来客

 

 

医療ロボットの研究を志して、日本に留学のために、中国華南の街から来て、東京郊外の大学院で研究を始めている青年が、家内の見舞いに、昨夕、東武電鉄の電車に乗って、やって来ました。中国の東北地方の省立工業大学に学んでる間、独学で日本語も学んで、留学準備をしていたのです。

その彼が、大学在学中に、時々、習いたての日本語で電話をかけて来て、家内と会話をしていました。帰省すると、わが家に来て、食事をしたり、買い物に一緒に行ったりして、私も含めて家内と、日本語での交わりを楽しんでいました。そう、彼は家内の《教え子》の一人なのです。

駅で降りて、駅前にある当地の有名和菓子店で、お土産を買って、東京から買って来た「葛餅(くずもち)」とダブル和菓子の持参でした。家内は、今は〈甘い物〉は摂らないのですが、十四年前に召された次兄の兄嫁と甥の来訪時にも、お土産としてもらった「バームクーヘン」も、折角だと言って、少しですが賞味したのです。

彼のお爺さんは漁師で、彼が母のふるさとを訪ねて、街に帰る朝は、そのお爺さんが、朝3時頃に起きて、海に行って、小さな〈巻貝〉を獲っては、沢山持たせてくれるのだそうです。わが家にも、それを上手に調理してお裾分けしてくれました。食べ方までも伝授してくれてです。これが美味しいのです。

ご両親から、多くの愛を受けて生一本(きいっぽん)、素直に育った、爽やかで、素敵な青年です。子どもが186cmになっているといった感じなのです。そう、『学成るまでは恋をしないと!』と、お母様と約束してるのですが、話の端に、どうも好意を寄せている女性がいるのが感じられるのです。

中国の私たちの生活圏には、彼の様な素晴らしい青年が多くいるのです。何年も前に訪ねてくれた、海南島出身の青年は、ギターを持って、わが家にやって来て、体調を崩していた家内に、自作の曲を演奏してくれたこともあります。昨夕は、鯵の塩焼き、友人がくれたハンバーグ、野菜具沢山の牛肉入り味噌汁、サラダでの夕食後、〈洗碗xiwan/茶碗洗い〉を、彼がしてくれました。

つい《いい子》と言ってしまいたくなる、24才の青年です。お父さんは、上海でお仕事をしていて、そこで一緒のお母様は、自分の両親を時々訪ねるために、私たちの街に帰って来ては、行き来していました。わー、十二年も住んだ街には、強い愛着があって、懐かしくて仕方がありません。先々週は、その街は35も、気温があったそうです。

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別れ

 

 

作詞が福山たか子、作曲がフランシス座波の「別れの磯千鳥」という歌が、若い頃に、よく聞こえて来ました。1952年に売り出された曲ですが、私が聞いたのはリバイバル発売の曲でした。

逢うが別れの はじめとは
知らぬ私じゃ ないけれど
せつなく残る この思い
知っているのは 磯千鳥

泣いてくれるな そよ風よ
希望(のぞみ)抱いた あの人に
晴れの笑顔が 何故悲し
沖のかもめも 涙声

希望の船よ ドラの音に
いとしあなたの 面影が
はるか彼方に 消えて行く
青い空には 黒けむり  黒けむり

日本人は、「出会い」よりも「別れ」に特別な感情を持つのでしょうか。しかも、その「別れ方」が上手ではない民族なのかも知れません。と言うか、東アジアでも極東の日本は、殊の外、そう言った傾向があるに違いありません。

人と人、男と女、親と子、師と弟子、上司と部下など、「会う」と、必ず「別れ」が、遅かれ早かれやって来ます。また物や機会や時とも別れて、私たちは生きて来ましたし、これからも生きて行くのです。どうもこの別離には、「嗚咽(おえつ)」とか、「涙」とかが付きものの様です。

一度したかったのが、『ボウオー!』や『ジャンジャンジャン!』と汽笛やドラが鳴る波止場での〈テープの別れ〉でした。行く人を残る人が見送る時に、両者を結んでいたテープが切れてしまう、ロマンチック、感傷的な「別れ」の場面です。悲しみがいいのでしょうか、嫌なのでしょうか、ちょっと子ども心にも、切なさそうに感じたのですが、それをやってみたかったのです。

