さまざまな「春の」と「の春」について

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 「春の足音」、「春の息吹」、「春の音」、「春の声」、「春の味わい」などと、その「春の」と言う言い始めに続く表現が多くあります。華南の街の春の訪れは、「春節」にあり、冬の間、待ち侘びていた春の時の迫りに、万物が「蠢く(うごめく)」、「蠢動(しゅんどう)」し始めるのですが、多くの虫が動き出すのが春だからでしょうか、この漢字が当てられています。

 ところが、4月だと言うのに、気温が30℃にもなる日がありました。今や地球は、温暖化で気温が上昇してきています。この夏場は、どうなってしまうのだろうかと心配しているところです。ですから、「短い春」を、もっと楽しみたいと思っていたのです。

 これまで聞き、読みした表現の中で、一番興味を覚えたのが、「春の背筋」、「春の歩幅」でした。北陸地方の地方市の新聞記者の方が、書いていたいた記事で、そう言う表現を知りました。それを読んで、私は、ブログに書いたのです。その一部を、再掲載してみます。

 『・・・「春の背筋と歩幅」と、ある新聞が、昨年の今頃、記していました。とても素晴らしい表現だと感心してしまったのです。と言うのは、真冬に、道行く人の背筋は丸く縮まり、歩幅は小さいのですが、どんなに寒さがぶり返してきても、春の声を聞くと、道行く人の背筋はピンと伸び、歩幅も大きくなるのでしょうか。『春だ!』との思いが、冬の防御的な生き方を終わらせ、期待感や喜びをもたらす生き方に変わっていくからでしょうか。

 これを書いた新聞記者の方が、「米原駅」での経験を添えて記していました。この駅は、在来の東海道本線と東海道新幹線、そして北陸本線の乗り継ぎ駅で、太平洋側に出掛けた方が、北陸の街に帰って行くために乗り換える駅なのです。人生の<交差点>とでも言えるでしょうか。

 この方は、金沢に帰ろうとして、北陸本線に乗り込む前に、駅弁を買ったのです。その様子を見ていた、ある人に、『北陸の人だね。』との声をかけられたのだそうです。雪国の人は、雪が少ない米原の駅でも、背筋を丸め、狭い歩幅で歩くといった特徴を見破られたのです。』

 スーパーの売り場に、真っ赤な上下揃いの下着が、溢れるほどに積まれていました。それは、華南の街の「春の風景」、風物詩でした。「春節」を待望する強い思いは、まず日本ではみられないようです。その巷に溢れかえる色彩に、〈縁起の良い色〉で、まさに「春の色」を見せておるのです。中国の赤は「紅」であって、健康色だと言われています。

 仕事着の医療を商いにする店で、散歩用の靴を買って、それを買い次いで履いてきていますが、残念なことに生産中止で、履き続けることができなくなってしまったのが残念なのです。軽くて、あの地下足袋のように、路上に素足で触れるような感じが好かったのですが、仕方のないことです。代替物を見つけずに、踵のすり減った吃を、まだ履いています。これが、十三年間、記憶に染色された私好みの「赤色のスニーカーなのです。

 もう春を話題にできないほどの気温になってしまいましたから、もう春雷も聞き、春雨に打たれ、春風を頬に感じてしまい、背筋も伸び、歩く歩幅も広くなっていき、すでに「春の終焉」と言ってもよいのでしょうか。今や「春の黄金週間」に突入しているのです。

 「プラハの春」、1968年に、チェコソロバキアの首都のプラハが、ソ連の支配を終えたことを、そう言いました。社会人一年生の年でした。もう夏なのですが、「春の到来」、例えばピョンヤンの春、ペキンの春、そして「キーウの春」は、いつ来るのでしょうか。

(ウイキペディアによる「プラハの春」です)

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ふるさとの

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 三木露風の詩に、「ふるさとの」があります。露風十八の時の作で、初恋の想いを詠んだようです。

ふるさとの 小野の木立に
笛の音(ね)の うるむ月夜や

少女子(おとめご)は あつき心に
そをば聞き 涙ながしき

十年(ととせ)経ぬ 同じ心に
君泣くや 母となりても

 明治末期の少年の恋心、それを詩に表すほどの露風の文才に驚き、さらに早熟だったのにも驚かされます。そんな片思いで終わってしまった初恋の人がいて、恋こがれるような時期が、この自分にもありました。人に言えない、そんな想いを心の奥深くにしまいこんであります。

 もうだいぶ前になりますが、NHKの夜の時間帯に、「にっぽんのメロディー」と言う番組がありました。聴取者からの便りが読まれて、毎晩二曲の歌が放送さたのです。そして俳句が詠まれ、放送を担当した中西龍(りょう)アナウンサーが解説し、番組の前奏曲と後奏曲に、「赤とんぼ」の曲が流れていました。

