美しいいちょう並木が

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 まるで燃える様なイチョウの初冬の装いです。毎年、次男が撮影して、その写真を、昨日、家族のチャットで送ってくれた、神宮外苑の並木道です。東京の人気な観光スポットなのだそうです。シーズン終わりには、ものすごい量のイチョウの葉が乱舞することでしょう。それも見ものになるに違いありません。清掃の心配までしてしまいました。

 このイチョウですが、漢字では、銀杏、公孫樹と二種類の漢字があり、「いてふ」とひらがな表示もしています。与謝野晶子は、よくこの銀杏を愛したて詠んだ様です。

不思議をば形にしたる木の如く月夜に葉をば捨つる枝かな

日の射して狐の毛にも似る銀杏稀に青かる極月(ごくげつ)の空

金色の小さき鳥のかたちして銀杏ちるなり岡の夕に

 家内が入院をした、壬生町の獨協医科大学の銀杏並木も見事です。2019年の正月に入院し、退院した今も通院をしていますが、今は3ヶ月おきなので、緑の葉も黄金の葉もタイミングが合わなくなっている今です。喜ぶべきか残念がるか、少々複雑な思いがしております。今頃は、神宮に負けないほど綺麗な黄金色なのでしょうね。

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私に定められた時を待つ今

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 「懐古」と「追想」、歳を重ねるごとに、二親のこと、幼い日からのいろいろな出来事、兄弟や友だちのこと、色や匂いや風景や印象をひっくるめて、それらを思い返したり、その人や出来事のあった街を訪ねてみたい思いがしてきます。それらとは違って、これから迎える未知の経験にも、間違いなく近づいていることにも、思いを向けないわけにはいきません。

 聖書を読み始めて、知ったことがあります。すべてに、人に与えられた「時」、しかも、その「短いこと」と、「定まった時」があると言うことです。「詩篇」と「伝道者の書」の中に、次の様にあります。

『あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(新改訳聖書 詩篇90篇3〜12節)』

 人の一生は、「夜回りのひととき」、「移ろう草」、「しおれて枯れる花」、「ひと息のように終わる」、そんな風に、聖書は言っています。「千年が一瞬に過ぎ去る」、これは、「人生短し」の一言に尽きるのでしょう。溢れるほどに時がある様に思っていた日を思い出して、苦笑いをしてしまいます。

『帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(同13〜17節)』

 そう、詩篇の作者は続けています。「満ち足りること」、「楽しむこと」、「喜び歌、楽しむこと」、こういったことこそが、自然の理であって、人はそうすべきなのでしょう。七十年から八十年の間に、人の一生の「時」が定められています。それに、付け加えることも、間引くことも、人にはできないのです。

 一生の儚(はかな)さを、親鸞は、次の様に詠みました。

明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かむものかわ

 明日は必ず来るとは限らず、見ている間に、嵐が吹き荒れて、一瞬のうちに、時も出来事も、そして自らの命さえも失せてしまうと言うのです。この親鸞は九十で亡くなります。また信長も、「幸若舞 敦盛」を舞いながら、次の様に詠んでいます。 

『思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間(じんかん)五十年、下天(化天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。』

 信長を、最後には本能寺で討ってしまった家臣の明智光秀は、次の様に辞世の句を残します。

『従順無二門大道徹心源五十五年夢覚来帰一元

「恭順も良く、反逆も良いという、この二通りの道は存在しない、人の行うべき通りが存在することが、心の底まで深く分かった。五十五年の夢から目覚めて、黄泉に下ろうとしている。

 歴史家は、追い詰められ、切羽詰まって、『敵は本能寺にあり!』で、信長を、光秀は討つたと言いますが、戦死した家来の家族に、供養米を届けさせるほど、部下に優しい指導者だったと言われますが、戦国の世の常、平々凡々の平成の世の私には、光秀を思いはかることはできないのです。

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 この光秀を打ったのが、秀吉でした。今太閤と言われた、足軽上がりの指導者でしたが、天下を収めたのは、驚くほどの才覚の持ち主だったからでした。そんな秀吉も、病には勝てずに果てます。