昭和が行き、「令和」が来ました。〈西暦〉で間に合わせて生きて来ましたので、申し訳ないのですが、雲の上、お上の出来事は距離があり過ぎて実感がありません。卒業も進級も転勤もない年齢になって、世の中から浮き上がって、都から離れた街で暮らしをしている身には、遠い出来事の様です。

もちろん子や孫の世代は、変化があるのですが、家内の次の通院日や、晩ご飯に何を食べるかの関心がほとんどになってしまいました。これではいけないと、大学の公開講座や、この街の老人大学の受講などの案内を見ていますが、これと言ったものに、まだ出会いません。何年も何年も前に、特急電車に乗って、J大やR大の公開講座を受講した日々の情熱が蘇って欲しいものです。

勤めていたら、この昭和から令和への〈10連休〉は羨ましかったことでしょう。でも、帰国以来、連休している様で、してない様で過ごしています。家内の闘病を支えるのも、また大切な日常だと思っているのです。その家内が、『《休暇》をとって温泉でも行ってのんびり・・・』と、このところ二、三度言っています。休暇不要の今日この頃です。

(佐渡汽船の「別れのテープ」です)

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平和希求

 

 

中部山岳の街から、東京に出て来て住んだ家は、旧甲州街道脇にありました。新宿や下丸子などを考えた父は、四人の男の子の養育のために、都心でも遊興街の近くでもない、郊外が適当と考えて、そこに一軒の家を買ったのです。まだ未舗装の道路で、かつては江戸から内藤新宿、八王子宿、上野原宿、甲府宿を通って、下諏訪宿に至って、「中山道(なかせんどう)」に合流する、「江戸五街道」の一つの宿場町の郊外にありました。

この街道を行き来した人たちを思いながら、自分も同じ道の上を通学し、買い物に行き、友人の家に行き来する不思議さを思ったりしていました。そして今、友人の好意で、栃木市に居を移して、住み始めたのですが、ここも、かつては、「例幣使(れいへいし)街道」の宿場町とし栄えた街でした。中山道の「倉賀野」から、日光東照宮に至る路筋にあったのです。

この「例幣使街道」について、栃木観光協会は、次にように解説しています。

『京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至った。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。』

 

 

この家は、その「例幣使街道」からそう遠くない所にあって、また、「舟運(しゅううん)」の舟が行き交った「巴波川」の流れと、荷の積み下ろしを、賑々しくした「沼和田河岸」の近くにあります。自転車と徒歩、時々車で行き来をしているのです。

公家(くげ)の一行が、徳川幕府に敬意を表す参拝を、どんな思いでし、諸大名が服従を表明するために通った、いえ通わざる得なかったことを思い返しますと、徳川の権勢が、いかに強大だったかが分かります。

その統治が終わり、明治、大正、昭和、平成の時代が過ぎ、今日からは、「令和」の新時代を迎えることになります。戦争のない、平和で優しさに満ち溢れる時代であるように、心から願う栃木の朝です。

(中山道と日光街道を結ぶ日光例幣使街道です)

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未来志向

 

 

先週金曜日の朝、中国からお見舞いに来てくださったご婦人たちを、東武線栃木駅で見送りをしました。改札口に入る前に、握手して別れをしたのです。スーツケースを一つず持って、改札を入って行き、エスカレーターで、階上のホームに上がって行かれました。

『振り返るかな、振り返らないかな?』、『振り返ったら、もう一度手を振ろう!』と思って眺めていました。でも振り返りませんでした。先日、次兄と弟を駅に、同じように見送った時には、改札で握手した後、同じホームに上がるまで、三度も振り返ったのと違っていました。感情的にも礼儀的にも、日本人と全く変わらないお二人ですが、この辺が違うようです。

中部圏の山岳の街にあった、私たちの事務所には、よくアメリカからお客さんがありました。親しく数日を過ごして、一緒に来られた方の車で帰って行かれたのです。車に乗る前に、握手をしたり、ハグをしたりして別れ、乗車するのですが、彼らは、その後、決して振り返りませんでした。それにひきかえ、私たちは、車が見えなくなるまで、見送っていたのです。

