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「民藝」と呼ばれる演芸集団があります。日本を代表する伝統的な歌舞伎とは違って、『多くの人々の生きてゆく歓びと励ましになるような』演劇芸術を目指して、戦後間もない1950年に、滝沢修、宇野重吉などによって旗上げされています。
舞台といえば、子どもの頃に、村芝居、小屋掛けの巡回一座が、私の育った街にも、時々やって来ました。脂粉や灯りのカンテラを燃やすカーバイトの独特な匂いがたちこめる、田舎芝居の一座の演劇を、夢中になって観た記憶があります。あの時代の匂いも、同時に思い出されるのです。
父に連れ出されて、竣工間近かの新宿歌舞伎町のコマ劇場に行ったことがあったのですが、何を見たのかは思い出せません。でもあの神社の境内の小屋でのチャンバラ劇は、鮮明に思い出されるのです。あの歌舞伎町界隈で、なにか美味しい物をご馳走してくれたのだけは思い出せますが、のど元す過ぎればで、これも何を食べたかの記憶なしです。
二人の兄は、誘われても付いて行かず、弟は幼かったのか、私がついて行ったのだと思います。でも父は、一人一人秘密に連れ出すので、兄たちも弟も、そんな機会があったのだろうと思います。父を独占できても、言いふらしたりしなかったので、各自に父との間に秘密があったかも知れません。
さて、父・滝沢修を、ご子息の壮一氏が書かれて、「滝沢修と激動昭和」という題の著書を出版されていて、このたび、それを読了しました。その人間性に触れて、驚いたのです。
きっと父の影響もあってでしょうか、この滝沢修の始めたような演劇活動の多くが、社会主義者集団だと思って、自分は毛嫌いしていたのです。何せ、{🎶貴様と俺とは同期の桜・・・♫]と、黄色い嘴で歌う、特攻隊や予科練に憧れた、時代遅れの軍国少年だったからです。
と言うよりは、スターリンのソ連の粛清や弾圧や拷問を聞かされて知っていた私は、そう言った動きを嫌っていたのです。父は、ジャズや演劇界の役者たちは、一度やったらやめられない「ヒロポン」を打っては活動するのだと聞いたのです。それで警戒の目で偏見していたわけです。
ところが、この滝沢修は、『生涯借家住まいをした人でした!』とのご子息の本を読んで、家も車も別荘も持たない自分が共感して、興味をもったわけです。
この滝沢修と同世代人の父は、軍人の家庭で育っていましたが、軍国主義者ではなく、当時の一般的な人だったのでしょう。軍需工場の仕事にも従事していた父は、反共の立場の人だったのでしょう。四人の自分の子を、この世の悪から守ろうとしたのでしょうか、そんな男として生きていく注意事項をよく聞かされていたのです。
また、ジャズや演劇の世界に生きる人間は、ヒロポン中毒者が多くいることを聞かされました。一度親しんだらやめられない中毒患者となって廃人になってしまうと、父は言ったのです。もちろん芸能界の人たちがみんな、そうだと言うわけではありません。一つの世界の問題を指摘してくれた訳です。
社会主義者が社会を改善しようとする反面、自分たちは階級闘争や競争相手の粛清に明け暮れているような、ソ連の実情を知らされたのです。仲間を信頼できなくて社会がよくなっていくはずはないのです。
共産圏諸国の生活の悲惨さ、労働意欲の無さ、物資の欠乏、理想と現実の違いなど、多くの矛盾があって、そういった社会に生きている人たちの息苦しさを知ったのです。そんな社会が続くためには、監視して自由を奪い、独裁的支配しかないのでしょう。映画館で観たニュースに映る民衆の目が、不安と恐れで溢れているのが分かっていました。
しかし、社会を混乱に陥らせるような考えなどは滝沢修にはなく、役者魂に徹した、善良な役者馬鹿だったのでしょう。
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滝沢修は、妻の文子をガンで亡くしています。彼を支えた妻があっての名優だったことは、文子の最後の言葉によって分かります。亡くなった後に。妻のハンドバッグにメモが残されてあったそうです。
『万一私が手術で死んだなら・・・私は最も幸福な妻であり、母であったと、心から思っていることを信じてください。結婚以来の生活を振り返ってみて、私には感謝のみ残ります。しあわせな生涯を私に送らせてくださって、ほんとうにありがとう、心からお礼を申します。
家族のみんなのしあわせを心から祈りますのあんまり悲しまないでください。』
41歳で文子が亡くなった時、長男・壮一が13才、長女・直子が10才、次女・雅子が6才で残されています。修は、大阪公演に出演で留守でした。豪邸に住むことだってできた、映画や演劇やテレビに引っ張りだこの俳優でしたが、慎ましく質素に生きた人だったようです。
私は、演劇人や歌手などの人たちは、家庭を顧みず、奔放に生きている人の集団だと思っていましたが、自己を律し、人気取りのためにではなく、こよなく演じることを楽しんで、しかも命懸けで俳優として生き抜いた滝沢修への敬意を覚えたのです。演劇人への偏見がなくなってしまいました。
軍国主義も社会主義も、国家建設には理想的な考えではなくて問題だらけのようです。共産主義者と疑われ特高警察に拘束されても、どんな境遇を生きても、滝沢修は屈することなく、一人の舞台俳優として、愛する妻と子たちがいて、素敵な生を生き抜いたのです。ご子息の父への熱い思いにも触れた、そんな今年の夏でもあったのです。
(ウイキペディアによる滝沢修、劇団民藝本部です)
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