並木道

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 初めて中国に旅行をした時、北京から、「フフホト」と言う、内モンゴルの省都を訪ねたことがありました。まだ整備されていない、田舎の鉄道駅舎の様な空港でした。そこから、ホテルまでバス移動をしたのです。延々と続く畑の間に、真っ直ぐな道があって、そこに葉を落とした背のそれほど高くない木が整然と、等間隔に植えられていた並木道でした。なんとも経験したことのない、大陸中国らしい情景が印象的でした。

 JR西八王子駅に近くの甲州街道沿いは、多摩御陵があって、そこには、銀杏の木が路肩に植えられていて、黄金色の並木は、圧倒的な存在感を見せていました。この年の正月に、日光に出掛けました。そこにあるスポーツ用品の企業のリゾート施設があって、4人の子どもたちの家族と私たち夫婦で宿泊し、家族会を持ったのです。その時、お昼に蕎麦をと言うことで、旧日光街道沿いにある店に行きました。そこは背の高い杉並木で、数えきれない人がここを通過したんだろうと思わされて、一入でした。
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 そういえば、札幌の整形外科に入院し、手術と術後に治療とリハビリで入院し、半年検診で、家内と一緒に札幌に行ったことがあります。始めての札幌に、家内は感動していました。あちらこちら行けなかったのですが、北大のキャンパスを歩きたいとのことで行きましたら、そこは広さと清潔感が溢れていたのです。孫たちが、その北大で学んでほしいと言うほどの家内でした。明治開拓期をなんとなく感じさせる佇まいでした。そこにはポプラや白樺やカエデの樹々が見事でした。

 下の兄と私が通った学校のあった街には、欅(けやき)並木があって、江戸時代を彷彿とさせるほどの古木が道沿いに並んでいました。学校の回りは、まだ櫟(くぬぎ)林で、小鳥にさえずりや木の葉を揺らす音で満ちていました。もうあの武蔵野佇まいは、全く消えてしまったことでしょう。
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 最後に、家内が通院している、栃木県壬生町の獨協医科大学病院の前には、銀杏並木があって、1974年に開院して46年の年月が経過していますから、50年になんなんとする並木なのです。多くの患者さんが、この並木道を通られた様に、昨年の正月以来、家内も通院に利用させていただいています。まさに今頃は、黄金色でしょうか。月一の通院で、今月は26日にまいりますが、その頃には、もう落葉していることでしょう。どの並木道も、風情があって実にいいものです。

#(上は獨協医科大学病院前の銀杏並木、中は北大のポプラ並木、母校の街の欅並木です)

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二つのこと

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「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」

 母や、恩師から、『どう生きるか?』の正しい人生観や価値観を教えられて、一冊の書物を、人生の書として読み続けてきています。それを基に、自分なりに意を決して、大切な事を、その時その時に応じて決断し、選択して、今日まで生きてくることができました。それには人が、いつも関わっていました。

 今の自分の心の中に蓄えられたもの以外は、ずいぶん簡素だと思っています。若い頃の学校選びも、仕事も、何度かの転職も、結婚も、家庭建設も、さらには中国行きも、帰国も、帰国後の生活も、自分で決めたというよりも、何か大きな意思が、自分の生活に介入して、促されて、決められたのです。でも決して自己の意思が欠落していたのではないのです。

 これまでの分不相応な高望みしない生き方や不真実を避けた在り方は、弱さを負いながら、それに押し流されずに、しっかりと生きた母の生き様の影響力が大きかったのだと思っています。母が14歳の時のカナダ人家族と、山陰出雲での出会いは、母の生き方を決めたのです。なごやかな家庭への憧れの中で、天父を知って、父(てて)無し児の自分が愛されていること、抱きしめられていることを、母は知って、向き直って生き始めたのです。
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 母は、週刊誌を読みませんでした。歌謡曲を歌わなかったのです。人の悪口を言うのを聞いたことがありません。キチッとした身なりをしていましたが華美に流れませんでした。泣いたりわめいたりしたことは皆無でした。弱っている人に気を配って助けていました。大怪我をしても、叫ばずにじっと我慢できる人でした。

 私たち四人の子の養育を、キチッとしてくれました。私たちに背中を見せた向こう側で、一冊の座右の書、「聖書」を読み、賛美し、人々のために祈り、証をし、礼拝を守り、献金をして、きちんとした生活を守っていました。そして明治の男・父には従順な妻だったのです。そう言った母の生き方に、父はなにも言いませんでした。

