[人]平岩幸吉

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 栃木市の名士、偉人の中に、平岩幸吉(1856~1910年)と言う方がおいでです。幕末、江戸は日本橋で、米問屋に生まれています。結婚したご夫人が、この栃木の出身で、ここに越して来られています。江戸期から明治にかけては、ここ栃木は舟運(しゅううん)が盛んで、商業的に盛んでしたが、鉄道が敷かれるようになって衰微していきます。

 その舟運に携わっていた人たちが老いて、仕事を失い、生活に困窮する事態が生まれてきたのです。そう言った人たちの中で、一人暮らしの老人たちが、安心して老後を暮らしていけるように、日本で三番目に開設された「養老院」を運営し、奉仕活動に専心したのが、平岩でした。

 この平岩の遺徳を記念するために、大平山麓に、「平岩幸吉氏善行旌表(せいひょう)碑」が立てられてあります。その碑に、次のように刻まれてあるのです。

「栃木婦人協会ノ事業トシテ、保育場ヲ開設シ、労働者ノ幼童ヲ教養セント事緒ニ就クニ当リ不幸ニシテ溘然(こうぜん)トシテ逝ク」

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 市内には監獄支署(今は刑務所と言いますが以前の呼称です)があって、女子が収容されていました。栃木婦人協会を設立した平岩は、この会と協力して、服役後の女子受刑者に、授産施設などもあったのでしょうか、自活の道を与えて再犯を防ごうとしたのです。そのために資財を投じ、なお廃品回収のために、牛乳配達に車を改造して、その車を轢きながら、古紙などを集め、それによって得た収益で、その施設を運営をしたのです。

 『死んだら、男体山が見えるところに葬って欲しい!』と、平岩は願ったのだそうです。日本橋に生まれながら、結婚して住んだ栃木の土地と人を愛して、人生の良い時を、社会的に弱い立場の人のために、捧げた一生だったのです。

(平岩幸吉、碑の近くに咲く紫陽花です)

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[memory]Costa さん。

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 Costa’s memory

 婚約式を、1970年の秋に、母教会で行いました。その直前に、一人のニューヨークの聖書学校で教えている教師が来られたのです。アフリカ宣教に出掛けた教え子たちを訪問し、激励する旅の途上に、羽田空港に降り立ったのです。ところが入国査証なしでしたので、出入国管理事務所に留め置かれていたのを、迎えに行った兄が、どう交渉したのか、監督責任付きで連れ出して、教会にお連れしたのです。

 特例だったのか、たまにはそんなことが許された時代だったのでしょうか。アラブ人とギリシャ人の血を引くアメリカ人で、母教会を始められた宣教師と同じ教会、conference のメンバーでした。元ボクサーだとかで、初対面で打ち解けてしまうようなタイプの人でした。この人が、Mr.Costa で、私たちの婚約式で、メッセージをしてくれたのです。

 そんな出会いがあって、彼は、どうも私を連れてアフリカに行きたかったのだとかで、私たちの宣教師は、それを許しませんでした。それを機に、何度か来日してくださったのです。コンパクトなノートに、聖書の教えのエッセンスを、小さな字で書き込んで、大切にされていたのを、覗き込んで見てから、それを真似して、小さなノートを作って、学んだこと、主から示されたこと、気づいたことなどを書き込んできたのです。

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 このCosta さん(私たちの宣教師のみなさんは、〈先生〉とか〈兄弟〉という呼称で呼ばれるのを好まないで、どの人も〈さん〉呼びをしていました)のお母さんがクリスチャンで、文字が読めないのですが、いつも聖書を持っていたそうです。バスに乗ると、隣席の人に、その聖書を渡して、『この箇所を読んでください!』と頼むのだそうです。

 聖書に通じていたお母さんの《伝道方法》だったという話を、説教の中でされていて、昨日聞いたように、よく覚えているのです。direct に、聖書を読ませてしまうのは、すごい知恵に満ちた方策だったのです。実に魅力的なおじさんで、聖書のみことばを歌う、chorus(コーラス)で賛美し、その翻訳版が、よく歌われていきました。

