カテゴリー: 日記
粋で繁華な浅草に
.
.
江戸の昔から昭和に至るまで、東京で一番の繁華街は、浅草でした。北関東や東北や越後などから、華の都会として憧れたのは、新宿でも池袋でも渋谷でもなく、銀座は別格として浅草、そこは食べ物も観劇も、落語や講談や浪曲、活動写真も、花屋敷も、どうしても浅草だったに違いありません。新宿や品川の様に、主要交通網の玄関口ではないのですが、浅草は、強く江戸を感じさせる街でした。
新宿は、中央線でつながる山梨や長野から、池袋は、西武線沿線の埼玉県から、上野は、東北本線の北関東や越後や東北や常陸や房州から、渋谷や品川は、小田急線や東急線で、神奈川や静岡からの訪問客が多いのかも知れません。北関東の栃木と群馬は、浅草だったのでしょう。よく聞くのは、新宿は信州弁や甲州弁が聞こえ、渋谷は相模弁、池袋は埼玉弁、上野は東北弁や越後弁や茨城弁などが聞こえてくるのだそうです。もちろん茨城も千葉も、東京と繋がっていたわけです。浅草は、全国区だったのでしょう。
私が、おもに利用している電車は、日光や宇都宮や鬼怒川と浅草を結ぶ東武鉄道で、栃木県人は、その電車に乗って出掛け、一日、浅草周辺で、都会の空気を吸い、美味しいものを食べ、贔屓の劇を観て過ごして、帰ってきたことでしょうか。また県北の宇都宮以北や日光周辺は日光線で宇都宮経由も、旧国鉄の東北本線(今では宇都宮線と呼ぶ様です)で上野に出たのでしょう。
父が元気な頃からですが、浅草で、「駒形のどぜう鍋(どじょう)」を一緒に食べる口約束があったので、これまで通り過ごしてきた浅草は、東武鉄道で一本の浅草を、どうしても訪ねてみたい街なのです。父は、北関東ではなく、相模の横須賀の出身なのですが、品川や銀座ではなく、青年期には、浅草で過ごした時間が長かった様に思えるのです。明治生まれの世代は、戦後に栄えた新宿や渋谷や池袋ではなかったのでしょう。浅草橋で、父は仕事をしていたこともありました。
東京都下の多摩地区に住んでいた子どもの頃に、渋谷に連れ出してもらって、『こんなに美味いものがあるんだ!』と言って、仔牛のシチュウと黒パンを食べさせてもらったり、新宿のコマ劇場に観劇に連れて行ってもらっていましたが、次の父の約束の「浅草行き」は、果たされていないままで、自分には「憧れの浅草」なのです。
代官山に次男が住んでいた時に、上の娘も一緒に、3人で渋谷に出て、地下鉄で浅草に行ったことがありました。美味しい鰻の店があると言って、連れて行ってもらったのですが、残念なことに、その日は定休日でした。空約束になって、長い時間、順番待ちで並んで、スカイツリーにエレベーターで昇って、なにをたべたか思い出せないまま過ごしただけの一日でした。
南栗橋で都心につながる乗り換えの急行電車しか乗ったことがありませんので、今度は、人気の浅草行きの特急「スペーシアX」に乗って、「エンコ(明治以降に整備された浅草公園の呼び方でした)漫歩」をしてみたいのです。家内を誘うのですが、まだそこまで力がありませんし、どうも行きたがっていませんので、お預けのままなのです。
.
.
父の若い頃に流行った歌に、「東京行進曲」がありました。「粋な浅草」と、三番の歌詞の中にあります。また、それ以前に、「東京節(1918(大正7)」があって、その二番は、
♬ 東京で繁華な 浅草は
雷門 仲見世 浅草寺
鳩ボッポ豆売る お婆さん
活動 十二階 花屋敷
すし おこし 牛 天ぷら
なんだとこん畜生で お巡りさん
スリに乞食に カッパライ
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで
パイノパイノパイ
パリコト パナナで
フライ フライ フライ 🎶
.
