今季最終

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 五月に種を蒔いて、プランターに苗を植えて、今朝、一輪の朝顔が咲きました。6ヶ月にわたる生育と開花を楽しんできたことになります。10月1日、多分、最終の朝顔かと思われます。毎年毎年、小学生がする様に、植物実験を繰り返して来ています。華南の街では、バス通りに面した7階のベランダで咲いていました。

 色とりどりの花を、朝ごとに咲かせて、楽しませてくれたことに感謝でいっぱいです。この月曜日に、家内と長男とで、獨協医科大学病院に出掛け、4週ごとの診察を受けてきました。経過は良好でした。服用しています薬も、徐々に少なくなって来ています。みなさんの応援のおかげです。ありがとうございます。

 図書館に出かけたり、買い物に行ったり、人を訪ねたりして、日を過ごしています。前回の血液検査で、腫瘍マーカーの数値が大きく上がっていましたが、今回の検査で、元の低さに戻っていました。子どもたちも一喜一憂していますが、感謝な日々を過ごしています。

 先週は、家内の発案で、炊事洗濯などの家事から、私を解放させたいと、日光にある、スポーツ用品会社の保養所に出かけて、3泊四日を過ごしました。会社から出向されている方が案内してくださって、鬼怒川大橋を見学させてくれました。帰りにご婦人たちが運営している蕎麦屋さん行き、昼食を摂りました。

 温泉にも浸かることができ、支えられ、守られて過ごしております。みなさんの祷援や、激励のおかげです。ありがとうございます。この欄で、感謝しつつ、経過報告をいたします。

 コロナ禍ですが、爽やかな秋がやって来た様です。みなさんのご健康を、心から願っております。

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ズボン

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 行きつけの医院に行った時のことです。いつものように、同世代の医師が、この過ぎた4週のことを聞いてくれ、看護師が血圧と体重を測ってくれ、けっこう世間話とか、これまでの経験とかを聞かれたり、個人的なことまで立ち入って聞かれる、気さくな方なのです。

 頭髪のハゲ加減は、医師の方が後退していて、こちらの勝ち。若く見える度も、『年齢としては若いですね!」と、毎回の様に言われるので勝ちなのです。ところが、履いているズボンが、違うのです。こちらは、スーパーの衣料品売り場に吊るして売ってる、1980円の少々寸足らずなのに、先生の方は、宇都宮のデパートででも、奥様が買ったのでしょうか、2、3万円はする様な代物(しろもの)なのです。

 収入の度合いの違いで仕方がありません。帰国してから、もう2年近くなるのですが、下の兄が奔走してくれて受給できた、わずかな年金と、家内のお見舞いにいただいたり、友人たちや兄弟姉妹たち、華南の街の倶楽部が支えてくれたものとが、まだ底をつくことなく残っているのです。その他に、子どもたちが心配してくれて生活しているのです。ですから先生との違いは歴然としています。

 どなたかが、『ボロは着てても 心は錦 どんな花より・・・』と、昔歌っていた歌手がいましたが、家内も私も、ボロなど着ることなどありませんし、“ go to Nikkou ” で、3泊4日も温泉のある保養所で過ごすことができて、文化的な生活が過ごせています。私たちは、人に物をねだることをせずに、今日まで生きてこれました。
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 華南の街で生活を始めた頃、中国の友人たちは、豊かな国から、豊かな援助を得て来ているのだと思っていた様です。ところが、いつだったでしょうか、帰って行く家が日本にはなく、帰国のたびに違った所に居候していることを知られてしまいました。また、日本の少数の友人たち、家族が援助して来てくれてることを知って、私たちのことを感謝してくれたのです。

