「にも関わらず」笑う!

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 『「にも関わらず」笑う!』と言うことを、40年も前に、JR四ツ谷駅の近くにある上智大学で開講されていた、「死生学」のアルフォンス・デーケン教授の「生と死を考える会」の講座で聴きました。開講間もない時期に、特急電車に乗って、毎週通って受講したことがあったのです。

 都会の刺激を求めてではなく、知的な啓発が欲しくてでした。どなたかの死に直面した場合の助言ができたらと願って学ぼうとしてです。この哲学者は、だれも避けようとし、taboo の「死」について、講義できる数少ない器だったのです。ご自分は、ナチス政権下のドイツで成長されて、少年期の辛い経験や素敵な大人との出会いなどで教えられたのが、上記のことばでした。その ”humor“ について、こんなことを話されていました。

 『死とユーモアは、とても深い関係があります。不思議に思われるかもしれませんが、生きることと死ぬことが表裏一体の関係であるように、私たちが人間らしく、より良く生きていくためにはユーモアは不可欠です。(中略)外国のホスピスへ行くと、多くの日本人はびっくりします。それは、どこも共通して、末期患者のケアにあたる人たちが実に明るく、ユーモアに満ちているからです。ホスピスで交わされる会話もまた、快い笑いに満ちています。お互いに今、ここで出会っている時間を、精一杯楽しもうという気持ちから、自然に出てくる喜びと感謝が、ユーモアのある楽しい雰囲気を生むのでしょう。』とおっしゃっていました。

 哲学の理論でではなく、ご自分が、生きる上で、どんなことが起こったとしても、笑って生きてこられた方なのです。受講中に、ガンになられたことをご自分がおっしゃっておられ、それを人生に起こりうる出来事の一つとして受け入れている姿が印象的でした。その後も、長く公演活動などを続けておいででした。

 だれもが迎える「死」について、生きていく術を学ぶよりも、もっともっと大切なテーマを学ぶ機会が与えられたのは感謝で、歳を重ねて、健康が損なわれて、病んだりすることも多くなってきている今、40年も前の学びに感謝しているのです。

 当時は、「第三者の死」を考えての受講でしたが、40年ほど経った今は、もう自分や配偶者や兄弟たちの「死」を考えねばならない時を迎えているのです。家内とよく話すのですが、『何歳になっても元気で、魅力いっぱいに生きてたら、若い人に申し訳ないから、歳なりに老けたり、衰えたり、転んだりしたほうがいいよね!』の今なのです。父の死、母の死、弟の夫人の死、義父母の死、恩師たちの死、甥の死などを経て、悲嘆にくれる自分が、その悲しみを超えて、どう生き続けるかについて、講義の中で、「悲嘆のプロセス」の学びもありました。

  1. 精神的打撃と麻痺状態
  2. 否認(相手が亡くなったことを認めたくない)
  3. パニック
  4. 怒りと不当感(なぜ、私だけがこんな不幸に見舞われたのか? 等)
  5. 敵意とうらみ(なぜ、夫は私を見捨てて自殺したのか?等)
  6. 罪意識
  7. 空想形成・幻想
  8. 孤独感と抑うつ
  9. 精神的混乱とアパシー(無関心)
  10. あきらめ―受容
  11. 新しい希望―ユーモアと笑いの再発見
  12. 立ち直りの段階―新しいアイデンティティの誕生

 最近、アランドロンやアンジェリーナや神田正輝の近影を見ました。『敵わないな!』と思っていた美男子たちが、また遠い存在だった美女が、それなりに〈老けゆく秋の夜〉を迎えているのを見て、人生は短く、美貌も束の間だと言うことが、また再確認でき、命の付与者からいただける《永生の望み》を持って、死ぬまで生きることを決心した、この年末です。あのデーケン教授は、みんなに親しく「デーケンさん」と呼ばれていました。

(ウイキペディアによる、デーケンさんの生まれた「オルデンブルグ」の国立劇場です)