.
この浅草は、江戸時代以前から繁華街として栄えていたそうです。江戸一の下町情緒、江戸情緒の残る街で、今では外国人観光客で賑わいを見せているそうです。草深い武蔵野の中で、草があまり茂っていなかったため、「浅草」と呼ばれるようになったのだと言われています。
「東京で繁華」と歌で歌われ、その象徴の様に、浅草と上野とを結んだ、「地下鉄」が東京で初めて運転したのが、昭和2年(1927年)12月30日でした。それはアジア初の「メトロ(地下鉄のことを略称してそう呼んだ様です)」で、銀座線で2.2kmの距離だったのです。父の十代の終わりの頃の開通でした。
もう6年も住んで、すっかり栃木人化している自分ですので、自分にとっての身近な都会は、この浅草なのです。どうもなかなか行けないのは、次男が、ここ浅草名物、草団子の中に練り込まれた「蓬(よもぎ)」が体に良いからと買って、来るたびに、持って訪ねてくれるのです。
浅草は、東京一、美味いものが多かったそうです。古川緑波が「浅草を食べ」の中で、こんなことを書き残しています。
『浅草独得(ではないが、そんな気がする)の牛めし、またの名をカメチャブという。屋台でも売っていたが、泉屋のが一番高級で、うまかった。高級といっても、普通が五銭、大丼が十銭、牛のモツを、やたらに、からく煮込んだのを、かけた丼で、熱いのを、フウフウいいながら、かきこむ時は、小さい天国だった。 話は飛んで、戦後の浅草。ところが、僕、これは、あんまり詳しくない。それに、浅草自体が、独得の色を失って、銀座とも新宿ともつかない、いわば、ネオンまばゆく、蛍光灯の明るい街になってしまったので、浅草らしい食いものというのが、なくなってしまった、ということもある。(「ロッパの悲食記」ちくま文庫、筑摩書房)』
長い時間の経過とともに、この街も大きく変化をしてきているのでしょう。この浅草も「らしくなくなってしまった」街でいいのでしょう。生き物の様に、街が変わっていくのは当然だからです。ただ一人一人の記憶の中に残った、情景を思い返せた都会経験が、ここ栃木県人の「華の浅草」訪問だったに違いありません。
(ウイキペディアの広重の描いた浅草、浅草十二階、セリカ病院から見た隅田川です)
.
オートバイへの思い
「オトキチ」、オートバイ狂やオートバイに魅せられて、ハンドルを握り始めた若者、買って乗ってみたいと思いながらも、親に頼めないし、手に入れることの叶わない自分、そんな子どもも若者も大人も、みんなを評して、オートバイに魅せたれた人たちを、「オトキチ」と言ったでしょうか。これも死語になっていそうです。
昨日、YouTubeを見ていましたら、「月光仮面」 のテレビ放送の主題歌を、〈FORESTA(合唱グループ)〉が歌っていました。中学生の頃(1958〜1959)年に放映されていて、まだテレビが父の家にない頃に、どこで観たのか、「正義の味方」のオートバイに乗った主人公が格好よかったのです。
♬ どこの誰かは 知らないけれど
誰もがみんな 知っている
月光仮面の おじさんは
正義の味方よ よい人よ
疾風(はやて)のように 現れて
疾風のように 去ってゆく
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう
どこかで不幸に 泣く人あれば
かならずともに やって来て
真心(まごころ)こもる 愛の歌
しっかりしろよと なぐさめる
誰でも好きに なれる人
夢をいだいた 月の人
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう
どこで生まれて 育ってきたか
誰もが知らない なぞの人
電光石火(でんこうせっか)の 早わざで
今日も走らす オートバイ
この世の悪に かんぜんと
戦いいどんで 去ってゆく
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう ♬
今の特撮には及びませんが、あの頃は画期的な番組だったのです。主人公の祝十郎が、実は月光仮面でした。弱気を助け、強きをくじく、「我らがヒーロー」だったのでしょうか、その後、多く登場するヒーローの原形でした。まだ高速道路などができる前でしたから、どこかの公園の脇の様な箇所を、爆音を上げて疾走する場面が、番組の始まりだったのです。
.