 一昨日の夕食は、「カジキマグロの餡かけ」を作りました。片栗粉をまぶしたカジキを、オリーブオイルでフライにしたのです。それが、Costa さんの好物だったのを思い出したのです。彼も、そして宣教師さんたちも、さらに一緒にテニスの打ち合わせを、八ヶ岳や山中湖でした牧師さんたちの多くの方々、、今や天に帰って行かれてしまいました。あの日々があって、今があるのです。感謝な人、日々、交わりでした。

(ギリシャ語の「新約聖書」です)

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あの味をもう一度

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 古い商業の街で、近所は老人ばかりを見掛ける街になっています。元気かと思っていたら、救急車で運ばれたり、胃癌が見つかって、『来週手術です!』と、また『検査入院しなくては!』、そんな話ばかりになってきている、ラジオ体操や散歩仲間の昨今なのです。いつの間にか、自分も、その仲間に突入してしまっていて、もう他人事ではなくなってしまい、まさに当事者になりました。

 一緒に駆け回った友人たちも、同じように老境に届きつつあって、あの溌剌たりし日々が、もう遠くに行ってしまったのを覚えてしまっているのでしょう。何キロも何キロも走り、ダッシュしては流して、またダッシュを繰り返しても、45分経つと、荒い息が収まってしまった高校時代が、昨日のように懐かしく感じられます。

 住んでいる地域のせいとか、塾に行っているのかと思いきや、日本中に、子どもの姿が見られないのではないでしょうか。遊んでいる様子もないし、喧嘩や争う声の叫びもないのです。時々、マフラーに細工したバイクが、爆音を上げながら表通りを疾走していきます。それを追いかける白バイやパトカーのサイレンが、たまに聞こえてくるのです。

 それでも、うずま公園では、お父さんと男の子の遊ぶ姿が見られることもあり、公園の遊具に繰り替え愛繰り返し乗るのを競争する姿が見られると、なんともホッとさせられるのです。それと同時に、この季節、巴波川の両岸に、千匹以上の鯉のぼりが吊るされて、風に泳ぐ姿が見られるのです。まるで、『子どもたちよ、帰っておいで!』と、呼び水を注ぐような、大人たちの精一杯の demonstration が見られます。

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やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる

 男の子四人を育てた父と母は、男の子の節句だからとか、何だとかの伝来の行事に疎かったのですが、柏餅とか買ってきてくれ、干しておいた餅を、油で揚げてくれました。またカルメ焼きなどは、火鉢の上に、金属製のお玉を乗せて、ザラメの砂糖に水を加えて、割り箸でかき回し、その箸に先に重曹をつけて膨らませて作っては食べさせてくれたのです。

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

 父の家の柱に、兄が記してくれた背丈を記した跡が、残されていて、一年に10cm 以上も伸びた背丈が記録されていたのです。その柱のある家が、中央自動車道の計画路線での退去になってしまい、父から請け負って、弟たちの協力で更地にした時に、それを確保しておかなかったのを、後になって悔いたのです。

 そう言えば、母の郷里から、この時季に、笹の葉の包まれた「粽」が毎年送られてきました。《おばあちゃんの味》で、米粉を練って、笹の葉で包んで、蒸して、それを小包にして郵便で送られていいたのです。母が、砂糖醤油を作ってくれ、蒸した粽につけて食べました。素朴な田舎の味に、みんな兄弟たちは満足だったのです。

 きっと、この栃木の地でも、そう言った下野伝来の粽が伝えられてきているのでしょう。美味しい米が作られ、宇都宮藩の耕地が、西方という地にあって、有名だったそうです。それで、わざわざ買い出しに出掛けるほど、越後のコシヒカリに負けないほどの米自慢なのです。そんなことを記してきましたら、「粽」が食べたくなってしまいました。強く、そして優しく育て、子どもたち!
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写真s

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 これまで、息子や娘が撮ったり、自分で撮ったり、ダウンロードしたりした好きな写真です。中国に行ったばかりの頃、住んでいた家の付近の様子や、学校の遠足で行った時のものもあります。こちらに来て、まだ行ったことのい風景の写真もあり、これから行こうかなと思っています。一つ一つの瞬間に、夢や浪漫があります。動きのない、声のない写真から、どんな声や音や匂いを感じるかは、観る人の時、状況、現実によって違うのです。

