ほどの間に、この街で、友人までできるほどになって、大いに喜んでいる今なのです。

 まさに、『あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。(新改訳聖書 箴言27章10節)』で、兄弟と同じような隣人に恵まれて、この街で過ごすことができています。

 この春には、年老いた私たち夫婦を連れ出して、こちらで出会ったご夫妻が、桜見物をさせてくださったのです。暑い時には、冷かぼちゃスープ、煮物、ご両親から送られてきた阿蘇の漬物、野菜ご飯などを届けてくださったのです。その様な隣街で牧会されるご夫妻もいてくださるのです。私たちの子どもたちの世代の方で、感謝ばかりです。

 家内の散歩で出会った近所のご婦人は、鮭の切り身やお刺身や果物などを時々届けてくださいます。また川向こうの隣人で、私と同病で治療中のご主人は、チェロ演奏などのビデオ鑑賞やお茶に招いて下るったのです。ついこの間も、奥さまが煮た黒豆を美味しく炊いて届けてくださったり、お嬢さんの所から送られてきたリンゴなどをいただくこともあり、先日は、弟さんが贈ってくれたという千疋屋の果物をご馳走してくださいました。

 そればかりではありません。先日は、中国で出会って、その会社の工場で、聖書研究の集いを、長くさせていただいた夫妻と息子さんが、2人の近所のご婦人たち同伴で訪ねてくれました。今は東京に住んでいて、向こうと行き来しておいでです。日本での事業展開も進めておいでなのです。そんな忙しい中、時間をとって、ここをまた訪ねてくれました。中国の工場で作った月餅や、家内の体に良い漢方の食べ物や茶葉などを、溢れるほどに、息子さんの運転の車で届けてくれました。

 受けるばかりで、お昼をご馳走しようと、評判のレストランに行きましたら、食事中に支払いを、息子さんがしてしまいました。このご家族が、東京で出会った同じ中国人のご婦人方もご一緒でした。これまで、ご主人やご家族も訪ねてくださってもいるのです。闘病している家内を励ますために、お見舞いのためにです。驚いてしまうような愛を、また示してくださったのです。

 年取った夫婦が、自分たちの国のために来てくれたことへの感謝があるのだそうです。「日本鬼子(鬼のように悪どいことを戦時下にした日本人)」と言う中国人の多い中、そんなリスペクトを示してくださるのです。この6年間、経済的にも、驚くほどに助けていただいて、身に余る愛に、実に溺れそうです。

 2018年の暮れに、体調を崩した家内が、若い友人の運転で、近くにあった省立医院の新院に行き、そこで診察してもらったのです。もっと精密なMRIにある本院での診察を勧められ、年明けの2019年の元旦に、華南の街の省立医院に参りました。そこで即入院になり、治療が開始されたのです。その治療を担当してくださった主治医が、『すぐ帰国して、治療を日本の病院でなさってください!』と勧めてくれ、そのために緊急帰国しなくてはならなくなりました。慌ただしい中、入院治療費も帰りの飛行機代も、みんな支払ってくださっていました。この方の家でも週ごとに聖書研究会を続けました。

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 帰国にあたって、どこの病院にするか決めかねて、兄弟たちに相談しましたが見当がつきませんでした。ところが、前年にお邪魔して、泊めていただいたのが、栃木市の知人の持ち家で、ご両親が長く住んでおられ、隣で商家を営んでいらっしゃる息子さんのお店の敷地内にある家が、空き家になっているのを思い出して、そこに滞在さでていただけるか相談しましたら、『どうぞ!』と言ってくださったのです。

 実は、その前年の帰国時に、この街を訪ねていたのです。その時、その方のお孫さんが入院された病院のことを聞いていましたし、その大きく成長したお嬢さんにも会っていたのです。それを思い出して、相談しましたら、その大学病院を推薦されたのです。

 あちこち問い合わせるよりも、ここだとの思いがあって、帰国して、その足で、こちらに来たのです。お邪魔した家は、寝具までクリーンングしていてくださり、泊まる準備をしていてくださっていたのです。その親切には感謝が尽きません。

 翌日、息子の車で、予約なしで大学病院の総合診察科で診ていただきましたら、緊急入院が決まり、呼吸器アレルギー科の病棟での入院治療になったのです。その対応の良さに驚かされました。結局、このご夫妻のご好意にあまえて、そこに、まず私が住ませて頂いたのです。