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baseball player

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 世界には、現実と虚構があって、その境界線が、何かあやふやになってしまっているのが、現代ではないでしょうか。現実の世界が、あまりにも悲惨で、苦悩に満ち、絶望しているので、想像の世界、嘘の世界を作り上げて、代わりをさせようとしているのかも知れません。

 舞台に立ったり、スクリーンに映し出される役者は、自分ではない、誰か他者を演じます。たとえば歴史上の人物、小説などの主人公を、書かれた脚本に従って演じているのです。それは虚構の世界です。過去に実在した人物、または空想上の人を演じて、観衆は、それを目の前に見ます。著述や脚本で思い描いた人が、役者に演じられると、史実とは違ったimage に変えられてしまうわけです。

 ところがスポーツの世界は、現実の世界であって、たゆまぬ練習や訓練によって、技術を高め、精神を強固にして結果を出します。多くのスポーツ選手を見てきて、自らを確かめようとして、励んで、だれもが認める選手になったのが、大谷翔平です。高校入学時に、「目標達成シート」を、花巻東高校に佐々木監督に指導で、作り上げています。

 その目標の達成のために、地道で不断の努力と研鑽を積んで、プロの世界で、一級の選手になろうとしたのです。貧しかった野球少年が、父親や母親に、家を建てたり車を買って上げたくて、名手となった方のお話も聞いてきましたが、大谷翔平は、お金のためでも名誉のためでもなく、単純に野球選手として、掲げたゴールに向かって生きてきたのです。

 挫折や不振や怪我にも腐らず、賞や誉を得ても驕らないで、謙虚に野球一筋に、stoic に生きる姿勢に、誰もが驚かされています。そして、29才で、名実ともに、超一級のbaseball prayer になったのです。世界中の注目の的となって、映像に映る姿は、野球少年そのものです。なんのperformance をすることもなく、Star のような表情も見せません。

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untitled

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 何度か、脚光を浴びる表舞台に立ったことがあった自分ですが、spot light footlightsを浴び、自分だけが注目される場に立つと、舞い上がるような気分にさせられたのです。何か大きな存在でもあるかのような錯覚に見舞われた私でした。映画でも、歌でも、スポーツでも、政治の世界でも、教育界でも、どの世界でも脚光を浴びるstarの誘惑を感じて、舞い上がってしまいますと、その舞台を降りても、あの感覚が忘れられない、といった star たちの述懐を聞いたことがありました。

 そのような立場に立っても、偉そうにしないのが、彼なのでしょう。野球への真摯な姿は、人生を生きる大谷翔平の姿勢なのでしょう。そういった心の資質も培ったことに驚かされるのです。野球人生も、人生全体にわたっても、悔いなく活躍していくに違いありません。野球人としてだけでなく、一人の人として生きて欲しいと願っています。

 暗く騒然とした世の中で、燦然と輝くキラ星のように、躍動しているShouheiOotaniの姿は、まさに現実、この現実に押し潰されずに、これからを生きていくことでしょう。この人の《態度》、《生きる姿勢》の良さに、驚かされ続けております。来季の活躍を願っています。

(写真は、ウイキペディアによる「Dodgersのチームロゴ」、生まれ育った地の「JR水沢駅」の風鈴です)

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三国街道の難所を

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 『十年に一度の大雪!」との気象情報を聞いた通りに、この週、日本海側の街々が、大雪に見舞われています。それは毎年毎年、繰り返されたことであって、大陸から吹いてくる雪の冬将軍が、列島の背骨の山並みを隔てて、気象の驚くほどの違いを繰り返してきました。

 日本海側は猛吹雪、太平洋側はカラカラの晴天の違いを、今年も見せています。北と南を反対にした地図を見せていただいたことがありました。そして大陸中国で過ごしていた時に、世界地図を大陸の方から眺めた時に、まったく違った感覚を感じて、とても驚かされたこともありました。

 新潟から東京には、三国峠を越えて来なければならなかった時代、雪の積もった峠を越えるというのは、大変難儀なことであったのです。三国街道沿いのかつての宿場町の須川宿(現在のみなかみ町)に、出かけたことがありました。