露と消え露と散りぬる我が身かな浪花の事は夢のまた夢

 あの「聚楽第(じゅらくだい)」を造営するほどの力を、天下に示し、朝鮮半島にまで兵を送り、日朝の間に禍根を残しますが、六十一年の生涯を閉じています。

 九十年を親鸞が、四十八年を信長が、秀吉が六十一年を生きて、死んでいきました。聖書は次の様にも、記します。

『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。(伝道者3章1〜8、17節)』

 どの様なことが起ころうとも、偶然はなく、「定まった時」があると言うのです。6歳上がりに小学校、でも入院中で学校に通った日がありませんでした。クラスの仲間を知らないで東京に越して、転校したのです。

 何度も何度も引越しをして、今住むここが自分の「終の住処(すみか)」なのでしょうか。自分に残されている時間を数えてみると、どうみても、もう五年ほどでしょうか、少しおまけで加えても七年かも知れません。そんな思いに晒(さら)されるこの頃です。

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 しかし、薄ぼんやりした将来を、不確かな思いで、私は待っているのではありません。『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23章43節)』と、十字架上で、共に処刑場に立たされた犯罪者に、イエスさまが語った様に、私にも《定められた「きょう」》が、間も無くくることでしょう。そして、パラダイスに、その日から永遠に居続けることができる、そう自分は信じているのです。

 お隣の国からと心密かに決めていましたが、主は2019年の1月に、祖国に帰らせてくださって、今住んでいる「ここから」行くのでしょうか。はたまた他の国や街からでしょうか。私にも、「定まった時」があるのです。残された時を、悔いなく過ごして、自分の時を迎えたい今であります。

(ウイキペディアの日時計、聚楽第の図会、日の出です)

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粋で繁華な浅草に

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 江戸の昔から昭和に至るまで、東京で一番の繁華街は、浅草でした。北関東や東北や越後などから、華の都会として憧れたのは、新宿でも池袋でも渋谷でもなく、銀座は別格として浅草、そこは食べ物も観劇も、落語や講談や浪曲、活動写真も、花屋敷も、どうしても浅草だったに違いありません。新宿や品川の様に、主要交通網の玄関口ではないのですが、浅草は、強く江戸を感じさせる街でした。

 新宿は、中央線でつながる山梨や長野から、池袋は、西武線沿線の埼玉県から、上野は、東北本線の北関東や越後や東北や常陸や房州から、渋谷や品川は、小田急線や東急線で、神奈川や静岡からの訪問客が多いのかも知れません。北関東の栃木と群馬は、浅草だったのでしょう。よく聞くのは、新宿は信州弁や甲州弁が聞こえ、渋谷は相模弁、池袋は埼玉弁、上野は東北弁や越後弁や茨城弁などが聞こえてくるのだそうです。もちろん茨城も千葉も、東京と繋がっていたわけです。浅草は、全国区だったのでしょう。

 私が、おもに利用している電車は、日光や宇都宮や鬼怒川と浅草を結ぶ東武鉄道で、栃木県人は、その電車に乗って出掛け、一日、浅草周辺で、都会の空気を吸い、美味しいものを食べ、贔屓の劇を観て過ごして、帰ってきたことでしょうか。また県北の宇都宮以北や日光周辺は日光線で宇都宮経由も、旧国鉄の東北本線(今では宇都宮線と呼ぶ様です)で上野に出たのでしょう。

 父が元気な頃からですが、浅草で、「駒形のどぜう鍋(どじょう)」を一緒に食べる口約束があったので、これまで通り過ごしてきた浅草は、東武鉄道で一本の浅草を、どうしても訪ねてみたい街なのです。父は、北関東ではなく、相模の横須賀の出身なのですが、品川や銀座ではなく、青年期には、浅草で過ごした時間が長かった様に思えるのです。明治生まれの世代は、戦後に栄えた新宿や渋谷や池袋ではなかったのでしょう。浅草橋で、父は仕事をしていたこともありました。  

 東京都下の多摩地区に住んでいた子どもの頃に、渋谷に連れ出してもらって、『こんなに美味いものがあるんだ!』と言って、仔牛のシチュウと黒パンを食べさせてもらったり、新宿のコマ劇場に観劇に連れて行ってもらっていましたが、次の父の約束の「浅草行き」は、果たされていないままで、自分には「憧れの浅草」なのです。

