お米の話

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『主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。(詩篇111篇5節)』

 ここ関東平野の北の栃木では、黄金色に実った稲の収穫の季節を迎えて、ほぼ刈り取りが終わりかけています。ここでは、「西方米」が美味しいと言われていますが、わが家は「四つ葉生協」のお米を食べていて、結構安全で美味しいのです。といっても、一カップを二人で分け合うほどなのですが。

 華南の街の街角の商店に、「秋田小町」と名札をつけて、お米が売られていたのです。早速買い求めて、炊いてみました。とても美味しく食べたのです。お米をいただくことが多かったのですが、それ以来、買う時のは、この「秋田小町」に決めていたのです。

 どこで作られていたのかと言いますと、東北部の黒竜江省だと、袋に印字されていて、日本米の栽培が行われてきているのを改めて知ったのです。そう言えば、この地域には、戦前は、日本人が開拓団を組んで入植し、お米の栽培をしてきていたわけです。

 そう言った旧満州国時代に、この地で行われていた農業は、その後も受け継がれていったようです。とくに、戦後、1980年代にはいると、田中稔を団長とする日本稲作技術団の田中稔を団長として、この地にやって来られて、ビニールハウス・箱育苗・機械田植技術(大棚箱育苗機械田植技術)が導入されています。5年ほどの間、田中稔は毎年訪問して農業指導をされたいたのです。

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 この田中稔は、冷害に強くて、低温の中に生育する「藤坂5号」と言うお米を作り出した人で、「稲の神様」と言われる、日本の米作の貢献者の一人なのです。夭逝したお父さんの出身地の山形県の高擶村(現在は天童市です)で大きくなり、三重高等農林学校で、遺伝学とともに、稲作栽培法を学んだ方で、卒業後、農林省に入られ、その後、秋田県大館市にある陸稲試験地で稲の品種改良の仕事に従事しています。

 そんな経歴の後、農林省が、「凶作防止試験地」を各地に設置した時に、その一つが「藤坂村(現在の青森県十和田市藤坂です)」で、そこで産み出されたのが「藤坂1号」だったのです。日本の米作は、冷害によって、収穫減に見舞われたのですが、画期的な米作が行われ、「藤坂5号」が生産され、今日に至っています。

 ササニシキは、この「藤坂5号」の系列で生み出された人気のお米なのだそうです。戦後の食糧危機にも、このお米が、日本の食糧危機から救ったと言えるようです。きっと、母が炊いてくれたお米も、この種の物があったことでしょう。今夏、そして秋にかけての猛暑は、このお米にも影響を与えていて、秋田でも、今年の収穫されたものは、一等米の評価はわずか1.4%だと報告されています。これまでは90%以上だったのに、生産者は減収になってしまうようです。あの「秋田小町」もそうなのでしょうか。

 食欲の秋、先日家内の友人が、新米を持って訪ねてくれました。炊こうかどうしようかを思案しながら、まだ、そのままにしてあります。長い桶目を食べてきた日本人の私も、《塩おにぎり》や、お米の上に、新鮮な魚の切り身を載せた《寿司》は、何よりも、『うまい!』を覚えてしまう、根っからの日本人の裔(すえ)なのです。

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主を賛美するために平和を祈る

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『しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。
あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。
まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。
こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。
なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現れ、
窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。
次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。
主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。
捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。
人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。
また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。(詩篇 102篇12~22節)』

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『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」
私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。(詩篇122篇6~9節)』

(“ Christian clip  arts “ より)

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新しい一歩を踏み出して

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 この写真は、この秋、次女の子(私たちの最初の孫)が、学校に入学して、入寮したdomitory と、自分に割り当てられた部屋の様子を撮って送られてきたものです。この寮は、彼の家族が所属する教会が、若者たちのために長く運営しているものなのです。彼の両親や叔父や叔母が、青年期に、ここで過ごしていました。ここへは家から通えるのですが、18の彼は自分で願って、家族から離れて、test されて入寮したのです。といっても、学校にも、教会にも至近な距離にあり、今晩は、入学以来初めて帰宅したのだと、娘が言ってきました。

 部屋の中を撮った写真の中に、壁に三つのものが掲げられています。一つは、「色紙」です。墨を浸した筆で書かれた書で、彼が生まれた時に、彼のお父さんが教えていた、長野県南部の高等学校の年配の先生が、彼の誕生を祝して書いてくれたものだそうです。

