目を惹く、舌を巻く、血が騒ぐ、汗を流す、手を染める、指折り、ジタンダを踏む、臍(へそ)を曲げる、首が回らない、鼻が高い、目は口ほどにものを言い、腕をふるう、尻が軽い、腹黒、口が奢(おご)る、踵(くびす)を返す、腕をふるう、胸がすく、耳を揃える、喉から手が出る、歯がたたない、声が掛かる、一肌脱ぐ、後ろ髪を引かれる、頬が緩(ゆる)む、肝(きも)が座る、爪を研(と)ぐ、膝を折る、断腸の思い、骨が折れる、涙にくれる・・・・
日本語って面白い言葉だと、つくづく思います。体の部分が、いつでも、何かを語りかけ、発信しているのですから。〈親の欲目〉で、自分の子は偉くなって欲しいのだそうです。『何々ちゃんに負けない様に!』と、親に言われたことのない私は、競争相手は、〈何々ちゃん〉ではなく、自分自身だと思わせたかったので、競争ではなく、〈仲間〉として、友だちとは切磋琢磨して欲しいと願っていました。
父が、自分の脛(すね)をかじらせてくれましたので、自分の子も、学校を出るまで、脛をかじらせて上げました。それで一人前になったのですから、彼らの責任は次世代に対してです。親を含めてですが、常に「人の恩」を覚えていることです。今の自分が作り上げられるために、多くの人の助言や叱責や誉め言葉があったのを忘れてはならないからです。
籠を作る人、草履を編む人、籠を担ぐ人kがいて、人は籠に乗れるのは、社会に分業があるからです。今は、美味しい地産の栃木米を食べるのを常にしているのですが、昨日の通院の車に乗っていて、青田が広がっているのが見えました。冬の間、放って置かれた田が、起こされ、石が除かれ、水が張られて、苗を迎え入れる土が作られます。籾が蒔かれて、苗ができて、八十八回の「手間」暇かけて、お米が穫れ、椀に盛られ、膳に載るわけです。大好きなパンだって、小麦の同じ様な過程があるわけです。
自分が出来上がるまで、どれほどの手間暇がかかったのでしょうか。どれほどの溜息や涙や喜びが、両親にあったのでしょうか。その他にも、教師や上司や街のおじさんやおばさんのものだって数え切れません。数え切れない人との関わりの場面や、人の顔が思い浮かんできてしまいます。
『こいつ大丈夫だろうか?』と、ハラハラと気を揉んだ人たちがいて、今日の自分があります。ボロボロ、ホロホロ、ダクダクだってあったはずです。中学3年間の担任のK先生は、もうお亡くなりになっているのですが、私に対して〈ハラハラ先生〉だったのでしょう。女子部の校長になったK先生を、中三の長男を連れて訪ねたことがありました。息子を見て、先生は『君は大丈夫です!』と言ったのです。「も」でなく「は」と、なぜ言った意味が、すぐに分かりました。
『お母さんと同じ道を行くんだね!』とも、先生は言ったのです。3年間、幾度となく呼び出されては、母は、私の怪しさを聞かされながら、いろいろと母個人の話もしたのでしょう。そんな中に、母は自分の生き方や信念も話したに違いなく、母の選んだ道を、私も歩んでいるのが、先生には分かったからなのです。
私は、K先生の様になりたくて、社会科の教員になったのですが。『よくもまあ、あの子が!』と思ったのは、K先生だけではなかったのでしょう。あんな広田が教員になり、またお母さんの道を行くのを知って、怪訝に思ったのか、よく立ち直ったと思ったのか、聞いてみたかったのですが。私の勤めていた学校に、一人の同級生が訪ねて来ました。同級生を代表して、本当に教員になったかどうかを、自分の目で確かめるためにです。
アメリカ人起業家の後、事務所の所長になった時は、誰も来ませんでした。ただ一人、お金を借りに来た同級生がいて、一万円上げて、駅まで送り届けました。いや、みんなが、私に転身に「舌を巻いた」のです。〈意外性〉、人の一生って、これに尽きるのでしょう。まだ意外なことが残されているかも知れません。「首を長くして」、それを待つことにしましょう。
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