 大学の外国語学部の講師として働くことができ、70歳で退職後は、倶楽部のみなさんが、毎月援助してくれたのです。初めお断りしたのですが、『あなたたちは私たちの家族ですから!』との善意をお受けしたのです。そんな中、家内が病んで入院した時、入院費や治療費、帰国の飛行機代なども払ってくれました。そして、信じられないほどの助けをいただき、帰国後は、遠路を、何組もの方がお見舞いにまで来てくれたのです。

 溢れるほどの恵みをいただいて、老いを、しかも病の中を生かされております。「敬老の日」には、孫たちが長寿を愛でてくれ、生かされている喜びを感じる今日この頃です。ズボンの値段や質などは、問題ではありません。そろそろ夏物から、秋冬物に、ズボン替えの時期の様です。

 今日は10月1日、中国では、「中秋節」で、「国慶節」でもあります。一個一個の「月餅」を、人数分に切り分けて、少しずつ分け合って、食べた日々が懐かしいのです。

(標準的な「月餅」です)

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市民権

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 十代後半から二十代の初期を、どう過ごしていたかと言いますと、『アルバイトに明け暮れていた!』と言ったらいいかも知れません。もう少し勉強に身を入れるべきでしたが、学費と本代、それの遊興費を得たかったのです。けっこう楽しく過ごしたのですが、《社会勉強》ができたという言い訳は通用しそうにありません。それでお金も学びも〈虻蜂取らず〉の結果になってしまったのです。

 私の青年期、世界で起こった最大の事件は、「ベトナム戦争」でした。インドシナ諸国は、欧米の植民地として支配されたり、二戦以降、そこからの独立運動が起こったり、独裁政権が起こったり、米ソの冷戦下で、火種を抱えていました。ベトナムにアメリカ軍が、1961年に軍事介入をして、長い泥沼の様な戦いが続きました。ある面では、米ソの〈代理戦争〉が、ベトナムのデルタ地帯で続いたと言えるでしょうか。

 この戦争に、外国人である日本人が、戦士として戦うなら、アメリカの〈市民権〉がもらえるという誘いがありました。また、この戦闘で戦死したアメリカ軍兵士が、軍用機で、横田基地に運ばれて、棺に納められて、戦没兵士の故郷に送り届けられていたのです。友人から、『大変高額なアルバイトがあるぞ!』との誘いもありました。その戦いで、戦死した兵士の亡骸をアルコールで拭く仕事です。どんなに高額でも、他国の戦争に加担することも、死者の体に触れることも、それらは私にはできませんでした。

 同世代で、同じ自由権に生まれた者でも、『インドシナ諸国が共産化して行くことを防ぐ戦いに!』との大義名分に駆り立てられても、そのために銃を取ることはできませんでした。当時、〈兵役逃れ〉のために、多くのアメリカ人の同世代の青年たちが、ある特定の仕事をしようと、世界中に出て行った様です。日本にも来ていたでしょうか。

 この戦争の最前線で、報道写真家の沢田教一が、戦争と戦争に巻き込まれて行くベトナムの人々を撮り続けたのです。本来この方は、『本当は自然や子どもを撮りたい・・・平和なヴェトナムを撮りに来たい!』と、奥さんに常々話していたそうです。

 そのヴェトナムでの一場面が、上に掲出した写真です。1965年9月6日、ロクチュアン村で、銃弾をあびる中を、川を渡る2組の母子を撮影したのです。「安全への逃避」と、沢田は名付けています。これは、世界写真大賞を受賞した、大変に有名な写真です。戦争が終わって、間も無くこの写真のお母さんたちは亡くなったそうですが、子どもたちは健在だそうです。

 米国市民権の誘いに、自分の心が動きましたが、ベトナムで、外人部隊として戦ったとしても、生き残っていたかどうか分かりません。たとえ生き残って、市民権を得てアメリカで生活をしていても、過酷な戦闘体験で、精神的に正常を保てたかどうかも、分かりません。世界の片隅に起こった、大変で悲惨な戦争の後日譚(たん)は、兵役を果たした戦後ベビーブーマーたちの間に、麻薬や同性愛や精神疾患などを産んだと伝えられています。それは戦争のもたらした悲しい現実でした。