 少女時代、『先祖を大切にしない教えが説かれていて、教会は危険だ!』と、親戚や近所の人に訴えられ、棄教を迫られても、いったん信じたものを決して捨てませんでした。95歳で帰天する日まで、信じたものを守り通したのです。台湾に売られそうになって、警察に保護されたこともあったと、母の親族から聞きました。

 ですから、母の愛読書にある、「あなたの母の教えを捨ててはならない。」、まさに、その教えは、私には強烈な迫りがありました。母の生き方の中に、無言の教えがあって、怠惰や粗暴に流れやすい自分を抑制し、軌道修正させられて、大人になって生きられました。中学の担任が、私が献身した時に、『君もお母さんの道を行くのですか!』と言われました。バカ息子の不始末で、学校に呼び出されるたびに、母は、自分の信仰の証を担任に、忘れずに語っていたのでしょう。

 もう一度、家内の手をとって、13年過ごした街を訪ねることができるでしょうか。そんな願いで、北関東の街で、晩秋の暖かな秋の陽に当たりながら、「私に定められた分」に感謝しながら、その残された分を生きようと思っております。ここまで書き進んだら、華南の街の二組の夫妻と友人が、FaceTimeをくださって、『いつ帰ってきますか?』と言われてしまいました。

(カナダの秋の風景と出雲名物の蕎麦です)

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宗門人別帳

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 中国にいました時に、『お誕生日はいつですか?』と、お交わりの時にお聞きするのですが、年配者の多くの方が、ご自分の誕生日が分からなかったのです。お国が混乱していた時期が多くて、そういった住民登記がなおざりにされていたからかも知れません。それで結局、適当に、決められていたのです。

 私が、学校にいました時には、中国の学生のみなさんの生年月日ははっきりされていましたが、ご両親は祖父母は曖昧でした。都市部は徹底されていたのですが、大部分の農村部では、住民登記はなおざりにされていた様です。私の誕生の戸籍登記は、父の仕事の関係で、村役場への届け出が遅れたと言っていましたが、後になって、確りしてもらっています。

 先週、江戸時代の栃木の街の代官屋敷に見学に行って、下野都賀の「宗門人別帳(控)」を見ることができました。江戸期の「住民台帳」になるでしょうか。江戸期の衆民政策の主要なもので、代官や庄屋は、その任務を、藩から課せられて、その人別帳に作成に取り掛からされていた様です。

 下の写真は、「熊川村」の宗門人別帳(11864年/天保十四年)です。江戸幕府が、キリシタン禁圧のために設けた制度を、「宗門改め」と言います。一人一人、家ごとに、信仰する宗派寺院の檀家であることを、毎年、後には数年おきに、それぞれの寺に証明させました。その証明書が「宗門人別改帳」だったのです。どこの村でも、都市部でも、こんな記載がなされていたことになります。

 それは、宣教開始以来、破竹の勢いで、日本中にキリシタンが誕生したのです。ザビエルが宣教を開始して、間もない時期に、甲斐の甲府にも、「セミナリオ(神学校)」があったと記録されているほどです。それを恐れた秀吉も家康も、禁教令下します。それが、さらに強く推し進められて、キリシタンが散らされ打たれ殺され、全く表から消えて、地下に潜ってしまうまで過酷に、宗教政策が行われたのです。

 江戸期のそれには、家康の知恵どころであった、宗教だけではなく、全般的な幕府顧問だった、僧侶の天海の関わりが大きかった様です。島原の乱以降、江戸幕府の宗教政策の非情さを、遠藤周作の「沈黙」に描かれていて、映画化されています。映画を観ましたが、大目付の井上筑後守の冷徹さには驚きを禁じえませんでした。信徒の殉教と、あやふやな信徒の優柔不断さが描かれていて興味津々でした。

 21世紀の現在でも、ある国では、「宗教調査」が厳密に行われ、どこに所属し、どんな知人がいるのか、そう言った細かなことまで調査項目があり、徹底されて行われていると聞きます。信徒の増加が、国の政策を揺るがすからと言う理由ででしょうか。「信教の自由」を法で保証されている私たちには、信じられない逆行現象です。

