しあわせ

 


母親には「よもぎ餅(東京向島/墨堤地蔵坂上/志満ん草餅製)」、父親には「おとうさんいつもありがとう!せんべい(千葉野田関宿/喜八堂製)」、両親に「カステラ(福岡博多東光寺/福砂屋製」、「晩柑ジェリー天水/ななみかん工房製)」を持参した次男が、今日の午後、雨の中をやって来ました。

家内は、次男の顔を見るや、いっぺんに元気になってしまい、3時には、よもぎ餅にきな粉をつけて、美味しそうに食べていました。これは毎回持参してくれるのです。母親の病気に良い食べ物だそうで、これを届けに、わざわざ特急電車に乗って来てくれたのです。

昨日は、風邪で咳気味の母親のために「MANUKA HONEY(ニュージーランド原産天然蜂蜜)」を宅配便でよも届けてくれていました。先週は、自分が風邪気味で来れなかったので、今週は雨をついて激励に来てくれました。もう一つ、ドイツ製の「浄水ポット」も注文してくれ、今夕には宅配で届くそうです。

イスラエル人の間では、「あなたの父と母を敬え・・・それは、あなたの齢が長くなるため・・・与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」と言い伝えられていて、これこそが民族の特徴と言えるのでしょうか。

そうでした。明日は「父の日」、母の日には「花束」を持参し、今回は父親に「せんべい」です。大好物の「きんつば」は、前々回に届けてくれました。彼が永らえ、幸せになることでしょう。長男は、ほとんど毎回、通院検査や治療にための送り迎えに、遠くからやって来てくれます。娘たちは、箱詰めの差し入れをしてくれ、また手伝いに来ようと満を持しています。

子育て中、子どもたちの〈工事中〉には色々とありましたが、大人になった今、一市民として、きちんと、それぞれの責任の中を生活をしていてくれるのは、言い得ない感謝であり、しあわせです。「せんべい」は、せっかくですから、第三日曜日の明日、家内の友人が送ってくれた〈日田羊羹〉 と〈鹿児島産の煎茶〉と一緒に、家内と食べることにしましょう。

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桑の実

 

 

もう何年経つでしょうか、隣町に事務所を借りていた頃に、よくやって来たおばあちゃんがいました。農家の方で、いつも和服をめしておいでした。懇意にして下さって、畑で採れたものなんかをよく持って来てくれました。ある時、「桑の実」を焼酎に漬けた果実酒をもって来てくれたのです。熟した桑の実が赤黒くお酒に溶け込んで、甘くて、『疲労回復にいいから!』と言って頂いたのです。

あれ以来飲んだことがあませんが、美味しく頂いたのだけはよく覚えています。子どもの頃、養蚕がまだ行われていたのですが、高台の畑には、桑が一面に植えられていました。あの桑の枝を、肥後刀で切り取って、〈チャンバラごっこ〉の刀を作るのです。皮がするりと剥けるので、刀で傷つけて、握り手だけに皮を残すのです。

それを腰のベルトにさして、侍になった気持ちで、斬り合いをするのです。その桑の木には〈ドドメ/私が育った東京のたま地区ではそう呼んでいました〉がなるのです。今の様に果物の種類や数に多くない時代、甘くて美味しい、この木の実は最高のオヤツでした。作詞が三木露風、作曲が山田耕筰の「赤とんぼ」の中で歌われています。

夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小籠(こかご)に摘んだは まぼろしか

十五で姐や(ねえや)は 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

夕焼小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

「山の畑の桑の実を小籠に摘んだ・・・」日々が、私にもあります。実際は、手から口へと直行型の摘み取りでしたが。今では〈幻の実〉になっていますから、現代っ子たちの知らない味覚なのでしょうか。長野県では、「桑の実」の農園があって、実際にこの時期には、収穫体験ができる様です。それでも、もう一度食べてみたいものです。

ジャムにしたり、飲用ににしたものがあるそうですが、やはり枝の付け根あたりにドドメ色になった実を、手でもいで頬張ってみる、あの野性味が懐かしく思い出されます。まさに〈ふるさとの味〉えなのです。中国の華南の街で、小さな平ケースに入れて売られていましたが、買ってみて食べましたが、ちょっと幼い日の味とは違っていた様でした。

([HP里山を歩こう]から配信下さった桑の実です)

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同じ道

 

