雷と雨、大好きな私

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 忽ちに月をほろぼす春の雷 草城

 生まれ育った村で聞いた雷鳴は、まるで赤子の泣き声ように感じられ、大陸の「雷」は「つんざく」ような勇猛、勇壮、雄渾でした。西の空から東の空に響き渡るのです。

 雷は、浮世絵に、幾つもの鼓を背負っている姿で描かれてきたのですが、そんな小さな太鼓で、あれほどの音響を奏でることはできません。そうではなく、大空全体が大鼓(おおづつみ)のように想像したのでしょう。子どものころに、よく『雷が鳴ったら、ヘソを隠せ!』と言われました。雷が「臍」の蒐集家で、子どものヘソを集めているから、気をつけろと言うのは、脅かしで、低気圧の影響で雨が降り、気温が下がるので、お腹を出していると風邪をひくから、『お腹を温めるんだよ!』という意味なのでしょうか。

 この雷が、私は大好きなのです。雷鳴は、人生の応援歌のように、聞こえてくるのです。雷光は、『素早さを身につけよ!』と言ってるようでした。父の家で、雷鳴を聞くやいなや、外庭に、石鹸と手拭いを持って出て、大空から落ちくる大粒で、強烈な雷雨にあたりながら、体を洗ったことがありました。ふと隣の家を見ると、お母さんとお嬢さんが、ガラス戸の上のスリガラスから、呆れた顔で、その一部始終を見られていたのです。

 その叩きつける雨足は、身体中で跳ね返り、気持ちがよかったのです。そんな隣家のバカ息子の奇行を見ても、躓かなかったのは、胆の座った母娘でした。あれ以来しませんでしたが、この年になっても、強い雨が降ると、腰が浮くようになって、またやってみたいほど、あれは快適だったのです。

 雨の好きな、雨を好きにならないと生きていけない日本人は、洪水や大雨と対決しながら、何千年と生きてきたわけです。先日は、「車軸を流す」ような雨が降っていました。数年前には、雨が分厚いカーテンように下がって見えて、天気予報で、『本日は、「陣雨」で・・・』と言いたいほどだったのでしょう。<馬の背を分ける>ような「夕立」や「俄雨」のことを、そう言うようです。

 日本語には、「雨」を表現する言葉が多いと言われているのですが、それは、四季のどの季節にも雨があるということなのでしょうか。『春雨じゃ、濡れてまいろう!』と、月形半平太の言う、この「春雨」は、雨脚が強くないので、歩けるのでしょう。よく歌に歌われる「時雨(しぐれ)」がありますが、降ったり止んだりする冬の雨のことだそうです。「大阪しぐれ」という歌があるように、関西圏でよく使われるのでしょうか。関東では、季節にこだわらずに、降ったり止んだりを繰り返す雨を、「通り雨」と言います。

 

 『紫陽花の蕾が大きく膨らんで来ました!』と、先日、栃木の娘が言って、大平山に、紫陽花を見にお連れくださったのです。雨に似合う一番の花です。市長さんもお出ましで、握手して祝福させていただいて、感謝したのです。母の故郷の出雲地方では、これを「田植え雨」と呼んでいたそうです。「お米」と呼ぶ 貴い米の苗を植える時期に、恵みの雨をそう呼んだことで、出雲の産業形態が分かりますね。

 この山陰は雪が多かったので、雪混じりの雨を、「白雨」と言うそうです。ちなみに、強く降る雨の擬声語を、「たっこらたっこら」と、出雲地方では言うそうですが、ついぞ一度も母の口から聞いたことがありませんでした。東京で子育てをしてくれましたから、そこで強く降る雨を眺めながら、そっと『たっこらたっこら!』と、口籠って、一人感じ入っていたのかも知れません。

 五月雨を 集めて 早し 最上川

 これは、梅雨の雨を、「さみだれ」と詠んで有名な、芭蕉の俳句です。日本語の雨の言葉は、やはり漢語からきているのようです。中国でも五月の降る雨を、「五月雨(さみだれ)」と呼んでも構わないでしょうか。今晩出かけるのですが、この雨は止んでくれるのでしょうか。