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか

十五でねえやは 嫁に行き
お里の便りも 絶え果てた

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

 この歌も露風の作詞で、露風の故郷の兵庫県龍野町を思い描いて作詞されたのでしょうか、実に叙情あふれる歌です。私が学んだゼミの歌で、何かあるとみんなで歌ったのです。この詞の中の「姐や」は、お姉さんなのではなく、露風の家のお手伝いさんだったのでしょう。その姐やが、少年露風の初恋の相手だったのかも知れません。この姐やへの想いを詠んだのかも知れません。

 私の家族が、東京に出てきて住んだ家は、旧甲州街道に面していて、小高い丘陵を切り開いて、道路が敷かれていました。そこには、絹糸を取る繭(まゆ)の餌になる、桑の木の畑が広がっていたのです。そこに「どどめ」と呼んだ桑の実がなっていました。

 近所の遊び友だちに誘われて、実を摘んで口いっぱいに、それを頬張ったのです。果物の少ない頃でしたし、初めて食べてから、美味しいので大好きになってしまいました。それが実る季節には、手で摘んで食べ続けていました。 ほんとうに美味しかったのです。今年も、5~6月あたりには実ることでしょう。でも桑畑が、こちらでは見当たりません。

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 幼い日の今日に至る日々の思い出は尽きません。広大な関東平野の西の端に近く、奥多摩を源とする多摩川が流れ下っていて、江戸と甲州、信州を結ぶ間にあった街でした。南に富士を仰いで、田んぼが広がる農村でした。そこに7歳から13年ほど生活したでしょうか。

 「出身地」は、生まれ故郷とは別に、小学校時代を過ごした村や街を言うのだと、聞いたことがあります。貝塚があって、そこに通っては、古代人の生活を探りたい想いで、土を掘り起こしていた日々がありました。古代と自分の時代との、時間の隔たりが不思議で仕方がありませんでした。

 もうふるさとも出身地も、遠い存在になってしまいました。聖書を読む人は、どうも過去にではなく、未来に思いを向けているようです。

 『されど彼らの慕ふ所は天にある更に勝りたる所なり。この故に神は彼らの神と稱へらるるを恥とし給はず、そは彼等のために都を備へ給へばなり。(文語訳聖書、ヘブル書11章16節)』

 「彼ら」とは、神を神として信じた者たちであり、その慕う所は、「天国」だったのです。この地上の生まれ故郷も出身地も、生活を営んだ街々も、比べればさらに勝る所なのです。信仰者たちの「憧れの地」、「永遠の故郷」なのです。そここそ、私の真正の「ふるさとの」であります。今は病むことも、悩み迷うこともあります。でも単純に信じて生きられるのは感謝なことです。

(ウイキペディアによる露風のふるさとの「龍野市の揖保〈いぼ〉川」、「多摩川」です)

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汝も藤原、我も藤原!

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 「落人部落」と言う地域が、日本の国にはあるようです。栄枯盛衰、栄える時期は、そう長くなく、次の支配者に席を譲って、都落ちをし、山間(やまあい)の僻地に移り住んで、ひっそりと田や畑を耕して、生き延びてきた氏族の末裔のようです。

 何年か前に、県の北の方、日光市の湯西川に、清流が流れていて、その上流に、平家の落人伝説の地があって、そこを訪ねたことがありました。東武電鉄の鬼怒川温泉駅からバス路線があって、それに一時間ほど、まさに山の中を揺られながら進んだ終点に、その地があったのです。

 そこに住んでいる人の話によると、落人伝説ではなく、『木こりが移住してきて、ここに住み着いたのが、この部落の始まりなのだとも言われていて、この平家伝説は、最近のものなのかも知れません!』と話してくれました。観光開発のために、その可能性を引き出したのでしょうか。

 それ以前、小学校の地理だったか、歴史の授業でしたか、そこで学んだ、「五家荘(ごかのしょう)」と言う地が、九州熊本にあると言うのを学んだです。独特な伝統を残していて、とても強い興味を引き起こされたのです。

 この五家荘は、熊本の八代市の山間部にあって、『驕る平氏は久しからず!』と、「平家物語」で語り伝えられるように、ここも、その平氏の一統が、源氏の台頭に押されて、政権交代で、九州に落ち延びた、いわゆる残党が住み着いた地なのだそうです。

 ここ下野国の那須地方の出で、源氏に与(くみ)した那須氏の那須与一が、波に揺れる舟の上の扇の的を射抜いた故事がありますが、その「壇ノ浦の合戦」に敗れて、敗走した平氏、滅び尽くされないために、また、いつか再興を期したのかも知れません。

 私が生まれた、中部山岳の地には、飛鳥時代(669年)に始まる「藤原氏」の姓を名乗る家が多くおいででした。明治の御代、それまで、貴族や武士階層だけにつけられていた「姓」が、農家、商家、手工業などの庶民にも「名字(苗字)」を使えるような「苗字必称義務令」が、明治8年に発令されて、姓名を名乗れるようになりました。

 明治維新政府によって、租税を徴収したり、兵役に就かせるために、名字が必要になったわけですが、さまざまな姓が生まれたわけです。ところが武士であろうと農民であろうと、どんな名門に生まれたとしても、roots を求めると、行き着く先は、アダムに至るわけです。