物をいただくと、『こんなに結構なものを頂戴してありがとうございます!』と感謝を言い表し、次に会うまで、『今度お会いしたら、もう一度感謝の気持ちを言わなくちゃ!』と決めて、会うと『先日は美味しい物をいただきまして・・・』と、再び感謝を言ったりします。ところが、中国のみなさんは、一、二の例外はありますが、一度感謝を言ったら、二度は言わないのです。彼らと私たちとは何かが違うようです。

日本人は、〈過去に拘泥(こうでい)〉するのでしょうか。過去を振り返らないと、先に進めないからなのかも知れません。それにひきかえて、欧米や中国の人たちは、〈未来志向〉で、先に目を向けて生きているのかも知れません。

感謝や挨拶のないこともありますが、何ヶ月も何年も経ってから、大きな感謝とお礼を、中国の方から言われた方の話を聞いたことがあります。経済力がなくて、何もできないまま時が過ぎて、ある時、感謝できる時がやってくると、大きな感謝をする、と言う話です。無礼や忘れているのではなく、感謝の思いを、長年持ち続けていたわけです。

『振り返ってほしい!』と願うセンチメンタルな、または甘えた気持ちは強くて、そうしてもらわないと、残念だったり、味気なかったり、つまらなかったりしてしまう自分がいるのに気付いて、『やっぱり日本人!』だと思ってしまいます。「伊豆の踊子」に、そんな件(くだり)がありましたね。

(浅草と鬼怒川をつなぐ「東武特急きぬ」です)

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人を愛し

 

「登竜門」と言うことばがあります。「日本大百科全書」に次のように解説されてあります。

『立身出世のための関門や、人生の岐路となるようなだいじな試験をいう。「とうりょうもん」とも読む。竜門は中国の黄河中流(山西省河津県と陝西〈せんせい〉省韓城県との間)の急流で、ここを登りきった鯉(こい)は化して竜となるとの伝承があり、「後漢書(ごかんじょ)」のー「李膺(りよう)伝」に「膺、声名を以(もっ)て自ら高ぶる。士その容接を被る者あれば、名づけて登竜門となす」とあるによる。[田所義行]』

麹町小、府立一中、一高、東大という難関を突破すると、やがてこの日本の社会では、立身出世をすることができたのだそうです。文学賞に、「直木賞」とか「芥川賞」と言われるものがあり、日本の文壇で活躍するには、この受賞が欠かせないのだそうです。年に数人が、この「登竜門」をくぐっていくのですが、なかなか〈売れっ子作家〉にはなれなさそうです。

村立小学校の入学式にも出られず、三流大学を出て、名のない企業体に就職して、そこそこの給料で、結婚し、定年まで務めて、年金生活をして老いを迎える、ほとんどの人には、遥か遠くに「登竜門」を見るだけで、風呂屋かラーメン屋の「暖簾(のれん)」しかくぐることができないで終わるわけです。

日本には、国家公務員試験、司法試験、医師試験、公認会計士試験などの「難関」の試験制度があるのですが、中国には、「科挙(かきょ)」と呼ばれる試験制度があったようです。日本の比ではない、極めて難しい試験だったそうです。有名な詩人で、「詩聖」と呼ばれた「杜甫(とほ)」も、「詩仙」と呼ばれた「李白」も不合格でした。

ところが日本から、唐の都の長安に留学した、阿倍仲麻呂は、その「科挙」に合格し、唐代の行政の高官を歴任したと伝えられています。第二外国語ができただけではなく、難関をくぐり抜けたのですから、仲麻呂がどれほど優秀な人だったか知れません。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

望郷の思いを込めて詠んだ和歌で、仲麻呂は有名です。けっきょく帰国できずに大陸の地に没したのです。華南の街の師範大学に留学した家内と私ですが、留学途中で職を得て、12年を過ごし、病気で帰国したのです。でも、やがて回復したら再び、唐の都にではありませんが、友人たちの待っていてくれる省都に、二人で帰ろうと願っております。

