函館の人

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 菊地吉彌牧師の「ひとりの重さ」の中に、一人のカナダ人のことが記されてあります。菊地師の函館時代に出会って、恩師として仰いだ人が、ウイリアム・レニー師でした。この人について、函館市文化・スポーツ振興財団の機関誌の次のような記事があります。

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 函館名物に、『一に朝イカ、二に石川啄木、三にウイリアム・レニー!』と謳われ、函館の人をこよなく愛し、その持てる物すべてを与え、祈りの生涯をつらぬきとおしたカナダの恩人。1866年(慶応2年)1117日、カナダのトロントで父ウィリアムと母サラの三男として生まれる。

 レニー家は、カナダの開拓農家であった。開拓時代に、父や叔父の経営した農場は、最優秀経営農場として表彰を受け、父の創設した種子会社は、全カナダの農家に広く知られて繁昌した。裕福な家庭環境で幸せな少年時代を送ったレニー先生はやがて農学校に進み、卒業後は父の農場で農夫として働く。そのかたわらYMCAの活動に参加する。

 明治21年東洋を回ってきたYMCAの先輩が、日本は後進国であるから、文明の進んだ国の人たちが行って助けなければと言う話を聞き、これが機縁となって来日することになる。横浜に上陸すると、昼間はラシャ販売店に勤めたり、聖書を頒布する米国聖書協会の書記などをし、夜は日本語学校へ通い、日本語を学んだ。

 ある時、泥酔して千鳥足で歩き回わる日本人の姿を見て、日本に必要なものはヨーロッパの文明よりもっと大切な人間の魂を救う宗教ではないかと思い伝道者になる決心をする。

 明治23年、そのために必要な学問をすべく帰国する。高校からトロント大学へ進み、文学士の称号を取得し更にノックス大学(神学校)に学び神学を修める。

 明治39年、再び日本の土を踏む横浜に上陸してすぐに、函館の中学校で英語の教師を探しているのを聞き、日本のキリスト教主義の学校で働くよりは、普通の公立学校で働きたいと考えていたレニー先生は、早速函館に向った。庁立函館中学校(現・函館中部高校)、函館商業学校(現・函館商業高校)、函館工業学校(現・函館工業高校)、函館商船学校(昭和103月廃校)で英語教師として教壇に立った。

 住いは、元町の商業学校の近くに下宿したが、間もなく汐見町の金森森屋の貸家を借りる。その家は、函館の中心街であった十字街から坂を上ったところにあった。レニー先生は、乗物には一切乗らず、家を出て坂を下り十字街に出て、電車通りを時任町の函中まで駆け足で通勤した。

 山高帽に古洋服、ドタ靴が、トレードマークとなったが、汐見町に住んでいた頃は、タキシード、天火、冷蔵庫、鏡のついた洗面器、本箱、立派な額、ベッドなどを所有していた。

 生活費としては、英語教師として受ける各学校からの相当の収入があり、また父の遺産として年間3000円の送金を受けていた。しかし、それらのお金の大部分は、教会への献金、伝道者への補助、学生の援助、貧民への施し、伝道用の書籍やパンフレットの購入等に用い、自分の生活は極めて簡素であった。

 日中戦争が始まると憲兵や特高の目が光るようになり、毎年夏になると地方伝道に出掛けるのを、スパイ行動と誤解され、圧迫がきびしくなる。憲兵や特高ににらまれるだけではなく、これまで可愛いがり馴れ親しんできた近所の子供たちまで、外人なるが故に敵視するようになり、家のガラス窓は石で壊わされ、幾らも持ってない持ち物は、何もかも盗まれてしまうまでになった。

 昭和162月、この頃から宣教師の引き揚げが始まり、912日、レニー先生も目に涙をいっぱい浮べ「今の文明はだめです」の言葉を残して帰国の途についた。この時74歳であった。

その後の消息はしばらく不明だったが、教え子の元に届いたカナダ人牧師からの手紙で昭和26515日に84歳で死去したことが判明した。

昭和471026日、函館中部高校前の児童遊園地の一角に教え子らによって記念碑が建てられ、毎年、教え子が集まって亡き師の遺徳をしのぶ会を開いている。今年も515日記念碑の前で行われる。