 代官山に次男が住んでいた時に、上の娘も一緒に、3人で渋谷に出て、地下鉄で浅草に行ったことがありました。美味しい鰻の店があると言って、連れて行ってもらったのですが、残念なことに、その日は定休日でした。空約束になって、長い時間、順番待ちで並んで、スカイツリーにエレベーターで昇って、なにをたべたか思い出せないまま過ごしただけの一日でした。

 南栗橋で都心につながる乗り換えの急行電車しか乗ったことがありませんので、今度は、人気の浅草行きの特急「スペーシアX」に乗って、「エンコ(明治以降に整備された浅草公園の呼び方でした)漫歩」をしてみたいのです。家内を誘うのですが、まだそこまで力がありませんし、どうも行きたがっていませんので、お預けのままなのです。

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 父の若い頃に流行った歌に、「東京行進曲」がありました。「粋な浅草」と、三番の歌詞の中にあります。また、それ以前に、「東京節(1918(大正7)」があって、その二番は、

♬ 東京で繁華な 浅草は
雷門 仲見世 浅草寺
鳩ボッポ豆売る お婆さん
活動 十二階 花屋敷

すし おこし 牛 天ぷら
なんだとこん畜生で お巡りさん
スリに乞食に カッパライ

ラメチャンタラ ギッチョンチョンで
パイノパイノパイ
パリコト パナナで
フライ フライ フライ 🎶

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 この浅草は、江戸時代以前から繁華街として栄えていたそうです。江戸一の下町情緒、江戸情緒の残る街で、今では外国人観光客で賑わいを見せているそうです。草深い武蔵野の中で、草があまり茂っていなかったため、「浅草」と呼ばれるようになったのだと言われています。

 「東京で繁華」と歌で歌われ、その象徴の様に、浅草と上野とを結んだ、「地下鉄」が東京で初めて運転したのが、昭和2年(1927年)12月30日でした。それはアジア初の「メトロ(地下鉄のことを略称してそう呼んだ様です)」で、銀座線で2.2kmの距離だったのです。父の十代の終わりの頃の開通でした。

 もう6年も住んで、すっかり栃木人化している自分ですので、自分にとっての身近な都会は、この浅草なのです。どうもなかなか行けないのは、次男が、ここ浅草名物、草団子の中に練り込まれた「蓬(よもぎ)」が体に良いからと買って、来るたびに、持って訪ねてくれるのです。

 浅草は、東京一、美味いものが多かったそうです。古川緑波が「浅草を食べ」の中で、こんなことを書き残しています。

『浅草独得(ではないが、そんな気がする)の牛めし、またの名をカメチャブという。屋台でも売っていたが、泉屋のが一番高級で、うまかった。高級といっても、普通が五銭、大丼が十銭、牛のモツを、やたらに、からく煮込んだのを、かけた丼で、熱いのを、フウフウいいながら、かきこむ時は、小さい天国だった。 話は飛んで、戦後の浅草。ところが、僕、これは、あんまり詳しくない。それに、浅草自体が、独得の色を失って、銀座とも新宿ともつかない、いわば、ネオンまばゆく、蛍光灯の明るい街になってしまったので、浅草らしい食いものというのが、なくなってしまった、ということもある。(「ロッパの悲食記」ちくま文庫、筑摩書房)』

 長い時間の経過とともに、この街も大きく変化をしてきているのでしょう。この浅草も「らしくなくなってしまった」街でいいのでしょう。生き物の様に、街が変わっていくのは当然だからです。ただ一人一人の記憶の中に残った、情景を思い返せた都会経験が、ここ栃木県人の「華の浅草」訪問だったに違いありません。

(ウイキペディアの広重の描いた浅草、浅草十二階、セリカ病院から見た隅田川です)