目を惹く、舌を巻く、血が騒ぐ、汗を流す、手を染める、指折り、ジタンダを踏む、臍(へそ)を曲げる、首が回らない、鼻が高い、目は口ほどにものを言い、腕をふるう、尻が軽い、腹黒、口が奢(おご)る、踵(くびす)を返す、腕をふるう、胸がすく、耳を揃える、喉から手が出る、歯がたたない、声が掛かる、一肌脱ぐ、後ろ髪を引かれる、頬が緩(ゆる)む、肝(きも)が座る、爪を研(と)ぐ、膝を折る、断腸の思い、骨が折れる、涙にくれる・・・・

日本語って面白い言葉だと、つくづく思います。体の部分が、いつでも、何かを語りかけ、発信しているのですから。〈親の欲目〉で、自分の子は偉くなって欲しいのだそうです。『何々ちゃんに負けない様に!』と、親に言われたことのない私は、競争相手は、〈何々ちゃん〉ではなく、自分自身だと思わせたかったので、競争ではなく、〈仲間〉として、友だちとは切磋琢磨して欲しいと願っていました。

父が、自分の脛(すね)をかじらせてくれましたので、自分の子も、学校を出るまで、脛をかじらせて上げました。それで一人前になったのですから、彼らの責任は次世代に対してです。親を含めてですが、常に「人の恩」を覚えていることです。今の自分が作り上げられるために、多くの人の助言や叱責や誉め言葉があったのを忘れてはならないからです。

籠を作る人、草履を編む人、籠を担ぐ人kがいて、人は籠に乗れるのは、社会に分業があるからです。今は、美味しい地産の栃木米を食べるのを常にしているのですが、昨日の通院の車に乗っていて、青田が広がっているのが見えました。冬の間、放って置かれた田が、起こされ、石が除かれ、水が張られて、苗を迎え入れる土が作られます。籾が蒔かれて、苗ができて、八十八回の「手間」暇かけて、お米が穫れ、椀に盛られ、膳に載るわけです。大好きなパンだって、小麦の同じ様な過程があるわけです。

自分が出来上がるまで、どれほどの手間暇がかかったのでしょうか。どれほどの溜息や涙や喜びが、両親にあったのでしょうか。その他にも、教師や上司や街のおじさんやおばさんのものだって数え切れません。数え切れない人との関わりの場面や、人の顔が思い浮かんできてしまいます。

『こいつ大丈夫だろうか?』と、ハラハラと気を揉んだ人たちがいて、今日の自分があります。ボロボロ、ホロホロ、ダクダクだってあったはずです。中学3年間の担任のK先生は、もうお亡くなりになっているのですが、私に対して〈ハラハラ先生〉だったのでしょう。女子部の校長になったK先生を、中三の長男を連れて訪ねたことがありました。息子を見て、先生は『君は大丈夫です!』と言ったのです。「も」でなく「は」と、なぜ言った意味が、すぐに分かりました。

『お母さんと同じ道を行くんだね!』とも、先生は言ったのです。3年間、幾度となく呼び出されては、母は、私の怪しさを聞かされながら、いろいろと母個人の話もしたのでしょう。そんな中に、母は自分の生き方や信念も話したに違いなく、母の選んだ道を、私も歩んでいるのが、先生には分かったからなのです。

私は、K先生の様になりたくて、社会科の教員になったのですが。『よくもまあ、あの子が!』と思ったのは、K先生だけではなかったのでしょう。あんな広田が教員になり、またお母さんの道を行くのを知って、怪訝に思ったのか、よく立ち直ったと思ったのか、聞いてみたかったのですが。私の勤めていた学校に、一人の同級生が訪ねて来ました。同級生を代表して、本当に教員になったかどうかを、自分の目で確かめるためにです。

アメリカ人起業家の後、事務所の所長になった時は、誰も来ませんでした。ただ一人、お金を借りに来た同級生がいて、一万円上げて、駅まで送り届けました。いや、みんなが、私に転身に「舌を巻いた」のです。〈意外性〉、人の一生って、これに尽きるのでしょう。まだ意外なことが残されているかも知れません。「首を長くして」、それを待つことにしましょう。

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闇と光

 

 

私の同級生に、アメリカ合衆国第35代大統領のジョン・F・ケネディが、大好きなM君がいました。東京の有名な私立校の出身で、喫茶店で話をするたびに、ケネディのことを話題にしていました。彼が傾倒していたのが、この大統領の掲げた<ニューフロンティア精神>でした。

