二つのこと

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「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」

 母や、恩師から、『どう生きるか?』の正しい人生観や価値観を教えられて、一冊の書物を、人生の書として読み続けてきています。それを基に、自分なりに意を決して、大切な事を、その時その時に応じて決断し、選択して、今日まで生きてくることができました。それには人が、いつも関わっていました。

 今の自分の心の中に蓄えられたもの以外は、ずいぶん簡素だと思っています。若い頃の学校選びも、仕事も、何度かの転職も、結婚も、家庭建設も、さらには中国行きも、帰国も、帰国後の生活も、自分で決めたというよりも、何か大きな意思が、自分の生活に介入して、促されて、決められたのです。でも決して自己の意思が欠落していたのではないのです。

 これまでの分不相応な高望みしない生き方や不真実を避けた在り方は、弱さを負いながら、それに押し流されずに、しっかりと生きた母の生き様の影響力が大きかったのだと思っています。母が14歳の時のカナダ人家族と、山陰出雲での出会いは、母の生き方を決めたのです。なごやかな家庭への憧れの中で、天父を知って、父(てて)無し児の自分が愛されていること、抱きしめられていることを、母は知って、向き直って生き始めたのです。
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 母は、週刊誌を読みませんでした。歌謡曲を歌わなかったのです。人の悪口を言うのを聞いたことがありません。キチッとした身なりをしていましたが華美に流れませんでした。泣いたりわめいたりしたことは皆無でした。弱っている人に気を配って助けていました。大怪我をしても、叫ばずにじっと我慢できる人でした。

 私たち四人の子の養育を、キチッとしてくれました。私たちに背中を見せた向こう側で、一冊の座右の書、「聖書」を読み、賛美し、人々のために祈り、証をし、礼拝を守り、献金をして、きちんとした生活を守っていました。そして明治の男・父には従順な妻だったのです。そう言った母の生き方に、父はなにも言いませんでした。

 少女時代、『先祖を大切にしない教えが説かれていて、教会は危険だ!』と、親戚や近所の人に訴えられ、棄教を迫られても、いったん信じたものを決して捨てませんでした。95歳で帰天する日まで、信じたものを守り通したのです。台湾に売られそうになって、警察に保護されたこともあったと、母の親族から聞きました。

 ですから、母の愛読書にある、「あなたの母の教えを捨ててはならない。」、まさに、その教えは、私には強烈な迫りがありました。母の生き方の中に、無言の教えがあって、怠惰や粗暴に流れやすい自分を抑制し、軌道修正させられて、大人になって生きられました。中学の担任が、私が献身した時に、『君もお母さんの道を行くのですか!』と言われました。バカ息子の不始末で、学校に呼び出されるたびに、母は、自分の信仰の証を担任に、忘れずに語っていたのでしょう。

 もう一度、家内の手をとって、13年過ごした街を訪ねることができるでしょうか。そんな願いで、北関東の街で、晩秋の暖かな秋の陽に当たりながら、「私に定められた分」に感謝しながら、その残された分を生きようと思っております。ここまで書き進んだら、華南の街の二組の夫妻と友人が、FaceTimeをくださって、『いつ帰ってきますか?』と言われてしまいました。

(カナダの秋の風景と出雲名物の蕎麦です)

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