『「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。 また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」(申命記11章14~15節)』

 春を告げる花が、梅とか桜なのですが、せいしょのきじのなかに、気象に関わる表現でしょうか、季節の到来をもたらす現象があります。「秋の雨」と「春の雨」は、パレスチナの農耕にとっては必要なものなのです。

 北原白秋が、「雨」を主題にした詩をいくつも書いています。この稀代の詩人の感性には驚かされてしまいます。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 雨の降る音、溜まった雨の水たまりを歩くの音、おかあさんといっしょにうれしく歩く心の表現が、雨に濡れてる友人への優しさもあり、躍動的であるのは画期的だったのです。ぽつぽつ、ぱらぱら、しとしと、こんこん、びしょびしょ、ざあざあ、ざーっつなどと言った擬音があるようですが、さすが白秋の「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」は斬新で、動きがあって、さすがの詩人です。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

 これも、子どもの心があふれる様に表現されていて、水都の筑後柳川で育った白秋の感性は、抜きん出ているのです。童謡の作詞にも思いを向ける人でした。57歳で亡くなっていますが、まだ活躍できた詩人でした。

 山村暮鳥に「驟雨の詩」があります。

何だらう
あれは
さあさあと
竹やぶのあの音
雨だ
雨だ
おやもうやつてきた
ぽつぽつと大粒で
ああいい
ひさしぶりで
びつしより濡れる草木くさきだ
びつしよりぬれろ

三好達治にも「大阿蘇」があります。

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々しょうしょうと降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣たてがみも ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭々と降つてゐる
山は煙をあげてゐる
中岳の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜くさせんりはまのとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭々と降つてゐる

室生犀星の「雨の詩」です。

雨は愛のやうなものだ

それがひもすがら降り注いでゐた

人はこの雨を悲しさうに

すこしばかりの青もの畑を

次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた

雨はいつもありのままの姿と

あれらの寂しい降りやうを

そのまま人の心にうつしてゐた

人人の優秀なたましひ等は

悲しさうに少しつかれて

いつまでも永い間うち沈んでゐた

永い間雨をしみじみと眺めてゐた

雨は愛のやうなもの・・・・・・

 室生犀星は 、こんな言葉で、雨を謳ったのです。万物の命を支えて行く務めを託された雨をです。雨の日は、晴れの日とは違った趣があるのです。

 ジーン・ケリーが歌った「雨に唄えば(Singin’ in the Rain)」が流行っていた時期がありました。映画化され、musical の傑作で、《よきアメリカ》の象徴の様な映画と歌でした。健全なアメリカの時代でした。

I’m singing in the rain
Just singing in the rain
What a glorious feelin’
I’m happy again

僕は歌う 雨の中で
ただ歌う 雨の中で
なんて素敵な気分
幸せがこみあげる

I’m laughing at clouds
So dark up above
The sun’s in my heart
And I’m ready for love

雲を見て笑ってる
頭上の暗い雲を
太陽は僕の心にあるのさ
愛する準備はできてる

Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I’ve a smile on my face

嵐の雲よついて来い
みんなここへ来い
雨も来ればいい
僕はずっと笑顔さ

I walk down the lane
With a happy refrain
Just singin’,
Singin’ in the rain

僕は通りを歩く
幸せをかみしめて
ただ歌いながら
雨の中 歌いながら

Dancin’ in the rain
Dee-ah dee-ah dee-ah
Dee-ah dee-ah dee-ah
I’m happy again!
I’m singin’ and dancin’ in the rain!

雨の中 踊りながら
また幸せがこみあげる
歌い踊る 雨の中を!