 私の五、六代以前は、父方も母方も、この「宗門人別帳」に、名や年齢や宗門が記載されていたことになります。明治期になって、戸籍法ができたのは、軍隊を構成するためと、税収が目的であったのです。昨年、4月に転入の申請をしましたので、県知事選の投票用紙が、先日市の選挙管理委員会から送られてきました。これが平和で自由を約束された時代の証左です。いつまで続くのでしょうか。

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やはり秋

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 生まれ故郷から遠くに望み見る山姿は、山の頂上が鋭角で、刺々しくて、『近寄らないで!』と拒んでいる様な姿に見えてしまいます。入笠山から見る八ヶ岳も、振り返って見上げる南アルプスも、中部圏の山岳風景は、だいたい角(つの)を突いている様に見えるのです。

 ところが、熊本に恩師がいた時期があって、家内と友人夫妻とで、彼を訪ねたことがありました。阿蘇の外輪山に案内していただき、噴火して砕けた噴石が引き詰められていて、不毛の地でした。また怪我をして、友人の好意で、お父様の別荘に温泉があるとのことで、湯布院に家内と行って、一週間、温泉でリハビリしながら過ごしたことがありました。由布院も阿蘇も、そこから見られる山は、なだらかで、女性の肩のように優しく思えたのです。

 大分の九重連山も、長崎の雲仙、鹿児島や宮崎両県に広がる霧島も、おおよそなだらかな山容を見せています。九州の山姿は、遠望しただけで、登ったことはないのですが、中部山岳に比べてみますと、一様に高くも、険しくもないのが特徴でしょうか。

 上海から航路で帰国した時に、船の進行方向の右手に、まず見えてくるのが、五島列島です。緑の樹々の色が印象的でした。一年ぶりの帰国なのに、そんなに感傷的になっているのではないのですが、至極懐かしい思いがしたのを思い出します。大陸に比べて、手狭な島の姿は、あまりにも小さいのですが、やはり「ふるさと」を強く感じさせてくれたのです。
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 若い頃から、山歩きが好きで、奥多摩には、一人で出掛けて、山道の標識を見ながら歩き、仕事をし始めてからは、山歩きの好きな上司に誘われて、登山というよりは山歩きをしました。JR中央線の終点の高尾を降りて、高尾山から明治の森を通って、相模湖に抜ける山道は、特に冬場の木の葉の落ちた枯れ林の中を、カサカサと枯れ葉を踏んで歩くのが大好きでした。

 華南の街にいた時も、バスで森林公園まで行って下車し、その脇道を登って行き、W字の様に、またM字の様に歩いて、別の麓に戻るコースを歩いたりしました。日本とは山歩きのマナーが違っていて、大きなボリュームでCDやラジオを腰にぶらさげて聞き歩きを、平気でしている人に、文化やマナーの違いを感じたりしていました。

 この春には、足尾まで電車で行き、そこから奥日光を路線バスで走って、東武日光駅までのコースをとりましたが、秋には、紅葉の美しい道を歩こうと思いながらも、果たせないまま十一月になってしまいました。北に見える男体山に登って見たいのですが、けっこう高くて険しそうです。北関東の奥は、信濃や越後国で、山の懐が深い土地柄です。
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 作詞が斎藤信夫、作曲が海沼実、歌が川田正子で、「里の秋」の歌詞は、次の様でした。

1 静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜はー
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す

3 さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります

 ここで歌われているお父さんは、東京に出稼ぎに出ているのでも、遠洋漁業で南太平洋に出かけているのでも、入院しているのでもありません。この歌が、最初の歌詞で作られたのが、戦時中でした。お父さんは兵士、戦地に出掛けていたのです。そこには、「ご武運を・・・祈ります」という歌詞がありました。それを戦後、歌詞を変えて発表された歌でした。

 果物屋の店頭から、もう栗は消えてしまっています。赤く色づいた柿、黄色なみかんが目を引く季節になってきました。先週、連れて行っていただいた、市営の運動公園の木々も、葉が黄金色に変色して、広がった青空に映えて、深まりゆく秋を感じさせてくれました。

(阿蘇、霧島、足尾の風景です)