 山奥ですから、奥山とか奥村の名があってよいのでしょうけど、村長さんも、その「藤原姓」でした。かつての、栄華を極めた、古代の貴族の姓だったのです。一族が分かれたり、没落していったからでしょうか、分家した人たちが、畑地や田圃の少ない山間に住み始めたのです。この藤原は、佐藤、伊藤、工藤、近藤、新藤、加藤、斉藤などの「藤」のつく氏族のルーツだと言われています。

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 ところが、聖書によりますと、人は、アダムの子たちによって、増え広がり、ノアの時代以降は、ノアと三人の子たちによって再スタートしていくのです。私たちは、この日本に渡ってきて住み着いた人々によって始まっていることになります。「名の誇り」などは、後の世の出来事であって、姓名に貴賎などないのです。

 『汝(なれ)も藤原、我も藤原!』で、日本中、藤原の子孫が溢れているのでしょう。お隣の下野国佐野に住み着いた藤原氏が「佐藤」、加賀国(今の石川県です)に住み着いた藤原氏が「加藤」だと言われています。両姓とも、日本中に多くいるのでしょう。人は姓によらず、みなアダムの末裔、すなわち罪を犯した者の子孫であって、その人の価値は、人格の高さにあって、その歴史、経緯が分かるのは、創造主なる神さまだけでいらっしゃいます。

(“ Christian clip arts ” によるイラスト、ウイキペディアによる絵です)
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語るという仕事に携わって

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 社会人になってから、教育関係に5年の間働き、その後、伝道者として働き、もう57年ほどになるでしょうか。「話す仕事」に主に、長く携わってきたことになります。誠実な話し手でありたいと願って、周到な準備をして、教壇と講壇に立った積もりですアメリカの教会でも、台湾の教会でも、大陸の教会でも、聖書からお話をする機会がありました。

 教師は、指導書に沿って準備をしたのですが、百科事典を参考にしたりして、授業の教案準備をした日々の充実さは、宝物のように今でも感じております。省立の学校の外国語学部で、10年ほど日本語も教えさせていただきました。また説教の準備は、テキストは聖書ですし、多くの説教者のみなさんが残してくださった書を開いて参考にし、果たして、その自分の思想が正しいかどうかを判断させてもらったのです。

 さらに、祈りながら、けっこう悪戦苦闘の日々でした。「神のことば」を語るという、畏敬の思いがあって、軽々しく解き明かすことはできませんでした。朝が白ける頃になっても、説教準備ができなかったことも何度かありました。また思いが千々に散るのでしょうか、まとまらないことも、よくあったのです。

 まだ若かった頃、母教会での奉仕を終えて、講壇から降りますと、老姉妹が、『今日のお話はよかったわ!』と言ってくださり、労われたこともありました。説教を手話通訳をしてくださって、そのように聞いておられら方もおいででした。講壇を降りて、礼拝が終わると、近づいてくださって、どんな風にみことばを聞いたかを、手話で話してくださったことがあったのです。

 さまざまな必要を持たれて、教会の交わりの中に加えられた人がおいでなのです。それが教会なのだと再認識させられた時でした。韓国やフィリピンや中国やアメリカ、さらにアフリカのナイジェリアからおいでのクリスチャンたちと、一緒に教会生活をした時期もありました。そのみなさんの顔が、今でも瞼の裏に残されて、時々思い出します。

 お隣の国にいた期間は13年でした。一年間は、天津で語学学習を留学生の立場でしたのです。その時、市の施設に見学に行行きまして、留学生証を出しましたら、それを眺めて係の女性に笑われました。60過ぎの留学生が、彼女には意外だったのでしょうか。でも、学割で入場できたのです。南の方の街に越して、省立大学の漢語学部に入学して、学びを続けたのです。

 そこには、日本人も多くいて、フィリピン、タイ、インドネシア、イギリスなどからの留学生仲間がいました。沖縄からの留学生がいて、県職員を早期退職して、単身で留学されていた方もおいででした。学生寮でパーティーが行われ、有志の出し物が演じられ、歌われて、一緒に食事をし、習いたての中国語で談笑したのです。

 教会生活を始めましたら、熱心な方は、” hallelujah “ と威勢よく初見の挨拶でもあるのでしょうか、ヘブライ語で言われるのには驚きました。『主をほめたたえる!』の挨拶も、クリスチャン同士だったらいいのでしょうか。でも使徒行伝でもパウロなどの書簡の中にはみられません。詩篇とヨハネの黙示録には出てきますから、まあ許されるのでしょう。

 韓国の蒸気機関車のように感じる伝道者が、よく講壇の上で、熱烈に話されていて、それを聞いたことがありましたが、主を愛しておられて、褒め称えずにはおられなかったのだと思います。みことばを涙を流してお話になっておいででした。日本語教育を受けておいでで、非常に上手な話し手でした。ご一緒に食事をさせていただいたことがありました。