 聖書のホセア書に、 『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」 (ホセア6章3節)』とあります。雨を待ち望む強い思いが記されてあります。「後の雨」は、パレスチナの地では、12月から、2月に降るのだそうです。今春、ここ北関東平野では、例年になく雨が多かったのですが、自然界では祝福の雨なのです。間もなく梅雨明けになるでしょうか。

(“ウイキペディア”の雷です)

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聞いてたのと違って(転載記事)

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 中国のSNS・小紅書(RED)に1日、「初めて日本に行って私が最も衝撃を受けたのは、実は清潔さではない」との手記が投稿された。以下はその概要。

 日本に行く前から「日本は清潔」「日本は秩序がある」「日本はサービスが良い」という話は何度も聞いていた。だから、これらの点は予期していた。本当に衝撃を受けたのは、言葉ではなかなか表現しづらい感覚だ。後に、長いこと考えて分かったが、それは「境界感(他人との距離感)」だった。

 私は典型的なHSP気質(感受性が強く敏感な気質)で、性格診断でも何度もISTJ(管理者型。内向的でルールや計画を重視するタイプ)という結果が出ている。どういう意味かと言えば、私は周囲の細かな変化にとても敏感だということだ。

 人の話し方、その場の雰囲気、周囲の人の感情、そしてその空間の秩序。多くの場合、こうした感知能力は長所と言われるが、これはものすごく疲れるものでもある。脳が本当にリラックスできる瞬間がないからだ。常に周囲を観察してしまう。

 だから、初めて日本に行った時に最も意外に感じたのは観光地ではなく、あの絶妙な「心が緩む」感覚だった。電車の中は静かで、街中でも大声で騒ぐ人はほとんどいない。列に並ぶ人たちは互いに押し合うことはなく、コンビニの店員は礼儀正しくも必要以上に距離を詰めてこない。

 みんなが当然のように、「他人の空間にむやみに踏み込まない」という共通認識を持っているかのようだ。HSP気質の私には、その感覚がとても強く伝わってきた。その時、初めて気付いた。秩序は効率だけではなく、安心感ももたらすのだと。長い間緊張し続けてきた人間の神経を、少しずつほどいてくれるものなのだと。

 なぜ何度も日本を訪れるのか。日本では人間関係の雑音に振り回されることがない。無理な付き合いをしなくてもいい。常に相手の複雑な感情を読み取ろうとしなくていい。静かに歩き、静かに食事をし、静かにこの世界を眺めることができる。HSP気質のISTJである私にとって、その感覚は本当に貴重なものだ。

 

 「どうしていつも日本へ行くの?」とよく聞かれる。私はようやくその答えが分かった気がする。私が好きなのは日本そのものだけではなく、そこで少し肩の力を抜くことができる自分自身なのだ。」(Record China 翻訳・編集/北田)

(日本人教会の天井の紋様です)

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“おお!キャロル”を思い出して

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 “ Memories of departed days ”は、「懐かし去りにし日々」と言ってよいのでしょうか。耳なのか心の奥なのか、日本中を折檻したかのような、アメリカンな音楽のこだまが聞こえてきて、歌い出しの部分が、鳴り響く時があります。あの頃の賑やかさは、昭和文化そのものなのでしょう。

 1950年台の終わりころからでしょう、コニー・フランシスが、「Pretty little girl(可愛いベイビー)」、「Vacation(ヴァケーション)」、ニール・セダカが、「oh !Carol(おお!キャロル)」、「Calendar girl(カレンダー・ガール)」、「Happy birth day sixteen(すてきな16才)」、「One way ticket(恋の片道切符)」、またポール・アンカが「oh!Diana」、「You are my Destiny(君は我が運命)」などを歌って、ラジオやテレビから、しっきりなしで聞きえてきたのです。

 ちょうど中学から高校時代でしたから、いっぺんに日本の若者を虜にしたのです。アメリカで大流行したポップ・ミュージックの波が、日本に上陸して、多くの若い歌手が翻訳版の和製のポップスを歌い、一時代を作り出しました。やがて名作曲家になる平尾昌晃が、女の子の名で、「ミヨちゃん」を歌ったのも、その流れだったのではないかなあと思っています。運動部の先輩が、当時、この替え歌を歌っていたのです。