 今日日、米中の間が、不安な動きを見せています。それが世界を巻き込んでしまうなら、大変な事態を迎えることになることでしょう。歴史を見ますと、誰もが平和を願いながら、いつの間にか、戦争が勃発してしまって来たわけです。その前線で戦うのは、いつも青年たちなのです。孫たちが軍靴を履いて、銃を担ぐことがない様にと願うばかりです。

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生きよ

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 日本人が好きなものの一つが、「復讐劇」です。浄瑠璃でも歌舞伎でも大衆劇でも、それが人気演目なのです。江戸の昔から、令和に至るまで、日本人は好んで観劇してきています。英国のシェークスピアの「ハムレット」までもが、日本人は好きなのです。日本では、江戸での親の仇を、長崎にまで追って行って、打ち果たすのですから、その「恨み骨髄」の復讐心は凄まじいものがあります。

 お隣の国も、同じ様に、過去の出来事を赦せない、「恨(韓国語한ハン)」の強烈な思いをお持ちです。秀吉の朝鮮出兵で陣頭指揮をした武将の子孫の罪を、今になって糾弾したり、戦時下、強制的に連行した少女の像を作り、その前に、戦後75年を経た、日本の首相を土下座させる像を置いて、強烈な復讐心を表すのには驚かされます。事の真相はともかく、戦後、長らく、日本は国として謝罪を繰り返し、それを形にした復興援助をし続けて来て、今の韓国の繁栄があるのです。

 テレビを、家に置かないのですが、TBS制作、放映の「半沢直樹」の人気が凄かったそうです。〈倍返し〉、最後では〈1000倍返し〉にして、復讐をしたのだとかです。日本人の系譜でしょうか、復讐が成功することで得られる、なんとも言えない〈ケジメ〉がいいのでしょうか。義に立つ者には、天が味方をするのですから、後は、赦さないと、生涯恨みを負い続けねばなりません。
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 私の愛読書には、「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは◯である。」とあります。恨みの感情や復讐心というのは、非建設的なものであって、何一つ、好いものを生み出しません。恨みの思いが感情を異常にさせ、体も蝕んでしまうのです。私は、これまで、数人の方の〈赦せない思い〉に煩わされました。

 憎んだり、恨まざるを得ないその方の思いを理解して、心の向きを半身にして、恨みをかわすことにしたのです。義を選んで、ヒュマニズムに立たなかったからです。自分には落ち度がなかったと思っていますが、自分の決意を汚すことなく、結果として恨まれたのですから、どうということはありません。ただ、その方たちの〈その後〉が気掛かりでなりません。

 復讐劇を観て、拍手喝采してしまって、その思いを積み上げて行くと、不健全な事態を生んでしまいます。池宮彰一郎が「最後の忠臣蔵」を著し、役所広司主演で映画化されています。大石内蔵助に仕える瀬尾孫左衛門は、四十七士として、主君の仇を打つ代わりに、内蔵助の隠し子を養育する務めを頼まれます。育て上げ、京の商家に嫁入りさせた晩、主人の位牌前で自刄して果てるのです。

 この「忠臣の死」に、足軽の孫左衛門が、武士の魂を見せるのですが、潔さよりも、私は悲しい思いで、心がいっぱいにされたのです。恥を忍んででも生きて、《命の重さ》を感じて欲しかったのです。失った年月を贖って、新しい思いで、もう半生を生きて欲しかったからです。

 数ヶ月すると年末、また、生を軽視し、復讐や死を礼賛(らいさん)する劇や映画が上演されることでしょう。それが日本人の心に、生命軽視、自殺願望を惹起させるのではないのでしょうか。自殺者が日本では突出していることと、これと無関係ではなさそうです。私の愛読書には、「生きよ」とあります。