 治療を3ヶ月間続けた後、退院になり、どこの病院で緩和治療をするかを担当看護師さんと話し合いましたら、栃木メディカルセンター栃の木に空きがあるということで退院したのです。もう痛み止めの治療、ターミナルケアーを継続するしかなかったので、待機していたのです。実は、家内には痛みはなかったのですが、医療麻薬を飲む様になっていました

 入院中、担当の看護師さんが、家内の身体や足を洗ってくださったり、じつに懇切な看護、同僚から陰口をきかれても、課せられた以上の優しいお世話をしてくださったのです。それは、宝石のような家内の入院生活の経験だったそうです。ときどき病棟に、この方を訪ねて、チョコレートを届けて家内は感謝をしていました。子どもたち家族が見舞いに来た時も、インフルエンザの大流行中にも関わらず、面会の機会を設けてくださったのです。

 ところが家にいる間に、そこを終(つい)の病院にするために転院するのではなく、大学病院で続けて通院治療することになったのです。その間に、驚くほどに病状が好転していきました。キイトルーダーと言う新薬の投与が40回ほど続いて、家内の病巣の形骸が残るだけで、患部が消えてしまったのです。今では、3ヶ月ごとの検査の通院がなされています。これも驚いたままです

 その間に、宇都宮の“ メディカル・カフェ“で出会った知人の伝手(つて)で、漢方専門医を紹介してくもらったのです。この医師が、月一で、長く投与された薬の後遺症への対処を開始してくださって、今日に至っています。

 着の身着のままで帰国した私たちに、生活するための家財道具一式、鍋釜茶碗、箸にいたるまでを、この夫妻の息子さん夫妻が、みんな下さって、新生活を始めたのです。家もなけれれば何一つない私たちを、そんな風に支えてくださったのです。華南の教会のみなさんも、ずっと変わることなく支え続けてくださっているのです。

 また兄や弟、子どもたちに支えられ、それで、この6年間生活してこれたのです。今の住まいの家賃などを考え、もう少し安い家賃の家を探したり、これからを、ちょっと思い煩っていましたら、子どもたちが、『心配しないで!』と言ってくれました。

 どのような時も、心配をよそに、どうにかなってきた私たちなのです。いえ、どうにかしてくださる神さまがいてくださり、友や隣人や子や兄弟がいて、万端が感謝なのです。

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 やがて、「新しいエルサレム」から天から下ってくる日があると、聖書は言います。

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(新改訳聖書 黙示録21章1~4節)』

 その時は、死、悲しみ、叫び、苦しみのない時なのです。それまでは、それらのことがあり続けますが、終わりがあり、頬の涙が、すっかりぬぐい取られる日が来るのです。そして、新しい神の都の住民として、そこに永遠に住むことができると約束されています。感謝すべきかな、であります。

(”Christian clip arts”に向かわれるイエスさま、ベツレヘムの星という花、ウイキペディアのエルサレムの旧市街です)

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知覧の地で過ごした若者たちに

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 戦時下、戦意高揚のために、多くの軍歌が作られました。聴かせたり、歌ったりして、国の守り手を生み出そうとしたのでしょうか。その中に、「荒鷲の歌(東辰三作詞作曲)」が、1938年に誕生しました。

1.見たか銀翼この勇姿
日本男児が精こめて
作つて育てたわが愛機
空の護りは引受けた
来るなら来てみろ赤蜻蛉
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

2.誰が付けたか荒鷲の
名にも恥ぢないこの力
霧も嵐もなんのその
重い爆弾抱へこみ
南京ぐらゐは一またぎ
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

3.金波銀波の海越えて
雲らぬ月こそわが心
正義の日本知つたかと
今宵また飛ぶ荒鷲よ
御苦労しつかり頼んだぜ
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

4.翼に日の丸乗り組みは
大和魂の持ち主だ
敵機はあらましつぶしたが
あるなら出てこいおかはりこい
プロペラばかりか腕もなる
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

 家内の親友で、青年期を、同じ学校で出会って、共に数年を過ごした級友と、手紙のやり取りがあるのです。一年間社会人として働いた後に、保母の資格を得るために入学した学校で二年間学び、それぞれ附属の保育園と幼稚園で、しばらく働いた同僚でもあった様です。

 海辺の教会で、ご主人の牧会を支えておいででした。そのご主人から、本が贈られてきたことがありました。多くの本を失ったのですが、ドイツの神学者の書いた本で、座右の銘になって、どこに行くにも持ち歩いてきた一冊なのです。その感謝を込めて、その教会を訪ねたことがありました。近くのホテルの宿泊券をいただいて、泊まり、よい交わりを持ったのです。