「桃李不言 下自成蹊」、「史記」の中に、司馬遷が書き残したものです。「桃李(とうり)ものいはざれども、下おのづから蹊(こみち)を成す。」と読み、その意味は、『桃や李(すもも)は何も言わないが、美しい花や良い香りの果実を求めて人が集い、その樹木の下には自然と蹊(こみち・小道)ができるという、李広将軍その人を讃えた故事である。桃や李は、人格者であることのたとえで、そのような人物は黙っていても、徳を求めて人々が集まってくる。』

 同僚の子の誕生に際して、立派な人格者となるように願って墨書してくださったものを、自分の家の部屋に架けていたのです。それを持ってきたわけです。英語で、” Way Maker “ と言う、この書の「成蹊」は、彼の救い主イエス・キリストが、そうしてくださることでしょう。

 二つは、「リンカーンの肖像画」です。彼の曾祖父のオフイスの壁にあったものを譲り受けたのです。南北戦争が行われたゲティスバーグの地でのリンカーンの演説が残されています。私たちが学んだのは、  government of the people, by the people, for the people ” が有名だったでしょうか。9歳の時に亡くなった母ナンシーは、『あなたは百エーカーの農場を持つよりも、一冊の聖書を持つ者となりなさい。』と語っていたそうです。また、次のようにも言っています。

 『息子よ、まずこの家の家計を考えねばなりません。わたしたちは裕福ではないのです。家族みなが食べてゆくことさえ思うままになりません。そんな状態なのに、あなたはきれいな服が欲しいと言えますか?自分の家の状態にふさわしくふるまいなさい。いずれあなたは自分にふさわしい状態になります。他の人の言葉にいじけてはなりません。自信をもって生きなさい。自信こそすべての成功の根源です。』

 さらに、リンカーンの継母サラは、母ナンシーの亡くなった後、2年ほどで、父親のところに来ています。『お母さん!」と呼びかけ、一緒に、しかも毎日、聖書を共に読んでくれたのだそうです。貧しい家庭で、公教育を受ける時間は一年足らずでしたが、独学をし、弁護士となります。その生涯で、奴隷解放をした、今でも、もっとも慕われるアメリカ合衆国大統領になったのです。このリンカーンの優れた人間性に、孫は感銘を覚えているようです。実に humble な人だったのを認めているのです。

 そんな humble  な人になる願いが、孫にあるのでしょうか。この孫は、ドイツ系とフランス系アメリカ人のお父さん、日本人のお母さん、自分自身はアメリカ国籍のアメリカ人で、アメリカ人である「誇り」と共に、自分の内に流れる日本人に家系の意識も強固なのでしょう。そう言った意味で、「日の丸」を壁に掲げたのです。今夏の家族での訪問時に、どこかで手に入れたのでしょうか。両親の元を離れて生活の一歩を過ごす自分に部屋(もう一人のルームメイトと共用です)、その部屋の壁に、もう一つの「誇り」を掲げたのです。

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 彼の専攻は、” liberal arts “ で、教壇と学生席の教室ではなく、円卓を囲んで、“ debate (対話形式授業)で学んでいくのだそうです。娘によると、” Great books curriculum (グレイト・ブックス・カリキュラム)をテキストに学び始めているようです。34人ほどの学生数ですが、歴(れっき)とした大学で、自分で選んだ学校を楽しんでいくことでしょう。

 私たちの孫たちが、《神と人とに愛される人》となって生きていけるのを願っています。聖書を読み、祈り、主を賛美し、隣人を愛し、主を畏れて生きていって欲しいだけです。

(「円卓」のイラストです)

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今こそアメリカのために

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 このところ、アメリカ合衆国の様々な面で、危機に迫られているのを感じてなりません。政治的にも、国際影響力にも、国内の経済状況も、青少年の非行の激しさ、家庭の崩壊など、山積している問題で溢れているからです。

 私を8年もの間、忍耐して導いてくださった宣教師が、聖書研究の中で分かち合ってくださったことで、大統領付きの chaplain の語られたことで、「アメリカが崩壊しない3つの理由」を、再び思い出していたのです。1つは、建国の父たちの祈りとその祈りを祈っている現代のキリスト者たちの存在、2つは、献金をささげて、多くの宣教師を海外に送り出してきている宣教、3つは、アメリカの使命や存続のために海外のクリスチャンたちが祈っている祈りだそうです。