(今季最後になる朝顔かも知れません。大平山の遠望です)

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鯖鮨

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 北陸の若狭湾で収穫した「鯖」を、京の都に搬送するために、「鯖街道」という名の街道がありました。もちろん、今日では使われていない道路で、山道を通って京に届けたのだと言われています。いくつものルートがあったそうです。

 その主要な街道を「若狭街道」とか、その他の名で呼んでいましたが、今日の国道とは違う様です。《足が速い(鯖は水から上げられと急に鮮度が落ちて傷みやすい魚ですから)》ので、今日ではチルドにしたりして配送されるのでしょう。かつては、塩でしめて、行商人に担がれて、都に届けられたわけです。京の庶民に、どんなに喜ばれたことでしょうか。小浜市のサイト(「御食国若狭と鯖街道」より)に次の様にあります。

 『日本海にのぞみ、豊かな自然に恵まれた若狭は、古代、海産物や塩など豊富な食材を都に送り、朝廷の食を支えた「御食国」のひとつであり、御食国の時代以降も「若狭の美物(うましもの)」を都に運び、京の食文化を支えてきた。近年「鯖街道」と呼ばれる若狭と都とをつなぐ街道群は、食材だけでなく、様々な物資や人、文化を運ぶ交流の道であった。朝廷や貴族との結びつきから始まった都との交流は、「鯖街道」の往来を通じて、市民生活と結びつき、街道沿いに社寺・町並み・民俗文化財などによる全国的にも稀有なほど多彩で密度の高い往来文化遺産群を形成した。「鯖街道」をたどれば、古代から現在にかけて1500年続く往来の歴史と、伝統を守り伝える人々の営みを肌で感じることができる。』

 それで北陸から運ばれた鯖で、京の都では、「鯖鮨(寿司)」が作られ、それが京名物なのだそうです。もちろん山陰や北陸でも名物になっておりますが。実は、私は、鯖が苦手なのです。子どもの頃に、正月料理に「しめ鯖」が出てきて、それを食べて気持ち悪くなってから食べないことに決めています。同じ青魚でも、鯵(あじ)や鰤(ぶり)や秋刀魚は大好きなのですが。
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 ところが家内は、鯖が大好物で、味噌煮や塩焼きを、目の色を変えて食べているではありませんか。家では調理はしたことがありませんが、華南の街に住んでいた時、日本料理店には、塩焼きが置かれていて、『注文していいよ!』と言って上げると、大喜びをしていました。

 それでも帰国して、北関東の街に住み始めたのですが、炊事当番の私に、『鯖を食べたい!』とは、遠慮して言わないのです。鯖の端っこを、ほんのわずか食べることがあっても、それほど美味しいとは思わないのです。鮮度の良いものは、刺身にできるのだそうですが、それでも自分は食べたりはしないと思います。

 日本の近海、特に冬の日本海で漁れる魚は、特別に美味しいのだそうです。急峻な川が流れ込んだ海に、プランクトンが繁殖し、それを餌に小魚が寄って来て、さらに海藻が育つからなのだそうです。私たちの住んでいた華南の街から、海は遠くないのですが、刺身にして、新鮮な魚を食べる機会がなかったのが残念でした。

 華南の街では、焼き魚よりも煮魚が中心に、食卓に上るのです。海辺の埠頭に、取れた魚を半身にして、竹のすのこの台に干してありました。あっ、やはり「食欲の秋」なのですね。暑さが収まったら、食べものが美味しく感じられ、食欲が増進するのは、道理にかなったことであります。

(「鯖鮨」と「若狭湾」です)

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礼服

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 ある時、フィリピンから、小さな小包が届きました。送り手は、私たちの街で、しばらく働いていて、日曜日になると、私たちの事務所にやって来られていた方からでした。実は、ビザが切れていて、不法滞在が摘発され、強制送還されて、帰国されてから、しばらくたった時でした。