『・・・今日、我々はニュー・フロンティアに直面しています。1960年代のフロンティア、未だ知られぬ機会と道、今だ満たされぬ希望と脅威を孕(はら)んだフロンティア私はあなた方の一人ひとりにこの新しいフロンティアの新しい開拓者となるように求めたい。』というチャレンジに、M君は強く興奮していました。

そのケネディが、私の大学に入学した半年後の1963年11月に、ダラスで暗殺されてしまったのです。それは、テレビで観た、もっとも衝撃的な映像の一つで、アメリカ史上、特筆される事件だったのです。とくにM君にとっては辛い経験だった様です。

この事件を契機に、ケネディ個人と彼の家系の秘密が、様々に露わにされていきました。”American Dream“を与える国の大統領についての醜聞は、きっとM君の見た夢を潰(つい)えさせ、がっかりさせてしまったことでしょう。人間崇拝が、あまりにも誇張されてしまうと、それが崩されると言うのは、ある面では、世の中が公平であると言うことでしょうか。

ジョン・ケネディの一歳違いの妹が、大きな障碍を負っていたことが隠蔽(いんぺい)されていたのも、<名門の誉れ>を傷付けることだからでしょうか。自由と平等の国にも、そういった家族に障碍者がいたことを、知られたくない家庭があったことを知って、驚いたのを覚えています。理想の国家や人間などいないと言うことなのでしょうか。

どんなに豊かな国でも、<とかく世間は住みにくい>の例外はないことになりそうで、どこも同じなのでしょう。父親の果たせなかった夢を、手段を選ばずに、自分の子に実現させたのが、ジョン・ケネディの大統領就任だったとしたら、私の知ってる素敵なアメリカとアメリカ人からは、随分かけ離れている様に感じられてならないのです。人や出来事の中に、醜聞や闇が潜んでいたわけです。それが白日の元に晒されるのは、好いことなのでしょう。

私の恩師と、その友人たちは、みなさん、豊かな国の市民でありながら、物質的には豊かではありませんでしたし、全くの無名でした。それなのに、精神的には素晴らしく《高潔》でした。どなたも弱さを持っていましたが、決して隠すことはありませんでした。と言うことは、彼らが《正直に生きていた》ことになりまず。まさに闇の中に、燦然と光が輝いている様でした。必要以上に人が崇められ、高められてしまわないのは、どうも好いことなのでしょう。

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底力

 


これでも、数学や物理の好きな理工系志望の中学生でしたので、大人になったら、建築か土木の世界で仕事をしたかったのです。ところが、いつの間にか方向転換してしまい、机の前に座ったり、黒板の前に立ったりする事務屋や教員の道に入り込んでしまいました。

旧国鉄の東海道新幹線計画や、黒部に発電のダムを建設するプロジェクトが建て上げられた時、日本中が湧いたことがありました。戦後の停滞の中から、一気に起死回生する機運が盛り上がったからです。そういった現場は男の職場で、子どもながら私の血が騒いだのを覚えています。

そういった実績を積み上げた日本の技術が、ODA(政府開発援助/Official Development Assistance)で用いられて、アジアの多くの国々に、道路や空港や港湾やダムや橋梁などの土木建設の事業を展開して来た歴史が、私たちの国にはあります。

例えば、北京空港や上海港湾などの土木建設をした実績があります。諸外国に技術援助もして来たのです。私を驚ろかせたのは、土木建築の資材などの製造技術の高さでした。例えば、今、多くの建設現場で使われている、「ハイテンションボルト(高力ボルト)」です。

これは、橋や鉄骨構造物を建設する際に、金属板や鋼材をつなぎ合わせるために、かつては溶接や、鋲(びょう)を打つリベット接合が一般的だったそうです。ところが、「高力ボルト」は、普通のボルトよりも、はるかに強い力で締め付けられるのです。さらに摩擦力によって「摩擦接合」で鉄骨をつなげられます。強い耐久性があって、引っ張りにも強いのです。団塊世代の退職で、熟練に溶接工がいなくなってしまい、それを補う「高力ボルト」の需要が求められました。

海外の製造のボルトでは太刀打ちのできない優れ物なのです。たかがネジやボルト、されどのネジやボルトを製造して来た日本の技術の高さは誇って好いのです。子どもの頃、近くに旧国鉄の〈保線区〉がありました。鉄路の保守点検作業を担当していた部署です。花形の新幹線も、地方を走る貨物列車も、こういった部署の弛まない忠実な作業があって、事故の少ない運送が行われているwのです。

 

 

