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FaceTimeなどで、様々な映像を見る機会が、このところあります。美しい花が咲き始めたり、小動物との交流だったり、世の中の親切や善意ある行為があったり、人の誕生や死にゆく様子などまで、実に多彩です。"ほのぼの"とさせられたり、感動させられることもよくあります。そして、映像を作る技術も色彩も優れています。

そんな中に、「空手」の組手や型(形)の演舞などの動画があります。それを観るのは好きではありません。なぜかと言いますと、幼い<空手少女>の目が鋭過ぎ、気合いが激しいからです。そこには<殺気>や<殺意>が溢れていて、<ゾッ>とさせられてしまうのです。自分の娘や孫娘が、あんな目つきや叫び声をして欲しくないし、世の全ての子供どもたちにも、そんな目や気合いを願いません。

もっと穏やかで、愛くるしい方が、幼子には相応しいのです。妙齢の女性にしてもそうです。日本武道をされる人の多くには、スポーツではなく<戦(いくさ)>の様な、まるで関ヶ原の<戦場>を駆け巡る兵の如き目をしている方が多くいます。そう、天翔ける鷹や鷲が獲物に向ける、あの目です。

藤村が、『君がさやけき目の色も』と詩に詠んだ様に、乙女らには《さやけさ(清けさ/明けさ、と漢字で書きます。目が澄んでいて明るいとの意味です)》をたたえて欲しいのです。母親が、子を慈しんで見るあの眼差しに応答している、幼な子の目の様子です。若い頃に、「松濤館流」という流派の空手をしたことが、私にはありました。でもやめたのです。そこに、先ほど記した様に、<殺意>を感じ、自分の目もそんな風になりつつあったからです。喧嘩が強くなっても、どうってことないのが分かったのです

私の恩師のアメリカ人起業家の一人の方は、実に《優しい目》をされていました。十代の頃は、<街一の悪>で、警察署にマークされた"Teenager"だったそうです。太平洋戦争に、二十歳(はたち)で兵士として従軍し、死線を越えて帰還してから、全く変えられてしまったのだそうです。そして戦時の敵の日本人に、海の様に深い愛を示そうとやって来られ、多くの時間と心を、そのために費やされました。そして、日本で召されたのです。

『目は口ほどにものを言い。』と言われます。人間性や生き方や存在そのものが、目に現れるからです。若い頃は、生意気な目つきをしていたんだろうと思いますが、仕事や子育てで、自分の弱さを知らされていた頃に、街の銭湯に行った時のことです。入浴客が兄と私以外、もう一人のおじさんだけでした。湯船の中で珍しくジッと、私と兄を見て一言、『澄んだ綺麗な目していますね!』と言ってくれたのです。世辞を言う様な知人ではなく、見ず知らずのおじさんでした。その最高のほめ言葉を、今も忘れません。

誰もが、かつて持っていた、濁りを知らない、幼な子の眼差しと心を思い出して、鏡をそっと見ています。

(生まれて間もない頃、まだ歩く以前の初孫の足です)

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