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 母は、昭和初期に、近所の友だちに連れられて訪ねた、島根県下で伝道されたカナダ人宣教師家族との出会いを通して、万物の創造者が「父」でいらっしゃること、その御子である救い主イエスと出会って、信仰に導かれています。

 『全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよ。  信じてバプテスマを受くる者は救はるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。 「文語訳聖書 マルコ伝福音書161516節)』

 十字架の福音宣教に召された人たちの奉仕で、日本人は、神を知り、神の御子イエス・キリストを知るに至りました。レニー師は1864年に生まれていますので、1861年に生まれた内村鑑三と、ほぼ同世代人でした。精霊なる神さまは、人を召して、福音宣教に奉仕にお連れになられます。令和の時代も例外でありません。

(ウイキペディアによる五稜郭タワーから眺めた函館市街地と函館山、市花のツツジです)
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緊急事態を知らせてくれて

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 危険が迫っている時、「ことば」によって、それがどれほど危険が迫っているかを伝えるのは、道具や機器なしでできる、もっとも優れた伝達手段なのです。

 この正月2日、ラジオで、地震緊急放送がありました。津波が襲ってきて、すぐに高台への避難を促す、アナウンサーの声が、必死だったのです。まさに異常事態を伝える、ふだんラジオでは聞けない、声の高さ、命令的な言い方でした。

 聞いて、従う必要があったのは、能登半島地震で揺れた海岸付近においでのみなさんでした。『今すぐに、今すぐに!』を繰り返していました。『今すぐに逃げること!』、『高いところ、高台に避難すること!』、異常事態の緊急連絡としては、簡潔で的確でした。説明なしの伝達でした。

 逃げる必要のない、北関東の内陸、しかも四階にいて、大きく長く揺れる中で聴いた私の腰を浮かさせ、立ち上がらせるに十二分な迫りの声を聞いたのです。悠長に選び取りをする事態ではないとの公共放送の役割を感じた声だったわけです。

 「ことばの伝達」の力は大きいのを感じたのです。その「ことば」よりも早く、確実に緊急事態を告げるのは、「火」です。

 紀州有田郡湯浅廣村(現在の和歌山県有田郡広川町)の高台に住む村長の家の井戸の水が急に引いたのです。その異常で、津波の到来時の異常事態を理解した、村長が、海岸の近くに住む住民に、非難を呼びかけるために、村長宅の田んぼに、収穫して干してあった稲むらに火をつけたのです。

 1854年(安政元年)1223日午前10時に起こった「東海地震(全国で20003000人が亡くなっています)」での、村長の英断、決断、行動が、多くの村民を、津波から救った実話なのです。

 その火を見た、村民が、『村長の家が火事だ!』と言って、その消化活動のために高台に駆けつけたのです。それが緊急避難となって、津波での死を免れたそうです。これは、ラフカデオ・ハーン(小泉八雲)が書き残した「稲むらの火」と言う物語りとなって、小学校でも教材となって教えられたのです。

 鐘やサイレンを鳴らしたりして、そして、Media の媒体によって、緊急事態を告げる「ことば」の持つ力は、実に大きいのです。『逃げろ!』、『出ろ!』、『走れ!』、『来い!』、人に行動を起こさせるための伝達手段です。NHKのアナウンサーの一見、hysteric な声は、驚かせたのですが、ラジオの持つ役割の大きさ、広さを感じて、たいへん感謝でした。

(ウイキペディアによるShure Brothers社のマイクロフォンです)
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昭和、時と街と歌、そして私

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『イエス言ひ給ふ『なんぢらは下より出で、我は上より出づ、汝らは此の世より出で、我は此の世より出でず。 (文語訳聖書 ヨハネ伝8章23節)』

 「昭和」と言う響きは、戦争、敗戦、欠乏、地震災害などの暗い面ばかりではなく、豊かさ、躍進、新幹線、オリンピックなどのキラキラした時代で、この自分が生まれ、そういった時代の吸った空気そのものを思い起こさせてくれる時代でした。

