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我が家で一番混み合ってる箇所に、「胡蝶蘭」の鉢があり、花を落として、しばらくしてから、新芽が出てきて、今週、花が開きました。今朝は、今冬一番のマイナス5℃、体感マイナス7℃だった様です。そん中に、花が咲いているのは、素敵です。
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江戸時代の中期の「狂歌」に、花道つらね作の、次の歌があります。
たのしみは春の櫻に秋の月夫婦中よく三度くふめし
楽しくさせてくれるものの内に、「夫婦中良く三度くふめし」があるというのは、実に私の実感でもあります。空の巣になってから、そんな日を重ねてきているからです。子どもや友人が来て、一緒に食事をすると、決まって、『みんなで食べると美味しいね!』と家内が言うのです。それで、『みんなで食べるのも美味しいね!」と、言い直してもらうのです。二人で食べるのだって、美味しいからです。
そんな家内が、〈小旅行〉、いえ家出したこともあったのです。もう三度、私と一緒に食べられない心境になったからでしょうか、プイと、無断で出て行ってしまったのです。母の小旅行に付き合った経験が、小学生の頃にありましたので、『ブルータス、お前もか!』で、意に介さなかった、いえ、ほんとうは慌てふためいてしまったのです。
春や夏に、何度も行った「清里」が、家内と上の息子と長女、そしてお腹の中の胎児の行先でした。母が、義母に諭された様に、やっと泊めてくれた民宿のご夫婦に諭されて、帰ってきました。あれから、四十数年経ちますが、家内は、そんあ小旅行に何度か行きたかったこともあったのでしょうが、繰り返さないで、我慢をしてきての今です。
田沼意次の時代、人気歌舞伎役者の五代目市川團十郎(花道つらね)夫妻だって、紆余曲折、二人の間に、漣(さだなみ)や中波が揺れ動いたことだってあったに違いありません。それを越えての狂歌なのでしょう。養子の身の上で、そんなに幸せな幼少期を生きた人ではなかったそうですが、それだから、花道は、家庭とか夫婦のあり方を大事にした人だったのかも知れません。
〈三度の飯〉って、作るのは、随分と面倒なものなのだと言うのが、この一年あまり身にしみています。家内が入院中は、見舞いを終えて夕暮れ時、電車を下車して、時々スーパーで見かけた、単身赴任のおじさんと同じで、弁当の値引きの残りを買って、簡単に味噌汁を作ったり、インスタントですませたのです。
自分が炊事当番になって、母も家内も、黙々とよくやってくれたものだと感謝が湧くのです。犬が倒れたみたいに、ワンパターンの献立で、煮魚、おひたし、漬物、しじみの味噌汁の連続です。これでは食傷気味になるでしょうね。“ クックバッド ” は、敷居が高くて、真似できません。さあ、今晩は、鮭と茹でアスパラとキムチと大根の漬物かな。
(江戸の街の光景です)
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高校の同級生に、いくつかの〈グループ分け〉がありました。1つは、幼稚園、小学校、中学校と、上に上がってきたグループです。もう一つは、公立小学校を終えて、中学から入ってきたグループです。もう一つは、高校から入ってきたグループです。因みに、私が高校を卒業した翌年、大学ができましたから、けっこう少人数でしたが、幼稚園から大学まで、〈18年間〉の一貫教育を受けた同窓生がいます。
幼稚園からきた同級生は、その結束や仲間意識が強くて、中学から入った私には、見えない垣があって、どうしても入り込むことができませんでした。やっぱり、彼らには〈エリート意識〉があったのでしょう。また、高校から入ってきた同級生は、都立に入れなくて、第二か第三志望で入ってきている同級生が多くいましたので、若干〈コンプレックス〉が見えました。
その中学から、その地域のトップクラスの都立に合格し、有名国立に行った同級生もいました。その反面、高校に上がれなく、ほかの私立高校に行った者もいました。お父さんが亡くなった経済的な理由や、その他には、素行の問題もあった様です。
世の中って、意外と厳しいものがあるのを、年齢を重ねるにしたがって知ることができます。自分が仲よかった同級生が、他の高校に行き、ヤンチャをやっている噂を聞いたりして、会えずじまいで今日まできています。