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塩梅

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 「二泊三日」、これは小旅行の日程ではありません。親元でも兄弟姉妹の家でも、近い親族の家で、『ゆっくりしていらっしゃいよ!』と言われても、滞在期間の最長限度だそうです。いわんや、友人や同僚の家以外に滞在するなら、一泊二日が最適なのかも知れません。

 私たちは、子育てをし、子どもたちが一人一人出て行くのを見守り、空の巣になるまで、アパート、マンション、事務所の中、借家、市営住宅、県営アパート、友人所有のマンションと、何度も何度も引越しを繰り返しながら住みました。子育て中は、事務所と向かい側の借家と住む場所が多かったので、お預かりしたり、行く先のない方を招いたりして、同居した方が何人もいたりで、多くの時は合宿のような生活をしていました。

 そんな状況でしたから、他人がいても気にしないで生活をすることができました。そのような生活に慣れていたので、よその家にお邪魔する時に、限界を超えてしまって、長居をした事が何度かありました。今思い返すと、私たちを迎えて下さった相手にとっては、大変に迷惑なことだったんだろうなと思えて、申し訳ない気持ちがしてくるのです。

 家内が親しい友人と話していた時、『どんなに親しくっても三日が限度ね!』と言われて、『そうなんだ!』と初めて思った様です。私たちの生き方が、相当<甘い>ことを知らされたのです。泊めて頂く家に、自分の親がいても、兄弟たちの奥さんがいて子どもがいたら、状況は違うわけです。短期滞在でしたら喜ばれ、長居すれば<歓迎されない客>になってしまうのが通常のことなのです。それで、昔からの知恵は、『三日が限度、二泊三日が丁度よし!』 なのでしょう。

 私の尊敬したアメリカ人事業家は、子どもさんが5人いました。アメリカには、ご自分の家を持っていなかったのです。日本でも借家にお住みでした。そして、家族は、ほとんど帰国する事はなかったのです。今思うに、七人家族が、アメリカに帰って、泊まれるスペースというのは、どこにもないわけです。『訪ねれば、きっと迷惑になる!』のが分かって、帰国を必要最低限度に制限していたのです。

 そういった理由が、同じ様に、祖国に家を持たないで、海外生活を続けていた私に、理解できる様になったのです。泊めて頂いた家で、小さな子から、『いつ帰るの?』と聞かれた時には、当然の様にしてお邪魔していた私の頭を、ポカリと殴られたかの様でした。どうしたらいいのか、さりとて行く当てがなくて、結局、感謝して、退散したことがありました。その子には、罪はありません。でも家内は、辛かったのでしょう。

 それで、人の好意に、どこまで甘えていいのか、どんなに親しくて関係が近くても注意しないといけないことを学んだわけです。帰国中、家内が通院する必要がありますから、一週間で、中国に戻ると言うわけにはいかないのでした。最低でも三、四週間は、帰国中は、どこかに滞在しなければなりませんでした。

 あの大家族のアメリカ人の実業家が、喜んでされていた働きを思い出して、大いに励まされたことがありました。その方と同じ仕事に携わっていたのですが、家内も私も、病んで老いを生きる今に驚くべき祝福があるのが分かるのです。そして、実際面でも、私たちの「永久雇用主」が、全てのことを塩梅(あんばい)してくれています。

 滞華中、弟の家には、家内と私が帰国した時に使える様にと、彼が用意してくれた部屋が用意されていました。また、ある方が、『空いてる家を使ってください!』とも言ってくれたりしました。でも今は、家内の通院に便利な街に、彼女のお気に入りの家を借りて住んでいます。終局的には、そう天に用意してくれている「お屋敷」に住むことができることでしょう。去年の11月1日から住み始めた、このアパートの一室は、気を使ったり、遠慮したりしないで住むことができて感謝です。

 ただ自分が召された後の家内の将来や、嫁いで行った娘たちが帰る実家とを考え、自分が家を持たないのは、ちょっと心残りがあるのです。でも、『いいよ、大丈夫、ご心配なく!』と娘たちも、家内も言ってくれています。今日を生きれることの毎日への感謝を、積み上げて過ごすことにしています。

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上海

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 上海の福州路(以前の四馬路です)の道の端に、小さなホテルがあって、上海と大阪を結ぶ航路の「蘇州号」に乗船するために、出航の前夜、そこに投宿したことがあります。建物も部屋の造りもnostalgicで、戦前からあるホテルに違いありません。そこは、かつての上海の一大中心地で、日本租界も近くにあり、長江からの黄浦江の流れの岸を「外灘waitan」と呼んで、今では河岸公園になっています。