 その須川は、三国街道の宿場町で、難所であった三国峠を控えていて、多くの旅人や商人などが利用した宿場だったそうです。冬季は、上州からは覚悟して登っていき、越後からはホッとして投宿したのです。米所の越後の米が、この宿場で吟味されて、売買され、江戸の大都市に運ばれて行ったと言われています。

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 それを考えますと、高速道路や新幹線の開通は、どれほど新潟県人には助けとなったことでしょうか。越後人で、政界に進出し、総理大臣を務めた田中角栄は、ダイナマイトで、三国峠を吹き飛ばしたかったのだそうです(「三国峠演説」でそう語ったようです)。そうすれば、大陸からの雪を運ぶ季節風は、太平洋側に抜けて、越後に雪が降らなくなるからなのです。

 そんな風に、越後人の本音を語ったようです。忍耐強い頑張り屋の県民資質は、そういった厳しい自然環境の中で培われたのです。最初の職場に、新潟県の出身の方がおいででした。高等学校の校長をなさった方で、退職後、息子さんのおいでの東京に住まわれ、嘱託で働かれていて、実に穏健な方でした。昼休みになると、バトミントンを一緒に楽しんだのです。

 大雪のニュースに、思い出すのは新潟で、大きな壁のような三国峠の向こうの越後国です。雪が溶けて流れる冷たい水に育てられた、寒さに強い「こしひかり」のお米を産んだのです。若い日に出会った越後人の元校長は、「い」と「え」の使い方が越後訛りだったのを思い出します。もうすぐ年明けですね。

(ウイキペディアによる「三国峠」、「永井宿」です)

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今や異邦人ではなく

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 不思議なリズムの音楽が聞こえ、歌が聴こえて来たのが、1979年でした。久保田早紀の作詞、作曲、歌唱の「異邦人〜シルクロードのテーマ」だったのです。

子供たちが空に向かい両手をひろげ
鳥や雲や夢までも つかもうとしている
その姿は きのうまでの何も知らない私
あなたに この指が届くと信じていた
空と大地が ふれ合う彼方
過去からの旅人を 呼んでいる道
あなたにとって私 ただの通りすがり
ちょっとふり向いてみただけの 異邦人

市場へ行く人の波に 身体を預け
石だたみの街角を ゆらゆらとさまよう
祈りの声 ひづめの音 歌うようなざわめき
私を置きざりに 過ぎてゆく白い朝
時間旅行が心の傷を
なぜかしら埋めてゆく 不思議な道
サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き
あとは哀しみをもて余す 異邦人
あとは哀しみをもて余す 異邦人

 まるで、聴いていますと、シルクロードを自分が歩いているように感じたのです。この久保田早紀は、JR中央線にある八王子に住んでおられて、通学途上の車窓から沿線の風景を眺めるていると、空き地で遊んでいる子どもたちの様子が目に入ったそうです。その子どもたちが、空を見上げ、両手を広げて、まるで鳥や雲、そして夢までもつかもうとしている様に、思いが広がって来たそうです。それが作曲の発想の原点でした。

 曲想は、お父さまが、よくイランに仕事で出かけていて、帰りに、現地の音楽のカセットテープを買ってこられ、それを聞いていたそうです。またポルトガルの「ファド」の楽曲に似ているのだそうです。大ヒットした歌でした。ところが彼女は、5年ほどの歌手生活をして、突如として引退してしまったのです。

 クリスチャンになられて、聖書学校にも行かれたそうです。そこで出会った姉妹と、ここ栃木に参りましてから、私たちが出会って、数年前に、その方の家に、久米小百合さん(本名)が来られて、交わりがありました。リクエストに応じて、この「異邦人」を聞かせていただいたことがあったのです。プロの歌を生で聴いたのは初めてでした。

 極東の「市場」の様子は、映画の画面で観たことがありましたが、この歌も、“oriental” な雰囲気があって、雑踏の音が聞こえてきそうでした。聖書を読みますと、私も、「異邦人」なのです。