 そのアメリカで、わたしたちの四人の子どもたちが学ばせていただいたことに、心から感謝するのです。彼らが学びつつ教会生活をさせていただいた教会と牧師さんへの感謝をこめて、そのアメリカ北西部にある教会を訪問した時、この教会の牧師さんが、その日曜日の礼拝で、証詞をする機会を与えて下さったのです。何をお話しようかと考えていました時に、《自分の過去と今とアメリカとの関わり》について話すことにしました。

 私は、アメリカから来日された宣教師が建て上げられた教会で、信仰を持ち、献身したこと。その後任の宣教師が、母教会から100キロメーターほどの距離で、開拓伝道をされると言うことで、開拓地を選ばれました。そこは私の生まれ故郷でした。そのお手伝いをさせて頂きながら、私は伝道者となるための訓練を受けたこと。聖書の読み方や解釈の仕方、説教の仕方も伝道の仕方も、家内の愛し方も、この宣教師から学ばせて頂いたことを思い出しながらお話ししたのです。

 そして、子どもの頃の経験もお話ししたのです。戦争が終わった後、この国から送られた「ララ物質(LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)」が贈られ、滋養に富んだ粉ミルクを飲ませていただいたこと。そして、この国で作られた映画を、teenager の時に観て、夢が育まれたこと。とくに、ジェームス・ディーンが主演した「エデンの東」や「理由なき反抗」や「ジャイアンツ」などを何度も観たことを、感謝を込めて話したのです。

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 そのような感謝は、教会であるみなさんを激励するのでしょう。戦後の日本の教会の復興は、経済援助だけではなく、霊的な復興でもあったのです。何もかも失い、より頼むものをなくした多くの人が、福音を受容したのです。その後の信仰の歩みは、私には分かりませんが、家内の家族は、その宣教の働きでクリスチャンホームとなっていました。

 『また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 (コロサイ118節)』

 それは、教会の主のお働きです。私たちの母教会を始めた宣教師の奥様は、病弱でした。陽当たりの悪い、山の陰に教会堂を建てられたのですが、宣教師の住まいの部屋の屋根の一部をガラス張りにされて、奥様の健康をお考えになられて居場所を作って、伝道をされたのです。

 家内の最初の聖書は、この宣教師夫人から頂いたのだそうです。また彼女が病んだ時、毎日、回復のために良い飲み物を作っては届けてくれたのだそうです。その受けた愛が、彼女の信仰を強固なものにしたのでしょう。

 教会に何が起こっても、主が立ててくださった牧師と、自分の牧場である教会から離れずに、所属し続けたのです。大人になって、宣教師の強さも、人としての弱さも、全てが分かっても、信頼と感謝を揺るがすようなことはなかったと、彼女は言っています。

 やっぱり、その地方にある教会は、“ on the way(完成への途上)にあって、赦し合ったり受け入れ合ったり、時には訓戒し合ったりして、それらが成長しながら、主の体である教会が、形作られていくのです。そのために労してくださった宣教師さんを送ってくださった、アメリカの再建、とくに霊的な再建のために、主を賛美し、祈る必要を感じております。多くの祝福を受けたからです。

 

ムクゲ

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 大好きな花は「木槿(むくげ)」なのです。韓国の国花だそうですけど、自分の祖先は、どこから来たのか分かりませんが、父も母も、朝鮮半島の出身ではないのです。民族性にはよらないのですが、毳毳(けばけば)しくなく、健気に《清楚》に咲いてるのが好きな私です。

 長く過ごした街の高速道路の出口に、この木槿の花が、暑い炎天の盛りに咲いていて、強烈な印象を受けたことがあったのです。白色もピンクも、どちらもいいですね。

 先日の散歩道、明治8年開業の和菓子屋さんの近くの家の庭先に咲いていた花です。もし庭のある家に越せたら、白とピンクの木槿の木を一本ずつ植えたいと願っております。

 もう十月になって晩期の花ですが、これからは菊花薫る季節になりそうです。真っ黒な土の中から、様々な色の花が咲き出す神秘さに圧倒されています。咲いては散り、咲いては散りする花の命に、どれほど慰められてるか分かりません。
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[ことば]立派な人間になれ

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 俺だって本当は高校に行きたかったけど、そんな余裕のある家庭じゃあないからね。じゃあ、何も持たない自分が這い上がるにはどうすればいいのか。体一つで戦えるボクシングしかないと思った。

 とりあえず近所の人の紹介で東京の会社に就職しました。入社してすぐ、会社のみんなで元フライ級&バンタム級で世界チャンピオンのファイティング原田さんの試合中継を見ていた。その時、俺は社長さんに「俺もボクサーになりたいから、ボクシングジムに通わせてください」と申し出た。すると社長さんは「おまえみたいな人間が、あんな偉い人間になれるわけない」と言ったね。