 聴衆の心を、救い主に向けさせる、伝道者の賜物をお持ちで、非常に謙遜な方でした。この方のような説教者になりたいと、若かった私は思わされたのです。

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 同じ話し手といえば、「噺家(はなしか)」は、抜群にお上手です。昭和の名人に、六代目三遊亭圓生がいました。この円生師匠は、関西人でしたが、義太夫の稽古を受けていたようで、幼い日に東京に住み始めて、上手な江戸弁の話し手だったのです。

 聞くところによりますと、6才の時には、もう20席ほどの演目を持っていて、高座に上がるほどだったそうです。通常、真打は、30~40年の間に努力して100席ほどが普通なのだそうです。ところが、この円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることが出来た、稀代の噺家だったそうです。

 『え~一席、ばかばかしいお話を・・』と言って話し出す落語なのですが、そ れだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられ、さらに落語好きな人間とされてしまいました。何の取り柄もない私が、「聖書」を語る者にさせていただいたことは、望外のことだったのです。でも、語ることは、なかなか難しい仕事であることは確かなことです。

(ウイキペディアによる聖書の写本、6代目圓生一門の定紋です)

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この街に平安がありますように!

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『我汝らを擄移さしめしところの邑の安を求め、これが爲にヱホバにいのれ。その邑の安によりて汝らもまた安をうればなり。(文語訳聖書 エレミヤ書29章7節)』

 神さまが遣わされ、私が住むようにお定めになられた街の《平安》、《繁栄》、《祝福》を祈るようにおっしゃいました。

 週の初めの日、遣わされた街の平安を、主に祈ります。主のご栄光が顕されるためにです。

射干

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 この写真の花は、「シャガ」と呼ばれ、「里山を歩こう」から配信いただいた写真です。あやめ科の花で、「射干」と漢字表記します。原産は中国だそうで、広島の灰ケ峰の山麓に咲いていると知らせてくださっています。

 こんなに素晴らしく花開くのに、驚かされ、《創造の美》に感動させられっぱなしです。花に目覚めた私は、多種多様の花に圧倒させられ、ホームセンターに行きますと、まず、店外の花や苗のコーナーで時間を潰してしまいます。

 『もっと広い庭のある家に住みたい!』と思うことしきりです。狭いベランダには、何種類もの花が開き始めています。ペチュニアが綺麗に咲き、ルピナスは二期目の花が育っています。キキョウも、もうすぐ開花になるでしょうか。

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入笠山の思い出と鈴蘭と

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 JR 中央本線の富士見駅からも行けますが、家内を誘って登った山がありました。それが標高1995mの「入笠山(にゅうがさやま)」だったのです。その時は、車で行きましたが、12月の初めの頃でした。前日には雨でしたが、全く気にしないで、登山者用の駐車場に、車を停めて登ったのです。高くなるにつれて、登山道に、うっすらと雪が積もっていたのです。前日の雨は、そこでは雪だったのに、注意しなかったのです。

 山上の景色が実に綺麗なので、人気の山なのですが、駐車場は、なんとガラガラだったのです。360度見渡せる山に連れて行きたい思いで、登山情報を調べずに登ってしまったのです。だんだん積雪量が多くなっていくのです。お土産屋の軒の下で、お弁当で腹ごしらえをしてから、頂上行きを断念して、林道に出ました。そうしましたら、けっこうな積雪があって、動物の足圧が見られ、『ヤバイ!』と思ったのです。

 蟹に手を引くのですが、何度も滑って点灯してしまいました。雪の積もったら林道を下りても下りても、駐車場に着かないのです。『初老の夫婦、入笠山で遭難!』と言うニュースが思いにやって来るほどでした。

 登山道を引き返した方がよかったのに、それをしなかったのを悔やみながら、雪に難儀したのでしょう、また私が滑って転ぶのを何度も見て、家内は黙り込んでしまったのです。風は冷たく、靴も濡れていました。必死に、祈りながらの下山、やっと駐車場が見えた時の安堵感は、忘れられません。知人に連絡しようとしましたが。携帯電話は繋がりませんでした。

 あんなに恐怖心に駆られたことはありませんでした。山を軽く見たわけではないのですが、状況判断を怠ったわけです。あれ以来、決して無理をしなくなりました。それ以来、低山専門に変えて、今は、蕎麦屋通いの大平山、標高314mで、昨年でしょうか、熊の出没のニュースを聞いた頃から、歩きでは近づかずにしているのです。

 どうして、入笠山を思い出したかと言いますと、何を植えたか忘れていた、ベランダの隅の鉢から芽が出てきて、この写真のように、「鈴蘭」の花が咲き出したからです。この入笠山には花畑があって、鈴蘭が綺麗だったのを思い出し、危うく遭難しかけたことを思い出したわけです。

 健気で、清楚で、可愛い花ですね。若い頃に、白樺湖に行った時にも、この花が綺麗に咲いていたのに、ここ四階のベランダで咲き始めて、なんとも心落ち着かせられているところです。昨日、満開がちょっと過ぎでしたが、大好きな思川桜を見せに連れ出していただいて、それを外に見て、昨日は内に鈴蘭の開花、なんとも言えない春気分の連続です。
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思川の川辺にお連れいただき