.
この月光仮面のオートバイは、アメリカ製のハーレー・ダビッドソンの「ナナハン(排気量700ccの大型オートバイ)」にまたがっていたのではありませんでした。高校生から譲り受けた、ホンダ製の小型バイクのモンキーには、自分は乗ったのですが、「メグロ」は憧れのバイクだったわけです。まだ五十年代んは、まだオートバイ産業が盛んになる前でしたが、でも、そのオートバイブームに火をつけたもので、その走りになった車種だったかも知れません。
『いつか乗ってみたい!』と、同時の男の子は夢を描いていたわけです。今、この街の駅から来る道を、時々、爆音をけたたましく上げながら、走っている若者がいます。令和の代にも、いるのですから、このマフラーを改造したバイクの音は、窮屈な社会から枷(かせ)への若者の反発の思いを代弁している声かも知れません。
「来た道」を思い返すと、反発心旺盛の頃に、さまざまな不協和音をあげて、大人のみなさんにご迷惑をかけていた自分を思い返して、今も苦笑いしてしまいます。「来た道」と、ちっとも変わらない、この若者の行動を容認している私なのです。
それにしても、月光仮面の登場シーンを見て気付いたのは、『オートバイを乗り回すんだ!』と強く思い始めた、そのキッカケになったのが、あの場面だったのです。あの時代の十代の自分に、強烈な憧れを抱かせテレビ番組だったわけです。
月光仮面の仮面の下の顔は、誰も見ていないので、『♬ どこの誰かは知らないけれど・・・』、『なぞの人!」と、主題歌が歌い出されたのです。この月光仮面を大瀬康一という俳優が演じたのですが、あのアメリカのテレビ番組の「スーパーマン」の日本版で、空は飛ばないのですが、オートバイをスピードを上げながら疾走する姿は、圧巻でした。仮面姿、変身が特徴で、その後のTV番組のモデルだったのです。
そういえば、モーターの付いたものに、初めて乗ったのは、弟が友だちのお母さんからもらってきたスクーターでした。今は公団住宅ができ、それが壊されてrenewalさていますが、その元だった畑道を、弟と乗り合った時だったでしょうか。また高校のグランドで、同じクラブの仲間が乗ってきたスクーターに、目を丸くしながら跨いだ日がありました。あの時々の頬をなぜた風の感触が、なんとも懐かしく思い出されてなりません。
(ウイキペディアの栃木県那須烏山の工場で製造されていた名車メグロのオートバイ、ホンダ製モンキーです)
.
聞くのは噂か預言のことばか
.
.