高校に入学して、一学期に、途中で入学してきた同級生が数人いました。私立ですから、経営上の問題があって、入学を許すのでしょうか。まさにヤンチャ、いえ不良そのもので、それが少年隊に入れる様な〈いい男たち〉でした。仲良くなって、どんな生活をしてるかを話しの中で聞いたりしました。こちらも目立っていたから、同じ匂いがしたのでしょうか。
洋服屋に行くと、自分の着て行ったのを脱いで、吊るされているお気に入りを着込んで、逃げて、新品を手に入れるとか、女性問題とかで、相当悪どいことをしていたのです。そう言った途中入学者は、転入後、間もなくしてやめていきました。こちらは運動部に入っていたりで、悪交際に深入りしなかったのは、幸いした様です。
自分のことも、そう思われているのでしょうけど、あの連中は、今頃どうしているのかな、と時々思い出します。ちゃんとお爺さんをしているのでしょうか。けっこう真面目になって、好々爺だったりしてるのでしょうか。全く目立たなかった〈いい子〉の方が、悲惨な人生を生きていたかも知れません。人生、悲喜交交(ひきこもごも)でしょう。
やめさせたくなかった、〈工事中/成長途上〉の教え子を、庇ったのですが、教師会の決定は、〈自主退学〉の名目で退学処分にしてしまったのです。庇い切れなかった非力を感じ、翌年、その学校を辞しました。自分の〈工事中〉に、いろいろとあって、今、〈工事中〉の孫たちの無事の成長を願い、そんなこんなで、こんなに素晴らしい《今》があります。
(武蔵野の中程を流れる「玉川上水」です)
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ブラジルに農業移民をした、私の家内の長兄は、入植後、同時期に働き始めた仲間の自死、その埋葬を痛烈な悲しみの中で体験します。挫折から立ち上がり、自営を目指したのです。ある時、出会った方に「時計修理」の技術を教えてもらい、サンパウロから1時間ほどの街のマーケットの片隅で、時計修理業の店を始めたのです。
開拓地から、馬に乗って持ってくる時計の修理をしながら、勤勉に働いて、事業を大きく拡張していき、まあまあの成功をおさめた様です。土地を買って家を建て、子育てをし、夫人の家族を呼び寄せたそうです。私は、ブエノスアイレスの大会に参加した帰りに、義兄を、この家に訪ねたことがありました。間口の狭い店でしたが、流行っていました。その義兄の店の名が、「ビッグ・ベン」だったのです。ロンドンのウエストミンスター宮殿の時計台が、そう呼ばれていて、その名を、義兄は借用したのです。
我が家にも、昨秋買った壁時計が、振り子を振り続けて、時を刻んでいますが、世界には、特異な名の付いた時計があります。それが、〈世界終末時計〉と呼ばれるものです。「ニコニコ大百科」に、次の様にあります。
『世界終末時計(Doomsday clock)とは、核兵器や戦争、環境破壊などを原因とする人類の「終末」が発生する時刻を午前零時とし、それまでの「残り時間」を象徴的、仮想的に表した時計である。・・・地球になぞらえた(あるいは単に無地の)文字盤をした時計。
ただし、実際に動き続ける時計ではなく、45分から0時までの部分を切り出した、もしくはその部分だけが描かれた絵として表される。誕生は米ソ冷戦時代であり、日本への原子爆弾投下から2年後の1947年。アメリカの科学誌『原子力科学者会報』(原題は『Bulletin of the Atomic Scientists』)の表紙絵として描かれている。
また、アメリカイリノイ州のシカゴ大学には世界終末時計のオブジェが存在する。その後も同誌は定期的に委員会を設けて時刻の修正を行っており、創設以来起こった様々な出来事を元に22回の修正がなされている。1989年からは核の脅威だけでなく、環境破壊などの脅威も針の動きを決定する要因となった。実際2012年には、福島第一原子力発電所事故などを理由に1分間進んでいる。』とです。
2020年現在、世界の終末まで、〈100秒〉になったと、先日発表されました。BAS(原子力科学者会報)の委員会のジェリー・ブラウン元カリフォルニア州知事は、『超大国間の危険な対抗や敵意が、核をめぐる大失態を犯す可能性を高めている。気候変動はこの危機的状況を悪化させている。目を覚ますべき時があるのだとすれば、それは今だ!』と述べています。
私の愛読書には、『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり・・・大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。』とあります。大変な時代の只中に、今はあるのかも知れません。絶望だけではなく、逃れる道が残されているとしたら、そこにも将来と希望が見出されることでしょう。〈100秒〉を厳粛に覚えつつ、今日を、今週を、今月を、望みをもって生きていきたいものです。今日は、二十四節気の「立春」、このところの陽の光は、もう春の様です。