遊びに行くと、作業場に入れてくれ、説明までしてくれました。キット、この子たちの将来を考えながら、『国の基幹の事業に携わる様になって欲しい!』という期待も込めて、邪魔者扱いをしないで、道具を触らせてくれたのです。よく手入れがしてあり、作業場は整理整頓されていました。

愚直と思われるほどの《プロ意識》が見られました。学校に行き、アルバイトをした様々な職種の職場には、どこにも《プロフェッショナル》がいました。自分の仕事に誇りを持ち、どうしたら作業効率を上げられるかを、日夜工夫しながら、作業をしていた、たたき上げの人たちがいたのです。あの人たちが、日本の《底力》だったのでしょう。

(黒部ダムに工事現場、ハイテンションボルト、保線作業です)

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9年前

 

 

2010年4月2日は、シンガポールの祝祭日で、仕事の休みの長女が、『自転車に乗りに行こう!』と、家内と私を誘い出してくれました。ヨンギ国際空港の裏手にある駐車場に車を止め、「ウビン島」との間を通う艀(はしけ)に乗り込んで、15分ほどで目的地に到着しました。

ちょうど島に着く頃に、雨が降り出してきたのです。急いで駆け込んだレストランは満員でした。数品を注文して待つこと小一時間、あまりにも遅いので、席を立とうとしたのですが、『それでも・・・』と話し合って間もなく、やっとテーブルに運ばれてきました。味は結構よかったので、きれいに3人で平らげてしまい、心の中の文句は消えてしまいました。

《一台一日5シンガポールドル》の自転車を3台借りて、ジャングルの中にこぎ出したのです。雨の上がった午後、結構涼しく感じられる中を、汗をかきながら起伏のある道を行くのですが、祭日の人気スポットでしたから、手放しで右左を見て行くことはできず、行き交う自転車を避けたり、譲ったりのサイクリングでした。

長女が1才の誕生日を迎えた旅行で、私たち家族(当時は長男が3歳で4人でした)は、家内の兄夫妻に誘われて、一緒にグアムを訪ねていました。私の母も同行していましたが。その時、過ごした島の様子と、ウビン島のジャングルがそっくりでした。匂いにも記憶があるのでしょうか、30数年前の匂いがしてきたので、いっぺんにタイムス・スリップをしたようでした。

家内は天津で乗っていた自転車を、知人に上げてしまってから、その日まで乗ることがありませんでしたから、3年半ぶりの自転車だったようです。いい運動をして、帰りには刺身を切り揃えてくれるレストランで、3種類ほどの刺身に海苔巻きの鮨を数点と味噌汁で夕食を済ませました。美味しく食べた私たちは、家に帰って、しばらくの交わりの後、シャワーを浴びて寝てしまいました。家内、私、そして長女の順でした。

翌朝、散歩に行こうと思って、5時半に起きました。寝しなに、帽子の中に家のカギと小銭とを入れて、机の上に置いて準備していたはずなのに、帽子が見あたらないのです。カギを締めてから出ないわけにいきませんので、20分ほど探したのですが、それでも見つかりませんでした。

それで、『昨日は、自転車に十分乗って疲れたこともあるし・・・!』と心に決めて、また布団に戻って寝てしまったのです。その時、何時も閉まっている長女の部屋の扉が空いていたので、『おゃっ!』と思っていたのですが、そのまま寝てしまい、7時過ぎに起きました。また帽子を探したのですが見当たらない。それで、土曜日でも長女は出勤でしたから、何時ものように味噌汁を温め、コーヒーを挽いて淹れ、ご飯をチンをして、彼女の起きるのを待っていました。

そうしましたら、『お父さん。携帯知らない?』と起きてきた娘が聞くので、ソファーを探したのですが、ありませんでした。そうしたら『カバンもない!』と彼女は言うのです。それで分かりました、小銭とカギの入った帽子も、娘のカバン(査証、カード類、日本円とシンガポール・ドルとアメリカ・ドルの現金、カギ類等在中)、携帯電話、次男にもらったカメラも、寝ている間に侵入してきた盗賊に持っていかれていたのです。

原因は、玄関の鍵を内側から閉め忘れたことにありました。『悔しい!』と思いましたが、命をとられなかったことは不幸中の幸いと思って諦めることにしました。カード等の停止、警察の連絡を、娘は済ませました。在シンガポールの大使館に、査証の紛失届をしようと思いましたが、緊急連絡先は、終にでませんでした。緊急時に連絡の取れない、日本大使館の対応の仕方に、盗賊よりも腹がたちました。