 『曩(さき)にはキリストなく、イスラエルの民籍に遠く、約束に屬する諸般の契約に與りなく、世に在りて希望なく、神なき者なりき。(大正訳聖書エペソ212節)』

 それなのに、今や、神さまの約束に預かることができ、キリストのゆえに、神の子の身分をいただき、国籍を天に置くことを許されたのです。今や、異邦人ではなくなったのです。よく歌った聖歌に、『・・・やがて天にて 喜び歌わん 君にまみえて 勝ち歌歌わん』との歌詞が、唇にのぼってまいります。

(ウイキペディアの「市場」の画像です)

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この違いに

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 この暮れに、たずねてくれた孫娘と2週間ほど一緒に生活して来まして、17才になる彼女と、80才前後の私たちジジババとのすれ違いを感じながら、こんな比較のリストを思い出したのです。

・道路を暴走するのが18歳。道路を逆走するのが81歳。

・恋に溺れるのが18歳。風呂で溺れるのが81歳。

・自分探しするのが18歳。みんなが探すのが81歳。

・恋で胸を詰まらせる18歳。餅で喉を詰まらせる81歳。

・心がもろいのが18歳。骨がもろいのが81歳。

・まだ何も知らないのが18歳。もう何も覚えていないのが81歳。

・筋肉が張るのが18歳。筋肉に貼るのが81歳。

・緊張で震えるのが18歳。何も無いのに震えるのが81歳。

・偏差値が気になるのが18歳。検査値が気になるのが81歳。

・衣装も化粧も薄いのが18歳。面(つら)まで厚いのが81歳。

・金も時間もない18歳。金も時間も使えない81歳。

・行く先が見えないのが18歳。逝く先が見えるのが81歳。

・胸がドキドキときめくのが18歳。胸がドキドキ心配なのが81歳。

・聞く気がないのが18歳。聞こえないのが81歳。

・乾杯で始まるのが18歳。黙祷で始まるのが81歳。

 この15の比較は、言い得て、まさに実感の私たちでして、身につまされるよりも、吹き出してしまいます。明日が誕生日の孫娘です。

(”© 2023 StockSnap.“からの「若葉」と「枯葉」です)

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年の瀬に

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 料理担当になってはや5年、47年間、家のことをしてくれた家内に代わって、掃除、洗濯、買い出しからゴミ捨てなどを担当して、もう苦にならずにこなせるかな、と言ったところです。最近では、昼食の用意や、惣菜作り、茶碗洗いもしてくれるようになってきています。

 そんな中に、先日も、二人のご婦人が訪ねてくれましたので、交わりの時が与えられ、夕食をともにすることができ、素敵な交わりの時を過ごすことができたのです。おひとりは、家内の生まれただけの大阪の隣街の出身なのだそうでした。

 美味しいケーキを持参してくれました。またわが家の隣街に住んで、もう知り合って4年ほどになる、私たちの子どもた世代のご婦人なのです。庭になっていると、時々いただくきとがあり、熟し柿や富有柿、旅行帰りのお土産などをいただき、今回もキウイフルーツ、そして小カブなどを差し入れしてくださったのです。

 大阪人の若いご婦人は、牧師さんのお嬢さまで、屈託のない笑顔で、中学一年生で信仰告白をされそうで、隣街の方は、がんを病んだみなさんの交わりサポートの奉仕をされておいでで、家内が、宇都宮で出会ってからの交わりなのです。

 国際関係の世界的な団体のお仕事をされていて、重積を担っておいでなのに、そう言ったものを感じさせないご婦人でした。その日の朝に作った「けんちん汁」で、夕食をご一緒したのです。励まそうとされたのでしょうか。二杯目のお代わりをお勧めしましたら、『はい!』と言われ、喜んで飲んでくださったのです。夕食を共にできたのは、感謝なことでした。

 話が弾みすぎたのか、いただいたケーキを、そのままおだししないまま、お帰りになられて、二人では持て余してしまいました。それで近所の同世代のご夫婦に、お裾分けしてしまいました。千客万来、思いもしなかった街に住んで、満5年になる今、近所の方も、遠客もあって、人の往来のあるこの頃です。

