ちょうど今頃でした

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  『外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ(箴言2427節)』

 「愚直の努力」、しなければならないことを、手を抜くことなく、マニュアル通りに、基本に従って、繰り返していく職人気質を、そう言うのだと思います。頑固なおじさんは、見習い工の時に、手をとって教えられることなどありませんでしたから、先輩たちの仕事の仕方を盗み取ったのだそうです。そうして身につけた手法を、踏襲して堅持するのです。若い時に叩き込まれたことを、疑うことなく1つのことにこだわりながら、すべきことをして来たのです。  

 鍋の穴をふさぐ、「鋳掛屋」のおじさんが、子どもの頃に何ヶ月かに一度、自転車で回って来ました。『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言われませんでした。興味津々に覗き込んでいるわれわれに、仕事振りを見させてくれたのです。世の中で鋳掛屋の職人なんてたいしたことはないかも知れません。

 でも鍋が、どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、実に重宝だったのです。それにしても随分と安い仕事代だったのを覚えています。それでも、仕事に誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれ小僧に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。

 そう言った職人さんとか、職工さんが、製造業でも加工業でも、どこにも、どの部門にもいました。私が、学校に行っていました頃、毎年夏に、ある牛乳工場でアルバイトを2ヶ月ほどさせていただきました。製造のラインでも、出来上がった製品のビンの入った箱を、大きな冷蔵室で積むのです。それを出荷伝票に従って出庫もしていました。

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 実に頑固なおじさんが、どこにも必ずいたのです。『もっと工夫すれば、楽が出来るのに!』と若くて生意気なわれわれは思ったものです。ところが、決められたとおりにすることを、彼らは要求するのです。言われたことに『はい!』と従う時、彼らはニコニコと微笑んで、『うん、うん!』とうなずきながら、われわれの仕事振りを眺めていました。

 一日の仕事が終わると、明日の作業ために、時間をかけて掃除をし、また準備をするのです。目に見えない作業を繰り返しするわけです。新製品を開発する研究部門が、学歴や実績のある人たちによってなされている背後で、脚光を浴びない裏方がいて、どうでも良いように思われる愚直な作業を続けていたのです。

それがあって、社会で評価される製品が流通して行くわけです。奄美大島から出て来たり、秋田弁をしゃべるお兄さんたちの中に混じって、仕事をして、多くのことを学ばせてもらったのです。つまらないように見える仕事を、意味あるものとするプロ意識の中に見えたのが、この「愚直の努力」でした。若い人の『無駄だ。もっと省力化を図らねば!』と言った考え方に、それは警鐘を鳴らしている生き方、仕事の仕方に違いないのです。

 『漫才の天才!』と言われた人に、横山やすしがいました。彼が、自分と同年であった事を知った時から、彼の生き方に強い関心を向けたのです。同じ時代の流れや風の中を、生きて来た者として、とても親近感が湧いて来たからです。『ほんまに稽古嫌いだった!』と、相方の西川きよしが、そう話しているのを聞いたことがありました。

 1つの演目を演じるのに、その稽古嫌いのやすしをなだめすかして、稽古に連れ出したのは、きよしでした。なんと40回も稽古をしていたそうです。アドリブだとばかり思っていたのに、アドリブを入れるためには、積まれた山のような稽古があることを知らされて、一朝一夕には名人には、なれないのだと言うことを知らされたわけです。やすしの破天荒な生き方は理解できるのですが、自分の仕事に対して、いやいやながらでもし続けた、見えない裏の部分があったのだと言うことを知らされるわけです。

 冷蔵庫で牛乳の箱を積むアルバイトの合間に、誰かが、裕次郎の「赤いハンカチ」を歌っていました。60年近く前の今頃の季節で、ヒット曲だったのです。バイトが終わったら、北海道にでも行ってみたいような漂泊の思いに誘われたのが、昨日のことのようにま懐かしく思い出されます。
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キリストの教会の誕生