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落日の北関東から、南に富士を望み見て、今日の無事を感謝したところです。暖かな二月です。東に筑波山、西に大平山、北に日光男体山を眺めることができ、街中ですが、静かな佇まいの中で、生活できる幸に、心安らかです。
三週振りに、次男が、家内に蓬餅、私にキンツバ、その他、夕食にと「穴子と稲荷寿司」を持って、親を喜ばそうと、特急電車に乗って来て、特急電車で帰って行きました。「PET検査」を終え、2月13日の「MRI検査」を控え、今後の母親の治療計画の思うところを、医学界の動きも交えて、話してくれました。彼なりに精一杯の情報を収集しているのです。
巴波川で、母鴨が鳴き声を上げ、小鴨を呼んでいるのでしょうか。やがて世代交代で、小鴨も独立していくのでしょうね。今日は、白鷺が遠くで飛んでいましたが、眼下の川面や対岸のアパートの屋根には来ませんでした。季節の変わり目が、きっとつかめないのかも知れません。よい週末であります様に。
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『そんなに人材がいないのですか?』、これが正直な印象です。幕末には、土佐にも、薩摩にも、長州にも、さらには江戸にも会津にも前橋にも、逸材がいたではありませんか。戦国期には、「群雄割拠」、信玄も謙信も勝家もいたではありませんか。
それなのに「令和の御代」に、人がいないのでしょうか。中国での話を、若い頃に聞いたことがあります。日本では、若者の発言は、ハナから聞こうとしないのに、中国では、若者の発言に、年長者たちが、〈一応〉ではなく、真面目に傾聴するのだ、と言う話でした。
私の息子を連れて、ある大会に出掛けたことがありました。会の途中の休み時間に、居室に戻ると、おじさんたちが将棋を打っていました。棋板を見ていた、藤井君ではない、4歳の息子が、『おじさん、違う、違うよ!』と言ったのです。差手が間違ってると言ったのです。それを聞いたおじさんは、それを聞いて考え込んだのです。いえ考え込んでくれたのです。そう、中国人をしてくれたわけです。
親の私がハラハラする前に、そんな接し方をしてもらった子が、今、そんなことがなかったかの様に、東京で働いています。相模原にも、鳥取にも、熊本にも、伊予三島にも、室蘭にも、優れた人材が育っています。国政を担える、企業を動かし得る、若者を立派に教育できる人材がいるのです。国の存亡の危機に、忽然と現れてくる人が、備えられています。
この世の現実は、順番待ちをしている人がいるのです。でも、《救国の士》は、人の思惑やご都合ではなく、月光仮面のおじさんの様に、忽然と現れて、疾風のように去って行くのです。一国、一町、一時代の危機の時に、そう、あのジョーイの憧れであった「シェーン」の様な人物です。ピストルを抜かずに、「知恵の籠もったことば」と「決断」とを駆使できる人です。
歴史の中に輩出した人は、その時代の要請に従って、出て来て、いつでもいました。そして事をなし終えて、舞台から降りて行きました。そう言った人が、備えられているのです。私利私欲によってではなく、公明正大で、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって・・・ともに歩む、そう言った人が、世界中の名のない街にいるのです。そんなことを思う二月です。
(「土下座グラヒフィクス」によります)
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東京都下、多摩地区で育った私は、「べえべえ言葉」の影響を受けて、『行くべえ!』とか『すんべえ!』とかが混ざった標準語を、小学生の頃に話していました。神奈川県の東京寄り、武蔵野、埼玉、群馬県、そして今住んでいる栃木も、言葉尻に、『・・・べえ!』を加えて言うのです。〈関東方言〉で、方言を研究されている方は、古語や和語の名残だと言っています。
私の母の故郷の出雲には、『だんだん!』と言う言葉があります。漢字で、「段々」と書くのだそうで、『ありがとう!』を、そう言うのだそうです。「いろいろ」と言う意味で、『だんだんありがとう!』の前の部分が残って、後ろの部分が省略されて、『だんだん!』と言う様に変化したと言います。
