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 「小江戸」と呼ばれる街が、今でもいくつか残されています。関東圏には、佐原、川越、栃木、香取などがあります。埼玉県に住んでいた時に、川越に連れていってもらったことがありました。街の中心に、「火の見櫓(ひのみやぐら)望楼」が残されていていたのです。ここに立って、四方八方に目を配って、見張りをするのと、「時の鐘」を鳴らして、時刻を住民に告げる役割を果たしていたのです。

 父が家を買って住んだ、東京都下の街には、消防署があって、火の見櫓がありました。火事を見つけて、半鐘やサイレンを鳴らして、危険を知らせ、消火活動に消防団の発動を促すための、昔ながらの消防管理法だったのでしょう。最近の消防管理は、建物の構造の中に、感知機ができていますので、高台に登って、煙や火を見つけたりする必要はなくなったからなのでしょうか。

 私たちが、生活した華南の街には、「鼓楼gulou」というバス停がありました。建物は無くなっていましたが、街の中に、「鼓楼(望楼)」が設けられていたのです。中国の街には、どこにも、それがあって、街の中心で、象徴の様な建物でもありました。かつては、消防だけではなく、敵の襲撃を監視するという必要があったわけです。

 城下町を訪ねたこともありました。『殿様が、城下町の民の生活を知るために、舶来の遠眼鏡(とうめがね)を持って登るのだろう!』と思っていましたが、熊本城の天守閣に上がって、市内を眺めた時に、そこは、敵の侵入や火事を見張るためにあるのだということが分かったのです。

 古代の書に、「力の限り、見張って、あなたの心を〈力の限り〉見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。街を見張り、見守る以上に、《心》を “ all of diligence “ で、見守る様に勧めています。最大の注意を向けなければならないのが、《心》なのでしょう。つまり、《自己査定》の必要性です。
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 あらゆる欺瞞や偽り、不義や汚れから、意図的に守らない限り、《心》は、こういったもので溢れて、占領されてしまうからです。毎朝毎夕、多くの人が家の前をジョギングしています。体の健康のためにです。また 有機栽培、国内生産に目を光らせながら食品を買っています。有害なものを排除するためにです。それと同時に、いえそれ以上に、《健全さ》を保たなければならないのが、この《心》です。《心》を覗き込んで点検すべきなのでしょう。

 ふと立ち止まって、今何を考えているか、何を想像しているか、何を心に満たしているかなど、点検してみることです。これを若い時に学びました。何を考えようが計画しようが、心の働きは各人の自由です。だから、どうしても《見張る》必要があります。人は容易に、〈邪悪な計画を巡らす心〉を持ち、〈心は暴行を企む〉からです。

 思いの記憶庫に残された様々な過去が、どなたにもあります。そのままに放置しておいてよいのか、時々考えてしまいます。ある方の本を読んで、《過去を精算する》ことを、しばらく考えさせられたりもしています。長く人と関わってきて、相容れない意見の違い、喧嘩別れ、無言の訣別など、和解しないままなことが、いくつかあります。一言の謝罪で、関係の回復ができるのですが、互いに誇りや面子などが邪魔をさせて、それができないのかも知れません。

 どうしても決定的なことを言わなければならない時が、私にもありました。家族を守り、自分の働きを正しく行うためにです。それとて、それでよかったのかを、査定しているのです。『義を行い、誠実を愛し、謙っているか?』に照らしてです。消防車がサイレンを鳴らして、火事現場に急行しています。《心》に火の手が上がっているかの点検は、今の世だからこそ必要なのです。

(川越の火の見櫓と中国西安の鼓楼です) 

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胡瓜の花

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 昨日、酷暑の中、朝に夕に、また日中に、水やりをして、家内が世話をしてきたキュウリの苗を、刈り取ってしまいました。ベランダの手摺から、外へ外へ行こうとする蔓を、内側に向きを返させたりしながら育てたキュウリでした。下の娘が置いていった種を蒔いて、収穫したのが、たったの3本のキュウリでしたが、今まで食べた中で、最高に美味しかったのです。

 栽培法を調べて世話をしないといけないのを学びました。プランターの土では足りないのか、種蒔きの時期がずれていたのか、虫除けや肥料なども、もう少し学びながら育てるべきだったと、反省しています。自分の手で、まだ青い葉がついているのに、刈ってしまったのは、安倍さんと同じで、〈断腸の思い〉です。