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皆勤賞の孫たちと病欠児 のジイジ

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南に仰ぐ冨士の高嶺

北にめぐれる多摩の流れ

教えの庭の朝な夕な

鏡と見まし山と川と

 これは、私の三番目に通った小学校の校歌です。仰がないのですが、今も160kmほどの遠くに望み見ることができる富士の高嶺は、あの頃と変わらず、屹立(きつりつ)しています。

 冬場の夕陽の中に、ここ栃木市から遠望できる富士は、建物が一部邪魔をしていますが、やはり綺麗なのです。ここの小学校は、男体山を仰ぐのでしょうか、大平山を見上げるのでしょうか、それを鏡の様にして学んできたのでしょうか。ここでは第二小学校が併合されて中央小学校になっているそうで、どの様な校歌の歌詞なのか興味が尽きません。

 山奥から越して来て、不適応になることはなく学校が好きでした。ところが就学前に肺炎に罹って、入学式にも出られず、一学期もほとんど学校に行けませんでした。その後、二つの小学校に転校したのですが、たまに行く学校は、楽しくて仕方がなかったのです。再発を心配した母は、咳をしたり、熱が出ると学校を休ませて、病院通いを繰り返したのです。

 休んでばかりで、授業についていけないこともなかったのでしょうか。風邪がおさまった合間に行く学校は、遅れた分を取り返していたのでしょうか、みんなの跡をついていくことができたのです。四年生頃からは、健康が回復し、クラスの番長になったりしたのです。親分の資質がないのに、短期政権で、寝返りを打たれて、敗軍の将の様になってしまいました。お父さんが消防署に勤めているSが、たった一人の仲間でした。それでも学校が好きでした。

 そんな小学校から、みんなは町の中学に通うのに、一人、電車通学の私立学校に、父の考えで行かせてもらったのです。バスケットボール部に入って、高校生の練習の横で、一緒にクラブ活動をしていました。大学に行っていたり、もう仕事をしているOBが、入れ替わりでやって来て扱(しご)かれたのです。

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 さて、長男の子どもたち二人は、今は高校生になっていますが、二人とも小学校、中学校を無遅刻無休の皆勤賞の生徒なのです。私とは雲泥の差で、いつも『凄い!』と思っているのです。

 就学不適応児、いわゆる「不登校児」の割合が増加で、由々しき教育問題になって、教育関係者は頭を痛めているのですが、それなのになのです。給食が美味しいのかと思うのですが、そうでもなさそうです。送り出してきた両親の力や応援や激励があっての達成に違いありません。

 ゆとり教育とか競争させない教育などが行われて、その歪が出てきて、今では、もうそう言ったスローガンを叫ばなくなってきている様です。出来の良い子もそうでない子も、足の速い子も遅い子も、敏捷な子も沈思黙考の子も、貧しい家庭の子も豊かな家庭の子も、教育重視の家庭の子も性格の良さを重視する子も、いろいろと混在していて良いのです。子どもたちの間で、助け合ったり、励まし合ったり、補い合ったりするからです。

 みんなが同じレベルでなどは、現実とかけ離れているのです。貧乏をバネに、虚弱をバネに、家庭不和をバネに、子どもたちは、害されるだけではなく、好ましくない環境を、乗り越えていけるのです。大切なのは理解者や援助者の存在です。彼らが夢や理想を描けるようにです。

 同級生で雨が降ると休んでいたNは、どうしているでしょうか。時々思い出しては、一緒に廊下に立たされた仲間の今が気になります。時代のせいなんかにできません。子どもは、どっこい力強く生きられるのです。手をかけ過ぎた子の方が、かえって問題なのかも知れません。われわれの世代は、戦争孤児、戦災孤児、混血孤児が多くいたのです。それなのに戦後を、様々に牽引してきた世代でもあります。