 それは、フィリピンで、公の席に出る時に着用する《礼服》の贈り物でした。” Thank you card “ が添えられていました。この方との出会いは、当時、学校を卒業して、今後、どうするかを待っていた長男が、家に帰って来ていて、街中で会い、事務所にお連れした6、7人のフィリピン人の中で、一番の年配者でした。私とほぼ同世代だったでしょうか。

 日本で働いて、祖国に残してきた妻子を経済的に支えていたのです。小柄で、穏やかな顔をされていた方でした。彼が、ポツリと話されたことがありました。ご自分のお父上のことでした。太平洋戦争時、日本軍はマニラ侵攻を遂げたのですが、その時、『私の父は、日本軍に殺されました!』と言われたのです。

 兵士たちは、軍の命令で行動をしていて、意に沿わないこともしなければならなかったのです。彼のお父上は、その犠牲者だったわけです。言いにくそうに、そう言われたのです。決して憎悪にもえて語ったのではありませんでした。

 私の父親は、軍命で、軍事軍需工場の責任者として、爆撃機の防弾ガラス用の原料の石英の採掘を、中部山岳の山の中でしていました。軍属として戦争に加担した責はまぬがれませんが、戦時下の第二世代同士が、戦後の出会いと、語らいでした。

 家内は、食事を作ってもてなしたのです。韓国からの方、中国からの方にも、食事で歓迎したりしていました。そう言ったことへの感謝があったのでしょう、それで思いの籠った礼品を送ってくださったのです。

 実は、その《礼服》は、小さ過ぎて着ることができなかったのです。どなたかに差し上げようと思って、タンスの奥に仕舞っておきましたが、中国行きの折に、どうしても処分せざるを得ず、申し訳ないことをしました。これは多くの人との出会いのひとコマです。

(フィリッピンの国花の「ジャスミン」です)

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Go to Nikkou !

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 日光市の山間の村落にある、温泉施設に来ています。スポーツ用品のチェーン店を経営される企業が、社員用の保養のために作られた休暇村です。山間にありますので、実に静かで、余暇を静かに過ごすには、最適な自然がいっぱいの地です。温泉があって、コロナの影響でしょうか、利用客が少なくとも、受け入れてくれてくれています。

 最寄駅への出迎えが原則なのですが、エレベーターのある駅まで出迎えていただきました。道筋に、赤や白の彼岸花が咲いたり、リスが林に走り込んだりの山道をたどって、保養所に着きました。そこで三食の賄いを受け、談話室には図書庫があって、本を読んだり、鳥の鳴く声や虫の声を聞きながら、杉林を散策したり、家内と語らいながら時を過ごしています。

 庭に栗の木があって、今朝は、栗の実を拾ってしまいました。実が小さいのですが、茹でて食べると甘いのだそうで、家に持ち帰ることにしました。キノコも出ていましたが、食用ではないので遠慮しました。

 実は、今年の正月に、4人の子どもたちが、それぞれ家族を連れて、ここを会場に、総勢14人で「母を励ます会」を持ったのです。ちょうど日曜日でもあったので、みんなでゴスペルを歌ったり、それぞれに思いを分かち合ったり、長男の司会、嫁や下の息子の奏楽で賑やかで、穏やかで素敵な家族の一時を過ごしました。

 その印象を追ってでしょうか、家内がこの保養所が気に入って、やって来たわけです。3人の男性スタッフが、家内の母親の故郷の九州の出身者で、一仕事終えて、第二の人生でしょうか、保養所を守っておられるのです。この会社の会長が、私の同窓で親しみやすさもあって、今回は3泊4日の “ Go to Nikkou “ なのです。

 昨年は、台風19号の洪水で罹災を経験したのですが、今年も台風12号が近づく中、こちらに来たのですが、上陸を避けることができ、雨量も大したことがなかったのは幸いです。