 映画ばかりではなく、音楽の世界の流行の波は、日本ばかりではなく、アジアもヨーロッパもアフリカも、大かぶりした時代でした。家内は、そう言った流行に疎かったのだそうですが、お兄さんやお姉さんたちが夢中になっていたそうで、自分が歌っていたの聞いたら、聞き覚えがあると言っていました。

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 今年2月、そのニール・セダカが亡くなっていたのを、最近、知りました。金星のように、あの時輝いていたスターが、人生の一幕を下ろしたのです。音楽業界が、生き残るために、流行を作るのでしょう。日本中で電子ギターが鳴り響いた時期もありました。「Rockabilly(ロカビリー)」で、野球小僧のすぐ上の兄も、新宿のABCだかACBと言った喫茶店に出入りしていた時期があったようです。

 日劇(日本劇場)が、有楽町にあって、日本中から若者を集めて賑やかだったのを覚えています。スターもステージも劇場も消えてしまうのは、じつに寂しいものです。自分の子どもたちの時代は、グループ・サウンズで、少年たちが5、6人と、舞台の上で踊り走りまくっていた時代がありました。その後発で、女子組が何十と言うほど作られていました。

 ところが問題を起こしたり、解散したりで、その流行も終わっていったのです。何だか大人たちのお金儲けに利用されていたのではないでしょうか。いつの世も同じなのでしょう、マグマのような動きが世界中を占席巻し、沈静化していく、そのことの繰り返しなのです。

 スターたちが亡くなっていくニュースは、青春が霧のように消えていくように感じてしまうのですが、どの時代にもスターや、英雄が必要なのでしょう。自分が果たし得なかった夢を、目に見せ、耳に聞かせてくれて、その代替の活躍を、心で満足するのでしょう。きっと、夢中になって白球を追い、投げ、打った野球小僧たちが、今日日、Los Angeles Dodgersで、大谷翔平が夢を叶えてくれてると思うに違いありません。

(“ウイキペディア”のセダカ、セダカの出身のブルックリンの区の花のレンギョウです)

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柿を断わる石田三成

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 戦国の武将に、豊臣秀吉に仕えた石田三成がいました。その出自は、近江国(現在の滋賀県)の土豪の家に生まれた人でした。幼少期には、お寺の小姓として仕えていたそうです。ある時、そこに鷹狩りにやって来た豊臣秀吉との出会います。出会いは、人生を決めると言われますが、戦国の知将と呼ばれるのですが、秀吉に出会ったことが、三成の運命を大きく変えていきます。

 語り継がれる逸話に、「三献の茶」があります。喉の渇いた秀吉に対し、三成は、最初は大きな茶碗に「ぬるめのお茶」を差し出したのです。次に、「中程度の熱さのお茶」を、茶碗にれて秀吉のもとに持っていきます。

最後は、小さな茶碗に「熱いお茶」を少しだけ出したのです。主君の様子を見て、たかがお茶に、それほどの心配りをして淹れ、差し出した、心細やかな気配りのできる家来だったようです。そう言った三成に、感服した秀吉は、彼を重臣として召し抱えたのです。

 秀吉が天下統一を果たしていく上で、三成の最大の功績は戦場での武功以上に、平時に、驚くほどの心遣いができたことが、やがて、「五奉行』のの筆頭として、秀吉に仕えさせていきます。中心的存在として、秀吉の数十万人もの軍勢の食料を準備し、賄いに励んだのです。おだのぶながにw「猿」と呼ばれて、身そば近く仕えた、若い頃の藤吉郎時代に、主君のはく草履を、懐で温めで、足下に置いた秀吉の心を動かすに十分だったのです。小事に忠実な者には、大事が任されるのでしょう。