 春に、家内が薔薇の花をいただいた近くのご婦人が、ベランダのキュウリの葉の緑を眺めて、褒めていてくれた様です。息子さんが飼えなくなった老犬の「アッちゃん」を、最近飼い始めたり、ご主人が5回も手術を繰り返しているとの話を話してくださる方です。記念に撮った、そんなキュウリの花です。『長い間の緑をありがとう!』の8月の最後の日でした、

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人道の港

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 人類史上、最も残忍な指導者は誰でしょうか。きっとヒトラーかスターリンを上げることができそうです。他にもいそうですが。私は歴史を学び、歴史を教えた者として、過去の事実から、人間とは、これほどに残酷なことを、臆面もなく考え、それを実行できるのだと言うことを知って、愕然とさせられました。

 その様な残酷さや残忍さが、自分の内にも潜んでいるのだろうかと、魂の深みをのぞき見ようとした日がありました。ありました、憎悪、赦さない思い、復讐心、否認、いじめなどがあるのを見つけて、慄然としたのです。ヒトラーにしろスターリンにしろ、初めから、残酷に生きたのではなく、小さな〈苦い種〉があって、それが大きく、増殖され、増幅されていき、もう制御できないほどに大きくなって、爆発してしまったに違いありません。

 もしかすると、彼らは、自分の魂を〈闇の勢力〉に売り払って、その勢力下に自らを置いたのではないかと思うほどでした。そうでなければ、あれほどの残忍な仕業をすることなどできないからです。または、いつか、どこかで、間違ったスイッチを、心の中で押してしまったのでしょうか。

 ショパンを生んだポーランドから、765人の孤児が、1920年と1922年の二度に亘って、日本赤十字社の手で救出され、福井県の敦賀港に連れて来られています。ポーランドは、1700年代の後半に、ロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアによって3度も分割され、国を失います。そのロシアとの戦争で多くの子どもが、親を失って孤児になってしまいました。彼らは、シベリヤに抑留されたり、送られたりしていた子どもたちです。
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 その孤児が、日本に来て、敦賀市民によって、手厚く歓迎や世話をされたのです。「うさぎとかめ」の童謡があります。

「もしもし かめよ かめさんよ
せかいのうちに おまえほど
あゆみの のろい ものはない
どうして そんなに のろいのか」

「なんと おっしゃる うさぎさん
そんなら おまえと かけくらべ
むこうの 小山(こやま)の ふもとまで
どちらが さきに かけつくか」

「どんなに かめが いそいでも
どうせ ばんまで かかるだろう
ここらで ちょっと ひとねむり」
グーグーグーグー グーグーグー

「これは ねすぎた しくじった」
ピョンピョンピョンピョン
ピョンピョンピョン
「あんまり おそい うさぎさん
さっきの じまんは どうしたの」

 この歌を、ポーランドの子どもたちが、敦賀に滞在中に覚えて、口ずさんでいたそうです。髪の毛を洗い、銭湯に連れて行き、服を着せ、食べ物や飲み物で、敦賀市民が養ったのだそうです。この後、1940年代には、リトアニアからのユダヤ人難民が、杉原千畝の発行した、「通過ビザ」を握りしめた、およそ6000人のユダヤ人が、この敦賀に上陸しています。ポーランド孤児同様の厚遇を受けているのです。

 関西淡路大震災で、多くの子が、同じ様に孤児になりました。その孤児のみなさんを、ポーランドは国に招いて、歓迎し、かつての感謝を表したのだそうです。ポーランドの孤児の最後の一人、マリアさんは、『日本の人が、優しく膝の上にのせてくださったことや、看護婦さんによくしてもらったことを覚えています(2008年の記事です)!』と述懐しています。

 『捨てる神あれば、拾う神あり!』で、残忍さの対極で、優しく人道上の愛を示した、日本赤十字社や敦賀市民のみなさんがいて、ほっとさせられます。それで敦賀を、《人道の港》と言うそうです。

(福井県の敦賀港、曽祖父が過ごした港を訪ねたポーランド人のひ孫です)

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風鈴

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 華南の街で、夏を迎えた頃、仕切りに欲しくなったのが、「風鈴」でした。聞きしに勝る中国一暑い街での夏は、驚きでした。木陰のコンクリートの上で、上半身裸のおじさんが、お腹を出して寝ているのです。また犬は、水たまりに腹をつけ、四足を開いて涼をとっていました。