 もう、この保養所の庭の木々が、紅葉し始めています。川の瀬音も聞こえて、桃源郷とまでは言えませんが、「栗源郷」とでも言ったらよいでしょうか。今日は、近くに、ご婦人たちが始めた「蕎麦屋」があると聞き、案内してくださるとのことで、お昼に出掛けて、舌鼓を打って帰ってきたところです。

 福岡の直方(のうがた)の出身で筑後弁、長く仕事をして覚えた関西弁の交じった話をされる方が案内してくれ、鬼怒川の大きな吊橋にもお連れいただきました。あいにくの雨でしたが、秋の風情をた楽しむことができました。

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友、真理

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 「万有引力」を発見したアイザック・ニュートンが、次の様なことを言っています。

『プラトンは私の友、アリストテレスは私の友。しかし、最大の友は真理である(Plato is my friend, Aristotle is my friend, but my best friend is truth.)!』
  
 ニュートンは、大英帝国のヨークシャの出身で、未熟児で誕生し、体は小柄で、病弱な幼少年期を過ごしています。トリニティ・カレッジに入学して学び始めますが、当時、ヨーロッパに「ペスト」が、数度目の大流行期を迎えていました。学校が休校になってしまいます。その18ヶ月の間、帰郷を余儀なくされたニュートンは、家に籠ることが幸いして、「微分積分」や「引力」の研究に没頭することができたのです。

 将来の研究の基礎を築くことができたと言われています。科学者は、自然界に働く原理と出会うのですが、不変の「真理」の探究に励み、その「真理」を、生涯の友としたのは、素晴らしいことだったわけです。科学する人の究極の関心は、その「真理」の探求なのかも知れません。

 明哲のプラトンやアリストテレスを、ニュートンが《友》と呼んだのも、驚くに当たらないのでしょう。プラトンの哲学は、普遍的で完全な真実の世界を思弁によって認識しようとする哲学だと言われました。また、アリストテレスの哲学は、人間の霊魂が、理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)と言われています。ニュートンは、この二人の友から学んで、「真実(真理)」を、自分の友と呼んだのです。

 順天堂大学病院で、「がん哲学外来」を担当する、樋野興夫(ひのおきお)医師がおいでです。「癌」を、病理で捉えるだけではなく、「哲学」によって捉え直して、がんを病む人たちが、死を待つだけの日々から、残された日を意味あるものとして、積極的に生きることを勧めています。次の様なことをおっしゃっています。

 [『最も剛毅なる者は、最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢な者である』とは「高き自由の精神」を持って医療に従事する者への普遍的な真理であり、「他人の苦痛に対する思いやり」は、医学・医療の根本であると考える。「科学としてのがん学」を学びながら、「がん学に哲学的な考え方を取り入れていく領域がある」との立場に立ち、『がん哲学』が提唱されるゆえんである。そこには、「考え深げな黙想と真摯な魂と輝く目」が要求される。この風貌こそ、現代に求められる「がんに従事する者の風貌」ではなかろうか。『何かをなす( to do )前に、何かである( to be )ということをまず考えよ』ということが大事になってくる。]

 この方の著作を、友人に紹介されて、がん治療をしている家内が読んでいます。この樋野医師が、新渡戸稲造や矢内原忠雄の思想的な感化を受けておられて、人間理解が深い方なのです。その様な彼が、「まちなかメディカルカフェ」と言う、患者と家族と医療従事者とボランティアの交流会を始めらておいでです。今では全国に多くの交流会があって、栃木県の宇都宮にもあります。

 昨年暮れに、家内を連れて、その月例会に参加しましたら、歓迎されて、続けて参加をしたのですが、コロナ騒動の中で、カフェを開くことを避けて、ネット上の交流会に、今は変わっています。自分の抱えている病を、医師との問答を介して捉え、ボランティアの助けで同病のみなさんと励まし合いながら、日常を語り合いながら時を過ごしています。1月26日のカフェの様子を次の様に報告しています。