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 昨日は、隣町の牧師さん夫妻が、私たちを訪ねてくださり、午後のひと時に、楽しい交わりをさせていただきました。家に上がっていただき、明治初年に、この街でお店を始められた老舗の「柏餅」に、渋茶を飲みながらの談笑でした。その後、私たちを連れ出してくださって、思川の堤にお連れくださって、思川桜が咲き誇っている中を、お交わりしながら散策をしたのです。

 「桜図鑑』によりますと、『久保田秀夫が栃木県小山市東島田・小山修道院に栽培されていた十月桜の種子を1954年に播種、1959年に開花したものが半八重咲で美しい桜だったことから、近くを流れる思川に因んで名付けた品種です。』とありました。

 帰りには、「道の駅」に寄って、野菜などを買うことができました。そこで売っている「給食用麦納豆」が美味しくて、『食べていただきたい!』と、ご夫人が言われてでした。その上、イチゴや焼き芋やゴボウの漬物などをお土産も合わせて買ってくださったのです。ご夫人は、堤の菜の花の芽を摘んでくださって、持たせてくれました。

 夕食に、それをおひたしにして、ちょっとホロ苦い春の味覚を楽しむこともでき、優しいお二人の心遣いでした。子どもたちが遠くにいますので、何か息子と娘の代役をしてくださったようで、ポカポカの春の暖かさも相まって、心温まるひと時に感謝を覚えたのです。

 お二人とも「第二世代」で、牧師家庭に育っておいでで、お嬢さまと息子さんの二人の親御さんです。閉じ籠りがちの私たちを、爛漫の春の河辺に連れ出してくださって、その優しさに感謝した春の一日でした。

(思川桜の近影と遠影です)

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神学以上のことについて

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 『(隣国の若い友人からの)メール読みました。ご質問の改革派の教えと、結婚と離婚問題ですが、改革派の教えなどについては、ボクが回答します。結婚問題は、家内が後で回答します。まず、私のブログの記事をお伝えしますね。』。「一羽の雀(20236月にブログに書いたものです)」です。

 『これまで、体調が思わしくなく、寝込んでしまうことが何度かありました。一番は、季節の変わり目ごと、秋から冬の時季、梅雨時などに、決まって起こるのが、〈腰痛〉だったのです。まだ伝え歩きができるのは良かったのですが、這うような時もありました。一週間も、そういう時が続いて、『もう歩けなくなるのかなあ!』と思ってしまう時だってあったのです。

 ある時から、〈休息必要〉と思いを変えて、怠け者のように寝ることにしたのです。そうすると徐々に痛みが引いていき、回復がくる、そんな繰り返しの年月でした。高校の頃、走り過ぎたのか、兎跳びをさせられ過ぎたのかも知れませんし、教会があった街の自治会の側溝掃除で、コンクリートの蓋を、手で上げた時に、ギックリ腰をしたことがありました。そんなことがあったのですが、まだ若い頃は、、そんなにひどくなかったのですが、歳を重ねるに従ってキツくなりました。

 ところが、帰国以来、この5年ほどは、持病の腰痛は、湿布と温泉で、すぐに痛みが引いてしまっているのです。寝てなんていられないので、神さまは、そんな風にしてくださっているのかな、なんて思わされています。

 以前、寝込んだ時に、枕元で家内が歌ってくれた賛美がありました。「一羽の雀(心くじけて) 」と言う歌だったのです。

1.
心くじけて 思い悩み
などて寂しく 空を仰ぐ
主イエスこそ わが真(まこと)の友
(折り返し) 一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う
2.
心静めて 御声聞けば
恐れは去りて 委(ゆだ)ぬるを得(え)ん
ただ知らまほし 行く手の道
(折り返し)一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う

 そういえば、聖書の中に、次のような聖句があります。

『五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(ルカ1267節)』

 何もできずに、〈小ささ〉や〈つまらなさ〉や〈弱さ〉でおびえてしまう時、それほどの者でしかない自分を、父なる神さまは、覚えていて、知っていてくださるのだと、イエスさまがおっしゃったのです。

 『万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ(詩篇8414節)』

 五年前に帰国して、差しあたっての必要は、住む家でした。自分の人生設計の中に、家を持つことがなかった私は、友人のご好意で、ご両親が住んでいらっしゃった家をお借りして、住ませていただいたのです。次男が生まれる直前の40数年前も、ガス爆発で住んでいた借家を退去しなければならないことがありましたが、雀にさえ、住処を与える神さまは、必ず住む家を与えてくださると思ったのです。それで教会の床の板の上に、みんなで寝たわけです。あそこは最高の住処でした。