父がからかっていただけで、母の口から、出雲弁を聞いたことは一度もありませんでした。心の中では、そうつぶやいていたのかも知れませんが、けっこう緊張して、「ふるさとことば」を隠しながら生きていたのかも知れません。95歳で亡くなった母は、歳を重ねても、「出雲弁」を話さなかった様です。
母のふるさとの隣の岡山県には、『はよーしねー!』があるそうです。決して、『早よー死ねー!』と言ってるのではなく、『早くしなさい!』の意味なのです。言葉、とくに方言は誤解されることがある様です。
誤解といえば、今回の玄関の水漏れの一件で、大家さんに電話をした時に、私の誤解、いえ早とちりがあったのです。大家さんが電話口に出られた時、呂律(ろれつ)が回らないお話をされていたのです。『朝からお酒を飲んでいらっしゃるのだ!』と思っていました。生活習慣ですから、よしわるしの問題ではないわけですが。
それで、今週になって、水漏れの現場を見ていただきたくて、大家さんに電話をしたのです。夕方、奥様とお二人でみえられ、玄関の様子を見ていただいたのです。その時、大家さんは、お体が不自由で、後遺症が、歩き方や手の動き、言葉に残っておられたのです。そう、お酒に酔っているのではないことが分かって、声を聞いただけで判断してしまった私は、申し訳なく思った次第です。
チャーチルという大英帝国の首相をされた方は、フランス語も、ドイツ語も堪能だったそうです。それでも、外国の要人と、公務で話をする時には、必ず通訳者を通して話を聞き、話をされたそうです。言葉の「誤解」を避けるためでした。面と向かってお会いするまで、早っとちりしないように、学んだ一月でした。
(武蔵野の「くぬぎ林」です)
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この川柳には、『でも今は お前が俺の 盾になり』とつながるのでしょうか。あんなに丈夫だった家内が、闘病している今、家内が、一番気にしているのが、私のクシャミと咳なのです。コロナウイルスではないのですが、風邪で倒れて欲しくないからです。それだけ、再び「盾」にと、頼り甲斐にされて、家内の世話をさせてもらってるからです。
来年の4月は、私たちの“ golden year ” なのです。結婚以来、掃除、洗濯、ご飯作りの家事、妻業をしてもらい、後半の13年間は、私の念願、恩師の勧めの〈中国行き〉にも付き合ってくれた年月でした。働いて糧を得、社会的な責務を果たしてきた私を、影になって支えてくれたのが家内でした。
昨日は、昨年の正月以来かかっています、獨協医科大学病院に、「PET検査」に参りました。転移の有無の検査です。一年経ちましたので、『そろそろ2度目の検査しましょうか!』と主治医に、そう促されましたので、朝、タクシーを呼ぼうとしていたのです。そこにメールが入ってきたのです。『病院まで送ります!』と言って、ご夫婦で、県南の町から30分も車を運転してきてくださったのです。
それは、昨年の台風に被災して、ボランティアで来てくださって、助けてくださった夫妻でした。奥様は、私たちが過ごした華南の街の隣の省の出身で、日本に留学し、日本人の男性と結婚されています。初めは、両毛線、宇都宮線、路線バスで行くか、タクシーにするか迷っていたところへの《助け舟》でした。
昨年は、多くの「盾」に支えられ、守られ、励まされた年でした。私は、洗濯や掃除をし、洗濯物を取り込み、買い物をし、食事を作り、茶碗を洗い、また市役所や郵便局にも行く日を過ごして、『何も仕事していないな!』と思っていました。そうしたら、『準、今していることがあなたの〈仕事〉だよ!』と言う声が聞こえてきたのです。それで、『そうか!』と、思いを強めたのです。
何もしていないのではなく、50年あまりしてくれた家内への《お返し》だけでもなく、彼女が《妻》だから、そうするのだと得心がいったのです。中国の華南の街で、歳を重ねた日本人の夫婦が、一緒に街を歩き、人を訪問し、倶楽部に出掛けたりする様子を、けっこう多くの人が見ていた様です。若い人たちが、羨ましそうに、それを見ていました。
新しい年の最初の月が行こうとしています。中国語で、『时间过了很快 shijianguolehenkuai/時間ってこんなに早く過ぎていくんだ!』と言うのですが、時間だけは誰にも公平に備えられているのですから、無駄にしないで刻一刻、日一日、年一年と、《生一生》を過ごしていくことにします。そう、盾同士だったら、矛盾は起こり得ませんから。
(湖北省武漢の市花の「梅」です)
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