 その時代に運ばれ、そのまま大人になって生き始めていった時代だったのです。もどかしく、不確かな時を重ねて、父を見上げ、兄たちに真似、映画スターに影響され、父のタバコを盗み吸いをし、盗酒の味も知り、興味津々で大人の世界に足を踏み入れ、戸惑ったり、危険を感じたり、刺激いっぱいでした。タバコの煙、酒のにおい、母になかった化粧の匂い、溢れるほどに罪の感じられる匂いが立ち込めていたでしょうか。

 そんな脇道をたどり、歩き回って、母の魂の故郷だったでしょうか、キリストと、キリストを信じる人たちの群れ、キリスト教会にたどり着いたのです。そこで佳人を得て結婚し、四人の子育てに懸命な時を過ごしました。そして老いを迎えたのは、平成であり、とっぷり浸かっているのは、令和の今なのです。時は流れ、人が行き交い、去っていき、またやって新たな出会いがあります。

 父も、母も、恩師たちも逝ってしまいました。「走馬灯」のように、顔出しでの思い出ばかり、表情やことばや、それぞれの時のニオイも思い出させてくれます。VideoでもCDromでもFace Time  ではないのです。紙芝居や幻灯で映し出されるかのような懐かしさイッパイの映像です。聞き覚えの歌の一節、『  ああだれにも故郷がある、ふるさとがあーる ♯』が口を突いて出て来ます。

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 19261225から198917日を、時代区分で「昭和」と呼びますが、再来年は、「昭和百年」を迎えるのだそうです。生まれた故郷があり、育った街があり、独立して子育てをした街、命をかけて移り住んだ街、たくさんの街を通り抜けた街の中で、「新宿」は、もっとも昭和の匂いを思い出させてくれる街なのです。南新宿に家を買って、子育てをしようと考えた父が、盛場の近くを避けたのは、父の大英断だったのです。

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 作詞が悠木圭子、作曲が鈴木淳で、八代亜紀が歌った「なみだ恋」に、次のような歌詞がありました。

夜の新宿 裏通り
肩を寄せあう 通り雨
誰を恨んで 濡れるのか
逢えばせつない 別れがつらい
しのび逢う恋 なみだ恋

 子どもの頃、電車に跳び乗れば、一本で行けた新宿でした。二十歳を過ぎた頃、この街の場末の裏通を、どこへ行くともあてなく歩いていたのです。それほど恋の危なげなど感じなかったのですし、そんなに入り込まないようにしていたと思っていました。いえそんな冷静ではなかったかも知れません。隣りには、札幌から出て来ていた同級の女ともだちがいました。肩を抱くようなことはなかったのですが、時には肩が触れながら、そぞろ歩いたのです。生意気盛り、大人ぶっても、中身は子どもでした。新宿の京王線の改札まで送って、指も触れないまま、卒業後、彼女は札幌に帰って行きました。

 あの頃を彷彿とさせてくれる新宿の街は、この歌が言っているようだったかも知れません。自分たちの場合は、そんなに切なくも、危なかしくもなかったのですが、昭和の立ち込めた街を歩いた時を思い返して、この歌が言ってるようなことがあり得たかな、と思い出すと、やはり危なっかしさに晒されていたのかも知れません。

 演歌全盛が昭和だったでしょうか。その時代の男たちが支持した、その頃を代表するような女性歌手が、その八代亜紀でした。昨年末に亡くなったと、ニュースが伝えていました。「昭和が行く」、まさにあの頃を切々として思い出されて参ります。これも「この世」の現実であり、わが青春の譜の一頁なのでしょう。

 だれもが定められた時と場所を、人は生きて、その走路を走り終えるのです。「此の世」で、どう生きたかを問われるお方がいると、聖書は、厳粛に言います。全てをご存知の神さまが、私の行いや思いを精査される時、「神のみ前で弁護(KJ訳は advocate )してくださる方(1ヨハネ2章1節)」を、私が頂いていて、救われるのを感謝しては、ただ喜びにむせぶことでしょう。