 この詩篇の節末に、「セラ」があります。楽譜の中に休止符がありますが、それと同じ意味を持つ言葉で、騒然としていたり、忙殺されたり、波乱の時を過ごしている時に、「小休止」があるのだと言う、信仰者の告白だと、ある伝道者が聖書を教えてくださいました。旅人で寄留者の私たちにとって、《永遠の住処》を、主がお造りくださり、迎えに来てくださると言う約束もあります(ヨハネ14章2〜3節)ので、今の家に感謝を持って住んでいられるのです。

 時々、家内がゆっくりできる家を備えなかった不備、不徳を詫びるのですが、〈甲斐性のない夫〉なんて言わないで、『約束のお屋敷があるのだからいらないわ!』と言ってくれます。小林一茶の「七番日記」をもじって、『これがまあ終の住処かカラス鳴く(雪五尺)』との思いで、今朝もカラスの鳴く声の聞こえる中で、《永遠の小休止》、永遠だったら《大休止》を願いつつ、そこに憧れながらのこの家に感謝でいっぱいです。』

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 今回のメールを読んで、次のみことばが、思い出されています。改革派教会に対するお考えです。私は、聖書を最高規範として、救いや再臨やクリスチャン生活にあり方などを学んできました。改革派には、hyper (厳格)な立場と、穏健な立場があるようです。私は、極端過ぎないことを旨としています。

 聖書は、「神の子の祝福」が5つあると思っています。

神の愛の確信

 『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ410節)』

☞生まれた時から、私たちが愛されていることを、救われた時に確信するのです。神の愛は不変です。

②良心の自由

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから・・しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ51節)』

☞教理や神学や掟によって不自由にされないで、のびのびとして、救いを感謝し喜ぶべきです。人は十字架で救われるのであって、神学や教理にはよりません。私はカルヴァン神学を信じているのではなく、聖書を、聖書の記すキリストを「救い主」として信じています。

③聖霊による喜び

 『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。 (ロマ1417節)』

☞聖霊は、不自由な窮屈な信仰から解放し、活き活きとして活力のある生き方、信仰に導いて下さいます。平安や喜びをくださるのです。

④恵みの増加

 『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 2コリント98節)』

☞神さまは恵み深いお方です。気難しいお方ではないのです。もちろん、罪に対しては厳しいのですが、規則や律法の中で、私たちを縛るのではなく、恩恵の中に安らかにいられるように、信仰も実際生活性も導いて下さいます。

⑤終わりまで保たれる

 『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。(1コリント18節)』

☞この救いに入れられたら、一生の間、保持してくださると言うのです。どこかで無くしてしまったり、誰かに盗み取られたりはしません。だから恐れずにいられるのです。

 『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ4110節)』

☞神さまは良いお方で、いつでも義の右手で握っていて、守っていてくださいます。もう迷ったり、怯えたり、恐れたりしないでいいのです。

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  救い主が祈っていて下さいます

ローマ8:34

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』

  父なる神さまはよいお方です

エペソ2:8

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』

主イエスさまは私たちの保持者です

1コリント1:8

『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。

私は、いただいた救いや永遠の命が、盗まれたり、取り上げられたりすることはないと信じて、今日まで生きてきました。ある人は、いつか奪われる恐れでいっぱいです。でも、一度救われたら、それを保証してくださるのは、父なる神さまです。

神さまに栄光を帰しましょう

ユダ1:25

『すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。』

人は自分の栄光、繁栄、成功を認めています。クリスチャンは、死ぬ時に、この世に置いて残していかなければならないものを求めることをしません。成功も栄誉もいりません。

キリストなるイエスさまをもっと知ろう

エペソ3:1519

『天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。』

様々な問題は、主をよく理解していないから起こります。主が、どんなに素晴らしいかを知るなら、人生の答えがやってきます。疑問は一つ一つ解かれてくるのです。

私たちには求めるものがあります

1テモテ6:1112

『しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。』

高い品性、高貴な生き方は、私たちが受け継ぐべきものです。野卑な生き方をしません。クリスチャンは、何も持たなくても、高貴さを持ち続けるべきです。 賛美しましょう。

虫にも等しき」

1 虫にもひとしき 者のために
 主はかくもむごき 目にあいしか

2 この身のとがゆえ 十字架につく
 ああそはいかなる 愛ぞ愛ぞ

3 み神のひとりご 死ぬるをみて
 照る日もかくれぬ 雲のなかに

4 恥いるこの身を いかに隠さん
 涙にこころも 目もとけゆく

5 恵に報ゆる すべ(術)をしらず
 すべてをな投げ出し ただひれ伏す

『そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(ヘブル人への手紙 21718節)』

 

 もう一つ、ブログを取り上げてみます。改革派教会は、カルヴァン主義を信奉する群れですが、そのカルヴァンについても、触れたからです。「主の赦しと祝福と栄光と」と言うタイトルです。

 『ルターが、「信仰義認」を掲げて、宗教改革を始めた時に、旧勢力は、異端だとして排斥し、新しく誕生する教会のリーダーたちを、神への反逆、教会への不従順として弾圧し、死罪に定め、断頭台に送ったのです。そうして誕生した福音主義、聖書主義を掲げた教会も、内紛、とくに神学や教理の違いで、反目し合ってしまいます。例えば、ジュネーブで牧会をしたカルヴァンも、「三位一体論の誤り」を理由に、ミシェル・セルヴェを、親しい友であったのに、「火刑」にしています。