 まだ十五だよ。ショックだったね。ああ、東京も田舎も一緒だ。俺みたいなやつにチャンスはないんだ、と思って、すぐに会社を辞めて田舎に戻った。

 村の人たちに見つかると「あそこの息子、もう仕事をやめて帰ってきた」と噂されるから、真夜中にひっそりと帰って、昼間、誰にも見られないようにふるさとを歩いたんだ。山、川、田んぼ、畑・・・・ふるさとの自然に抱かれてるうち、「よし、俺はやっぱり東京へ行く」と言う思いが湧いてきた。

 もう一回上京する日、おふくろはいつも通り朝早くに土方仕事へ出て行った。帰ってきた数日間も、忙しくてろくに話もできなかったから、駅に向かう途中に仕事場に立ち寄ってみたんだね。

 「もう一回東京へ行ってくるぞ」と言うと、おふくろは泥だらけの手で前掛けのポケットをゴソゴソやって、一枚の千円札をくれたんだ。俺はいつも悪さばかりしていたから、「サツ(札)はサツでも、警察のサツは使えねえぞ」といってね。

 そしてハラハラとな涙をこぼしたかと思うと、「偉い人間になんかならなくていい、立派な人間になれ」と言った。うちのおふくろさんは学歴はないけど、やっぱり苦労を重ねて生きてきた人だから言葉に力があったよね。すっと心に沁みて、それはいまも忘れない。

 結局、その時もらった泥のついた千円札はずっと使えなくて、いまでも大切に持っていますよ。

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 これは、「11話、読めば心が熱くなる365人に仕事の教科書(致知出版社刊)」に、元WBC世界ライト級チャンピオンのガッツの記した、お母さんとの思い出話、お母さんの《ことば》です。

 ガッツ石松は、栃木県上都賀郡粟野町(現在の鹿沼市)の生まれで、私たちに栃木市から、北に、ふれあいバスに乗って、西方ふれあいパークで下車して、しばらく歩いて行ける農村です。そこは寒村で、農家の子が生きていくには難しく、東京で転職を重ね、ついにボクシングを始めて、世界チャンピオンに上り詰めたのが、このガッツ石松なのです。

 チャンピオンの時にファイトマネーで、故郷の粟野の父母の家を新築して、プレゼントしたのだそうです。素敵なお母さまのことばですね。

(boxing のグローブ、「野州麻」の畑です)

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黄金の花

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『神よ。わたしに清い心をつくりゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。』詩篇51:10

 ここの自治会の老人倶楽部では、いろいろな行事があって家内と参加させていただいています。この月曜日には、「三線に合わせて沖縄ソングを歌おう!」会参加のために、公民館に集いました。その中で、一つ気に入った歌がありました。

   「黄金の花」

黄金(こがね)の花が咲くという
噂で夢を描いたの
家族を故郷ふるさとに
置いて泣き泣き出てきたの
素朴で純情な人たちきれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚(よご)さないで
黄金の花はいつか散る

楽しく仕事をしてますか
寿司や納豆食べてますか
病気のお金はありますか
悪い人には気をつけて
素朴で純情な人たちよ
言葉の違うひとたちよ
黄金で心を汚さないで
黄金の花はいつか散る

あなたの生まれたその国に
どんな花が咲きますか神が与えた宝物
それはお金じゃないはずよ
素朴で純情な人たちよ
本当の花を咲かせてね
黄金で心をすてないで
黄金の花はいつか散る

素朴で純情な人たちよ
体だけはお大事に
黄金で心を捨てないで
本当の花を咲かせてね♪

 〈お金〉が、人の心や生き方をを汚すのですね。聖書も次のように記しています。

 『金銭を愛する者は金銭満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。 (伝道者510節)』

 『金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 1テモテ610節)』

 若い頃に聞いた話ですが、1952年に、創業した“ Kentucky fried chicken ” を始めたカーネル・サンダースは、収益の10分の9 を献金したのだそうです。得たお金を、どう使うかの方法論です。これは献金をすることの勧めでではなく、自ら決心して、主を第一にして生活をした結果、彼の始めた事業が栄えたということなのです。

