これまでお会いしてきた人たちの中で、『この人の下で働いて、もっと教えを請いたかった!』と思わせる人が何人かいました。もちろん若い時には、一世代も二世代も上の方の中に、何人かおいででした。いわゆる私の価値観や人生観、砕けた表現で処世術の教師陣と言えるでしょうか。彼らは、「成功の方策」や「無駄を省く功利学」や「爆発的即効的な成功術」を教授しませんでした。《人として、どのように生きるか?》、《どんな態度で社会の中にあるべきか?》、《人の上に立ちたければ先ず人の下で謙遜を学べ!》、《大きなものに憧れないで小集団主義で行け!》と言ったことが主だったのです。それは仙人のような精神訓話に聞こえますが、決してそうではありません。彼らは、『金と女と名誉からの誘惑に気をつけて生きていきなさい!』と、自分の身に降りかかった誘惑の手の巧妙さを示しながら、まるで父のように教えてくれたのです。彼らは、ご自分の周りで見聞きした多くの事例を引きながら、『事業で成功して名を上げても、人格の上で失敗者になることのないように!』、と口を酸っぱくするように語られたのです。

そういった方々が亡くなられていくのは寂しいものです。ニューヨークの学校で教授をされていた方が、時々日本に来て、セミナーを開くというので、よく参加しました。アラブ系のアメリカ人で、元ボクサーだった異色の経歴の持ち主でした。彼の薫陶を受けた青年たちが世界中にいました。ある時、彼は私を、アフリカに連れていこうと計画したことがありましたが、なぜか叶えられませんでした。もしアフリカに行ったなら、ここ中国には来ることはなかったことでしょう。北欧系のアメリカ人で、私と20歳違いの同じ誕生日の方がおられました。穏やかな緑色の目をされていて、いわゆるジェントルマンの一言に尽きる、高潔な人格の持ち主でした。彼ほど穏やかな心の持ち主を知りません。彼が亡くなられて葬儀の時に、誰も知らない彼の十代の頃の話を、弟さんがしたのです。西海岸の大きな街の警察署では、名の知れた《悪ガキ》だったのだそうです。戦争に行って帰ってきてからでしょうか、180度の大逆転の人生劇を演じたのです。結婚前の青年期のことでしたから、奥様も知らなかったことだそうです。そんな変えられた彼に、幾度となく励まされた日々が思い出されます。

さて、若い世代の方々の中にも、そういったキラキラと人格の輝いた方と、時々お会いすることがあります。アメリカにも、ここ中国にも、年齢や人種や言語やイデオロギィーを超えて、素晴らしい人がおいでです。風邪をひいた家内の腕をとって、病院から病院へ、診察室からレントゲン室へと連れ歩いてくれた方も、その一人です。家内に親切だったからではありません。診察を終えて家に帰って、居間で交わりをしましたときに、彼の言動や目の輝きの中に、これまでお会いしてきたあの方たちに似たものを見たのです。彼もまた、金や名誉のためには生きてはいないで、一人の妻と、様々に困窮した人たちを、時間を見つけて訪ねては激励しているのだそうです。こう言った方が中国にも多くいらっしゃるのです。出世や蓄財や称号からは全く縁のない世界で生きている人です。古来、この国は賢人を輩出してきたのですから、この21世紀も例外ではありません。広く人類愛、人間愛に動機づけられて、他を顧みて惜しみなく愛を注ぐことができることこそ、混迷と不安と不確信の現代には、最も必要とされている人材でしょうか。

器が足りないのに、大きな責任を負って、それを果たせずに、迷路に入り込み、横暴にふるまってしまった指導者が、古今東西を問わず多くいます。政治や教育や宗教や企業など、あらゆる分野でです。そう言いた方々でも、「良き助言者」がいて、聞く耳を持っていたら、国民、学生、会員、社員の悲劇を回避することができたに違いありません。また器の不足を知って、謙虚に生きたら、知恵深くなって、人を善導できたと思うことしきりです。さて、この自分は、人として、社会人として、夫として、親としての器や技量は、どれほどだっただろうかと、今日一日、回顧してみました。

(写真は、百度の「霞浦(福建省)」の海岸線です)

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