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 『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ1820節)』

 主イエスさまの弟子たちが、エルサレムの都で、『父がわたしの何よって、与える約束の聖霊を待ちなさい!』とのおことばに従って待っていました。やがて,ユダヤ恒例の祝祭の一つ「五旬節(pentēkostē七週の祭り)」の祭りがやってきたのです。その日、およそ120人ほどの人たちが、一軒の家で祈りをしていました。すると突然,天から激しい風が吹いて来るような響きが起こって、家全体に響き渡ったのです。

 そうしますと、炎のような分かれた舌が現れて、そこにいた一人一人に留まったのです。すると、みなが聖霊に満たされて、御霊が話させてくださる通りに、他国のことばで話し出したのです。彼らは口々に、『神の大いなるみわざを語った』と、記されててあります。それは弱さを覚える者を強める、約束の「力の付与」でした。

 ちょうど着物を着るように,力を着せられた120人ほどの人々によって、「キリストの教会」が、その日誕生したのです。その様子を,多くの人々が奇異なものを見るようにして眺めていました。驚き惑っている彼らは、『いったいこれはどうしたことか?』と言い始めます。

 まるで葡萄酒に酔っているように見えたのです。そこでペテロが,他の11人とともに立って、大きな声で説明を始めたのです。

 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』(使徒21721節)』

 この旧約聖書の「ヨエル書」のみことばを引用して、預言されたことの成就だと話したのです。その説明に耳を傾けていた人たちには、心を刺されて、『私たちは、どうしたらよいでしょうか。』と言うのです。それに応えて、ペテロが、『そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒238節)』と語ると、そのことばを受け入れた者たちは、バプテスマを受けます。

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 その五旬節の祭りの時に、『三千人ほどが弟子に加えられた。』のです。その信仰者たちは、使徒たちの教えを固く守り、交わりをし、パンを裂き(聖餐に預かったのです)、祈りをしていきます。この人たちを核にして,毎日救われる人たちが、教会に加えられていくのです。

 「キリストの教会の誕生」を、聖書はそう記しています。それは、教会にとっては、まさに「晴れの日」でした。間も無くすると、教会に「曇りの日」、「嵐の日」が訪れてきます。エルサレムの街の旧勢力のユダヤ教徒からの迫害が始まるのです。

教会の内側にも、主の御霊を試みる者が出てきたり、内部からの苦情、さらには殉教者も出てきました。そのような嵐の中で、キリストの教会は、主イエスさまがなさったような「奇跡」も行うのです。手を置いて祈られた者たちが、病を癒やされ、悪霊に支配されていた人たちが解放されていきます。その結果、主の弟子たちは日増しに加えられていくのです。

 やがて、激しい迫害が教会に襲いかかってきて、群れが散らされてしまいます。ところがユダヤやサマリヤに散らされていく中で、彼らは、『・・・みことばを宣べ伝えながら巡り歩いた(84節)』のです。そのエルサレムの教会の執事であったピリポも散らされ、サマリヤの街に行きます。彼も、そこで、『・・・キリストを宣べ伝えた(8節)』と記されてあります。ピリポは、「しるし」を行い、汚れた霊につかれた人を解放し、中風の人を癒すのです。それで、『町に大きな喜びが起こった』と記録されています。

 今日、世界中に、「キリストの教会」があります。ギリシャ語の「エクレシアκκλησία=国のために召集された集会)」の訳語で、「人々の集い」を意味していいます。「教える会」とは呼ばないで、ある集まりは、「集会」と呼ばれています。訳語としては、その方が原語の意味をよく体現しているからです。ウクライナの国にも、多くのクリスチャンがいて、「キリストの教会」があり、ペンテコステ系の教会が最も多く、世界中に多くの宣教師が送り出されています。戦火の中でさえも、互いを励まし合うために、ある教会では礼拝を守っています。

(“ キリスト教クリップアート“ による「ペンテコステ」です)