 娘と孫娘も週末には帰って行きます。今朝のニュースで、『十年に一度の寒波襲来!』と報じていました。早いもので、もう2週間ほどで、新しい年がやってきます。どんな年になるのでしょうか。次世代の孫たちの胸にある夢や幻が、その通りになっていくように願っております。どんな困難でさえも超えていけるようにと願う、《応援》の年の瀬です。

(ウイキペディアの「けんちん汁」です)

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ニセコへの誘い

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Yotei, Niseko Hokkaido Japan

 

 北海道に、「ニセコ」という街があります。珍しくカタカナで地名表記をするのですが、北海道原住のアイヌの呼ぶ山の名の「ニセコアンヌプリ(ニセコアンベツ川の〈源の〉山という意味だそうです)」から取られていて、以前は、「真狩村(マッカリ(ペッ)プトゥ(makkari-pet-putu)真狩〔川〕・の川口)」と呼ばれており、それに漢字を当てて「真狩別太(まっかりべつぶと)/狩太」」だった町名を変更したのです。

 スキーの愛好者にとっては、世界三大スキー場の一つに入れられていて、名高いスキーのメッカなのです。私はスキーは、多摩川の土手で、弟の板を使って斜面を降りたり登ったり転んだりして滑っただけで、季節はまだ秋の特設の3、4mほどのスキー場に行っただけです。同級生に、冬季オリンピック銀メダリストの猪谷千春の甥っ子がいて、まさに、skiing boy 然とした男でした。

 札幌の整形外科医院に入院していた2017年の春に、このニセコから来ておいでの方がおいでだったのです。ご家族が差し入れされると、よく和菓子などを分けてくださった方でした。この同病の人が、『親戚に頼んで上げますから、土地を世話するのでニセコに住んだらいいですよ!』と、気に入られて言われたことがありました。 

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 また、札幌の南に「伊達市」があって、道内で最も気候の温暖な街なのだそうで、『実に住みやすいので、そこに越して来たらいいです!』と誘われたこともあります。寒さが苦手ですから、この伊達市はいいなと思ったのです。でも車がなければ、交通の弁がよくなく、寄る年波で、病気がちになったら、なおのこと通院などが大変かなと思って、諦めました。

 何せ、二十数回の引越し歴の「引越し魔」の私は、もう、ここ栃木に5年も住み続けていて、お尻が浮き加減の今、なんとなく漂白の思いに誘われた芭蕉のような心持ちなのです。巴波川の流れに、発泡スチロール製の小舟を浮かべて、渡瀬川 利根川、江戸川と降ってみたい思いが、なかなか消えないのです。この歳の冒険心、いえ漂浪癖というのは、どうにもなりません。

 ある日いなくなった私を探したら、隅田川岸に漂着していたりしたら、家内を驚かせてしまいそうです。先日、弟が《もう10年》と、メールに書き送ってきました。いのちの付与者に、生かしてもらえるであろう残りの年月です。精一杯、生きていくとの決意を表明し、何が起こっても、今を感謝して生きようとに呼びかけでした。

(“ウイキペディア” による「ニセコと羊蹄山」と「伊達市」です)

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[街]壱岐

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Aerial view of Tatsunoshima, Iki Island, Nagasaki, Kysuhu, Japan

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 最初の職場の直属の上司は、長崎県の島嶼部の「壱岐(島)」の出身でした。浦和高校を経て東大に学んだ方で、父より若い方でした。とても賢い方で、お酒が好きで、よく連れ歩かれたのです。

 自分の生活圏からは、ずいぶんと遠い「壱岐」が、どんな島だったのか、中国大陸、朝鮮半島との船の航路の中継地であったわけです。「魏志倭人伝」や「日本書紀」にも登場する島で、有史以前の弥生時代から、海上交通の要衝であったのです。

 そう言った歴史的な背景から、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」世の名称で、平成27年に「日本遺産」とされています。「壱岐市」は、弥生時代から長年にわたって海上交通の要衝となった歴史があります。この歴史的特徴から、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」として平成27年に日本遺産に認定されました。

 特に、「原の辻遺跡」は、国内最大級の「環濠集落(かんごう/防衛上周囲を堀で巡らせた集落)」と呼ばれ、弥生時代にあった集落としては、国内3ヶ所目となる特別史跡なのです。これも大陸中国に真似たものだと言われているそうです。