 そんな様子を見、汗をふきながら、『チリン、チリン、チリン!』と、風を受けて鳴るガラスを叩く音が恋しくなっていたのです。杉山平一に、「風鈴」という詩があります。

かすかな風に
風鈴がなっている

目をつむると
神様 あなたが
汗した人のために
氷の浮かんだコップの
匙(さじ)をうごかしておられるのが
きこえます

 風鈴の音を、詩人は、そう言った風にして聞いているのかと思うと、人の感性って凄いんだなと知らされたのです。父の家に、この「風鈴」があったかの記憶がないのです。四人の気の荒い男の子を育てていて、風流などといった気分にはなれなかったのでしょう。

 地球をば 風鈴(りん)に見立てて 鳴らしたし

 2020年、どんな音を奏でて、風鈴は鳴っているのでしょうか。『ショッピングセンターに行ったら買おう!』と思いながら、何度も足を運んだのですが、物の多さと、口のマスクのせいでしょうか、毎度、買い忘れて帰って来てしまいました。同じ杉山平一に、「希望」があります。

夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
広がって迎えにくる筈だ

負けるな

 夕暮れは静かにやって来ます。お腹が空いて、家に帰りたいけど、まだ遊んでいたい思いと戦いながら過ごした、幼い日が昨日の様に感じられます。一番星が輝き、煙がたなびき、闇が濃くなろうとしていました。さんまの煙です。お腹が、グウと鳴っています。明日も、人生の夕暮れに負けないで、『天気になーれ!』でした。必ず、朝が来るからです。
 
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収穫の秋

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 この地では、種蒔き時期が少し遅かったそうで、花は付けたのですが、実りが少なく、今朝、《3本目》を収穫したところです。苦労した割に、収穫が少なのですが、でも一本一本の価値は高いものがあります。こんなに収穫を喜んだことは久しぶりです。夕飯に、味噌で食べることにしましょう!収穫の秋、まだ真夏ですが。

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救命具

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 青函連絡船の洞爺丸が、函館港を出港した後、異常な速さで北上した台風によって、七重浜付近で転覆し、乗客と乗務員を合わせて、1155人が亡くなる、日本最悪の海難事故がありました。1959年9月26日のことでした。

 東京都下に、「農村伝道神学校」という学校があります。この学校の本館の前に、池があるのです。それは、「浮き輪」を象ったもので、とても印象的な池です。この学校の初代校長をされたストーン校長は、その「洞爺丸事故」が起こった時に乗船していました。救命具のなかった子どもに、ご自分のものを与えて、亡くなったのです。その愛と犠牲の行為を顕彰して作られたのが、この池なのです。家内がここの卒業生で、彼女の恩師を訪問をした時、一緒に訪ねました。

 1902年、カナダのオンタリオ州の農村で、ストーンは生まれ、宣教師となって来日し、伝道や養護教育、農村の振興などに尽力され、戦時下に帰国され、戦後、再び来られています。札幌の赴任先から、函館港で乗船された洞爺丸で、事故に遭遇したのでした。その船には、YMCAで奉仕をしていたリーパー師も乗っておられ、この方も沈没寸前に、こどもに救命具を与えて亡くなっています。

 この二人のことを思い出したのは、NHKラジオの昨夕(8月25日)の番組に出ておられた石蔵文信医師が推奨する、コロナワクチンの絶対量の不足の中で、「若者に集中治療を譲る意志カード」のことを聞いたからです。十分に生きてきた年配者が、若い人に機会を譲ることは、個人の決定であって、どんな外的な圧力や要請の働きかけによって、行われるべきではないと思ったからです。強要されてはならないのです。

 譲るか譲らないかは、「年配者」という括りだけでいいのかと思うのです。私の様に、病んでいる妻がいて、最優先は家内の世話です。誰かに、それを代わってもらえるものではありません。そういった私に、〈同調圧力〉がかかるとしたら、それは問題です。もちろん、私は、いつでも死にゆく心の準備がありますし、家内も《永生の望み》を確信していますが。

 洞爺丸のストーン師、リーパー師は、ご自身の即座の決定で、救命具の委譲を選ばれました。とても美談ですが、美談だけでは済まされない決断だったのです。とくにリーパー師は、亡くなった時に33歳でした。幼い三人の子がいて、事故死の翌年に、男の子が生まれています。家族への責任において、彼は 生き残るべきでしたが、一人の近くにいた子どもを生かすために譲ったのです。