折しも、間近に迫った「端午の節句」を前に、この街の目抜き通りにも、巴波川の河岸にも、布製の鯉が吊るされて、春風の空を泳いでいます。子どもたちが健全な精神を宿し、健康であるようにと願って、あわよくば登竜門をくぐって出世できるように願って、そうしているのでしょう。この二十一世紀を生きていく子どもたちには、そんなことに脇目もくれず、人を愛し、人に愛されるようになって欲しいと願う早暁です。

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川と海

 

 

関東平野の北端に近い所で、生活をし始めて、ムズムズし始めていると言うのが、今の私の様子です。何にムズムズしているのかと言いますと、利根川や渡良瀬川を渡って、海から結構遠い所にいて、広い箇所でも、川幅が10メートルほどの巴波川の流れしか見ない日を過ごしていて、『海が見たい!』という願いが、ムズムズでしょうか、フツフツでしょうか、思いのうちに湧き上がって、動き始めてきているのです。

海の見える所で生まれて、海に関わる仕事をする家で育った父の腰から出た私は、奥深い山の渓谷の流れの脇で生まれて、随分窮屈さの中にいた反動からでしょうか、海への憧れが大きいのです。父の血と言ったらいいでしょうか。男体山を遠くに見て落ち着きはするのですが、4ヶ月の栃木での生活をしてきて、やっぱり海が仕切りに見たくなり始めています。

特急電車で浅草に出て、隅田川の遊覧船に乗れば、海に連れて行ってもらえますし、湘南方面に接続する鉄道路線に乗れば、海は2時間もすれば見られるのです。砂浜で、押し寄せて砕ける、あの波の音も聞きたいのです。また、あの潮風に頬を当ててみたいのです。

私たちが住むそばに、「沼和田河岸(かし)」が、つい明治大正期まであったのだそうです。ここで、江戸の木場まで、木材や蔬菜や干瓢などを舟に積み、帰り舟に内陸部の生活に必要な荷を積んで、ここで積み下ろしをしたのだそうでです。いまではひっそりとしていますが、かつては賑わっていたことでしょう。

小舟に乗れば、二日もすれば東京湾に出られそうです。そんな繋がりを思いながら、通るたびに川面を眺めている私です。中国華南の街の中央に流れる河は、内陸部の深い所から流れ下っていて、よく野菜や果物を届けてくださる方が、元海洋航路の船長さんだったので、彼にエンジン付きのボートに乗せてもらって、その内陸部に遡上してみたくて、お願いしたことがありました。

下っていけば、東シナ海に出られるのです。わーっ、潮の匂いが恋しいなあ、の穀雨春雨の降る朝です。これから、その街から、家内を見舞いに来てくださった二人のご婦人が帰って行かれます。数日、料理や大掃除や買い物をしてくださったのです。まるで娘たちのように仕え、助けてくれました。お会いした時に泣いた家内は、別れに泣くでしょうか。

(巴波川の流れと岸の蔵です)

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穀雨春雨

 

 

昨日今日と雨の日が、北関東下野では続いています。〈二十四節気〉で4月20日頃を「穀雨」と言われてきていますが、この春の雨を、「穀雨春雨(こくうはるさめ)」と呼ぶのだそうです。もう雪も霜も降らなくなって、暖かくなって行く季節を言い表しているのだそうです。

冬の間、休んでいた農地が耕されて、田に水が引かれ、田植えの準備の様子が、東武宇都宮線に沿線で見られてきていましすから、この雨は、田植えを準備する雨なのです。お米を代表とする穀物を、「百穀」と言う〈括り(くくり)〉で言うことがあります。麦や小麦や粟(あわ)や稗(ひえ)などでしょう。

新暦4月20〜24日頃を『葭始生(よしはじめてしょうず)』と言うのだそうです。葉や茎の長い水草の葦に、この雨がかかってみずみずしさを見せるくるのです。それで、古代の日本を、『豊葦原の瑞穂の国(よしあしはらのみずほのくに』と呼んだのでしょう。私たちの国は、葦が豊かに生い茂る、みずみずしい稲穂の生いる国なのです。