(ウイキペディアによる「富士を望む新宿」、新宿御苑、青年期の頃の新宿風景です)
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言うだけではなく行え

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 「汝等のうち、或人これに『安らかにして往け、温かなれ、飽くことを得よ』といひて體に無くてならぬ物を與へずば、何の益かあらん。 (文語訳聖書 ヤコブ216節)」

 「霧の都ロンドン」と呼ばれ、近代工業国家として先駆したイギリスの首都にも、時代なりの貧困がありました。様々な原因で、食べること、着ること、住むことに支障をきたしている人は、どこの国にもいました。紳士の国のイギリス、その都のロンドンも例外ではありませんでした。

 現代でこそ、家庭の貧しさの問題は、マスコミで取り上げられますが、後手後手のお涙程度のお上の情けでなされ、本気の貧困対策がなされないままでありました。

 幕末の日本を訪ねた外国人の宣教師や教師や商人たちは、その滞在記や日記や出した手紙で、日本の社会に、乞食が多かったことを取り上げていました。そして、疱瘡の痕を顔に残し、食べ物にも窮している問題を指摘していました。

 やっと明治になって、親に捨てられた子どもたちの窮状を救うために、石井十次が、岡山に、日本最初の孤児院を開設しています。その石井十次のもとには、一時期は、1200人もの子どもたちが集められていたと言われ、亡くなるまで3000人もの子どものお世話をしたと言われています。その生涯をかけ、亡くなるまで続けた、親のいない子どもたちへの世話は、四国巡礼から戻った婦人の連れていた一人の子の世話から始まっています。

 石井十次は、岡山教会で洗礼を受け、学んでいた第三中等学校の医学部(旧制の岡山医科大学)を中退して、孤児救済に生涯を捧げるのです。今年の年初に、能登半島を襲った地震の被害は甚大ですが、石井は、濃尾地震で、親を失った子ども、日露戦争で父親を失った戦争孤児たちを集めて、1892年に名古屋に、翌年は岡山に移り、そしてその翌年には、彼の故郷宮崎に孤児院を開設しています。

 石井十次が啓発されたのは、1849年に始まる、ロンドンで親のない子どもたちの世話をしていた、プリマス・ブレザレン派の牧師・George Muller でした。十次の座右の銘は、『天は父なり。人は同胞なれば互いに相信し、相愛す可き事。』だったそうです。その働きを助けたのが、倉敷の大原美術館で有名な大原孫三郎でした。

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 同じく、ロンドンの貧民地区で、Oxford Cambridgeの大学生が始めた、自立自助の助けとなる福祉活動の流れで、「settlement(セツルメント/後にトインビー・ホール」がありました。31歳で夭逝されたアーノルド・トインビーが始めた奉仕でした。医療・教育・保育・授産などの活動をしたのです。心も体も人生も、温かくなるような活動でした。

 私の恩師の一人は、横須賀に「キリスト教社会館」を始められた宣教師の後を引き受けて、長くその奉仕活動をされてきています。先日、自叙伝を、同じ教会メンバーだった、在米日本人教会で、ご主人と共に牧会する、同窓の在米の姉妹から、頂きました。大学で講師として教壇に立ちながら、私たちを教えてくださったのです。

 公的な社会福祉活動は、民間、とくにキリスト教会が、初期に牽引役を果たしてきた歴史があります。それは尊い働き、奉仕であります。この恩師が、『詩人たれ!』と、最終講義で話された、三十代半ばの澄んだ目が忘れられません。言うだけでも、聞くだけでも足りません。愛は《行うべき》ことであります。

(ウイキペディアによる、「現在のロンドン市街」、「名物のBig Ben」です)

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三行にたくす愛

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 “ Love letter  を、日本語では「恋文」と言いますが、必ずしも異性への愛の告白だけではなく、家族の間でも、師弟の関係でもやり取りをすることができそうです。

 私も、好意を感じて、好きになった女性に出したことがあります。何を書いたか、まったく覚えていません。ところが返事がなかったので、〈暖簾に腕押し〉だったのです。札幌や博多から、それをもらったこともありますが、いつの間にか、どこかにいってしまい、返信もしないままでした。

