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中国にいました時に、『お誕生日はいつですか?』と、お交わりの時にお聞きするのですが、年配者の多くの方が、ご自分の誕生日が分からなかったのです。お国が混乱していた時期が多くて、そういった住民登記がなおざりにされていたからかも知れません。それで結局、適当に、決められていたのです。
私が、学校にいました時には、中国の学生のみなさんの生年月日ははっきりされていましたが、ご両親は祖父母は曖昧でした。都市部は徹底されていたのですが、大部分の農村部では、住民登記はなおざりにされていた様です。私の誕生の戸籍登記は、父の仕事の関係で、村役場への届け出が遅れたと言っていましたが、後になって、確りしてもらっています。
先週、江戸時代の栃木の街の代官屋敷に見学に行って、下野都賀の「宗門人別帳(控)」を見ることができました。江戸期の「住民台帳」になるでしょうか。江戸期の衆民政策の主要なもので、代官や庄屋は、その任務を、藩から課せられて、その人別帳に作成に取り掛からされていた様です。
下の写真は、「熊川村」の宗門人別帳(11864年/天保十四年)です。江戸幕府が、キリシタン禁圧のために設けた制度を、「宗門改め」と言います。一人一人、家ごとに、信仰する宗派寺院の檀家であることを、毎年、後には数年おきに、それぞれの寺に証明させました。その証明書が「宗門人別改帳」だったのです。どこの村でも、都市部でも、こんな記載がなされていたことになります。
それは、宣教開始以来、破竹の勢いで、日本中にキリシタンが誕生したのです。ザビエルが宣教を開始して、間もない時期に、甲斐の甲府にも、「セミナリオ(神学校)」があったと記録されているほどです。それを恐れた秀吉も家康も、禁教令下します。それが、さらに強く推し進められて、キリシタンが散らされ打たれ殺され、全く表から消えて、地下に潜ってしまうまで過酷に、宗教政策が行われたのです。
江戸期のそれには、家康の知恵どころであった、宗教だけではなく、全般的な幕府顧問だった、僧侶の天海の関わりが大きかった様です。島原の乱以降、江戸幕府の宗教政策の非情さを、遠藤周作の「沈黙」に描かれていて、映画化されています。映画を観ましたが、大目付の井上筑後守の冷徹さには驚きを禁じえませんでした。信徒の殉教と、あやふやな信徒の優柔不断さが描かれていて興味津々でした。
21世紀の現在でも、ある国では、「宗教調査」が厳密に行われ、どこに所属し、どんな知人がいるのか、そう言った細かなことまで調査項目があり、徹底されて行われていると聞きます。信徒の増加が、国の政策を揺るがすからと言う理由ででしょうか。「信教の自由」を法で保証されている私たちには、信じられない逆行現象です。
私の五、六代以前は、父方も母方も、この「宗門人別帳」に、名や年齢や宗門が記載されていたことになります。明治期になって、戸籍法ができたのは、軍隊を構成するためと、税収が目的であったのです。昨年、4月に転入の申請をしましたので、県知事選の投票用紙が、先日市の選挙管理委員会から送られてきました。これが平和で自由を約束された時代の証左です。いつまで続くのでしょうか。
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