 そこから少し離れたところに、上海港(马头matou)があって、多くの船が往来しています。この上海を舞台に作られた、「上海の花売り娘」が、日本統治中の1940年に流行りました。戦前、大陸に夢をつなごうとした人たちが、この港を乗り降りしたのを歌ったのでしょうか。作詞が川俣栄一、作曲が上原げんと、歌唱が岡晴夫でした。
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(一)
紅いランタン 仄かに揺れる
宵の上海 花売り娘
誰のかたみか 可愛い指輪
じっと見つめて 優しい瞳
ああ上海の 花売り娘

(二)
霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売り娘
白い花籠 ピンクのリボン
繻子(しゅす)も懐かし 黄色の小靴
ああ上海の 花売り娘

(三)
星も胡弓も 琥珀(こはく)の酒も
夢の上海 花売り娘
パイプくわえた マドロス達の
ふかす煙りの 消えゆく影に
ああ上海の 花売り娘

 幕末には、函館や横浜や神戸には、外人居留地がありましたが、中国には、中国の治外法権で、手出しのできない一角が、「租界」と呼ばれて、あちこちに作られていたのです。そして虎視眈々と中国を我が物にしようとする、欧米列強や日本が、策略を練っていたわけです。
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 覇権を競い合う欧米列強、それに日本が加わって、〈眠れる獅子〉と、その潜在能力を持っていた中国は、太平天国に乱、アヘン戦争後の混乱に乗じて、様々な思惑が働く国でした。とくに上海は、東洋の魔界の様に、欲望の渦巻く街だったと歴史は伝えています。私は、何度か上海の港を利用したのですが、中国らしくない街で、興味深かったのを感じたものでした。

 教え子のご両親が、その老舗のホテルの近くで、ご自分のホテル経営をしていたのです。ネット予約をした後に、そのことを知ったので、そこは利用しないままでした。ちょうど上海に、その教え子が帰省していて、友人と二人で、中国新幹線の駅に、私を迎えに出てくれました。遠距離寝台バスを利用することが多かったのですが、新規に作られた新幹線は、とても便利で快適でした。

 東アジア最大の街の上海は、exoticで、私たちは長く過ごした華南の街とは、雰囲気が、また違っていたのです。紹興出身の魯迅が、活動した街で、日本人の内山完造(内山書店の店主)との間に素晴らしい関わりがあった様です。この書店も、上海の日本街の「虹口hongkou)」にあって、10万人もいた日本人と中国の文化人との文化的交流の場だったと言われています。

 この上海は、東京に対する大阪的な存在感を持つ街の様に、北京から離れた商業都市と言えるでしょうか。大阪は訪ねたことがありますし、家内の誕生地です。他人との付き合いもざっくばらんで、人情味に熱いのを感じます。上海に思い入れがある様に、私には大阪もそんな街でしょうか。日本人は、戦前は上海に憧れ、戦後はハワイに憧れがありましたが、多様化の二十一世紀の現在の憧れはどこなのでしょうか。

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晩秋の田園風景

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 小朋友のお母さんが送信してくれた写真です。こちらの稲刈りの後の田圃です。刈り取った稲をロールして、牧養家が牛舎に運んで、家畜の餌にするのでしょう。私の育った東京の三多摩地区では、刈り取り、脱穀した稲を、畑の一廓に積んで、稲村にしていていました。今では、多くの場合、裁断にかけてしまうのでしょうか。わらじや縄をなうこともなくなってしまったからです。

 その刈り株から出てくる若芽を、「蘖(ひこばえひこばえ/孫生え)」と呼びますが、種子島では、それが成長して、二度目の稲の収穫が、以前にはあったそうです。収穫後の田んぼは、休みに入って、寒い冬に耐えて、春になったら再び耕されるのでしょう。でも、ここでは、「ビール麦」を育てるようにビール工場から依頼されているそうです。麦の穂が、徐々に青だって行くのも冬場の楽しみです。

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背中を押してくる

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 「サッちゃん」という童謡を作詞した阪田寛夫は、大阪の人で、数多くの詩を残しておられます。子どもの心を詠んだものばかりでした。子どもたちの小学校の音楽の教科書の楽譜の上に、よくお名前が出ていたのです。その多くの詩の中に、「夕日が背中を押してくる」がありました。