こういった感情はいけないのでしょうか?在留邦人の安全のために大使館員が勤務しているのに、土曜日の朝に連絡を取れない実情に、『何をやってんの?』と思ってしまいました。ところがシンガポール市警は、電話後10分足らずで来てくれたのです。

そうしましたら、どこかの領事が、高額の絵画を何幅も買い込んでいたニュースが思い出されてしまいました。もちろん、カギを掛けないで、泥棒に機会を与えたのですから、『盗まれる方がいけない!』のですが。早速、《シンガポールの犯罪情報》をサイトで見ましたら、少々前の統計で、『強盗事件は日本の4倍位です!』とありました。日本の犯罪率の低さと言うのでしょうか、社会生活の安全、警察の威力などを思って、海外では、『注意!注意!』と心に念じるべきなのでしょうか。

そう言えば、『石川や 浜の真砂は つきるとも 世に盗人の 種はつきまじ』と詠んだのは、《安土桃山のルパン》石川五右衛門でしたね。東南アジアにも彼の子孫がいたのでしょうか?それで、隣りのスーパーで、頑丈な錠前を買ってきて、セットしたのです。そんな9年前の出来事を思い出し、治安の好い日本の生活に感謝したところです。

(ルパン3世です)

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留学

 

 

 フジテレビで、放映された「若者たち」というドキュメンタリー番組を、娘が紹介してくれて、家内と観ました。二人の中国からの留学生の足跡を追ったものです。家内と私は、六十を過ぎてから、天津の国際語学学校、華南の街の大学に留学した経験がありましたので、興味津々で観ました。

 1人は19才の女性の王尓敏さん、もう1人は26才の男性の韓松さんです。1996年に、2人とも日本語学校に通いながら日本の大学受験を目指して来日したのです。王さんは片言の日本語が話せるのですが、韓さんは全く話せません。言葉の通じない国でアルバイトをしながら勉強をしなくてはならないが、バイト先はなかなか見つからず、手持ちの資金は底をつく。

 中国では一流の社会人だった韓さんは、奥さんと子を国に残し、義理の父親からは、『どんなことがあっても成功するまであきらめるな。帰ってはならない!』と言われて来日しました。4畳半のガスコンロだけのアパートで、韓さんは『余りにも現実が違いすぎる。私の父は中国では、共産党の要職の地位にあり、母は学校の先生で、私に会えるだけでも大変なことなのに・・』と呟くほどでした。昼間は日本語学校、夜は皿洗いのアルバイトを2つ掛け持ちし、睡眠時間も3時間ほどの生活が続きました。

 当時の中国では、1ヶ月分の食費代が、日本では1日分ほどでした。韓さんは土日も働きながら勉強を続け、日本語検定1級を取得し義理の父親が勧めてくれた明治大学を、2年経ったら受験するつもりでした。それは、最初で最後、1回限りのチャンスだったのです。妻の反対を押し切り、仕事を辞めてまで日本にやって来ました。刻苦勉励、努力と我慢の末に、ついに明治大学商学部に合格するのです。

 

 

 1996年、成田空港で、持って来た五つの荷物の一部が見つからず、泣き顔でカメラに語っていたのが、19才の王さんでした。彼女は、コンビニと飲食店のバイトをしながら学費と生活費を自分でまかない、1年後に千葉大学に合格するのです。

 合格して、中国に里帰りした時、お父さんは、次の様に王さんのことを話してました。『娘は、何度も国に帰りたいと言いましたが、私は許しませんでした。あの子が本当に一人の人間として生きていけるようになって欲しかったからです。!』

 隣で聞いていたお母さんは泣いていました。5年後の2001年、4年生の王尓敏さんは、日本の企業に就職が内定した。明治大学在学3年の韓さんは、『今、私はどこの国へ行っても生きていける。そして、そのことを妻子や国の人たちに伝えることができる。何故なら、それは私自身がこうして証明しているからだ。・・・来日当初の自分が恥ずかしい!』と回顧してしています(卒業後、三菱重工に就職している様です)。

 私たちの子どもたち四人も、留学をしましたので、同じ様な苦しみと喜びの体験をしたのだろうと思ったのです。留学中の細かなことはみんな語りませんでしたが、涙を流す様な辛い経験も超えて来ているのでしょう。自分たちの前に開いた扉から、自分の人生を生き行くために入って、いまを生きていくためには、それらは貴重な体験であったはずです。

(神田駿河台の明治大学商学部の校舎です)

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若葉

 