 寛容、恩寵、忍耐、和解など、そう言った教会の主の教えとは真反対に、神学上の違いで死罪にしたことは、「時代の誤り」だという追随者の言い訳ではなく、どんな言い訳もできない非寛容な、自分だけを正統とする、憎悪に燃えた罪であったことを忘れてはいけないのです。そう言ったことは、カルヴァンにだけあったのではなく、すべての人の思いの内にあることを覚えなければなりません。「異端」の判別や裁きは、教会の主であるイエスさまだけができること、「キリストの座の裁き」と「最後の審判」に任すべきだからです。

 また、「浸礼」で洗礼を施すことを主張し、後にバプテスト派が誕生した時、旧勢力は、バプテスマを施す教職者を、水の中に抑え込んで溺れ死にさせたことも、教会の歴史の中にありました。さらに、「異言」を語り始めた教会や神学校を、旧勢力は、異端として攻撃し排斥しました。教育を受けていない者たちの極端な信仰の表明を、コリントの教会の問題と被らせたからでしょう。そして「カリスマ派」というグループが出てきて、賛美礼拝で、同じ歌詞をしつこく繰り返したり、賜物とか油注ぎなどの主張を非難して、非正統のレッテルをつけて、嫌悪してきています。

 私は、個人的な信仰体験として、1970年の秋に、母教会の夕方の特別集会で、「聖霊のバプテスマ」を受けました。異言が口から、まさに突いて出てきたのです。アフリカに、福音宣教のために遣わされた教え子を訪ねる途上、羽田空港に降り立った、ニューヨークの神学校で教壇に立つ、説教者の按手によってでした。

 自分は、17で信仰告白をし、22でバプテスマを受けていたのですが、煮え切らない back slider で、曖昧だった私の信仰を確かなものにしたのが、その体験でした。その時、イエスさまの十字架の死が、自分の罪を赦すためだということが、突如として分かったのです。信じた神が、「自分の父」だと信じられたのです。それは驚くべき信仰の体験でした。

 これっておかしな、異常なことだと言えるでしょうか。そのパウロが、『私は、あなたがたの誰よりもはるかに多く異言で話せることを私の神に感謝しています(「インターリニア ギリシャ語新約聖書」から)。』と言っています。これは、どのような批判をこえていて、「異言」を肯定しているのではないでしょうか。

 ある著名な牧師が、パウロへの尊敬のあまりでしょうか、『パウロ先生!』と言われた説教を聞いたことがあります。私たちを導いた宣教師のみなさんや、彼らの友人の牧師さんたちは、ご自分を、〈ジャック〉、〈チャック〉、〈トム〉と、先生抜きの名前で呼ぶように願っていました。私は、〈ヒロタさん〉、〈ジュンさん〉と呼ばれてきました。ただ「赦された罪人」であって、兄弟姉妹だからです。

 『もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。 (ロマ1415節)』

 福音を信じて、義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される人たちを、パウロは、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と言っています。聖書解釈や教理の違い、「異言」を語ることで、その人を嫌ってはいけないのでしょう。新しい賛美を歌うクリスチャンを、正しく評価できるでしょうか。そのような体験に導いてくださった器は、驚くほどの人格的に優れた方でしたし、聖書理解も、その説教も優れておいででした。

 宣教師や英語教師が幕末以降、我が国にやって来た時に、彼らの宣べ伝えた福音を聞いて、昨日まで神々に手を合わせ、仏教や儒教の教えを信奉していた人々が、すぐに十字架を信じることができたことは、神の「恵み」でした。

 例えば、国際連盟の副次長を務め、「武士道」を著した新渡戸稲造は、15歳で札幌農学校に入学します。その学校の教授と殴り合うほどの荒くれ男で、「アクチーブ(行動派)」と仇名されていたのです。それが、福音を信じてから、今度は級友たちに「モンク(修道士)」と呼ばれるほど劇的な変化をしています。スリが劇的に変えられて善人になったり、極道や香具師が、瞬間的に回心して牧師になったりするように、福音には力があり、それは聖霊の働きによるのです。

 『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネ1711節)』

 それぞれ違った方法で、さまざまな背景から、人は基督者になっています。そして様々な教派が生まれてきています。歴史性があって、縹渺する特徴点が違うからです。宣教師の出身国や出身教会によっても違いがあります。そんな違いがあっても、それぞれに補い合い、助け合うのは良いのです。ですが、その違いで争わないで、「一つになること」こそが、教会の主の願いなのです。

 ジュネーブの教会の牧師のカルヴァンは、生涯の終わりに、『わたしは非常な苦しみを経験するでしょう。わたしは十分死のつらさを受けるでしょう。それでもなお心は確かであると思います。・・・神の御旨を待ちつつ、慎ましく楽しむために。』と言い残しています。そして、1564527日に、55年の生涯の全てを主の手にお任せし、罪の赦しを確信して、罪の呵責から解き放たれて、主の元に帰ったのです。』