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オートバイへの思い

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 「オトキチ」、オートバイ狂やオートバイに魅せられて、ハンドルを握り始めた若者、買って乗ってみたいと思いながらも、親に頼めないし、手に入れることの叶わない自分、そんな子どもも若者も大人も、みんなを評して、オートバイに魅せたれた人たちを、「オトキチ」と言ったでしょうか。これも死語になっていそうです。

 昨日、YouTubeを見ていましたら、「月光仮面」 のテレビ放送の主題歌を、〈FORESTA(合唱グループ)〉が歌っていました。中学生の頃(1958〜1959)年に放映されていて、まだテレビが父の家にない頃に、どこで観たのか、「正義の味方」のオートバイに乗った主人公が格好よかったのです。

♬ どこの誰かは 知らないけれど
誰もがみんな 知っている
月光仮面の おじさんは
正義の味方よ よい人よ
疾風(はやて)のように 現れて
疾風のように 去ってゆく
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう

どこかで不幸に 泣く人あれば
かならずともに やって来て
真心(まごころ)こもる 愛の歌
しっかりしろよと なぐさめる
誰でも好きに なれる人
夢をいだいた 月の人
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう

どこで生まれて 育ってきたか
誰もが知らない なぞの人
電光石火(でんこうせっか)の 早わざで
今日も走らす オートバイ
この世の悪に かんぜんと
戦いいどんで 去ってゆく
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう ♬

 今の特撮には及びませんが、あの頃は画期的な番組だったのです。主人公の祝十郎が、実は月光仮面でした。弱気を助け、強きをくじく、「我らがヒーロー」だったのでしょうか、その後、多く登場するヒーローの原形でした。まだ高速道路などができる前でしたから、どこかの公園の脇の様な箇所を、爆音を上げて疾走する場面が、番組の始まりだったのです。

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 この月光仮面のオートバイは、アメリカ製のハーレー・ダビッドソンの「ナナハン(排気量700ccの大型オートバイ)」にまたがっていたのではありませんでした。高校生から譲り受けた、ホンダ製の小型バイクのモンキーには、自分は乗ったのですが、「メグロ」は憧れのバイクだったわけです。まだ五十年代んは、まだオートバイ産業が盛んになる前でしたが、でも、そのオートバイブームに火をつけたもので、その走りになった車種だったかも知れません。

 『いつか乗ってみたい!』と、同時の男の子は夢を描いていたわけです。今、この街の駅から来る道を、時々、爆音をけたたましく上げながら、走っている若者がいます。令和の代にも、いるのですから、このマフラーを改造したバイクの音は、窮屈な社会から枷(かせ)への若者の反発の思いを代弁している声かも知れません。

 「来た道」を思い返すと、反発心旺盛の頃に、さまざまな不協和音をあげて、大人のみなさんにご迷惑をかけていた自分を思い返して、今も苦笑いしてしまいます。「来た道」と、ちっとも変わらない、この若者の行動を容認している私なのです。

 それにしても、月光仮面の登場シーンを見て気付いたのは、『オートバイを乗り回すんだ!』と強く思い始めた、そのキッカケになったのが、あの場面だったのです。あの時代の十代の自分に、強烈な憧れを抱かせテレビ番組だったわけです。

 月光仮面の仮面の下の顔は、誰も見ていないので、『♬ どこの誰かは知らないけれど・・・』、『なぞの人!」と、主題歌が歌い出されたのです。この月光仮面を大瀬康一という俳優が演じたのですが、あのアメリカのテレビ番組の「スーパーマン」の日本版で、空は飛ばないのですが、オートバイをスピードを上げながら疾走する姿は、圧巻でした。仮面姿、変身が特徴で、その後のTV番組のモデルだったのです。

 そういえば、モーターの付いたものに、初めて乗ったのは、弟が友だちのお母さんからもらってきたスクーターでした。今は公団住宅ができ、それが壊されてrenewalさていますが、その元だった畑道を、弟と乗り合った時だったでしょうか。また高校のグランドで、同じクラブの仲間が乗ってきたスクーターに、目を丸くしながら跨いだ日がありました。あの時々の頬をなぜた風の感触が、なんとも懐かしく思い出されてなりません。

(ウイキペディアの栃木県那須烏山の工場で製造されていた名車メグロのオートバイ、ホンダ製モンキーです)