 私が読んだ「ラブレター」の中に、一行で三文字のものがありました。南極越冬観測隊で、はるか南極勤務についた、ご主人に宛てて、その奥さんが書き送ったものです。

『あなた!』

 これを受け取った夫は、三文字に込められた、奥さまの愛情、思慕、会いたいとの切々たる思いを深く感じたことでしょう。結婚という契約の中で交わされる夫婦の感情が、これほど深くて、一万語を用いて書かれた恋文に勝って、真実な愛が込められていることに、若かった自分は驚かされてしまったのです。

 言葉を駆使して、意思の疎通ができるのは人間だけだということを、改めて思わされています。

 お隣の国の学校で、日本語教師をしていた時、「写作(xiezuo 作文)」を担当していたのです。日本語学科の三年生に、「三行ラブレター」を書いてもらったことがありました。けっこう難しい主題だったのですが、その時の「三行ラブレター」を、四編ご紹介しましょう。

父さんが作れる たった一つの料理
中国料理の特に卵焼き
どんな料理よりも優しい味 (お父さんへ)

もらった命、もらったやさしさ
きつく叱られた幼き日々も 贈り物だったんだ
本当にありがとう (お母さんへ)

お天気予報
最初にあなたの住む街を見ます
今日はあたたかくなりそうですね (友だちへ)

午前中ずっと私の歩く道路に沿って探していて
ただ、私の服から落ちたボタンのためだったと知って
涙が止まらなかった  おばちゃん ありがとう (おばあちゃんへ)

 なかなかの生活感のある秀作だったのです。日本語を学んでいる学生たちがいて、今すべきことに懸命なのが嬉しかったのです。もう恋文を書いて贈るのは、妻だけになったでしょうか。いえ友や子や孫たちにだって、まだまだ書けそうです。

(ウイキペディアによる「ヘブライ語聖書」です)

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マイホームに住んで

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 「年賀状」って、そんな裏事情があるのだと言うことを、この歳になって、やっと分かったのですが、今更分かっても、もう過ぎた時間も、年賀状も帰ってはこないわけです。勤め人時代の五年間は、郵便局のお年玉付き年賀状を出した記憶があります。過ぎた一年を感謝して、迎える新年に、お手柔らかにと願ってでしょうか。上司や同僚や関係各位に出したのです。

 仕事を辞め、開拓伝道を志された宣教師さんの後に従ってから、そして、8年後に、宣教師の新任地の奉仕で出て行かれた後、そして、お隣の国に留学するまで、50数年ほど、ただ祈りで支えてくださったり、菓子折りを送ってくださったり、たまに説教奉仕でお呼びいただいたりで、関わりにあったみなさんには、Report  のような内容を、感謝と共に記して、年初めに出していました。

 ところが私たちの激励者であった宣教師さんは、奥さまにお話によると、祖国の教会や友人や兄弟たちに、手紙一封出さなかったそうです。全く行き詰まった時に、エリヤを養われた神さまは、《不思議な贈り》をもって、このご家族を養われていたのです。5人のお子さんがいて、この家を訪ねてくる信者さんがいて、昼にはスパゲッティが、いつも出てきたそうです。それ以外に出せなかったからでした。

 そのような家庭で育ったお子さんたちは、ご両親と同じ献身の道を歩んでおいでです。今では、電子メール、face timechatなどが交わされる時代ですが、礼を失することなく、親子二代にわたる交わりを、私たちと続けていてくれるのです。

 さて、次女が、『面白いから読んでみて!』と、置いていった本を読み始めたのです。当時、六十歳定年退職後のおじさんたちの登場する物語で、新宿からの私鉄沿線に、分譲住宅を買って住んで、ローンを負いながら生活をしてきて、子育てもすでに終えているのです。一期、二期、三期と順次、六十坪の分譲敷地に、マイホームの夢を叶えて、住み続け、それぞれが次のステージに移ろうとしているようです。

