救命具

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 青函連絡船の洞爺丸が、函館港を出港した後、異常な速さで北上した台風によって、七重浜付近で転覆し、乗客と乗務員を合わせて、1155人が亡くなる、日本最悪の海難事故がありました。1959年9月26日のことでした。

 東京都下に、「農村伝道神学校」という学校があります。この学校の本館の前に、池があるのです。それは、「浮き輪」を象ったもので、とても印象的な池です。この学校の初代校長をされたストーン校長は、その「洞爺丸事故」が起こった時に乗船していました。救命具のなかった子どもに、ご自分のものを与えて、亡くなったのです。その愛と犠牲の行為を顕彰して作られたのが、この池なのです。家内がここの卒業生で、彼女の恩師を訪問をした時、一緒に訪ねました。

 1902年、カナダのオンタリオ州の農村で、ストーンは生まれ、宣教師となって来日し、伝道や養護教育、農村の振興などに尽力され、戦時下に帰国され、戦後、再び来られています。札幌の赴任先から、函館港で乗船された洞爺丸で、事故に遭遇したのでした。その船には、YMCAで奉仕をしていたリーパー師も乗っておられ、この方も沈没寸前に、こどもに救命具を与えて亡くなっています。

 この二人のことを思い出したのは、NHKラジオの昨夕(8月25日)の番組に出ておられた石蔵文信医師が推奨する、コロナワクチンの絶対量の不足の中で、「若者に集中治療を譲る意志カード」のことを聞いたからです。十分に生きてきた年配者が、若い人に機会を譲ることは、個人の決定であって、どんな外的な圧力や要請の働きかけによって、行われるべきではないと思ったからです。強要されてはならないのです。

 譲るか譲らないかは、「年配者」という括りだけでいいのかと思うのです。私の様に、病んでいる妻がいて、最優先は家内の世話です。誰かに、それを代わってもらえるものではありません。そういった私に、〈同調圧力〉がかかるとしたら、それは問題です。もちろん、私は、いつでも死にゆく心の準備がありますし、家内も《永生の望み》を確信していますが。

 洞爺丸のストーン師、リーパー師は、ご自身の即座の決定で、救命具の委譲を選ばれました。とても美談ですが、美談だけでは済まされない決断だったのです。とくにリーパー師は、亡くなった時に33歳でした。幼い三人の子がいて、事故死の翌年に、男の子が生まれています。家族への責任において、彼は 生き残るべきでしたが、一人の近くにいた子どもを生かすために譲ったのです。

 33歳の若い父親、一人の妻の夫という責任と引き換えて人を救うというのは、やはり、《個人の意思決定》ですが、誰にでも、『ストーン師やリーパー師に倣え!』とは言えません。彼らは、《永生のいのち》の確信があったから、あのような、《即座の決断》と《人道的な行為》をとれたに違いありません。彼らだからできたことです。生死の決定権は、個人で決める以上のものです。

 ちなみに、父リーパー氏を幼くして亡くした、長男スティーブンは、2007年に、外国人として初めて「広島平和文化センター(広島平和記念資料館の運営母体)」の理事長に就任しています。父の死を、超えて、継いで生きた人の有り様です。弟の住む家の近くに、「ストーンの森」という記念碑もあります。

(事故当時の新聞記事です)

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