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聞くのは噂か預言のことばか

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 「35人ルール」、どんな事故でも、公表される死者数は、「35人」に決められて、公表されるのが、お隣の国の地方の都市で起こる事故や事件における死者数なのです。それ以上の数は、ほとんど例外なくありません。それは、周知の事実で、あちらにお住まいのみなさんは、実数を信用していません。どうしてかと言いますと、それ以上の人数になると、公に処罰対象になり、責任者は罷免させられたり、左遷、降格があるからなのだそうです。

 それを避ける保身のために、『実数を公表しないのです!』との通例になっていると聞きました。長い間、あちらで生活した時には、地震があっても、交通事故や炭鉱に落盤事故があっても、その犠牲者は、35人に上限が決められて、報道されていました。公表されるのが、地方の都市で起こった事故や事件における死者数なわけです。

 パニックが起きてしまうから、それを避けるのだとの言い訳もある様です。これって、日本でもありそうです。「事実」が公表されないのは、今に限ったことではありませんでした。報道規制がなされていた、戦時下に、『勝った、勝った、また勝った!』と、軍事作戦の成功を、煽り上げていたのです。

 偽装と虚偽の報告がなされる社会は、事実の上に立たないので、不安が満ちて、落ち着きません。不信が社会に満ちるのです。今回の地方選挙の中で、驚かされたのは、県会、百条委員会の決定で、失職した兵庫県知事が、選挙で返り咲いたことに驚かされたのです。すっかり自分が騙されたので、誹謗中傷の矢面に立たされ前知事の悪行報道を鵜呑みにして、ニュース報道を疑わなかった私は、狐につままれた様でした。

 テレビも新聞も、報道各社は、異口同音、同じ扱いでした。それを聞いて、自分も信じてしまったことは申し訳ないことと、反省させられています。事の真相が明らかになっていくのでしょうけど、言い訳をしなかった知事さんはすごいと思ったのです。

 人を陥れようとする悪意が、こんな形で行われるのは、珍しくないことですが、これからは、こう言ったことが、さらに多く起きてくるのでしょうか。自分では、噂話には関心を持たない様に生きてきたつもりですが、落とし穴に嵌(はま)る危険性が、いつでもありそうで、怖い感じがしております。

 武器や弾薬を使わない、「うわさ戦争」が、世の中にあります。正しく判断しないで、その四方八方から、あらゆるメディアを通してやってくる噂話に耳を傾けて、信じてしまわない様にしようと思う今です。

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預言者エレミヤは、次の様に警告しています。

『そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。(新改訳聖書 エレミヤ51章46節)』

 あふれるほどの噂話が起こった時代について、預言者エレミヤは、この書の中で、多くのことを預言していますが、その預言は、これから迎えようとしている時代に対する預言だとも思われます。「人々のうわさ」を聞くか、「預言者の声」に聞くか、私たちは、正しく聞くなら、祝福に預かれ、惑わされることがなく、救いに預かることができるのです。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33章3節)』

 呼び求める、叫び求める私たちに、神さまは答え、告げてくださるのです。多くの偽預言者の声が聞こえてきますが、神さまが書き記す様に導かれた「聖書」、そこに書き記したことに耳を傾け、神さまが、派遣される、真実を語る「預言者」の語ることばを聞くことが肝要です。

(Christian clip arts の聖書記者ルカ、ウイキペディアの「法螺〈ホラ〉」を吹く人です)

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出流の山麓の皇帝ダリアと紅葉

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 昨日は、自治会のseniorのみなさんと、ふれあいバスに乗って、市の北にある出流山の麓の蕎麦屋さんに、新蕎麦を食べに出かけました。ここは幕末に、水戸天狗党が立籠った地で有名です。煮しめ二点、漬物、野菜の天麩羅に舌鼓を打ちました。

 真っ青に晴れ渡った山の佇まいも、新蕎麦の味も格別でした。7時過ぎから、うずま公園の枯葉の掃除に出て、一汗かいて出かけました。好い味と交わりの一日でした。

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初冬の日の出です

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 そう言っても、12℃も気温がありますから、まだ秋なのでしょう🍂 遠くに筑波の峰がうかがえます。稲刈りが終わった田んぼには、蘖(ひこばえ/切り株)が残されていますが、今年は、11月になっても、暑い日が続いているからでしょうか、青々として、第二の稲が、背丈を延ばしているかの様です。やはり、珍しい風景です。