 一期入居の会長さん、分譲住宅を企画し売り出し、自分も買って入居した私鉄会社員、戦争孤児だった逆境を跳ね除けて生きてきた人、高校卒で市中銀行に入社し、最後におまけのような肩書をもらって退職した銀行員、二世代住宅に建て替えたけど、嫁姑問題に直面の男、運送業への単身赴任で覚えた関西弁と岡山弁を使い分け、物産展のイヴェント訪問を趣味の男。この登場者の中に、退職後、この交わりに加わりながらもすぐに亡くなってしまった人がいるのです。みなさん、高度成長期の日本の推進者なのです。

 振り子のように同じ歩を重ねて、片道二時間の通勤をし終えた六十代の男性たちが、不思議な出会いをして、共通点もあって、悲喜交々の老いを生きているお話なのです。主人公は、元銀行員の設定なのです。そんな生き方を自分はしなかったのですが、帰国後、遅い老齢期、退職期を迎えて5年も経った自分にも、容易に想像でき、苦笑いしながら読み進めてきています。重松清作の「定年ゴジラ(講談社文庫)」です。

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 そう、その小説に、「年賀状」のくだりがあるのです。元気になってきた家内が、昨年、12月に入ろうとした時、郵便局、写真屋を跳び回って、初めて「賀状」を注文発注し、見舞ってくださった方たちに挨拶状を書いて出していました。

 それに使った写真は、居間での二人の自撮り写真で、微笑んでいます。全く思惑なしなのですが、その小説には、あるご婦人の若い頃に、賀状に印刷する写真を撮る時に、その年に買った高級新車、子どもたちの私立学校の制服姿、高級服などを映り込ませて出すのだそうです。今が、どれほど幸せなのかをappeal しようとしてです。

 『でも、これぜーんぶ嘘なの!』と後になって言っています。わざわざベビーカーを電車に乗せ、普段着とスニーカを持って、新宿駅で降りて、平日出勤のご主人と待ち合わせて、新宿御苑に行き、普段着に着替えて写真を撮り、そして一連のことを終えると、Sさんは背広にと革靴に履き替え、会社に戻って行った平日写真だったのです。これこそが見栄の偽りでした。

 同級生、同僚に、今の現実に、見栄を着せて、キチンと計算して撮った写真を、年賀状に印刷して出す、それが近況報告と挨拶なのだそうです。そう面白く、さもありなんことを、そう重松清は書くのです。毎年のように印刷した賀状には、あんなに無邪気な男の子、自慢の息子だったのがグレてしまって、ある年から、ぷつんと賀状が来なくなってしまう話もあるのだそうです。こちらからの電話、手紙などが、どんな風に見られ、聞かれるかなど考えもしないノー天気な自分には、思いもつかないことです。

 あの宣教師さんは、その手紙が、ただの近況報告や感謝が、ある人に負担を負わせたりしないような、深慮があったのでしょうか。だから、本意を理解しない人には、いえ、どなたにも手紙などを出さなかったのでしょう。そんな生き方のできる方だったのです。ところが、そんな誤解をされたことのあった私の憶測の誠実な宣教師さんでした。それにしても人の心は、深くて複雑に違いありません。

(ウイキペディアによる「小田急線の電車」、「年賀状」です)

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往け、生きていいのだから

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 「創られるスター」、スポーツでも、芸能でも、将棋や碁の世界でも、学問の世界でも、政治界でも、その時代に輝くスターを、躍起になって作り上げてきたのでしょう。世間の注目を集めて、その世界で生きている人たちの糧になるからです。

 そんな風に見えませんし、平凡な人が、祭り上げられたり、有名な人の子弟だとか血縁地縁または弟子たちの中から、選ばれ、育てられ、やがて時代が終わっていき、また新星を生み出すのです。その反面で、自己の弛まない一歩一歩の精進で、努力目標を達成し、押しも押されぬ漢(おとこ)、才女となった人もおいでです。

 真の実力者は、粛々と、黙々と、在野の片隅で、勝ち負けや術策に溺れないで、平常心で、その道を生きてきているのです。有能者の子が、みんなお父さんやお母さんに匹敵したり、それ以上の逸材になっていくとは限りません。突然変異だってあり、全く期待外れで終わってしまう人もいそうです。