 ここは、気候的には、暖流の対馬海流が流れて、温暖な気候をもたらしているのです。暖流の影響で、日本海側の一帯には、水蒸気が多く発生し、冬場に降った雪が溶けて流れ下り、米作農業のためには好条件で、日本海側の田圃で収穫されるお米は美味しいのです。壱岐にも、けっこう広い平野があって、農業も盛んに行われ続けてきています。

 新鮮なウニ・サザエやマグロ・ブリなどの海の幸に恵まれていて、水産業が伝統的に盛んに行われています。そして米の他には、いちご・アスパラガス・葉たばこ・肉用牛などの豊かな農産物も生産されていて、漁業と農業が大変盛んな島、市なのです。

 『魏志倭人伝』には、現在用いられている漢字ではなく、「一支国(いきのくに)」、「伊伎島」と記されていました。この国の主都の遺跡なのです。時期的には、紀元前23世紀から紀元34世紀(弥生時代~古墳時代初め)にかけて作られ、住まれていた集落で、東西、南北ともに約1km四方にも及んでいたのです。

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 世界制覇を目論んでいた「元(蒙古族の国)」が、鎌倉時代に、大艦隊を率いて日本に攻めてきた時に、対馬(つしま)と共に、初期に攻撃されたのが、この壱岐だったようです。その戦いを、「元寇(げんこう)」と言って、弘安の役、文永の役で二度攻められた経緯がありましたが、けっきょく台風の影響でしょうか、船団は大被害を被って、撤退してしまったと伝えられています。

 この壱岐市の市歌があります。

春一番(はるいちばん)に さそわれて

花咲(はなさ)き海(うみ)の 碧(あお)が増(ま)す

いとなみ刻(きざ)む 手(て)をつなぎ

明(あか)るい希望(のぞみ) 奏(かな)でよう

はばたく壱岐(いき)の 空映(そらは)ゆる

はばたく壱岐(いき)の 空映(そらは)ゆる

 

海(うみ)とみどりに 育(はぐく)まれ

ゆたかな恵(めぐ)み わかち合(あ)う

心(こころ)ひとつに ときめいて

新(あら)たな息吹(いぶき) 生(う)み出(だ)そう

きらめく壱岐(いき)の 島萌(しまも)ゆる

きらめく壱岐(いき)の 島萌(しまも)ゆる(3番省略)

 美しい自然と人情にあふれた歌詞で、壱岐市が紹介されています。こんな島で育った上司は、杉並の家の庭に咲くタイサンボクを手折って、春になると職場に持ってこられた人でした。老後を過ごすには住みよい街のように思うのですが、私の26回目の引っ越しができるでしょうか。終の住処にはならずとも、一度は旅をしてみたい思いに駆られております。

(ウイキペディアによる「壱岐」の島の一部、元寇で戦う「元軍」です)

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ため息ではなく感謝で

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 一昨日、shopping mall(ショッピングモール)に、訪問中の娘親子と、市の巡回バスに乗って出掛けたのです。歩き回るのが大変なほど大きく広い floor の店で、家内は車椅子を借りて、それを押したり乗ったりしたのでした。

 娘たちは一階の店にいて、家内と私は二階の店にエレベーターで上がったのです。買い回っていると、館内放送で、私の名前を呼んでいるではありませんか。小さな声のアナウンスでしたので、もしかしたら娘が呼んでいるのかと思って、一階の店に行ったのです。彼女は『呼んでないよ!』と言うではありませんか。

 何だろうと思って、ポケットとポシェットを調べると、物入れの財布がないのです。その中には、マイナンバーカード、クレジットカード、現金数万円が入っているので、大慌てしてしまいました。

 その一階の店の前で、買おうとした物の支払いを、娘に頼もうとして、ポケットに結んでいたフックを外して、財布を渡したと思っていたのです。ところが、手から落ちていたのに気付かないままでいたようです。