「35人ルール」、どんな事故でも、公表される死者数は、「35人」に決められて、公表されるのが、お隣の国の地方の都市で起こる事故や事件における死者数なのです。それ以上の数は、ほとんど例外なくありません。それは、周知の事実で、あちらにお住まいのみなさんは、実数を信用していません。どうしてかと言いますと、それ以上の人数になると、公に処罰対象になり、責任者は罷免させられたり、左遷、降格があるからなのだそうです。
それを避ける保身のために、『実数を公表しないのです!』との通例になっていると聞きました。長い間、あちらで生活した時には、地震があっても、交通事故や炭鉱に落盤事故があっても、その犠牲者は、35人に上限が決められて、報道されていました。公表されるのが、地方の都市で起こった事故や事件における死者数なわけです。
パニックが起きてしまうから、それを避けるのだとの言い訳もある様です。これって、日本でもありそうです。「事実」が公表されないのは、今に限ったことではありませんでした。報道規制がなされていた、戦時下に、『勝った、勝った、また勝った!』と、軍事作戦の成功を、煽り上げていたのです。
偽装と虚偽の報告がなされる社会は、事実の上に立たないので、不安が満ちて、落ち着きません。不信が社会に満ちるのです。今回の地方選挙の中で、驚かされたのは、県会、百条委員会の決定で、失職した兵庫県知事が、選挙で返り咲いたことに驚かされたのです。すっかり自分が騙されたので、誹謗中傷の矢面に立たされ前知事の悪行報道を鵜呑みにして、ニュース報道を疑わなかった私は、狐につままれた様でした。
テレビも新聞も、報道各社は、異口同音、同じ扱いでした。それを聞いて、自分も信じてしまったことは申し訳ないことと、反省させられています。事の真相が明らかになっていくのでしょうけど、言い訳をしなかった知事さんはすごいと思ったのです。
人を陥れようとする悪意が、こんな形で行われるのは、珍しくないことですが、これからは、こう言ったことが、さらに多く起きてくるのでしょうか。自分では、噂話には関心を持たない様に生きてきたつもりですが、落とし穴に嵌(はま)る危険性が、いつでもありそうで、怖い感じがしております。
武器や弾薬を使わない、「うわさ戦争」が、世の中にあります。正しく判断しないで、その四方八方から、あらゆるメディアを通してやってくる噂話に耳を傾けて、信じてしまわない様にしようと思う今です。
預言者エレミヤは、次の様に警告しています。
『そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。(新改訳聖書 エレミヤ51章46節)』
あふれるほどの噂話が起こった時代について、預言者エレミヤは、この書の中で、多くのことを預言していますが、その預言は、これから迎えようとしている時代に対する預言だとも思われます。「人々のうわさ」を聞くか、「預言者の声」に聞くか、私たちは、正しく聞くなら、祝福に預かれ、惑わされることがなく、救いに預かることができるのです。
『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33章3節)』
呼び求める、叫び求める私たちに、神さまは答え、告げてくださるのです。多くの偽預言者の声が聞こえてきますが、神さまが書き記す様に導かれた「聖書」、そこに書き記したことに耳を傾け、神さまが、派遣される、真実を語る「預言者」の語ることばを聞くことが肝要です。
(Christian clip arts の聖書記者ルカ、ウイキペディアの「法螺〈ホラ〉」を吹く人です)
.
出流の山麓の皇帝ダリアと紅葉
初冬の日の出です
開発か濫伐か

.
ニューヨークのマンハッタンにあるセントラル・パークは、市民や訪問観光のみなさんに、とても親しまれていて、緑豊かな巨大な公園なのだそうです。ニューヨーカーのみなさんは、このセントラル・パークの木を切って、ビルを建てようなんて、だれ一人言わないのだそうです。とても大事に管理されているのです。