 33歳の若い父親、一人の妻の夫という責任と引き換えて人を救うというのは、やはり、《個人の意思決定》ですが、誰にでも、『ストーン師やリーパー師に倣え!』とは言えません。彼らは、《永生のいのち》の確信があったから、あのような、《即座の決断》と《人道的な行為》をとれたに違いありません。彼らだからできたことです。生死の決定権は、個人で決める以上のものです。

 ちなみに、父リーパー氏を幼くして亡くした、長男スティーブンは、2007年に、外国人として初めて「広島平和文化センター(広島平和記念資料館の運営母体)」の理事長に就任しています。父の死を、超えて、継いで生きた人の有り様です。弟の住む家の近くに、「ストーンの森」という記念碑もあります。

(事故当時の新聞記事です)

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世間で

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 作詞が山田孝雄、作曲がむつひろしで、「昭和かれすすき」という歌謡曲が、1975年(昭和50年)7月に発売されたそうです。

貧しさに負けた いえ世間に負けた
この街も追われた
いっそきれいに死のうか
力の限り 生きたから
未練などないわ
花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき

踏まれても耐えた そう傷つきながら
淋しさをかみしめ
夢を持とうと話した
幸せなんて 望まぬが
人並みでいたい
流れ星見つめ 二人は枯れすすき

この俺を捨てろ なぜこんなに好きよ
死ぬ時は一緒と
あの日決めたじゃないのよ
世間の風の 冷たさに
こみあげる涙
苦しみに耐える 二人は枯れすすき

 だいぶ否定的な言葉使いの多い歌ですが、映画の主題歌、テレビ番組の挿入歌でだったそうです。この歌が、〈世間(せけん)〉という言葉を二度も使っているのです。それは、生きるのに負けた〈世間〉と、風の冷たい〈世間〉という表現をしています。最近になって、何かの拍子で初めて、この歌を聞いて、〈世間〉という言葉が気になってしまったのです。

 九州工業大学で、「刑事法学」を講じた佐藤直樹名誉教授が、『日本には、〈社会〉はなく、〈世間〉があるのです!』と言っています。この方は、「世間学」の専門家でもあり、「日本世間学会」の発起人などをされ、今年の「コロナ禍」で、新聞やラジオやテレビにも、多く出ておいでです。

 このところ残念なことに、コロナ罹患者やご家族への仕打ちが、普通ではないのに驚かされます。だから、公表しない、しないから、探りだそうとするのは、共同体の一員だという自覚がなく、ただ、〈自分の身だけが可愛い〉心理が働くからなのでしょうか。〈世間の掟〉が、暗然として、日本の社会にはあって、その〈世間の冷たい目〉に、常に晒されて、ビクビクしながら生活をしているのです。
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 お陰さまで、「新日本語」をよく耳にしています。〈自粛警察〉とか〈同調圧力〉とがです。戦後、75年が経ち、欧米文化が怒涛の様に入り込んできたにも関わらず、《個》の意味や在り方が、日本社会に浸透したのかなと思ってみるのですが、ほとんどの人が、〈世間〉の枠の中に囚われていて、周りの顔色や雰囲気を気にしながら、まだ生きています。〈不安〉や〈恐れ〉からくる〈差別〉や〈偏見〉を生んでしまっています。

 アメリカの大学に留学し、倶楽部生活などし始めて、新しい思想や考え方や生き方に出会って帰国してみるのですが、ファッションもスタバ通いもアメリカンなのに、生き方は、以前の轍(わだち)に、すぐに戻ってしまうのだそうです。中学を出て、15、6歳からアメリカ生活をした、私の子どもたちは、考え方は、《個》をしっかり持って帰って来たみたいです。

 外から自分の生まれ育った国を眺められたので、〈世間〉にのめり込まないで生きている様です。しかも日本人であることを捨てもしませんし、軽んじることもありません。〈世間のルール〉を尊重しながら、飲み込まれないで、上手に生きているのです。私たちは、〈仏滅〉の日に、結婚式を挙げてしまいましたが、〈世間〉を気にしませんでしたし、何の障りもなくと言いたいのですが、互いの違いを認め合いながら、来年は、「金婚式」を迎えられそうなのです。

 それにしても、この歌謡曲の様な恋は、息苦しいし、日陰の恋の様で気の毒です。1929年には、『いっそ小田急で逃げましょうか(「東京行進曲」の3番です)』と歌で勧めていますが、その小田原に行ったって、〈世間〉はついて来てしまうのです。〈世間の目〉など気にしないで、二人で素敵な人生を、楽しく生きていける様に、祝福したいものです。