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岡山県

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 学校を出たての初めての職場で働いていた時,出張が多くありました。岡山のどこへ行ったのか、記憶がないのですが,その頃,母が入院していたのです。その母のために,旧国鉄の岡山駅前の,果物屋さんで,一箱《一万円》の「マスカット(Muscat of Alexandria /葡萄)」を買ったことは覚えているのです。

 『お母様の手術の結果、卵巣にガンが見つかって、摘出しましたが、半年の寿命です!』、父に変わって行った病院の主治医が、わたしに、そう告げていたのです。闘病中の母を元気付けたくて,当時、初任給を25000円もらっていて,2年目ほどでしたから,結構の値段でした。でも出張費もあったりで,母を喜ばせたかったのです。この県の県庁所在地の岡山市には,市の歌があります。市民が自分の街を愛する歌なのです。

桃の咲くころ あなたと出会い
熟れたぶどうを あなたと摘んだ
さやかにうつろう 季節の彩(いろ)を
川は浮かべて 流れゆく
みんなのこころに かようまち
ふるさと岡山 わたしの岡山

風も唄うよ 歴史の歌を
花のしたかげ 歩いた小径
ときめくあの日の 思い出抱いて
今日もやさしい 吉備の国
みんなのこころに のこるまち   
ふるさと岡山 わたしの岡山

明日へつないだ ほのかな夢も
かなう気がする 夕映えの瀬戸
ゆきかう船にも 願いをこめて
せめて想いを つたえたい
みんなのこころに 生きるまち   
ふるさと岡山 わたしの岡山

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 特産の葡萄は、《晴れの国》の nickname の岡山市の誇りだったのが分かります。生まれて,子ども時代を過ごした山梨県も、「葡萄県」で,父の親しい方が、果物屋さんをしていた関係で、季節になると、いつもわが家には葡萄が届けられていました。デラウエアとかキャンベルとか甲州種の葡萄とかだったでしょうか。その岡山県は、葡萄生産では、当時は全国一位、二位の生産を誇っていたのです。

 この県との関わりですと、そのくらいしかないでしょうか。華南の街にいました時に,家内とお交わりがあったご婦人が、岡山県の津山の出身で、東京で出会った中国の方と結婚しておいででした。

 そのお子さんが、今は都内の有名大学に入学されておいでです。最近はご連絡がないのですが、わたしと家内の入院中に、大変にお世話をいただいたり、ご心配くださった方たちです。気候が温暖な瀬戸内気候に育って、穏やかで、優しいお母さんでした。息子さんは、怪我の手術の後に、華南の街に帰ってきたわたしに、日本で買って帰った、自分の肝油ドロップを、回復を願ってプレゼントしてくれた高校生でした。

 さて、律令制のもとでは、吉備国(きびのくに)と呼ばれ、備前、備中、備後と区分けがされていました。県都は岡山市、人口は184万人、県花は桃の花、県木はアカマツ、県鳥は雉(きじ)です。温暖な気候の県でしょうか、そのせいで、人も穏やかな県民性のようです。

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 倉敷の「大原美術館」に、車で出掛けたこともありました。大原孫三郎が、巨額の投資をして建てた美術館で、公立でないものとしては、その収蔵品の量も質も、極めて貴重だとされています。絵を描かない自分ですが、時間をさいてのの見学でした。岡山市に知人がいて、そこに泊めていただいたのです。

 海辺は漁港も多く、内陸では農業や果物生産が盛んで、住んでみたい県の一つです。日本で初めての「孤児院」が、宮崎(日向)の人ですが,石井十次によって,岡山に開院されています。十次は、早く召されてしまいましたが,日本の社会に対してなされた、クリスチャンとして素晴らしい愛の奉仕、事業は特筆すべきことでありました。あの大原孫三郎は、十次の働きを陰になり日向になって援助していました。

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「変える」のか「変わる」のか

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 『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ122節)』

