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中学の遠足の時、バスの中で、「海軍小唄」を歌ったのです。40代の担任が振り返って、歌っている14歳の私を見て不興な表情を向けていました。私は、それを無視して、得意になって、『♭ 嫌じゃありませんか軍隊は・・・』を歌い続けました。生意気ざかり私は、その頃、「若鷲の歌(予科連の歌)」覚えて、自分の愛唱歌にしました。
『♯ いのちおしまぬ 予科連の 意気の翼は 勝利の・・・』、13、4歳だった私は、私たちほどの年齢で、国のために少年兵となって行った海軍予科練習生や、特攻隊になって、祖国を守るために立ち上がった学徒兵に憧れたのです。戦争中に生まれていたら、きっと志願して軍人になりたかった平和の時代に育っていた私でした。
ですから、知覧飛行場跡に作られた特攻記念館に、『いつか行ってみよう!』と思い続けていて、その特攻を礼賛していたのです。そんな少年期の私は、〈特攻の真実〉の記事を、今日読んだのです。
真っ白なマフラーを靡かせて、勇しく、潔い青年の姿に、いつも自分を重ね合わしていた私に、特攻出撃前に、菊の紋を印刷された包装紙に包まれた、〈恩賜のチョコレート〉が配られ、それを食べて敵艦に突撃したのだそうです。単なる甘いお菓子だと思っていたら、違っていました。それは〈覚醒剤/俗にヒロポンと呼ばれていたもの〉を混入した物だったと、その読んだ回顧録にありました。
それは士気を高揚させ、想いを高揚感にあふれさせ、死を恐れさせないで、痛みをも和らげると言った意図で作られ、配布されたのです。父や母、弟や妹、恋人にために、命を賭して死んでいった特攻兵にも、痛み苦しみ、死への恐怖があったのです。死を恐れ、突撃を尻込みさせていたのです。人として当然だったのです。
そんな若者に麻薬を提供した軍のあり方を知って、悲しくて仕方がありません。勇躍して、祖国防護のために飛び立った方たちばかりではなかったことを知って、みなさんが、今の私たちと同じ死への恐れを抱いていたのです。人の死を理想化し、美化する怖さが、そこにあったのです。まさに、今になって、戦争の現実を知らされた次第です。
『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。 (2テモテ1章10節)』
父も母も、恩師たちも亡くなりました。やがて私たち誰もが迎える「死」ですが、この「死」に打ち勝って、蘇られた方がおいでです。その方を知って、信じることのできた私は、〈死の恐怖〉から解放されました。父も母も、兄たちも弟も、妻も子たちも孫たちも、信じたのです。
私は、若い日に倉田百三が、弟子の亀井勝一郎に、『極楽はあるのだろうか?』と、死の床で言ったという記事を読んで、日本人の死生観の弱さを知らされたことがありました。愛国心でも、哲学でも超えない死の現実に、だれもが翻弄させられるのです。
最大で最後の私たちへの問い掛けは、『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげ(棘)はどこにあるのか。(1コリント15章55節)』です。私は、若い日に、はっきり《死の勝利》を宣言したイエスさまを知って、それを信じることができました。心の思いに刺さった「棘」が抜かれ、生かされている感謝が溢れている今です。
(鹿児島の知覧の茶畑、一服のお茶です)
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