 旧約聖書に、家柄とか血筋とか名門などとは、全く関わりのない人物が登場して来ます。ただ、なんの脚色もなしに、「遊女の子」と紹介されたエフタがいました。イスラエルの社会でも、婚外で生まれた「庶子」は、相続権がありませんでしたが、このエフタは、マナセ、ガド、ルベンの相続地のギレアドに住んでいた、マナセ人でした。ところが、彼は、父が、遊女に産ませた婚外子でしたが、長子権があったのです。それで、快く思わない異母兄弟に嫌われ、追い出されています。

 人類史の中には、エフタのような人は多くありました。俗に『生まれが悪い!』で片付けられてしまうのです。江戸時代に、八百屋や魚屋の娘で、とびっきりの別嬪が、お殿さまの跡取りを宿し、局になった事例もありました。ただし、何々家に幼女に出し、そこからの輿入れのように画策しているのです。私たちのような庶民の子、平民の子、魚屋の娘ではまずいので、形式だけは整えるのです。

 イスラエルの社会が、危機に直面していた時に、その事態を解決できる人材に事欠いていたのでしょうか、仕方なく「遊女の子」が呼び出されたのです。神の民なのに、神の掟に従わなかったがゆえに敵の侵入を許し、国家的な危機にあったのです。勇躍出てきたのは、指導力を有した「ほかの女の子」でしたが、「勇士」のエフタでした。

 民の申し出に、快く応じられない経緯をたどってきたエフタでしたが、神さまは、この人を、イスラエルの危機を救うために用いられたのです。と言うか、この危機のために、この人を、信じられないような境遇や環境の中において、時間をかけて養い育てておられたと言うべきかも知れません。遊女の子でも、遊里に育っても、神さまは、人をお用いになることがいできになられるのです。

 私は、こう言った人物が好きなのです。逆境の中に生を受け、疎んぜられた人物を、あえて神さまはお用いになられたのです。私は、お会いしたことはないですが、福音ラジオ放送(FEBC)の番組の中で、一人の牧師さんのお話を聞いたことがありました。家内はお会いしたことがあったようです。

 伝道熱心な教会の路傍伝道で、青年期のこの方が、道を歩いていると、聞くともなく耳に入ってきたのが、「姦淫の現場で捕えられた女の話(約翰伝81~11節)」だったのです。彼は十七歳、工業学校の生徒の時でした。東北の温泉街のいかがわしい料理屋の息子で、自分が、そんな生業の家の子で、隣街への汽車通学の途上での出来事でした。

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 あの女性は、姦淫の現場で捕えられ、彼女を取り囲む男たちの好奇の目に晒されていました。そこに来合わせたのがイエスさまだったのです。モーセの律法によると「石打ち」になる犯罪で、それを人々は糾弾してしていました。イエスさまは、彼らに、『罪なき者が石で打つように!』と言うのです。そして、その場に屈まれたイエスさまは、地面に何かを書く風でした。一人去り、二人去りついにその場には、イエスさまと、その女だけが残されたのです。

 『イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ「をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處にをるぞ、汝を罪する者なきか」 女いふ『主よ、誰もなし』イエス言ひ給ふ「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」」

 その後、路傍説教を、ふと聞いたこの青年は、その牧師を数度訪ねるのです。信仰問答を繰り返しますがらちがあきません。それで「祈り会」に来るようにと、牧師に勧められ、祈り会に出てみます。一人の目の不自由な老婦人が、『神よ、この不幸な青年を憐れみたまえ!』と祈ってくれたのです。こんな自分のために祈ってくれた人がいるのを知って、信仰する姿を見て、痛く感動し、イエスさまを信じ、後に、神学校に学び、牧師となり、「いのちの電話」を東京に開設する働きをするのです。