 カナダの精神科医のエリック・バーン(Eric Berne/1910510-1970715日)は、変えられないものがあるが、変えられるものもあることを言っています。『他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。』と、人の持っている可能性を支持しています。

 ありのままの自分が変えられない青年期のもがきの轆轤(ろくろ)の中に、自分が飲み込まれそうにしていたのを覚えています。自分が変えられないのなら、〈相手〉、〈世の中〉、〈社会〉を変革すればいいと言って、学生運動が、勢いづこうとしていた時代の少し前に、学校にいました。

 思想闘争が暴力を用いた闘争に変わっていき、過激になり、世に中を転覆させようと目論んだのです.あの頃のリーダーが捕らえられ、刑務所送りになりました。そして年月が経って、先ごろ、刑期を終えて出所したと、ニュースが伝えていました。

 浅間山荘かどこかのアジトに寝ていた仲間が、布団の中から、何か物だとをとってもらおうとしたのですが、相手の逆鱗に触れて、『ブルジョア的なことを言いやがって!』と言われて、リンチ死をしたニュースを聞いて、結局は、仲間内の争いに行き着いたのだと思わされたのです。

 あの闘争の最前線、矢面に立てなくて、人影に隠れて、補給係をしていた男たちが、平和な時代になって、『国を変えなくちゃあ!』と、政治家になって、ある時期は、日本の政界を動かしていた時期がありました。変わるわけがなかったのです。

 結局は、人が、自分が変わらなければ、何も変わらないのです。律法を学んだ優秀な若き学徒、将来を嘱望された時代を担う者、サウロの心にたぎっていたのは、憎悪と殺意でした。キリストの弟子たちの信仰の間違いを糾弾し、神への不敬を警告し、ついには滅ぼそうとしたのです。彼らは、社会を混乱に導く動乱者だと言って、捕らえて殺そうとしていたのです。それが神への忠誠であり、従順だと思っていたのです。

 ところが「復活のキリスト」と、ダマスコへの途上で出会って、『彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。 (使徒94節)』のです。これが彼の一大転機となって、「パウロ」と改名され、聖霊に満たされ、「使徒」の務めを受けて、小アジアの諸地方に、「キリストの教会」を建てて行くほどになってしまいます。神のみ手、神の主導によって、強引に変えられたというべきでしょうか。彼は、やがてキリストのために殉教していくのです。

 迫害者が、熱烈な伝道者に変えられたパウロが、「心の一新」による自己変革を勧めたのです。自分の考えに固執することをやめ、「新しい考え」に生きることなのです。新しい価値観を持って生きることです。悪しき結果をもたらすような決心や計画を捨てて、人にいのちや希望や喜びを与えるような生き方に、舵を切ることです。

 それは、《自分を変える!》という「決心」、方向転換への「決心」以外には出来ません。真性の価値観の上に立つ決心すると、心の中に戦いも起こります。多くの人が、諦めずに、し続けたのです。この世のことに迎合しないでいき、なお変人にならないことです.正しい動機で生きるなら、どんな結果があっても得心できるからです。

 パウロの迫害者の過去は、過去のままですが、自らを変えて、溌剌として生き抜いた人でした。地上の栄冠を得ることはありませんでしたが、神から頂く栄冠を目指して、どんな困苦にも耐えて、この地上の走るべき馳せ場を走り抜いたのです。

 パウロの迫害者の過去は、過去のままですが、自らを変えて、溌剌として生き抜いた人でした。いえ、神に変えられて生きた人だったのです。

“ Christian  clip arts ” の「パウロとシラスの獄中賛美」です)

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生きているっていいなあ!