しかもこの国に住んで農耕を担った人々は、勤勉でした。災害にも果敢に挑んで耐えてきました。さらには様々に工夫をし、改良を加えて、「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」をもたらしてきたのです。山間部に降った雨が、枯葉や下草の間を流れている間に、滋養を加えて、川となって流れ、農地を潤した「自然の理」もありました。

その川の流れ込む沿海部では、プランクトンが発生し、それに魚が群がって魚も育ち、漁業を盛んにしてきたのです。その魚類は貴重なタンパク源でした。それらで、大きくはないけれど、丈夫な骨組みの日本人の健康が支えられてきた経緯があるのです。

真っ黒な地から芽が出てきて、育って行った麦が、緑の穂をつけて大きくなっているのが、家内の通院のために、長男が送り迎えをしてくれた車の車窓から見られました。自然界の命の再生です。春の風に麦の穂先を揺らしていました。

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遠来の客

 

「論語(ろんご)」の「学而(がくじ)」に次のようにあります。

「朋(とも)あり遠方より来る。また楽しからずや。」

*原文[子曰、学而時習レ之、不二亦説一乎。有レ朋自二遠方一来、不二亦楽一乎。人不レ知而不レ慍、不二亦君子一乎。〔子(し)曰(いわ)く、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有(あ)り遠方より来(きた)る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。〕]

✳︎訳文

「孔子(こうし)が言われた。『師の教えてくれたことを学び、いつも繰り返して自分の身につける。なんと喜ばしいことだろう。同じ志をもつ友達が遠くからでもやってきて一緒に学ぶ。なんと楽しいことだろう。たとえこうした生き方を他人がわかってくれなくても、気にかけたりはしない。それこそ君子といえるのではあるまいか。』」

✳︎意味

「同じ学問に志す人間は、どこからでも集まって、学び合う。同窓・同門のことも言う。」

中国華南で、何年も何年もの間、出会ってから、行き来をして来た「朋友pengyou」の二人が、昨晩、成田国際空港に到着し、京成線で浅草に出て、そこから東武日光線直通の特急で、わが街「栃木」駅においでになられました。

2019年が明けた元旦から、省立医院に入院していた1週間ほどの間、何くれとなくお世話してくださったご婦人たち、お見舞いくださった多くのみなさんの代表のようにして、家内の見舞いに来てくれたのです。お一人は、家内の娘のように、いえそれ以上に、何年も真心から助けて来てくださった二人のお子さんのお母さまです。そのお子さんたちには、家内が日本語を教えていた時期もあります。

もうお一人は、東京の大学で、博士号をとって、私たちの住む街の大学で教鞭をとっておられる、日本語の堪能なご婦人です。まるで日本人のような感じのする、《二人姉妹》のような方たちなのです。4ヶ月ぶりの家内と私の再会を、喜んでくださいました。まさに《遠来の客》であります。

友人たちの「寄書き」や、贈り物やお気持ちをお持ちくださったのです。国境を越え、過去の経緯(いきさつ)を超え、年齢を超えた「友情」、「友愛」を深く感じる訪問です。今夕は、私たちのために、腕をふるって、夕食を作ってくださったのです。家内が、『食べたい!』と注文した〈トマトと卵のスープ〉に、蒸した鯛、小エビの炒め物でした。

来ることのできなかった、懐かしい方たちの消息をお聞きしたり、思い出話にも花が咲きました。まさに、「楽しからずや」の時を共にすることができております。中国語では、「目出度い」とは言わないのですが、退院を、遠くからおいでくださって祝福してくださったのは事実です。嬉しくも楽しい時であります。

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同窓会

 

 

わが家に出入りする可愛い女の子がいます。友人で大家さん夫妻の息子さんのお嬢さんで、お母様と一緒に、時々やって来るのです。月初めの結婚記念日には、真っ赤なバラの花を一輪、入院していた家内に、お祝いだと言ってくださったのです。その他にも、お絵描きをしては、それを見舞いに行く私に託してくれました。