(小田原市街の風景です)

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ブドウ

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 ずっと咲き続けてきた、ベランダの朝顔ですが、今朝は、その数が、今季最も多いのです。酷暑の中、やっと涼しさが感じられる様になって、ホッとしたのでしょうか、勢いよく鮮やかな色をたたえながら咲き誇っています。

 その隣で、キュウリが、垣をこえて外に向かって、蔓をのばしています。下の方では、ネムノキやハーブが植えられていて、なんと季節外れのヒマワリも伸びつつあります。狭いベランダに、わが家だけ、花卉が植えられていますが、本来なら、ここで育ててはいけないのかも知れませんね。

 昨日も友人の6歳のお嬢さんが、お母さんとやって来て、そのプランターに、手際よく水やりをしてくれました。自分の家にも、朝顔やトマトまで植えた夏でしたが、嬉々として小さな花の世話をしてくれていました。その優しい気持ちが嬉しかったのです。女子会で、ぶどう園に行き、帰りにお弁当を買って来てくれ、留守番の私も加えて4人でランチをしました。

 暑かった8月が行こうとしています。新学期が、もう始まっていますが、このお嬢さんの幼稚園は、9月1日から始まるそうです。今日は、県北にお住まいのおじいちゃんおばあちゃんとおじさんと従兄弟の家に、お仕事が定休日のお父さんと一緒に、お出かけだそうです。いただいたブドウが美味しかった!

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unsung

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  “ unsung “ と言う英語がある様です。” un “ は “ not “という意味、
” sung “ は「歌う」の過去分詞形です。直訳すると、「歌わない」、「歌われない」になり、褒められたり、感謝されたりされない、目立たない事や人や仕事をいう様です。すると、日陰に咲いている花や、真夜中に働いて、他者の注目外にいる人を言い当てていることができます。

 この社会には、“ unsung job “ があります。札幌の整形外科病院に入院していた時に、目立たない様に、私のベッドに来て、薬の説明をして、帰っていかれる年配のご婦人の薬剤師さんがいました。この方から、睡眠薬を手渡されるだけで、眠りに落ちてしまいそうな印象を受けたのです。『痛みは我慢しないで、眠剤を飲んで、数時間しっかり寝るのが回復に良いんです!』と勧めてくれたのです.

 今、テレビで、荒井ママレ原作の漫画が、ドラマ化され放映されているそうです。題名が、「アンサング・シンデレラ」で、病院の薬剤部門が舞台なのです。医師や看護師は感謝されるのですが、薬剤師は、表に立たないので、感謝されていません。
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 去年から家内が入院や通院で通っている、獨協医科大学病院で、一番忙しく働いていたのが、薬剤部だったでしょうか。目が回りそうに、クルクルと向きを変えながら、調剤した薬を患者さんに、実に慎重に確かめながら、数を数えながら渡すのです。これまで主治医が三度ほど投薬の不足がありましたが、薬剤部のミスは、一度もありませんでした。どんなにか神経を使っているのかが、看て取れるのです。

 その薬局業務を、数ヶ月前から、大手の薬局が、処方箋に従って投薬する様に変わってきています。その手際の良さは、病院の薬剤部での調剤の方がはるかに確かでした。でもよく業務をこなしておいでです。社会の隠れたところで働いてくださる、多くのみなさんに、『ありがとうございます!』と、もっと私たちは感謝すべきだと思うのです。

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朝顔

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 さしもの暑さも、朝晩は、ぐんと涼しく感じられる様になってきました。ベランダの朝顔は、今朝も、綺麗に競う様に咲きました。何という慰めでしょうか。目の醒める様な鮮やかな紫色を見せて、天然の世界の神秘さを感じさせられています。
  
 今日の日中は、暑くなるとの予報ですが、夜中に、クーラー音のしない眠りがあって、爽やかと言いたいのですが、昨晩、真夜中に、電話がなりました。ハワイにいる家内の姉からの連絡で、トビ起こされてしまいました。無事に手術を終えた、中部の街に住む妹の様子を聞いてきたのです。

 散歩もする様になった様です。倶楽部の人たちが、入院や手術時に、助けてくれたそうです。大きな病院の元院長さんが、家族の代わりに保証人になってくれたそうです。経過良好とのことです。

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