 

 

 こんなに違うものかと、この違いはなんだろうかと、しばし思ってしまいました。昨日のyoutube のニュースで、アメリカ大統領のジョー・バイデン氏が、cycling を楽しんでいた時に、乗っていた自転車ごと倒れて、secret  service の助けで起き上がった様子を、ニュースカメラマンが撮影していて、全世界の注目を浴びていたのです。

 見まもっていた支持者たちが、大変心配してその成り行きを見ていたのです。でも、無事に立ち上がったら、みなさんからの大きな拍手を受けておいででした。重責を担う、間もなく、中国の指導者と hybrid 会議をされる予定があっての無事を、世界中がホッと胸を撫で下ろしたわけです。

 二週間ほど前、古くなった散歩用の靴を買いに、workman に出かけた時に、このわたしも自転車から転倒したのです。交差点の脇の歩道に登ろうとして、転倒してしまったのです。まさに天を仰ぐようにして倒れてしまったわけです。段差があって、そこを越えようとして、ペダルをこいだのですが、いかんせん力足らずで、止まった状態で倒れてしまったのです。

 私には、支持者が見まもるなんてことはありませんし、自分の靴を自転車で買いに行く老人なんて、物の数ではないわけです。倒れようが大怪我をしようが、関心を示してくれるのは、わたしを「おともだち」にしてくれている小学2年になった女の子と家内くらいしかいません。

 原付バイクに乗っていた息子ほどの方が、『だいじょうぶですか?』と二度ほど、心配して声を掛けてくれました。天を見上げた状態から、『だいじょうぶです!』を聞いて、わたしが立ち上がったのを見て、去っていかれました。もし私が、日本の首相だったら、百人くらいの報道陣やニュースカメラマンや支持者のみなさんが近寄ったり、心配の声をかけてくれたことでしょうか。

 〈ちょっと恥ずかしい体験〉を、同じ程の年齢のジョーも、無冠無名のわたしもしたのですが、この注目度の違いはなんなのでしょうか。その日の夕方には、世界のニュースになった彼と、自分で言わなければだれも知らない、同じ自転車転倒事故でした。わたしの〈恥体験〉は、二、三人しかでしたし、後になって顛末を聞かされた家内だけの知る一件でした。やはり、その同じ転倒仲間の違いは歴然で、雲泥の差があったのでした。

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 一組の老夫婦が、アフリカで長く宣教活動をして、帰国のために乗った船に、時の大統領一行がいました。大統領は、アフリカの原野で狩猟の休暇の旅を終えての帰国でした。アメリカの港に着いた時には、大統領を迎える為の政府関係者や支持者や大報道陣のヤンヤの喝采と歓迎がありました。一方、老宣教師を出迎えてくれた人は、だれ一人ありませんでした。宿に着いた時に、その〈違い〉はなんなのかと、彼は思って、ご夫人に、自分の心の思いを漏らしたのです。奥さまは、『祈られたらどうでしょうか。』と言われたそうです。

 これからの生活のために仕事も探さなければならない老身でした。その晩、彼は、祈りつつ、夢を見ます。夢に、主イエスさまが出て来られて、次のように語りかけるのです。『あなたは、まだ帰っていません!』とです。長い宣教の年月を終え、懐かしい生まれた祖国に帰って来た、孤寂やる方のない宣教師に、そう語るではないですか。それで彼は、天国への望みを抱いて、第二でしょうか、第三でしょうか、それを生きていく決心をして、すっくと立ち上がるのです。

 そんな以前聞いた話を思い出した朝です。歩道に背中を当てて、天を見上げて感じたのは、怪我のなかった身の無事で、それを感謝したのです。20年ほど前も、同じような転倒事故をして、右肩の腱盤断裂の怪我で、半年ほど手術と入院とリハビリをしていましたから、『また!』の中で守られたのです。そんな傷心のわたしを、一家族が、父の日の祝いのために、ラコステのポロシャツと、お嬢さんの手作りの花瓶、美味しい寿司のランチで祝ってくださったのです。ちょっとの自己憐憫の歩道から立ち上がったわたしには、『生きているっていいなあ!』の朝なのです。