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友人が撮影した写真です。若葉をすいて初夏の陽が見えて、なんとも言えず風流です。梅雨入り前に撮影されたのでしょうか、素敵な写真に癒されます。華南の街のわが家は、今では、もう夏の佇まいでしょうが、春先には、同じような様々な薄緑に輝いていたことでしょう。

小区の中が、公園の様に、よく整備されていて、心和んだのです。南側のベランダの近くに植えられた木は、日陰になるように植えられていまして、もう葉が茂っているのでしょう。例年、タネを蒔き、朝顔を、そのベランダで楽しんだのですが、今年は、北関東の家の軒下で、楽しむことにしています。

以前は、この家の庭が綺麗だったそうですが、長く住まない間に荒れてしまって、ちっと残念ですが、刈り込んだ庭木にも枝が伸び、葉が茂ってきています。下草も手鉋(てがんな)で取っています。少し庭らしく再生してきたでしょうか。この一劃がなかなか日本の住居の素晴らしさを表していて素敵なのです。

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昭和

 

 

ここ北関東は、昨日は一日雨でした。関東甲信地方も、やはり梅雨入りしたそうです。英語では、〈梅雨〉を “ East Asian rainy season ” と言うそうです。大正7年9月に、作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎の「雨」が、「赤い鳥」に発表されました。私の母が、一才半の時でした。梅雨になると思い出される、物悲しい歌です。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

 

 

戦後の昭和26年に、小学校に入学したのですが、当時も、下駄履きで、傘は〈番傘/蛇の目傘〉をさして雨の日は登下校していました。友人の夫人のお母様が長く住んだ家に、私たちは住み始めたのですが、お母様が、お住まいになっていたままの家なので、洗濯機がおかれている脇に、この〈蛇の目傘〉が置かれたままなのです。きっと長く使われ、懐かしくとって置かれたのでしょう。

私も懐かしくて、手にとって開いてみたのです。もう破れてしまっていて、梅雨に入ったのですが、さして使うことはできません。器用に竹細工仕上げなのです。この家の5軒ほど向こうの通り側に、竹細工をされているお店があります。日柄、板の間に座り込んで、初老のご主人が竹細工をしておいでです。今も需要があって卸しておられるのでしょうか。

この辺りには、「昭和の風情」が色濃く残っています。もう閉じられてしまったのですが、幟(のぼり)とかタオルの染物看板を下げた店も、そのまま残っています。隣は、材木置き場で、夫人のおばさんに当たる方が嫁いだ先で、手広く商いをしていたそうですが、今では一箇所に材木が残っていて、閑散とした空き地になっています。この辺りは、かつては賑わっていた名残を、かすかに感じさせてくれます。

(じゃれ合う昭和の子どもたちです)

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憧れと幻

 

 

日本では、桜が咲くと、春の到来を実感させられます。南米などでは「ジャカランダ(紫雲木)」、中国の東北の満州里では、「アゴニカ」が、まさに春を告げる花なのでしょう。中国名で何と言うのか分かりません。作詞が島田芳文、作曲が陸奥明の「満州里小唄(※雪の満州里)」が、昭和16年に発表されました。この歌の中で、「アゴニカ」の花が歌われています。

1 積もる吹雪に 暮れゆく街よ
渡り鳥なら つたえておくれ
風のまにまに シベリアがらす
ここは雪国 満州里(まんちゅうり)

2 暮れりゃ夜風が そぞろに寒い
さあさ燃やそよ ペチカを燃やそ
燃えるペチカに 心も解けて
唄えボルガの 舟唄を

3 凍る大地も 春には解けて
咲くよアゴ二カ(※オゴニカ) 真っ赤に咲いて
明日ののぞみを 語ればいつか
雪はまた降る(※雪も森森) 夜(よ)はしらむ

極北の凍る大地の間だから、顔を出す真っ赤な花が「アゴニカ」、ロシア語の「オゴーニカ(小さな灯火)」だそうです。日本名は、「モミジアオイ」と呼ぶと言われているようですが、定かではありません。中国黒龍江省とロシアとの国境沿いに咲くそうです。

 

 

このアゴニカを、一度でいいから見たくて、満州里に行く計画を立てていたのですが、咲き始める頃も、ずいぶんと寒そうで、尻込みしてしまったままです。春になると、凍土も溶けて、美しい花を咲かせる自然界に生命の躍動は、私たち人に向かって、『生きよ!』と告げているに違いありません。まだ見ぬ《憧れの花》、《幻の花》なのです。

(上はモミジアオイ、下はジャカランダです)