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開発か濫伐か

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 ニューヨークのマンハッタンにあるセントラル・パークは、市民や訪問観光のみなさんに、とても親しまれていて、緑豊かな巨大な公園なのだそうです。ニューヨーカーのみなさんは、このセントラル・パークの木を切って、ビルを建てようなんて、だれ一人言わないのだそうです。とても大事に管理されているのです。

 ところが東京都は、大手の不動産会社の手で、樹木の切り倒しが行われています。ニューヨークと同じ様な巨大都市で、土地の価格は天文学的ですが、巨大なビルや住宅を作るのに、それを犠牲にしても、心が傷まないのかが不思議でなりません。

 この東京は、明治以降、京都から遷都され、東京市と呼ばれる様になりました。それより以前、江戸にはなにもない関東平野の海岸に面した漁村に過ぎませんでした。太田道灌の築城したものに、手を加えて、徳川家康が江戸幕府の要を置いた街でした。漁民の住むの湿地を、大々的に整備して、世界中で、最も整備された街としたのです。

 明治になって、さらに整備され、とくに関東大震災後、帝都復興院の総裁となったのが、盛岡藩出身の後藤新平で、街づくりに奔走します。内務大臣であった後藤新平が、都市計画家として、東京の街づくりに敏腕をふるい、力を注いだのです。

 道幅の広い道路づくりや、街を整った形に変かえる区画整理に力を注ぎました。現在の「昭和通り」、「靖国通り」(当初は大正通りと呼ばれていました)、東京の環状線となる「明治通り」(今の環状5号線)などが敷かれ、街路樹などが植えられたのです。

 自然を残しての近代都市であるべきなのに、〈都市開発のために!〉との肝入りで、美しい東京、神宮外苑の自然に手を入れ、樹木を伐採するのに、反対の声が上がっているのに、計画を強行する、その思いが分かりません。《もったいない》のは、土地を遊ばせておくことではなく、土地を荒らすことにあるのに、そう思わないのでしょうか。

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 市街地の北に、総合運動公園と言う緑の溢れた一廓が、自分の住む街にあって、そこまでの散歩が、主な自分のコースになっています。鳥の囀りが聞こえ、春が近くなると、木々に蕾が膨らんできて、花が咲き、夏には鬱蒼と緑が濃く茂り、秋には紅葉し、冬には冬籠りしていきます。この自然のサイクルがあって、とても楽しむことができ、何よりも、その中ほどにある東屋やベンチに座ると、ホッとさせられるのです。

 ときどき学校帰りに、新宿御苑に行きましたが、あの繁華な新宿に、静まり返った公園が残されているのは、実に素晴らしいことでした。その続きの神宮外苑も、そのままに残したいものです。自然との距離が大きくなるにつれて、人の心が荒廃していくのです。それは横にだけではなく、高層階に住むほどに縦の距離が地表から遠のくにつれて、同じ様に、心が荒(すさ)んでいくのです。

 枯れ葉が落ちて、散っていく様に、一人の少女の命が削られていく、「最後の一葉」の物語を、家内が高校の演劇部で、主人公になって演じたのだそうです。画家のMr.ベアマンが、窓にでしょうか、一葉を描き、それを見た少女が、死期を伸ばして行くのだそうです。そんな話を聞きました。神宮外苑にも、ぜひとも残しておきたいものです。

(ウイキペディアの神宮外苑、NYのセントラル・パーク、運動公園です)

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秋深し、冬?

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 総合運動公園の木と空とグラウンドです。秋深し、すでに冬でしょうか。枯れ葉を踏んでの散歩でした。それでも汗ばむほどでした。まだ、今年の気候は異常で、日本の南には、複数の台風が発生していると、天気予報がありました。次郎柿が出回っていて、つい買ってしまい、家で剥いて食べたら、懐かしいふるさとの味がしてきました。

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