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反骨漢

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 「反骨漢(はんこつかん)」とは、<反骨野郎(ある人は「漢」を「おとこ」と読んでいます)>のことです。いつも人と違ったことを言ったり、したりする人のことを言うのでしょうか。時流に流されたり、人に阿(おもね)ったりできない生き方に拘る男のことです。人生を、損や得で考えずに、「尊」や「徳」に生きようとする人も、そう言った人なのでしょうね。

 噺家(はなしか/落語家のことです)に、立川談志と言う方がいました。他の追随を許さないほど、本当に落語が上手だったのです。立て板に水を流すかの様に話しました。ところが、人に嫌われる様なことを、歯に絹を着せないで言ってしまうので、敵が多く、嫌われることも多かった様です。それで、自分の一門、「落語立川流」を建て上げるのです。

 この方は、「柳家小さん」と言う方の弟子だったのですが、温順しく落語だけを演じていたら、「平成の大名人」になっていたと言われるほどの芸達者でした。いかんせん、毒舌で、人の反感を買う様な言動が多く、ただ自分の道を行った人でした。参議院議員に最下位当選したり、政務次官についたりしたのですが、破天荒な生き方や言動が災いしていた様です。

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 この方が、テレビの番組で有名な「笑点」を始め、しばらく「大喜利」の司会を務めていたのですが、降りてしまうのです。何故かと言いますと、その「大喜利」で、出題された問題に、その場で即答する落語家のスキルを求めたのですが、落語家でも落語作家でもない、番組担当者が、前もって作った答えで、回答者の噺家が返答する形に変えてしまったからです。そんな<反骨漢振り>が、この談志の好さだったわけです。

 落語の演目に「芝浜(しばはま)」がありますが、これを談志で聞いたら、彼が、どれほどの噺家であるかがよく分かるのです。CDやDVDで聞くことができます。日本語ほど、この「落語」に向いた言語はないのではないでしょうか。日本語の中から「落語」が必然的に生まれてきたわけです。同じ発音の語句が幾つもあるのが、「駄洒落(だじゃれ)」を生みやすくしているのでしょう。

 どちらかと言うと、自分も「反骨漢」の末席を濁しているのではないかと思ってしまいます。歴史の中にも、今の世にも、案外、この「反骨漢」がいるものです。好い意味で、もっと多くの「反骨漢」がいたらと願ってしまいます。日本語の基礎を作ったと言われる夏目漱石は、江戸落語の、圓朝を好んで聞くために、寄席通いをしていたそうです。

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にらめっこ

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 「毎日新聞」に、自分の母親を語る欄、「文芸春秋」にもオフクロ欄がありました。いまもあるのでしょうか。著名人が、亡き母や老いた母を、思い思いに、そこで語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、結構面白い記事だと感心していたのです。『この人にはこんな母親がいたんだ!』と思うこと仕切りです。

 老境に達した男性が、自分の母を語る語り口には実に、ほほえましいものがあります。とくに男の子にとっての母親は特別なのだと思うのです。神さまが極めて親密な関係を定められたわけです。9ヶ月もの間、その母の胎の中で育まれ、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者が、母親だったわけですから。

 それらの記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を決定するほどの意味があるのだと、語られていました。生きていくことを学ばさせてくれ、子はそれを習得してきたわけです。ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされいるのを知らされます。

 もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それも神がお許しになられたと認めるなら、欠けたるところを、神さまは充分に補ってくださるに違いないのです。ある方が、『おかあちゃんに会いて-よー!』と泣いているのを見させて頂いた時、いくつになっても、母親は母親なのだと確信させられたことがありました。

 私の説教を聴かれて《マザコン牧師!》と言われたことがありました。自分の母を誇って語ったことが、その方にはずいぶんと気に障ったわけです。人には様々な過去と背景がありますが、その方を、決して傷つけようとしたのでも無配慮にでもなく、母の教えに感謝して語ったのですが。同じ母の子でも母に対する思いや評価は、それぞれに違うわけですから、仕方がないのかも知れませんね。