 それ以前に、私たちのいた教会に、その親友が、家内を訪ねて来たのです。子育ての後期だったでしょうか、牧師夫人として過ごして来られ、同じ様な奉仕の中にあった親友に会いたくなったのでしょうか。山の狭間にある、日帰り入浴にお連れしたのです。溢れる様な自然で、今でも一日過ごしたいと思わされる温泉で、うどんを食べて、2人は楽しそうに談笑していました。女性同士の友情の姿を微笑ましく眺めたのです。

 私たちは、その教会を退いて、隣国に出かけている間、しばらく音信が途絶えていたのですが、今年になってからでしょうか、その交流が再び始められています。直近の便りの中に、一首の和歌がありました。

知覧といふ言葉聞くたびに母想う「一度行きたい」言いをりしこと

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 知覧は、鹿児島にある町で、戦争中、ここが神風特攻隊の基地だったのです。多くの若者が、ここから、開聞岳(かいもんだけ)に向かって飛び立って、沖縄方面に向かった航空発進基地があった町でした。439 名の特攻死を数えた基地でした。

 今は、そこに「知覧平和会館」があります。特攻で亡くなったみなさんの写真や手紙が掲出されていて、多くの見学者がやって来るのだそうです。

 私は、中学生時代に、かつての予科練の年齢の頃です。変にこだわって、特攻隊員に憧れた時期があったのです。彼らを鼓舞した軍歌を、よく歌っていたでしょうか。時代錯誤の感があって、異様だった思春期を送ってしまいました。

 父が責任者で、特攻機に装備されていた防弾ガラスの原料となる石英を、山の麓で掘り出して、京浜のガラス工場で製造され、横須賀にあった、「海軍航空技術廠」の工場に送られて、「桜花」と呼ばれた特攻機などが組み立てられていたのだそうです。

 これは、私のたくましい想像力、創作力によるのですが、いえ憶測に過ぎないかも知れません。「コンブ」、家内が言う渾名なのですが、コンブは一人っ子、家内と同年生まれの同年齢、一人の夫の妻、四人の子どもたちの母なのです。家内の父親は兵隊さんにはならなかったのですが、きっとコンブのお父さんは、兵隊になって、戦死されていたのでしょう。兄弟姉妹のない一人っ子の母子家庭で育った一人っ子だったのです。それゆえに厳しい戦後を生きたのでしょう。

 でもそれを跳ね返す様に快活明朗で、級友たちみんなを笑わせたり、悪戯らをしていた、クラスの人気者だった様です。それでも、学生寮の家内の部屋にやって来ては、『五分間だけ泣かせて!』と言っては、思いっきり泣いて、さっぱりして、『ありがとう!』と言って、出ていったのだそうです。すごいストレス解消法で、驚かされました。

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 身の上話は秘して、お父さんのことや家庭のことは話さなかったそうです。そんな親友のお母さまを思い出して、語った言葉を短歌に詠んだわけです。知覧に行きたい想いの背後にお父さんがおいでだったのでしょう。知覧航空隊から飛び立って、帰らなかった特攻兵だったのではないかと想像したのです。

 私たちの世代のお母さんたちは、戦争のことや、戦後の苦労のことなどを話したがらないのですが、「知覧」をあの世代のご婦人が語ると言うのは、その短歌は、封印していたことごとの封を切ったればこその思いだったのではないでしょうか。

 小学校の仲良しの家は、お母さんと彼だけで、酒屋を営んでいました。お父さんの影はありませんでした。また。高校の級友の家に泊まったことがありました。客間の壁に、将校の軍帽軍服姿の写真が掲げてありました。彼も独りっ子の母子家庭で育っていました。自分以上の悪戯小僧でしたが、男って面倒なのか、そうちょくちょく会うこともなく過ごしてしまいました。また、大分の出身の同級生がいました。彼のお父さんは、山西省に残留した旧陸軍の将校で、戦争直後、残務を上官に託され、彼の地で亡くなっています。

 戦争の影を帯びながら、戦争終結後、物のない時代、経済の急成長の時代を経て、今や老いを迎えている、彼らの老い仲間です。キナ臭くて、国際情勢の怪しい現代を、どんな思いで生きていることでしょうか。

(ウイキペディアの南九州市知覧の市花の桜、特攻機の隼、知覧茶の茶畑です)

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