ところが東京都は、大手の不動産会社の手で、樹木の切り倒しが行われています。ニューヨークと同じ様な巨大都市で、土地の価格は天文学的ですが、巨大なビルや住宅を作るのに、それを犠牲にしても、心が傷まないのかが不思議でなりません。
この東京は、明治以降、京都から遷都され、東京市と呼ばれる様になりました。それより以前、江戸にはなにもない関東平野の海岸に面した漁村に過ぎませんでした。太田道灌の築城したものに、手を加えて、徳川家康が江戸幕府の要を置いた街でした。漁民の住むの湿地を、大々的に整備して、世界中で、最も整備された街としたのです。
明治になって、さらに整備され、とくに関東大震災後、帝都復興院の総裁となったのが、盛岡藩出身の後藤新平で、街づくりに奔走します。内務大臣であった後藤新平が、都市計画家として、東京の街づくりに敏腕をふるい、力を注いだのです。
道幅の広い道路づくりや、街を整った形に変かえる区画整理に力を注ぎました。現在の「昭和通り」、「靖国通り」(当初は大正通りと呼ばれていました)、東京の環状線となる「明治通り」(今の環状5号線)などが敷かれ、街路樹などが植えられたのです。
自然を残しての近代都市であるべきなのに、〈都市開発のために!〉との肝入りで、美しい東京、神宮外苑の自然に手を入れ、樹木を伐採するのに、反対の声が上がっているのに、計画を強行する、その思いが分かりません。《もったいない》のは、土地を遊ばせておくことではなく、土地を荒らすことにあるのに、そう思わないのでしょうか。
市街地の北に、総合運動公園と言う緑の溢れた一廓が、自分の住む街にあって、そこまでの散歩が、主な自分のコースになっています。鳥の囀りが聞こえ、春が近くなると、木々に蕾が膨らんできて、花が咲き、夏には鬱蒼と緑が濃く茂り、秋には紅葉し、冬には冬籠りしていきます。この自然のサイクルがあって、とても楽しむことができ、何よりも、その中ほどにある東屋やベンチに座ると、ホッとさせられるのです。
ときどき学校帰りに、新宿御苑に行きましたが、あの繁華な新宿に、静まり返った公園が残されているのは、実に素晴らしいことでした。その続きの神宮外苑も、そのままに残したいものです。自然との距離が大きくなるにつれて、人の心が荒廃していくのです。それは横にだけではなく、高層階に住むほどに縦の距離が地表から遠のくにつれて、同じ様に、心が荒(すさ)んでいくのです。
枯れ葉が落ちて、散っていく様に、一人の少女の命が削られていく、「最後の一葉」の物語を、家内が高校の演劇部で、主人公になって演じたのだそうです。画家のMr.ベアマンが、窓にでしょうか、一葉を描き、それを見た少女が、死期を伸ばして行くのだそうです。そんな話を聞きました。神宮外苑にも、ぜひとも残しておきたいものです。
(ウイキペディアの神宮外苑、NYのセントラル・パーク、運動公園です)
.
秋深し、冬?
23歳の時の一つの質問に
『主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(新改訳聖書 詩篇147篇3節)』
ニューヨークの小学校の教師をしていた高校時代の級友に依頼されて、課外授業で話をした、ベトナム戦争の帰還兵で、23歳のアフリカ系の青年、アレン・ネルソンに、一人の女子が質問をしました。『Mr.Nelson、あなたは人を殺しましたか?』とです。瞬間、小学校4年生の質問を聞いて凍りついた様に、固まってしまった彼は、しばらく声を出せないで沈黙が続きます。
アレンは、ニューヨークの貧民街で、未婚の母の子として誕生します。お決まりの貧困と非行が続き、海兵隊に入隊するまで、満腹の体験がないほどの貧しい中を育ち、高校も中退してしまいました。街をぶらついていた時、〈海兵隊員募集中!〉の広告が目に入り、それに捉えられた彼は、その事務所に駆け込んで応募するのです。難なく合格すると、『Heroになれる!』と勇んだのです。図書館貸し出しの一冊の本に、そうありました。