 ところが、最近の教会の教えの中に、「繁栄の祝福」が再び強調されているのです。人生の成功は、『何をしたか!』なのでしょうか。それとも『どう生きたか!』なのでしょうか。《内面的な人格の高さ》、《勇ましく高尚な生涯》、《高邁な精神で生きた!》と言うことこそ、もし人を測る尺度があるなら、これらではないでしょうか。少なくとも、汚されない心を持ち続けて生きたいと、今も思うのです。

(「沖縄の海」です)

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馬耳東風

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 『たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。  陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。 (箴言262022節)』

 『私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。(2コリント1220節)』

 人の寄り集まりの集団の中で、陰口、悪口が聞かれることがあるようです。どうもキリストの教会の中にもあって、少なくともコリントの教会の中にはあったようです。コリントには、政治的な問題、異教徒との問題、夫婦関係など、道徳上の問題もあったのです。

 コリント教会の近くにあったケンクレアの教会に、姉妹で「フィべ」がいて、パウロがこの姉妹を、「執事(奉仕者)」と言っています。この姉妹は、パウロの伝道を、個人的に助けていたのです(⇨ロマ1612節)。手紙を届けるために、その任を、このフィべに託していますから、信頼の篤い姉妹だったことが分かり、ローマの教会に、彼女を助けるように依頼しています。
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 そのような信仰の篤い、忠実な姉妹だけではなく、パウロがテモテに書き送った手紙の中にも出てくるような、『そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。 1テモテ513節)』、当時も、うわさ話、悪口、影口をする者もいたのです。

 これが、キリストの教会の内実であって、理想的な信者ばかりではなく、パウロが頭を痛めるような人たちもいたのです。パウロ自身も、陰口や悪口の対象でもあったのでしょう。この現実は、どうも避けられないことなのかも知れません。

 キリストの教会は、「教会の主」であるイエスさまが願われる理想の姿を描けるのですが、現実は、「赦された罪人」たちの集まりであって、さまざまの問題を抱えて、今日に至っているのです。エルサレムの教会から始まったキリストの教会は、内紛があり、対立があって、別の道に行く人たちが、教派を作り、教団を作り、『自分たちが、一番油注がれた群れである!と思い、さらに、その対立の溝を深めてきているのです。

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 あらぬ噂を立てられたのか、実際それだけのものでしかなかったのか、陰口に翻弄された覚えが、私にもあります。火のないところに煙が立たないのですから、非があったのでしょう。きっと、私だけではなくどなたにもおありでしょう。私は、人のことを、闇雲に他の者に話すことはしないで生きてきました。ある方が、「団扇(うちわ)」を書いて送ってくれたことがあったのです。当事者間だけに、すなわち「内輪」なことにしたらとの勧めで、私たちの決心を後押ししてくれたのです。

 何を言われても構いませんが、周り回って、家族の耳に入るのは困ったものです。でも、主は、それを許されておいでなのだと思って聞き過ごしてきました。大切なことを学んだのですが、馬耳東風に聞き流すことです。与太っ口(ある地方の方言で「無駄話」のことです)に、どなたも煩わせられないことです。

 やがて教会は、教会の主をお迎えする花嫁のように、聖くされて、その婚姻の席に出るのです。今は煩わしいことばかりかも知れませんが、御前に立つことのできる者とされる、この希望を持ちながら、この世の中で、主が願われるような者と、さらに変えられていきたいものです。

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赤とんぼ

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 毎日送信してくださる「野生を撮る」に掲載されていた、賀茂台地(呉市郷原町)のマユタテアカネと、家内が撮った栃木巴波川の家のベランダに止まっていた赤とんぼです!

 市の運動公園のグラウンドでは、無数の赤トンボが、秋の陽射しを受けて飛んでいました。でも昨日の栃木は、35℃もあった気温が、今日は嘘のように、秋めいた気温になっています。高気温に踊った今年の夏と秋でしたが、芸術の秋も、食欲の秋も、これを楽しめるのはいいものです。

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時間や瞬間の「間」が

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 『勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。(箴言215節)』

 この絵は、下村観山(1873年に和歌山市に生まれ横山大観らと共に日本美術院を創設した人です)の描いた「鵜」という題です。本当の絵はこれよりも大きな画面で、その左下に一羽の「鵜」が描かれているだけなのです。これも日本画の「間(ま)」のある画なのです。大きく羽ばたくように描かないで、空と海の間に位置する一羽の「鵜」の存在が、「間」を生かし、「鵜」が、「間」を生かしている、ものすごい画なわけです。

 「間延び」と言う時間の制止と動きとの間に、「間」があって、それが長過ぎてしまうのを、そう言うのでしょうか。楽観的な人の生き方、動きなどに、そう言った焦らないで、待つような、やり過ごすような「間」があってよいのでしょう。