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写真撮影の趣味人とは

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 『普段の生活の中で、日常の場からスマホをかざして、数枚の写真を撮るのです。日常から、心的に、倫理的に、時間的に、そして距離的にかなって撮った写真に意味があります!』、これが私の写真撮影の倫理規定なのです。

 廃線や廃業、仕方なく営業できなくなってしまう電車やバス路線や年を経た建物、また風景、人を惜しむ思いから、その記憶を留めておきたくて、写真撮影に出向く人がおいでです。みなさんが規則を守っているとは限らないのだそうです。

 私たちに住んでいる家の隣に、一軒の写真屋さんがあります。今は息子さんに譲って勇退しておいでの片岡惟光(よしみつ)さんは、北関東最古の写真館の四代目で、私たちのラジオ体操仲間なのです。

 代々、日光東照宮の警護をされていた武士で、明治維新前に、初代の片岡如松(じょしょう)氏が、『東照宮を撮影するために訪れた、日本商業写真の先達であった下岡蓮杖(れんじょう)の弟子・横山松三郎が日光山内の社寺建築を撮影した際、手助けをしたことから、写真技術を学び、道具一式を譲り受けた。(産経新聞)』、それで、写真術を修業されて、日光市に開業し、維新後の明治二年(1869年)、栃木県庁のあった栃木市に、明治四年に移転し、写真館を始められたそうです。

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 先日も、体操の帰りがけに、『いろいろとお聞きしたいのですが!』と、四代目にお話をしたのです。いつかコーヒーを飲みながら、お話が聞けたら嬉しいと思っております。2020年の正月、私たちの家族が、全員集結したのを機に、この写真館で家族写真を撮っていただいたのです。たっての家内の願いによってでした。

 写真撮影は、ある瞬間を捉えるのがいいのです。その瞬間との出会いが大切で、それが写真の撮影技術の難しさ、奥深さなのではないでしょうか。雲の動き、日の光、日影の動き、風の吹き様、人や動物や植物の表情を捉えられたら、素敵な写真が撮れるのでしょう。

 次男が、けっこうよいカメラを手に入れて、それを手にしながら、休みの日には、あちらこちらと撮影に出向いている様です。先日は、静岡の旅行先で撮影した写真を送ってくれました。木村伊兵衛、土門拳、ロバート・キャパなどの著名な写真家がいますが、誰に評価を得はしなくとも、一人一人が、瞬間を捉えた一様に写真には、人の生き様の一場面が映し出されるのでしょう。

 人の撮影を邪魔したり、運行のバスや電車の前面を静止を、制止を無視して横断してしまい、ゴミを捨て置木、駐車違反などの問題が取り上げられています。

 趣味が、規則を守って行われるなら、それは自他ともに素晴らしいことに違いありません。写真には、撮影者の心の動機は写らないのですが、その辺のことが考えられて、撮影が行われるなら、それこそが、本物の写真趣味人なのでしょう。
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惣社町のLupinus

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 雨の日が続いていた快晴の昨日、栃木市惣社町に咲く、ルピナスの花を観ました。街の〈郷づくり実行委員会〉のみなさんが、春先に植えつけたルピナスの花が、きれいに咲き誇っていました。” LOVEGREEN “ に次のようにあります。

 『ルピナスは秋に種をまき、翌年または翌々年の春に花を楽しむ一、二年草です。ルピナスの花色は赤、ピンク、オレンジ、黄、青、紫、白など様々。冷涼で乾燥した気候を好むので、蒸し暑い日本ではほんとんどが一年草になりますが、原産地など気候があう場所では多年草とされています。日本でも冷涼な北海道ではルピナスの群生が観光名所となっているも場所もあります。

 品種によっては1m以上に育つこともあり、空に向かって長く伸ばした花茎に鈴なりの花をつけます。ルピナスは、藤(ふじ)に似た花が上向きに咲くことから、「ノボリフジ(登り藤)」「サカサフジ(逆さ藤)」の別名もあります。また、葉の形がうちわに似ているので「ハウチワマメ(葉団扇豆)」と呼ばれることも。ルピナスはマメ科の植物なので、花の後は枝豆によく似たサヤが育ちます。同じくマメ科の植物特有の根粒菌を根に付着させているので土壌が肥沃になります。』