退院して来て、昨日の朝、家内と久しぶりに、〈いーちゃん〉が会ったのです。チラチラと視線を送るのですが、何度も会ってきたのですが、誰だか分からなかったのか、はっきりしなかったのか、それでも、『おはよう!』と家内には挨拶をしていました。

しばらくして、家内が造花のバラを持って、『これありがとう!』と、今までしていたマスクを外して彼女に話したら、『おかえり!』と言ったのです。曖昧なうちには言いえなかった「ことば」が、彼女の口から出てきたのです。その「ことば」を聞いた家内は大喜びをしていました。

500グラムほどの早産で、妊婦だったお母さまも体調不良で、お二人とも生死の境を通られたのですが、獨協医科大学病院の医療スタッフの懸命の治療で、お母さまは快復され、いーちゃんも長く保育器の中で過ごし、今では幼稚園の年中なのです。

実に賢くて、男の子のような笑をし、時々、おいたをしては、お母さまに叱られて、好い子に成長しておいでです。《ウンパー(お爺ちゃんのこと)》が、同じ病院の整形外科病棟に入院中なのです。彼女は週末には、そこにお見舞いに行ったそうです。友人は、10年前の肩の怪我でボルトを入れていたのを外して、人工関節を入れる手術を終え、快復中なのです。

ですから、快復したお二人と、入院中で不在の《ウンパー》と、退院1週間で快復途上の家内と、昨日は、まるで「獨協医大病院同窓会」のようでした。昨日は、わが家の上空を、救急患者を運ぶのでしょう、獨協医大病院の《ドクターヘリ》が、低空で航行しているのが見えました。縦横に働きを展開している《ヘリ》です。

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地名人名

 

 

ここ栃木県は、律令制の下で、「下野(しもつけ)」と呼ばれました。これは難読地名の一つです。「上野」ですが、西郷像や動物園や集団就職などで、名を馳せたのは「うえの」、群馬県を「こうずけ」と呼んでいました。そこは「上毛(じょうもう)」と言う別称もあります。これを「こうげ」と呼ぶ地名も福岡県にあります。

千葉県市川市周辺を「下総(しもうさ)」と呼び、千葉県市原市周辺を「上総(かずさ)」と呼んでいました。地名と言うのは、ややっこしいもので、正確に読むのは至難のわざです。

関東周辺の五県以外に住んだことがないので、日本全体の地名には、私は疎いのですが、「福生(ふっさ)」とか「青梅(おうめ)」と言う地名は知っています。栃木県下に、「小山(おやま)」とか「足利(あしかが)」と言う街がありますが、これもまた正確に読むのは難しいにちがいありません。

川上、上川、中川、下川、川下と言った地名、そこに住む人の苗字があります。結局、人の姓と言うのは、多くの場合、地名に基づいて、明治以降の苗字になったようです。しかも納税や兵役に就くのに、姓が必要になったと言う、行政上の実際的な必要があって決められたわけです。

元々は、「和今泉」だったのが、いつの間にか「今泉」と姓が変わってしまうこともあったようです。『いいな!」と思った苗字は、「武者小路」、「長曾我部(ちょうそかべ)」でした。若い頃に会った方が、「四郎兵衛(ひろうのひょうえ)」と言う名でした。これも自分だったら「三郎兵衛」かななどと思って見たりしたものです。

北欧や移民先のアメリカ合衆国には、“Johnson ”,“Jackson”,“Michaelson ”と言った、〈誰々の息子」と言った苗字があるのが面白いと思ったことがあります。“Smifth”は、〈鍛冶屋〉のことでしたが、後に〈職人〉のことなのだそうです。「鍛冶師(blacksmith)や金細工師(goldsmith)、銀細工師(silversmith)、スズ細工師(tinsmith)、ブリキ職人(whitesmith)等、特に金属加工の職人を示すのだそうです。

私の苗字は、母方のもので、父は、自分の先祖伝来の姓に拘らなかったのでしょうか。歴史上の人物に、私は好意を寄せていて、その方の姓を、“Penname ”に使ったことがあります。でも、ある時、その苗字で呼ばれて、まったく気付かなかったので、『こりゃあダメだ!』と苦笑いをしてしまったのです。

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