「戦場のヒーロー」になるには、恐ろしい階段を登り、人間として厳しく辛い、極限の旅に出ねばなりませんでした。兵士は慈善事業に従事する任務に就くのではなく、自分が「殺人兵器」にならなければならないのです。自尊心を捨て去り、恐怖心を捨て去ります。戦場で生きるには、敵を殺さねばならないからです。「共産主義に蹂躙されるベトナムの人々を解放し、自由と人権を回復して、この人たちを救う!』との名目で戦うように訓練されます。
アメリカ政府は、莫大な資金を、殺人兵器を作り上げるために投入したのです。生の人間を、獣に改造するのです。訓練を共に受ける戦友候補は、想像を絶する様な過酷な訓練を受け、それをやり遂げた達成感で、彼らは互いに連帯感を持ちます。歴史に刻まれる様な戦いに臨むことで、高揚感を感じるのです。
それこそ厳しい訓練を受けて、沖縄の訓練基地に移動します。そこで実戦さながらの銃撃訓練を受けるのです。戦場で生き延びることは、敵を掃討する以外にないわけで、スマホで戦争ゲームをするのは架空ですが、実戦体験は、常識など通用しないほどに過激であって、その詳細は記さない方が良い様です。
ついに、ヴェトナムのダナン基地に着きます。猛烈な暑さに襲われ、そこで目にしたのは、基地の脇にある冷凍施設に置かれた頑丈なプラスチックの袋でした。巨大な冷凍施設が、そこにあって、戦場で死んだ遺体が、冷凍処理されて、沖縄への帰りの航空機の便で送られようとしていたのです。
それは、黒色の、100余の遺体が収容されたコンテナでした。まさに戦場の真っ只中での英雄となろうとした多くの若者の悲しい姿の有り様を、これからという新兵たちは、戦場到着と同時に目撃したのです。戦地に送られた兵士たちと、戦いに倒れ運ばれようとしていた兵士が、その基地で行き合ったわけです。
激戦の最前線に移送され、英雄になることは、殺人者になることであって、自分は死なないために、密林を這いずり周り、塹壕(ざんごう)を掘って身を隠し、名の知れない虫と小動物と戦いながら生き延び、ベトコンを殺さなければ、自分が死んでしまう戦場に、配備されたわけです。
この様に、自分と同世代のアメリカ兵が、熾烈な戦いの最中だったのです。ところが、平和で、ベトナム戦争の「戦争特需」で景気のいい日本で、自分は、のうのうと学生生活を送っていたのです。横田基地に運ばれてくる、戦死者の体を洗うアルバイトがありました。誘われたのですが、到底できませんでしたから、断ったのです。アメリカ兵もベトコンも自分も、まさに同世代でした。この戦争は、1964年8月に起こった、トンキン湾事件を発端として、アメリカ軍が全面的な軍事介入を開始して始まっています。しかしアメリカ軍は北ベトナム軍やベトコン(解放戦線)による、ゲリラ戦を相手に、泥沼状態で苦戦し続けます。
1973年3月に、最終的に和平協定を結んで、アメリカ軍がベトナムから撤退し、1975年4月30日に、北ベトナム軍が、サイゴン(現在のホーチミン)を陥落し終結したのです。
1965年に、アレンは18歳で入隊し、2年後の1967年に、死線を越えて生き延びて、ニューヨークに帰還します。除隊後、3年ほどホームレスをしていました。その頃、街中で教師の同級生のダイアンに出会い、頼まれてアフリカ系住民の居住区の小学校におもむき、その4年生の学級で、真実は語れず、きれい事で話をすませたのです。その小柄で利発そうな女子に、その様に聞かれたのです。
それを聞くと体がこわばり、長い沈黙の後、気がつくと、アレンは、つぶやく様に、しかしはっきりと、“yes.” と無垢なクラスの生徒たちの前で答えたのです。そう答えると、目を開けることができませんでした。すると、質問をした子が、歩み寄って彼の腰に手を回してきたではありませんか。そして優しく抱き締めて、涙をいっぱいにした目で見上げて、『かわいそうなMr.ネルソン!』と語りかけます。それに続いてクラスのみんなが、アレンの周りにやって来て、小さな手で抱いてくれたのです。
.

.