夕日が背中を 押してくる
まっかな腕(うで)で 押してくる
歩くぼくらの うしろから
でっかい声で よびかける
さよなら さよなら
さよなら きみたち
晩ごはんが 待ってるぞ
あしたの朝 ねすごすな

夕日が背中を 押してくる
そんなに押すな あわてるな
くるりふりむき 太陽に
ぼくらも負けず どなるんだ
さよなら さよなら
さよなら 太陽
晩ごはんが 待ってるぞ
あしたの朝 ねすごすな

夕日が背中を 押してくる
でっかい腕で 押してくる
握手(あくしゅ)しようか わかれ道
ぼくらはうたう 太陽と
さよなら さよなら
さよなら きょうの日
すてきな いい日だね
あしたの朝 またあおう

さよなら きょうの日
さようなら

 確かに、お腹は空くのですが、遊びが楽しくて、だれ一人、『帰ろう!』なんて言わないで、鬼ごっこや宝島取りや馬乗り、馬跳びなどをやり続けていたのです。でも、今頃の夕日は、つるべ落としの様に落ちていき、まるで真っ赤な腕が押す様にして、しかも優しく『暗くなったから、家に帰りなさい!』と、語りかけていると、作者は詠み、しぶしぶ家に帰ったのを思い出します。
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 家から離れた広場で遊んでいて、『ご飯ですよーっ!』と、お母さんたちの呼ぶ声の代わりに、夕日が、そんな風に語りかけ、帰宅を促していたのです。こういった光栄は、今では見られないのかも知れません。ことさら、コロナ禍の今年は見られませんし、そんな広場だって、もうなくなってしまいました。

 毎日毎日、疲れることも、うむこともなく、母が朝餉(あさげ)夕餉の支度をしてくれ、卓袱台を囲んで、みんなで感謝して、猛烈に食べまくっていました。何せ、父の家は男の子四人、私の家は男女二人づつの同じく子どもたちが四人、まるで小戦争の様でした。でも楽しかったのです。

 子どもたちは、どんな家庭を作ってるのでしょうか。孫たちは、赤い夕日の腕に押されて、『ただいま!』と言いながら家に帰って来るのでしょうか。泣いて帰って来た日も、しょんぼりの日もあったかな。帰る家、待っていてくれる親がいて、みんな大きくなったのでしょう。家って、「堡塁(ほるい)」や「避難壕」だったり、「真綿の様な巣」だったりでしょうか。

 そんな帰る家が、天にあるのです。そこは戦いも競争もない世界です。一番力に漲って、綺麗な時の父も母も、叔父も叔母も、従兄弟も従姉妹も、孫たちも、そこにいることでしょう。

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開封

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 日本には、「京都」があります、「平安京」に遷都されてから、そこは明治維新まで日本の首都でした。中国には、「北京」、「南京」、「西京(漢代の「長安」、現在の「西安」の旧称です)」があるのですが、「東京」が見当たりません。しかし、北宋の首都だった「开(開)封Kaifeng」は、かつては「東京開封府」と呼ばれ、正式には「東京」であったそうです。この「開封」は、中国の河南省にあります。金の国に滅ぼされるまでは、驚くほどの隆盛を極めた都だったのです。

 実は、この宋代の「開封」に、ユダヤ人共同体があったと言われています。皇帝が、アジア諸地域から優秀な人材を求めた時に、ユダヤ人もまた、呼び集められて、ここに落ち着いたようです。”ウイキペディア”によると、「ティベリウ・ワイスによれば、バビロン捕囚の後、紀元前6世紀に、異民族との婚姻を理由に預言者エズラにより追放され、インドの北西部(石碑では「天竺」と記述されている)に移住した支族レヴィ族と司祭の一族が、開封のユダヤ人の起源であるという。」と記してありますから、ユダヤ人の中国での居住の歴史は、ずいぶんと長いことになります。

 明代(1368年-1644年)には、ユダヤ人は皇帝から 、艾、石、高、金、李、張、趙(ユダヤ人の氏族の姓 Ezra, Shimon, Cohen, Gilbert, Levy, Joshua, Jonathan)を与えられ、それぞれ名乗ったのです(ウイキペディアによる)。この姓を名乗る中国のみなさんは、ユダヤ系である可能性があるのでしょうか。親しい友人に、これらの苗字を持つ方が、何人もいました。

