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 高校3年の頃だったでしょうか、母が、一年近く入院し、やっと退院して、家に戻ってきた頃だったと思います。『お母さんの青春の頃の歌って、どんな歌があるの?』と、私が聞きましたら、この歌だと答えてくれ、『♫ 諦めましょうと、別れて・・・🎶』と歌い始めてくれ、歌詞を書いて、教えてくれました。まだフォークソングとか、歌声喫茶などなかった時代です。

 後にも先にも、少女期に出会って、信じた「イエスさま」一辺倒で、歌謡曲とか演歌といった歌など、歌うのを聞いたことがなかった母でした。初恋の頃を思い出し、憧れた人とは一緒になれなかった母が、流行歌に耳を傾け、自分の想いを代弁してくれる様に感じたので、思い入れの強い歌だったのでしょう。

 大正6年(1917年)生まれの母でしたから、この歌が流れ始めたときは、「華の十八」だったことになります。瀬戸内海の江田島にあった海軍兵学校に行っていた人が好きだったのだそうです。母のアルバムの中に、その人の写真を納められていた、その人の凛々しい軍服姿の古写真を見せてくれました。

 1935年(昭和10年)に、作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、唄が児玉好雄で、「無常の夢」は、次の様な歌詞です。

1 あきらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょうか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身を灼く 恋ごころ

2 喜び去りて 残るは涙
何で生きよう 生きらりょうか
身も世も捨てた 恋じゃもの
花にそむいて 男泣き

 その人とは一緒になれなかったのですが、東京弁で話す、キリリとした父と、出雲だか松江だかで出会って、結婚をしたのです。父の子を四人産んで育て上げてくれました。たまの一日、父や子どもたちを送り出すと、電車に乗って、その母が、息抜きでしょうか、新宿までブラリと出かけ、デパート巡りをして、どこかで昼食を摂って、夕食のための買い物をしては、帰宅していたようです。

 十四でクリスチャンになり、その信仰を守り通しました。兄たちや弟にケーキにローソクを灯して、2012年3月31日、95回目の誕生日をお祝いしたのです。その日の晩、母は天に帰って行きました。私は、中国の地におりましたので、同席できず、4月5日に行われた「告別式」に、家内と帰国して、出席しました。

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 出雲、松江、京都、京城、やまがた、山梨、東京と父にしたがって、共に生活し、早世した父と別れて、四十二年間、次兄の家族とともに過ごした母でした。義姉がよく母の面倒をみてくれたのです。

 明治の終わりに生まれた父との別れは、涙を流したので、母の死の報を耳にした時にも、「告別式」にも、こちらに戻ってきても、泣くと、自分は思ったのですが、なぜか泣きませんでした。海外にいた二人の娘は、おばあちゃんの死で、彼女たちの父親が、きっと大変に違いないと、告別式に参列するためと、私を心配して帰国していたのです。

 ところが、悲しんだり、動揺していない父親の私を見て、意外な顔をし続けていました。母の死は、予測できたこともあり、行き先が分かっていたので、泣きませんでした。母の「無情の夢」も意外でしたが、母も恋する乙女であったことを知らされて、なんとなく安心したのを思い出すのです。『さようなら』ではなく、母への想いは、” See you agein “でした。

 母がいなかったら、育たなかったのでしょうけど、この年まだ、自分が生きながらえていて、母を思い出しますと、感謝の想いばかりです。ただ一度だけ、通院中の小さな母を背負ったことがありました。病む母のその小ささは、とても悲しかったのですが、母をおんぶできたのは、今になりますと、懐かしい思い出ばかりであります。

(ウイキペディアの「母親」、「京の鴨川」です)

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