この経験を通して、アレンの心が弾けたそうです。ホームレスでいてはいけないことが分かり、これから何をすべきが示されたのです。もう一度、普通に生きて、戦争の真実を語ろうと決意したのが、1970年、23歳でした。それ以来、戦争体験のPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)、心的外傷後のストレス障害を越えて、同じ様に障害を持つ人たちのお世話もして来ておいでです。
旧日本軍の帰還軍人のPTSDの話を、先般、NHKの番組の放送で聞きました。それは、戦後生まれたご子息の、心の傷にも関連づけられるのです。でも、お父さんの戦争体験の事実を、お父さんの死後に知らされて、やっと理解でき、息子さんの心が癒されたのだそうです。またそれは、新たな出来事が、ウクライナやロシア、イスラエルやパレスチナ民の双方に起こり得る問題でもあります。
職業柄、これまで、多くのみなさんが、過去の出来事で、心の中に問題を抱えていることを知らされてきました。音楽療法、ロージャースやゲシュタルトのカウンセリングなどで、助けになった方も知っています。しかし、聖書では、その傷を癒す方がいると記します。いのちの付与者、保持者である神さまが、癒やされるのです。中学生で通学途中、座席に座って、虚(うつろ)な目で、『♬ 勝ってくるとぞと勇ましく、国を出・・・♫』と、小声で歌っていた、父の世代のおじさんの姿と声が、いまだに忘れられません。
冒頭に記しました聖書の箇所に、「心の打ち砕かれた者」の近くにいてくださるのが神さまなのです。「打ち砕かれる」とは、壊す、押しつぶし、破り、粉砕することです。そんな体験をした人の「近くにいて」くださるのです。「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ砕かれることはない」と、することがおできなのです。
ご自分の愛する人との別離、貯えや仕事や名誉や地位などを失った人の「そば」にも、同じ様にいてくださるのです。自分のすべてをかけて築いてきた対象を失ってしまった時の心の喪失感を感じ、心が破れてしまうような経験をしても、そんな状況下で、心の傷を「包む」ことが、神さまにはおできになるのです。
☆ アレン・ネルソン著「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」(講談社)
(Christian clip artsによるサマリヤ人の介抱、ウイキペディアのベトナムのダナン、ニューヨークのセントラルパークです)
.
流言蜚語
.
「群盲※象を評す」、目の不自由な人たちが、それぞれに初めて触った、「象」の体の感想を述べたことを、そう言います。この象の足を触った人は立派な「柱」のよう、尻尾に触れた人は「箒(ほうき)」のよう、尾の根本を持った人は「杖」のよう、腹を触った人は「太鼓」のよう、脇腹を触った人は「壁」のよう、背を触った人は背の高い「机」のよう、耳を触った人は「団扇(うちわ)のよう、頭を触った人は何か「大きなかたまり」、牙を触った人は何か「角」のようなもの、鼻を触ったひとは太い「綱(つな)のようなものと、一人づつまったく違った印象を語ったのです。
一人ひとりの象の様態は正しいのですが、象全体を言い当てていません。それに似た言い方があります。
「葦(よし)の髄(ずい)から天井をのぞく。」
これは、「江戸いろは歌留多」にある、「よ」のカルタにあります。河原に生えている葦(よし、あし)は細くて、水分を通す管は、さらに細いのです。そんな細い管で、天井を見たとしたら、見える範囲は限られていて、全体を見ることなどできません。それと同じで、狭い視野やわずかな知識で、大きな問題を判断したり、検討しても、全体を見ることはできません。象に触った人たちも同じだったのでしょう。
何か、「井の中の蛙、大海を知らず」、「下手の長談義」も同じ意味で言われているように思てなりません。
今年になって、家内に、スマホを次男が買ってくれました。それで家族や私との連絡用が、とても便利になってきたのです。もうどこに行くにも持ち歩く様になっています。時間や天気予報も知ることができ、こちらでできた友人たちと日常の連絡に、文書や画像や声で、イラストまで用いて交信しているのです。さらに辞書を使わずに調べ物もしています。