 「欠損を招くだけ」と聖書が警告しているような生き方のせっかちな私と違って、急がないでゆっくりと、考えながら行動したり、決断する家内の生き方が、今では一番よいと思えるようになってきました。愚鈍な、呑気な、様子待ちの生き方は、四人の男兄弟で育った私には、そんな生き方をしたら置いてけぼりで、おかずをみんな、兄弟たちに食べられてしまうので、食べ急ぐ間に、せっかちの度を上げてしまったのです。

 今朝も鏡に映る顔を見ると、そんな若い頃とは違って、少々間延びをしたような、容貌の作りに変わってきているのが、よく分かります。キリキリして生きていた若い頃は、せっつかれているようで、緊張度が高かったなあと思い出しています。もう、急ぐ必要もない、単調な生き方の許される〈黄昏時〉を迎えて、夕日が伸びていくように、生き方自身が、「時間」に追いかけられたりすることもなく、人に急かされたりしないので、のんびりできていいものです。

 そんな中、「間の美学〜日本的表現〜(末利光著、三省堂選書)」を、図書館から借り出して読んでいるのです。著者の末氏は、NHKのアナウンサーを長年された方で、喋りの巧手という方です。1929年の秋季の六大学野球・早慶戦中継のアナウンスで、『夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽・・・』との語りで有名を馳せたアナウンサーに、語りの「間」の重要性を学んだのだそうです。

 そう言えば、語りの名手の森繁久彌も、元アナウンサーで、旧満州の放送局に勤務されていて、歌も語りも、この人の「間」には魅力がありました。様々な社会の分野にも、この「間」があって、それが実際に効果をあげたり、ゆとりをみせたりしているのだそうです。

 「刑事」の項目で、次のように述べています。『犯罪捜査にも間やリズムがある。事件が終わってみると、それがよくわかる。やたらと焦って追いかけてみても駄目。時として、犯人を泳がせてみることも必要。(誘拐事件では、あえて警察が報道陣に申し入れをして、しばらく報道を差し控えて欲しいということがあります。この間に、犯人の動きを待って、取り押さえようとします。新聞やテレビに出ると、犯人が誘拐した人間を殺してしまわないとも限らないからです。息の詰まるような駆け引きです。「わが社では、事件発生を知っていましたが、人命尊重の立場から、あえて報道をしませんでした。」というのがそれです。』

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 「老い」とは、締めくくりであって、「間」ではなさそうですが、「間」だらけになってしまったようで、ないだ波の港に曳航されてきた老朽船のような思いがしています。市の入浴施設が、6キロほど西にあって、朝10時からでしたので、道の駅での買い物のついでで、出かけてきました。きれいなお湯に、一時間ほど浸かって、延びた「間」を過ごしたのです。

 やがて、待ち望んできた「瞬間」が来るのです。永遠への序曲が奏でられ、その世界への約束が実現間近なのでしょうか。考えもしなかったような時が巡ってきて、そんな老いを生きられて、もう怠けているように思うことも無くなったのです。

 11の講座のある市民教養大学に申し込んで受講中です。先週末は、「まちぐるみで認知症高齢者を支える」という一般公開の講座で、獨協医科大学・日光医療センターの脳神経科の渡邊由佳医師の講演がありました。「間」を、意味のある生活をしていけるようなお話でした。

 これまで、学校と教会とで、長く話す仕事をしてきましたので、上手に話すのは、経験が与えてくれることですが、話の「間」が大切だというのが学んだことかも知れません。立板に水よりも、「間」を置いて話す方が、聞き手には好いようです。祈りも説教も、ちょっとした「間」があると、聞いてくださる神さまも、ホッとされるかも知れません。

 今は、ことば、意見、思想、チャット、小声、大声などが洪水のように溢れかえっている時代です。表現の自由が、溢れて、こぼれ落ちている感がします。世の中が、早口言葉のように、speed up してしまい、止まることも、休むこともなくなっているので、かえって「間」が必要になっているのではないでしょうか。

 聖書の「詩篇」と「ハバクク書」に、「セラ」が出てきますが、私たちの母教会を訪ねてくださった聖書教師が、説教の中で、『セラは小休止の意味と思われます。』と教えてくれたことがありました。まさに、それこそ、神の定めら、私たちに求めておられる「間」なのではないでしょうか。

( 下村観山」の「鵜」、「四分休符」です)

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