 『暖冬の影響なのか道端では早くもオオイヌノフグリが咲き始め、春の足音が聞こえ始めました。

 1月のカフェには相談者16名(初参加3名)、スタッフ22名、見学者2名が参加しました。初めて参加された女性はがんになっても自分には夢があると話され「地元でこのようなカフェを開きたい!自分にはまだ世の中に役立つことができると思っている」と大変力強いメッセージをくださいました。

 
 昨年、母様をがんで亡くされた女性は「母を亡くしてグリーフケアに興味を持ち、自分も何かできるのではないか」とカフェに参加されました。

 
 また、高校一年生の女子学生は、お友達のお母さんががんで何も食べられなくなった時に、食欲のない時にも食べられるようにと自分で考えたカラフルな琥珀糖の飴を可愛いレシピと共に持参し、皆さんに配ってくださいました。最近の中高生は世界に通用する才能を発揮する子もいますが、他人への思いやりと行動力には驚くばかりで、感激しました。
 クールダウンはスタッフによるストレッチ。心も体もほぐれて笑顔で終了いたしました。』、諦めや運命だけで、病を捉えずに、残された日々が輝く様にと願っています。』

 そうですね、ニュートンに倣って、「真理」を友として探求し、永遠不変の天然の理念、人の世の真実を尋ね求めて、健やかでも病んでいても、一日一日を、人生の「基礎研究」をしたり、もう少し哲学的な思考をしながら、意味あるものにして生きて行きたいものです。

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ダンダン

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 「毎日新聞」に、以前、自分の母親を語る欄がありました。また「文芸春秋」には、今でも「オフクロ欄」があります。そこでは著名人が、亡き母や老いた母を、思い思いに語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、けっこう面白い記事だと感心しています。

 近くのドラッグストアーの本売りの棚の「文藝春秋」の、この欄を、たまには立ち読みしているのです。『この人にはこんなお母さんがいたんだ!』と思うこと仕切りです。 年配者が、自分の母を語る語り口は、実にほほえましいものがあります。

 とくに誰にとっても母親は、《特別な人》に違いありません。造物主が極めて親密さの中に置かれた関係でして、9ヶ月間その母の胎の中で育み、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者であったわけです。その記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。

 月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を支配するほどの重要な意味が、母子の関わりの中にあるのだそうです。生きていくことを学ばさせ、子はそれを習得しているわけです。ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされいます。

 もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それが許されたれたことを認めるなら、欠けたるところを、充分に補ってもらえるに違いないのです。
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 ある方が、『おかあちゃんに会いて-よー!』と泣いているのを見させて頂いた時、いくつになっても、母は母なのだと確信させられました。〈マザコン〉と揶揄(やゆ)されたことが、以前、私にもありました。自分の母を誇ったのが、その方にはずいぶんと迷惑だったわけです。

 人には様々な過去と背景がありますから、決してどなたかを傷つけようとしたのでも、無配慮にでもなく、母の教えや存在に感謝して語ったのですが。同じ母の子でも母に対する思いや評価は、兄弟でも様々に違うわけですから、仕方がなのかも知れませんね。

 私の愛読書に、「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ。」と記されています。人生の晩年に、自分の母親が、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったりして弱くなっていくのを見ていました。2度の大病を越えて生きた母がひと回り小さくなっていくのです。その母の通院に付き添ったことがありました。

 駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母を負んぶしたのです。負ぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかったのです。〈平成の啄木〉の様に、砂浜ではなくビルの谷間を二百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を歩みました。やはり軽いのです。その時「砂の上の足跡」と言う有名な詩がありますが、その詩を思い出してしました。

 14才の少女の時から、いえ母親の胎に形作られた時から、絶対者に負ぶってもらって、95年の天寿を全うしました。時々、出雲弁が出てしまった母を、父がからかっていたことがあります。この出雲弁で、『ありがとう!』を表すのに、『ダンダン!』と言うのです。そうすると私にとっての母親は、《ダンダンの母》になるのでしょう。

(島根県花の「牡丹」、出雲市の一畑電鉄の電車です)

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国境と祖国

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Lille, France – June 26, 2012: The Pasteur Institute of Lille building is a research centre and member of the Pasteur Institute network.