病んだからでしょうか、死に損なう経験を通ったからでしょうか、健康食材についての情報に敏感に反応しているのです。これも、素人判断が多そうです。例えばコーヒーはよくないと言う人がいれば、いやコーヒーは健康に好い、と言った風に、真逆な意見があります。聞く人は、右に左に揺さぶられて混乱してしまいます。
ところで、専門に学んだり、研究もしていないのに、思いつきや感想をや出所不明な情報を発信させる人が大勢います。そんな検証されていない情報が、スマホを介して入手できる時代をむかえています。しかも最近では、以前は図書館に行って、新聞や本からの知識を得て、『・・・だそうです!』と、得た情報を、家内が話してくれていましたが、今はスマホからの情報が多くなっている様で、ちっと心配で、『気をつけて!』と言っています。一部分は正しいのでしょうか、全体的にみて訝(いぶか)しいことが多そうです。
かくいう自分も同じで、よほど注意していないと、いわゆる〈ガセネタ/嘘か本当かわからないオサワガセ情報のことで、検証されていない情報も含まれているのでしょう〉や〈中傷誹謗ネタ〉に煩わされてしまっています。何度も言いますが、〈表現の自由〉を盾に、何でも言える時代になって、ある人の不確かだったり、中傷目的だったりの情報の蔓延に煩わされる機会が増えている昨今です。
『だれに聞くか?』、『どこから得るか?』が大切で、どうしても「取捨選択」をしなければ、情報の多さに煩わされてしまっています。江戸や京都や長崎の旅帰りの情報などは、行ったことなどない、それ以外の地に住む人には目新しく、『へー、そんなことがあるんですね!』と、嘘八百や、尾ひれ背びれをつけた話しを聞かされることがあったのでしょう。江戸の街には、「瓦版(かわらばん)」という情報のツールがあって、たまには号外が発行され、この頃起こった事件や出来事を報されたのでしょう。
「意地の悪い姑」のイジメ、社会のゴシップなどのゴミ情報に、うんざりの今日日ほど、「事実」、「真理」などが渇望されている時代はないのではないでしょうか。どんな情報も、一度、”filter “ に通される必要がありそうです。世の中を混乱させ、扇動するような情報は、十二分に注意しなければなりません。
『「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。(新改訳聖書 マルコ13章4〜7節)』
「戦争のうわさ(KJ聖書は”rumours”」が、飛び交っているこの頃、聖書は、『あわててはいけません。』と言っています。私たちが承知しておくべきことは、『それは必ず起こることです。』という、主イエスさまのことばです。『民族は民族に、国は国に敵対し(同8節)」て、戦争が引き起こされます。ウクライナにロシアが攻め入り、北朝鮮はこの戦争に派兵をし、パレスチナではイスラエルとハマス、イランとが戦争状態になっています。
ミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮は、いつかどこかの国に実際に弾道弾を打ち込まないとも限りません。中国による台湾侵攻もあり得ますし、ロシアの日本への攻撃だってありそうです。そればかりではありません、「キリストの再臨」や、「世の終わりの兆候」などの関しての偽情報があります。『私こそキリストだ!』、『キリストは浜松に再臨される!』、『キリストは、20◯◯年◯月においでになられる!』と言う人が出てくると、聖書は警告しているのです(ルカ11章7~8節参照)。実際、そう言う人が、以前から輩出していて、これからもありえます。
「流言蜚語(りゅうげんひご)」、世間に飛び交う根拠のないうわさ話が、さらに溢れかえる時がきています。それらに踊らされずに、日常の義務を、堅実に果たすことが必要です。惑わされないで、しっかり目と耳を、正しい信頼できる情報に向けていきたいものです。
また、大きな地震が頻発しているのも、気象異常も、とくに最近の状況は、聞き的ですが、それらも、この時代の緊迫感を言い当てています。イスラエルの周辺に起こる出来事は、「日時計」だと言われています。これからの日、世界に起こる出来事の中で、イスラエルの周辺に起こる動きから目が離せません。時を知らせているのかも知れません。
※ 言い伝えであって差別のために引用していません!
(ウイキペディアの像に触れる人々、警視庁のデマへの警告ビラです)
.