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 聖書は「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ(箴言23章22&25節)」と言っています。

 私の母が、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったりして弱くなっていく様子を見ていました。2度の大病を、主に癒され励まされて越えて生きて来た母が、年毎に、ひと回り小さくなっていったのです。いつでしたか、母の通院に付き添いました。駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母をおんぶしたのです。おぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかった私が、平成の啄木の様に、砂浜ではなく、ビルの廊下を百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を歩んだのです。やはり軽かったのです。

 その時「砂の上の足跡」と言うクリスチャンの作られた有名な詩がありますが、その詩を思い出しました。母を95年間、とくに14才の少女の時からおぶってくださったのは、主イエスさまだったことに気付かされたことです。

 久し振りに、我が家を訪ねてくれた母を迎えて、家内と三人で、祝福の時を持った日を思い出します。暦を見ましたら、『夏も近づく八十八夜!』の真夏のような日でした。もう、母が召されて何年になるでしょうか。母に関する戸籍の写しが、弟から、昨日送られてきました。2時間ほど、明治以降、母の養父母の名前や生まれた日や土地や経緯とにらめっこしていました。

 

(母にまつわる山陰、中国山地の一風景です)

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それでも注意を

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 『40は、あるんじゃあないでしょうか!』と、華南の街に住んでいた時でしたが、わが家に来られた方が、来るなり言っていました。わが家にはエアコンが設置されていて、運転中でした。

 お客さんが来られる前に、この方のために、メロンを買いに出たのですが、果物屋のご主人が、洗面器の水に中を手を入れていました。涼んでいたのでしょう。道路の脇の簡単な作りの店ですから、冷房などありませんので、苦肉の策で、そうされていたのです。

 猛暑と言うのが一番な暑い日でした。そのころ、インドでは、なんと51だったとのニュースを聞いたことがあります。先日の知人のメールで、いつもは真夏の時期なのに、今年は、雨が多くて,異常なほどに涼しいのだと言ってきました。

 子どもの頃の夏の暑さは、七月がピークで、しかも家に冷房などなく、扇風機が、やっと一台、わが家でも使えるようになっていました。それ以前は、団扇(うちわ)が冷房の代役、いえ主役だったのです。

 父の家の縁側の戸は開けっ放しのまま、玄関も鍵などかけていないまま夜は寝ていたでしょうか。中国では、防犯上、どの窓も格子戸を設けてあるのです。その家に住んでいた頃の東京郊外は、考えられないほど安全だったのです。いえ、無防備の中を、平気で暮らしてしていたのでしょう。

 友人の同僚の方が大家さんで、この方が、網戸を兼ねた格子戸を入れてくれ、『留守する時や夜間は、窓を閉めて鍵をかけたほうが好いでしょう!』と言ってくれました。それを励行していたのですが。時々、その小区の事務所が貼る「文書」に、『泥棒の被害あり、注意!』とあったのです。

 空き巣泥棒がいるのでしょう。隣町は、海外への出稼ぎが多かったり、別荘のように買われた無人の家が多くて、そこに無断で住んでいることが、よくあるのだそうです。まるで忍者のように、家に侵入したり、住んだりしていると聞きました。

 いつでしたか、夜中、隣のご婦人が、玄関から呼んで、『ドアーが空いてますよ!』と注意してくれたのです。外出から帰って来て、しっかり閉めなかったのでしょう、夜中に空いてしまったのです。一階には、password を打ち込まないと開かないドアーがあるので、防犯されてはいたのですが、それでも万全ではないのです。つい、安全な国に住んでいた私たちの隣国の生活で、不注意だったのを親切に助けられていました。

 どこから侵入するのかと言いますと、上階とか屋上からなのだそうです。どうやって屋上に登るのか、忍者のように身軽な人たちが多くいて,ロープを下ろして、スルスルと降りるのだそうです。虎視眈々と場所と時を窺っているのです。それに引き換え、ここ栃木のアパートは、安心して住むことができて感謝です。それでも注意したほうがいいですね。