 よくニュースや YouTube  で、日本人が財布や持ち物を拾って届ける番組があります。ある時、外国人の観光客が、諦めていたのに、それでも、お父さんからもらった大事なものでだったので、警察に届け出たのです。『私の国ではあり得ない!』と驚いて、それを取り戻して、とても喜び驚いている番組がありました。小学生の女子が、『困っているだろう!』と思って届けたのだそうです。

 その番組の自分版に、年の暮れ、生き馬の目を抜くような人の多い雑踏のような大型店の中で、物入れをサーヴィスカウンターに届けてくださった方がいたのです。暗い午後を過ごさなければならなかったのに、感謝して、うどん店で、お昼をすることができたのです。

 勤勉さだけではなく、正直な日本人に驚いた、あの大森貝塚を発見したエドワード・モース(Edward Sylvester Morse)が、旅館に小銭を落としたのでも、試そうとしたのでもなく、部屋に残して、数日経って戻った時に、畳の上に置きっぱなしにしていたものが、そのまま残っていたそうです。あちこちと旅行し、騙されることの多かったモースが、日本人の道徳心に驚いたのです。貝塚発見以上に、日本人の正直さや明朗さを発信した、滞在記の「日本その日その日」の記事を読んだのを思い出したのです。

 シンガポールに旅行した時に、家内が具合悪くなって、救急車を要請して病院に搬送していただいたことがありました。上の娘が同乗してくれていたのです。診察と治療を受けて精算しようとしましたら、市立病院は、「請求額0」の医療経費を渡したのです。それには驚き、シンガポールへの感謝を覚えたことがありました。戻ってきた財布とは繋がらない出来事も、なぜか思い出したのです

 驚く体験が多くあっての今、世知辛く、物騒で、嘘や欺瞞が多く、人心が荒れているような日本の中で、こんな親切さと正直さに、捨てたものではない日本社会や日本人、そういった心情を育ててきた躾や教育に感謝をも、改めて感じたのです。今頃、ため息を吐き続けているのに、その届けていただいた物入れを持って、今日は、近くのスーパーに、感謝して買い物に出掛けました。

(“ Christian clip arts ” の「いなくなっていた一匹の羊」のイラストです)

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舞い落ちる枯葉

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君にはどうか思い出して欲しいんだ
ぼくらが恋人同士だった日のことを
あのころは毎日が美しく過ぎ
太陽の光も今より輝いていた

枯葉が風で吹きだまってたのを
ぼくは覚えているよ
枯葉が風に吹かれて舞ってた
思い出も そして後悔も

北風が吹きすさぶ
忘却の冷たい夜に
ぼくは忘れはしない
君の歌ったシャンソン

その歌は ぼくらを歌う
二人の愛の日々を
二人で暮らした日々
愛しあい 愛されあい

でもその愛を時が引き裂く
ゆるやかに 音もたてずに
砂浜についた足跡を
波が消してしまうように

 イヴ・モンタンが歌ったシャンソンの「枯葉」です。木枯らしが吹き、水が冷たく感じ、霜が降りて秋が深まり、冬になりましたが、この晩秋から冬の名物誌に、「落ち葉」があります。葉が枯れて落ちていくさまは、物悲しさを伝えてくれます。

 このアパートの玄関に、この枯葉が吹かれて入り込み、一塊になって、出入りの足に絡まって来ていました。しばらく寒さが続きましたが、この数日は暖かな日が続いていますが、また寒さがぶり返してくるようで、襟を立てて寒風の中に出て行くのでしょうか。

 『枯葉は地面に、裏を上にして落ちるのです!』とお聞きして、家内は、出先からの帰りに、紅葉の木の葉を確かめるように地面に落ちている枯葉を見ていたら、みごとに裏返って落ちていたのだそうです。すごい観察眼だなと感心してしまいました。

 その裏返った葉に水が溜まって、地の中で腐葉土に帰していくのです。それを吸収して木は成長し、枝を広げて葉をつけ、実のなる木でしたら、美味しい果実を実らせるのです。この自然のサイクルの不可思議さに、人に知恵を超えた、神の知恵と優しさが溢れています。

(イラストACによる「カエデの枯葉」です)

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