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 疫学者のパスツールのことばを、アメリカのハーバード大学で主任研究をされた吉田知史(よしださとし/現在は早稲田大学教授)氏が紹介しています。

『科学には国境はない!』

 欧米の大学や研究室は、外国人の研究員に、広く門戸を開いています。そう言った意味で、科学の進歩に、日本人も貢献することができたのです。北里柴三郎が、ネズミを研究台にして、破傷風の研究をしたのも、フランスのパスツール研究所でした。科学の世界は、東洋の優秀な研究者に、国境や人種や民族の壁を設けずに、そう言った研究の機会を開いたわけです。この言葉には続きがありました。

 『しかし科学者には、祖国がある!』

 多くの日本人研究者を、国籍や人種の違いにこだわることなく受け入れ、研究者間で刺激し、協力し合いながら共に研究を続けたのです。それが大きく人類全体に貢献することになったのです。それでも、それぞれの国の期待を担いながら、援助を受けながら、そこにあったのですから、祖国を考えることも忘れてはならなかったのです。

 北里柴三郎には、共同研究者がいたのですが、二人ともに「ノーベル賞」の候補に上がったのですが、諸般の事情で、柴三郎は、その機会を得ませんでした。北里に続いた、秦佐八郎は、ドイツのコッホ研究所、フランクフルト国立研究所などで、抗梅毒剤の研究を始めます。しかしノーベル賞にノミネートされますが、エールリヒと共に受賞を逸します。エールリッヒが受賞前に亡くなったからです。

 エールリッヒは、常に愛弟子たちに こう 言っていたそうです。

 『科学研究者に必要なことは、4 つのG、すなわち《資金(Geld)》、《忍耐(Gedult)》、《手練(Geschick)》、《幸運(Gluck)》である!』でした。でも《健康 (Gesund)》も大きな要素であったのですが、エールリッヒは病没してしまうのです。

 そう言った、日本人研究者の過去があって、今では、毎年の様に、日本人がノーベル賞を受賞する時代を迎えています。地道な研究で積み上げられたものがあっての「今」なのでしょう。このパスツールの言葉を紹介した吉田氏も、東京大学に籍を置きながら、ハーバード大学で研究に携わっているのです。自分の栄誉が、やはり祖国の誇りになると言った面を持ち合わせて、国際社会で活躍している人たちが、多数いることになります。

 よく言われるのは、『◯◯先生の下で!』、『☆☆研究室で!』とかで、師弟関係が、とても大きな部分を持っているわけです。私自身にも、恩師からの期待がありました。彼が纏め上げたある研究を、『ジュン、あなただったらこれを理解してくれるでしょう!』と言われて託されたものがあるのです。

 研究を敷衍(ふえん)して、発表することを願われたのですが、私の内で、その師の労作を咀嚼( そしゃく)して、自分のものにしておきたいのが、私の思いなのです。まだ若かった時、『この主題で本を書いたらどうですか!」と言われたこともありました。でも自分には、本を刊行して世に成果を問うと言う願いは全くありませんでした。

 今日も、多くの研究者が、コロナワクチンの研究をしています。国益が大きく期待されて、〈抜け駆けの功名〉でしょうか、しのぎを削る様な研究競争が繰り広げられています。それは莫大な収益が得られるからです。しかし、一人や一国の利益や栄光や栄誉のためではなく、人類が共通している厳粛な課題や問題を、国境を越えて、全人類の益のために、協力し合えないかと思わされてなりません。

(「パスツール研究所」です)

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