聞いて話すと言うこと

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『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ(イザヤ40章8節)」

夕方になると、ラジオ番組が聞きたくて、跳んで家に帰ったことが何度あったことでしょうか。「笛吹き童子」とか「一丁目一番地」などが、子供の頃にラジオから流れていたのです。テレビのなかった時代ののどかな雰囲気が思い出されて、随分と時間がゆったりと流れていたのが思い出されて仕方がありません。

手の込んでいない、あまり細工のされていないラジオ番組こそが、想像力を駆り立てて、養ってくれた素晴らしいメディヤでした。そういった意味で、どちらかと言いますと、われられの年齢は,〈ラジオ世代の人間〉なのだと自分のことを思うのです。

父が山奥で仕事をしていた時、街の放送局から、アナウンサーが登って来られて、取材されたことがあったのだそうです。そのアナウンサーが、何年も何年もたって、東京の本局に戻って、テレビのニュースを担当していているのを観て、父が、この方との思い出を語っていたことがあります。父もまた、ラジオ志向の人だったのです。

「にっぽんのメロディー」という10分ほどの番組が、NHKにありました。この番組のアナウンサーの中西龍(りょう)が、学校の先輩だと言うことを知って、とても親近感を覚えて、家にいる時は、よく聞いたのです。彼は、『歌に想い出が寄り添い、想い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます!』と言うナレーションを入れて、1977年~1991年の間、この番組を担当したのです。

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その、らしくない語りかけに、フアンが沢山おられたようです。流暢に、また上手に、美しく語れるアナウンサーは大勢いらっしゃったのですが、この方は、話に「間」を置くので、忙しく時の過ぎていた時代、ホッとすることができたのです。番組の中で、俳句を読んでいました。ことばの表現が詩的で、実に素敵だったのです。『ことばに詩心(うたごころ)を添えたい!』と願って、マイクロフォンの前に座したのだそうです。

彼の語る声に耳を傾けて、練られたことば、選ばれたことばは、まさに詩だったのではないかと思い出されるのです。一日の疲れが、お湯をつかって流されるように、ラジオからのことばをかぶって、疲れが流されるような経験をさせられたのです。全く知らない、父や母の世代に歌われていた「懐メロ」を聞くだけでも、戦前や昭和初期の雰囲気が伝わってくるようでした。

この方の葬儀が行われた2週間後の「読売新聞」に、駆け出しの頃のエピソードが掲載されていました。鹿児島放送局に勤務されていた時、夏の甲子園高校野球大会の県予選のラジオ中継をしていた時のことでした。

『お母さん。あなたの息子さんがバッターボックスに立っていますよ!』と呼びかけたのだそうです。それを聞いたお母さんは、どんなに嬉しかったことでしょうか。このような実況をするのは、異例のことであり、規定外のことだったに違いありません。マニュアル通りに中継しない、内側にことばが留まっていて、それが溢れ出るように表現されていたのでしょうか。実に個性的だったのです。

私は、「説教」と言う仕事を、長年してまいりました。難しいのです。ラジオで語り、高座から落語を語り、講壇から講義を語るのとは違うのだと言うことを、宣教師さんから学んで知っていました。「神のことば」を語らせていただいているとの厳粛さを、ひしと感じていたのです。

これまで沢山の説教者の説教を聞いてまいりました。上手な方、流暢な方、面白い方がおいでです。でも、心を打つような説教をされたのは、改革派の田中剛二牧師(神港教会)でした。無駄がないのです。なぜか、主が、神の国が見えるかの様でした。また、アルゼンチンのアセンブリー教会のベティー・フレーソン女史(王の王教会牧師夫人)の説教に、滂沱の涙を流したのです。彼女の語る「知識と知恵のことば」が、私の心を癒やしてくれたのです。

(写真は「真空管ラジオ」と「赤とんぼ」です)

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