 この花は、地中海沿岸地方と南北アメリカ、南アフリカなどに200種以上が分布しているそうです。日本の土、下野の野に植え付けられて、開花し続けています。出逢って三年目の春のルピナスは、実に素敵です。

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愚直の努力をする

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 『外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ(箴言24・27)』

 「愚直の努力」、しなければならないことを、手を抜くことなく、マニュアル通りに、基本に従って、繰り返していく職人気質を、そう言うのだと思います。頑固なおじさんは、見習い工の時に、手をとって教えられることなどありませんでしたから、先輩たちの仕事の仕方を盗み取ったのだそうです。そうして身につけた手法を、踏襲して堅持するのです。若い時に叩き込まれたことを、疑うことなく1つのことにこだわりながら、すべきことをして来たのです。

 鍋の穴をふさぐ、「鋳掛屋」のおじさんが、子どもの頃に何ヶ月かに一度、自転車で回って来ました。『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言われませんでした。興味津々に覗き込んでいる私に、仕事振りを見させてくれたのです。世の中で鋳掛屋の職人なんてたいしたことはないかも知れません。

 でも鍋が、どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、実に貴重な存在だったのです。それにしても随分と安い仕事代だったのを覚えています。それでも、仕事に誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれハナ垂れ小僧に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。

 そう言った職人さんとか、職工さんが、製造業でも加工業でも、どこにも、どの部門にもいました。私が、学校に行っていました頃、毎年夏に、ある牛乳工場でアルバイトを2ヶ月ほどさせていただきました。製造のラインでも、出来上がった製品のビンの入った箱を冷蔵庫に積むのでも、それを出荷するのでも、頑固なおじさんが、どこにも必ずいたのです。『もっと工夫すれば、楽が出来るのに!』と若くて生意気なわれわれは思ったものです。

 ところが、決められたとおりにすることを、彼らは要求するのです。言われたことに『はい!』と従う時、彼らはニコニコと微笑んで、『うん、うん!』とうなずきながら、われわれの仕事振りを眺めていました。

 一日の仕事が終わると、明日の作業ために、時間をかけて準備をするのです。掃除や後片付けをするわけです。新製品を開発する研究部門が、学歴や実績のある人たちによってなされている背後で、脚光を浴びない裏方が、どうでも良いように思われる愚直な作業を続けていたのです。

 それがあって、社会で評価される製品が流通して行くわけです。奄美大島から出て来たり、秋田弁をしゃべる若い社員の中に混じって、仕事をして、多くのことを学ばせてもらったのです。つまらないように見える仕事を、意味あるものとするプロ意識の中に見えたのが、この「愚直の努力」でした。若い人の『無駄だ。もっと省力化を図らねば!』と言った考え方に、それは警鐘を鳴らしている生き方、仕事の仕方に違いないのです。

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 『漫才の天才!』と言われた人に、横山やすしがいました。彼が、自分と同年であった事を知った時から、彼の生き方に強い関心を向けたのです。同じ時代の流れや風の中を、生きて来た者として、とても親近感が湧いて来たからです。『ほんまに稽古嫌いだった!』と、相方の西川きよしが、先日、そう話しているのを聞きました。1つの演目を演じるのに、その稽古嫌いのやすしをなだめすかして、稽古に連れ出したのは、きよしでした。なんと40回も稽古をしていたそうです。

 アドリブだとばかり思われていたのに、アドリブを入れるためには、積まれた山のような稽古があることを知らされて、一朝一夕には名人には、なれないのだと言うことを知らされたわけです。やすしの破天荒な生き方は理解できるのですが、自分の仕事に対して、いやいやながらでもし続けた、見えない裏の部分があったのだと言うことを知らされるわけです。

 冷蔵庫で牛乳の箱を積む作業の合間に、誰かが、裕次郎の「赤いハンカチ」を歌っていました。バイトが終わったら、北海道にでも行ってみたいような漂白の思いに誘われたのが、昨日のことのようです。「一事専心」、大切な教訓でした。

(「らくごはじめのぶろぐ」から修理屋さんたちです)

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