 私には2才違いの弟がいます。今でも、『準ちゃん、一呼吸、深呼吸をしてから、ね!』と、この歳になっても言ってくるのです。彼は、父のお客さんが家に来ると、玄関の三和土(たたき)にしゃがんで、父に言われてではなく、自ら客人の靴を磨くのです。その様子を何度か見たことがありました。一度や二度ではありません。そんなことの出来る弟に、意地の悪い兄だったことを思い返して、反省の今です。

 若き日の三成は、そんな人物だったのです。「山崎の戦い」と言う戦いが、あった時のことです。今の東海道線に「山崎駅」がありますが、そこが、戦国期の戦場でしたが、私を育ててくださった宣教師さんは、その駅の近くの教会で奉仕をされていた時期がありました。日本の古都の京都で、教会を形成したいと言って出掛けたのです。その教会に呼ばれて一度、出掛けたことがありました。まだ若かった三成は、織田信長を本能寺で撃った明智光秀を打ち返す豊臣の軍勢の指揮をとったと言われています。

 キリスト伝道は、霊的な戦いだと言われて、その宣教師さんは、京都を目指したのです。何だか私たちの国の戦国武将のように感じたのです。神に反逆する一大勢力は京都にあると、考えられて、まだ三十代で若く熱心だったこの方は、勇躍出掛けたのです。そうする宣教師さんに驚いたのを思い出します。

 そんなことを思い出しながら、日本の歴史に登場する人に、ちょっと関心があって、この石田三成を思い出したのです。まだ柿の出回る季節ではありませんが、その柿が好きだった父が何度か話してくれた、三成の逸話を思い出したのです。柿にまつわるエピソードです。

 まだ四十ほどだった三成は、秀吉の忠臣として、秀吉の亡き後も、徳川家康が天下取りをしていく時にも、豊臣勢に忠誠をし続けていきます。天下分け目の関ヶ原の合戦で、ついに捕えられてしまうです。関ヶ原の戦いのあと、逃げて再起を図るも捕まってしまった三成は敗軍の将として、京の六条河原で処刑されることになりました。

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 その処刑の前に、喉の渇きをおぼえた三成は、警護人に白湯を求めました。しかし白湯はもらえず、渡されたのは干し柿でした。すると三成は、『柿は痰の毒と言われていて、体に良くないのでいらない!』と断ってしまいます。これから死ぬというのに今更、体の毒になるからと、干し柿を断ったのに、徳川方の兵たちは笑ったそうです。

 それに対して三成は、『大志を志す者は、最期の時まで命を惜しむべきだ!』と言ったのです。死の間際でさえ三成の生き方は揺れ動くことはなかったのです。当時、柿は渋柿で、生では食べられなく、柿の皮を剥いて干した柿が食べられていたのだそうです。それに三成の大の好物だったのだそうです。それに心を動かすことなく、自分の体を労わろうとした心こそ、三成の人となり、生き方だったのです。

 命が果てようとし、今生の最後に、大好物を食べてもいいのに、そうしないと言うのは、私には信じられません。そうできた三成には、驚かされてしまうのです。そんな人だったからでしょうか、三成には多くの逸話が残されているようです。

 戦国の世を生きると言うのは、武家の家に生まれた者には、厳しい生を求められたわけです。戦争末期に生まれ、食糧をはじめ、あらゆる物の欠乏する戦後を、育ててくれた両親を思うと、感謝が尽きません。今も、国を思い、命をかけて、国を、国土を、父や母や子や兄弟姉妹を守ろうと、戦っている兵士がおいでです。

 人類は戦禍を越えて、今を生きるのですが、戦国の世とは、どれほど厳しい時代であったかを思わされてしまいます。石田三成だけではなく、人として立派に生きた人が多くあったことでしょう。柿の好きなことでは、父は三成と同じで、その血を引くのでしょうか、生柿の次郎柿とか御所柿に目のない私も、もっと自分の身体を大切にして、余生を送らねばと決心させられた、七月最初の日の朝です。

(“ウイキペディア”の石田三成にht旗印、ころ柿です)

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