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 人は過ちを犯しますが、それでも、人は赦されて、主に栄光を帰します。そして贖われた教会も、栄光を、主にお帰しするのです。主が、「第一のお方」でいらっしゃるからです。

 「聖書は何を言っているのか?』、ここに答えがあります。時間をとって聖書を読むなら、聖霊である神さまは、理解力を与えて下さいます。何が真実で、真理であるのかが分からせてもらえるのです。近道はないかも知れません、あなたのために祈っています。「救い」、「神の子」とされたことは、驚くべき祝福です。それを忘れずにいてください。主の祝福を、ご家族やご両親、教会のみなさんの上に祈ります。お元気で!

(Christian clip artsからのイラストです)

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偏見から客観視へ

 


『ナタナエル言ふ『ナザレより何の善き者か出づべき』ピリポいふ『來りて見よ。』
(文語訳聖書ヨハネ伝1:46)』

 結婚の相手は、『添うてみなければその真価はわからない!』のでしょうか。いえ、試験婚の勧めをしようとしているのではありません。中学一年の時の英語教師と、二十年ぶりに会ったことがありました。たった一年教わっただけでしたが、覚えていてくれたのです。『準、何処にいるの?』と聞いたので、『〇〇です!』と答えたのです。この先生の奥さんが、その県の出身で、その県の出身者は、「最悪」だと言ったのです。

 初老で、ちょっと酔っていての弁でした。有名な大学で教授をされていました。その偏見に驚いたのです。今の不幸せを、奥さんのせいにして、教え子にまで、そんなことを言うので、最高の奥さんを持つ私は、呆れ返ってしまいました。フランス語を専攻された方で、入学した学校では英語を教えてくれたのです。

 まさに、〈添うてみなければ〉、分からなかった結婚をされた英語教師と、主から頂いた奥さんのいる私との違いを、今更ながら知らされた再会でした。フランスまで行って学んで、大学教授にまでなった一人の男性、恩師の二十年後の言葉に驚いて帰宅したのです。

 そういえば、〈飼ってみなければ〉、分からない動物の可愛さもあるのでしょうか。猫嫌いの私は、猫の可愛さが分かったのは、飼ってみてからでした。娘夫婦が、アメリカに帰国するにあたって、長野の南信の街で飼っていた二匹の猫の処遇を、私たちに任せてくれたのです。

 飼っている間に、怪我をして、手術を終えた、布団の中にいた私の胸の上を、走り込んで去って行ったり、駐車場に停めた車の音を聞いて、二匹が並んで玄関で出迎えてくれるうちに、可愛くなってしまったのです。 

 「猫じゃらし」も、娘が置いていってくれたので、それで二匹をジャンプさせるのが面白くて、よくやりました。犬には見られない戯れだったのです。部屋の茶箪笥の上のスペースが、彼らの居場所で、いつも並んで休んでいたのです。

 この猫と「マタタビ」との関係が伝統的に伝えられていました。この記事の初めに掲載した映像は、またたびに応答する一匹の猫の様子を撮影したもの(ウイキペディアによります)です。これを、「猫のマタタビ踊り」と言うのだそうです。ただ踊るためだけだと思っていましたが、それだけではないことが、研究者によって明らかにされているようです。

 岩手大学の宮崎雅雄教授は、獣医師の志望で、動物の嗅覚活動の研究を続けてこられて、ネコの尿から、「コーキシン」と言うタンパク質の新種を発見した方です。この方が、マタタビに酔うように見える猫の行為は、その成分(ネペタラクトールだそうです)で「蚊よけ」をしていると言っておいででした。

 言い伝えられたことを、科学的に研究すると、新しい習性や事実が発見されるのですね。先日の散歩の途中に、猫をヒモに繋いで散歩している方がおいででした。この猫が、私の近づく気配を感じて怖がっていたのだそうで、飼い主が小声で、『怖がらなくていいのよ!』と言って抱き上げていました。それで猫のまたたびの話を思い出したのです。

 偏見で、猫嫌いの人も、妻嫌いの人もいて、この人の世は、様々なのですね。でも、犬が、飼い主の乗っている自転車のカゴや、犬用のカートに入れられていて、それに熱い視線を向けているご婦人がいて、犬たちは幸せそうにしているのを見て、買っていた犬を思い出して、なんとも言えない違和感を覚えました。春先の光景でした。

 ナザレからは立派な人材は出ないとされていたのに、ナザレ人イエスを、行ってその目で見て、「神の子」、「イスラエルの王」、「救い主」であることを理解したのがナタナエルでした。偏見を捨て、客観的にイエスさまを見たからです。今もなお偏見で、真実の姿を見抜けない方が多くいるのでしょう。「ナザレ人イエス」とは、ナザレに「人の子」として、私たちと寸分変わらなく生きた、「神の子」でいらっしゃるのです。

(ウイキペディアによる映像です)

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