 現在でも、開封にはユダヤ人が住んでいて、中国人と結婚して、中国社会に溶け込んでいるそうです。統計上、どれだけのユダヤ人がいるかを知ることは困難であって、推定の域を越えないようです。日本でも、「離散したユダヤ民族(イスラエルの十部族)」がいると主張する方がいますが、それもあり得ることでしょう。56の民族で構成される中国に、ユダヤ民族は入っていませんが、少数民族に、その血を受け継いでいる人々がいることは事実です。
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 中国の街のコンクリートの作りの集合住宅の各家の玄関には、例外なく、どの家の玄関の扉の上方の鴨居と、扉の左右の門柱に、紅い紙に、黒く印刷された文字が書かれているのです。それを「春联(聯 )chunlian」と呼んでいます。

 それは、イスラエル民族の歴史の中の「過越の日」に、各戸の家の鴨居と門柱に、小羊の血が塗られた出来事を彷彿とさせられます。紀元前のパレスチナから移り住んだ人たちの子孫が、この開封の街の中にいないとは限りません。歴史の浪漫を感じさせられて、興味が尽きません。そうでなくとも、ユダヤ人に伝承されている習慣と、現代の中国人の生活とに、何か脈略があるように感じているのです。

 それにしても、心残りは、華南の街に住んでいる間に、この「開封」を訪ねてみたかったのです。地図を見、列車の乗り継ぎなど調べたことがありましたが、叶えられずに帰国してしまったからです。機会があったら、ぜひ訪ねたい街なのです。

(開封市内の街の古い記念の建物です)

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配慮

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 華南の街の古街の一郭に残る、たぶん清朝に作られた家並が、残されてありました。古く由緒のあるものを、後の代に遺したらいいのですが、今では、多くの街で壊されていたり、人の手が入ってしまって、建築当時の趣が薄れてしまっています。屋根の端、隣家に繋がる部分に、見事な「梲(うだつ)」が残されていました。それだけを見たくて、なんども足を運んだのです。とった写真が、どこかに行ってしまったのは残念です。

 その役割は、火事が延焼しないための防火壁なのです。今住んでいます家の隣りに、去年の19号台風で、私たちと同じ様に被災した家族が、同じ時期に前後して、移り住んでこられています。ご夫婦は三十代前半で、小さな子さんが二人おいでです。先日、駐車場でお会いして、しばらく話をしていました。『そう、家を買いまして、来月引越しすることにしたのです。しばらくでしたが、お世話になりました!』と、ご主人がおっしゃられたのです。

 そうしますと、この若いご主人は、まもなく《梲を上げられる男》になるのです。〈梲が上がらない〉という言葉が、次の様に解説されてありました。

『町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになります。
自己の財力を誇示するための手段として当時の豪商たちがその富を競い合うようにそれぞれに立派なうだつを設けました。
うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、比較的裕福な家に限られていた。これが、生活や地位が向上しない・状態が今ひとつ良くない・見栄えがしない、という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられます。』

 そうしますと、この私は、〈梲の上がらない男〉で終えそうなので、ちょっと羨ましく、その引越しの話を聞いていたのです。中学一年の時に、国語の教師から、『準、こんな字を書いていたら、お前は出世しないぞ!』と言われたのですが、言われた通りに、無出世で今日に至りました。持ち家に住もうとする願いも、全くなかったのです。家内も、私に、『自分たちの家が欲しい!』などと、一度も言わずに、

 ♭ この世では貧しい家に住んでいても 心楽し
 み国では 約束の家が待っている ♯

と歌うだけで、なんとも思っていません。でも先人たちが、自分の家が火元になって、隣家に延焼してはいけないと、どれほどの効果があったか分かりませんが、防火壁を設けたというのは、心掛けとしては心憎い配慮であったわけです。

 この栃木の街は、火災に何度かあったとかで、今ある古民家は、幕末から明治期に建てられいて、火災を免れたものだそうです。それに、一軒一軒が独立していますので、屋根に立派な瓦が載っていますが、「梲」は見当たりません。川のほとりに家を建てたのも、そう言った配慮からだったかも知れません。

(絵の中央部に見える白い壁の部分が「梲」です)

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