 その方が、菊地吉彌牧師でした。惨めな青年期の只中で、十字架の福音を聞き、信仰する老姉妹の姿を、その目で見て、人生を変えることができたのです。遊女の子で、ならず者の頭領でも、また遊里で育ったとしても、一国の困難の時期にも、一人の人生上の困難にある人たちを、神さまは 用いられて、助ける器とされるのです。 

 起死回生、神さまは、人の人生に介入しされて、最善に導かれるお方でいらっしゃいます。人の願わない境遇の中に、惨めな女性に近づいて来られ、『往け(大正訳聖書 約翰伝811節 行けの意味です)』と言われたのです。それは、『生きよ!』と言う意味でした。どんな人も、語り掛けてくださる 救い主のことばに押し出されて、生きていいのです。そうして、母も、父も、私も生きのです。

(ウイキペディアによる「エフタの帰還(ジョヴァンニ・アントニオ・ペレグリーニ画)、アトリエTorinityのイラストです)
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この人に学んで

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 もう20年ほど前になるでしょうか、「講解説教」で、日曜礼拝で、「マルコの福音書」を、連続説教させて頂いたことがありました。その説教原稿を作るために、相当数の参考書を用意いたしました。その中には、正統な聖書信仰に立たない著書もありましたが、それらは一瞥して廃棄してしまいました。イエスさまを、史的で人間的な側面で捉えるだけで、伝統的な福音主義の聖書観に立たない、福音的信仰の啓発や激励からはほど遠いものもあったからからです。

 その中で、大変参考にさせていただいたのは、竹森満佐一牧師と矢内原忠雄氏の著作でした。とくに矢内原の著わした「イエス伝(岩波書店刊)」は特別でした。この人は、「植民政策学」の学者として、社会科学の分野で大きな業績を残した人だったのです。その科学的なものの考え方を持って生きる彼の心の中には、神学校に学びませんでしたが、素晴らしい「聖書信仰」が宿っておいででした。

 科学の世界での彼の業績は、それだけではありませんでした。彼はキリスト者として、その科学と信仰とを対立させないで、捕捉させ合わせて、その橋渡しに真剣に取り組んだ方だったのです。その「科学と信仰の問題」について、彼は次のように語っています。

 『科学と信仰の問題は、次元が違うのであって、その間に断層があり、飛躍がある。科学には科学の世界があり、信仰には信仰の世界がある。それは別の世界です。しかし科学を勉強することによって、信仰のなかから迷信的な要素を除くことができる。また純粋に信仰することによって、科学に高潔な精神と希望を与えることができる。そういうことで、私はこの問題は解決されると、自分で思っています。』とです。

 どちらにも偏らない、素晴らしいバランスを持っていた方であったことが分かります。矢内原は、「無教会」の内村鑑三から最も信仰の感化を受け、信仰的には内村の弟子でした。さらに、国際連盟の事務局次長をされた新渡戸稲造を大変尊敬していましたから、学問の領域では、新渡戸の弟子だったと言われています。

 矢内原の信仰は、日本が右傾化・国粋化して、侵略戦争を展開して行いくという動きの中でも、揺り動かされることがありませんでした。信仰上の戦いを雄々しく戦った数少ない信仰者の一人でした。あの時代、信仰の良心を守り、義を愛して生きた信仰者がいたことは、せめてもの日本の救いだったに違いありません。

 その侵略戦争に反対を表明した彼は、東京大学から追われてしまいます。それでも、弱い隣国の中国や東南アジア諸国を侵すという戦争に反対し続けるのです。彼のように、終戦一貫して、平和主義、非戦論を唱え続け、軍国主義に反対を表明し通した人は、当時、実にごくわずかしかいませんでした。「日本人の良心」を守り通した人であり、一人の「預言者」とも言えるのです。

 彼が反対した戦争は敗けて終結します。戦後、彼は東京大学に復職し、1951年には総長にも選任されたのです。彼は「無教会」の中にあり続け、毎日曜日、聖書研究会を開き、多くの青年たちに信仰的な感化を及ぼしたのです。「嘉信」という月刊誌を発行し続け、多くの読者に愛読されました。

 矢内原は、『私の心に情熱をよび起こすものは福音と平和です。この二つは、二つにして一つです。私の心を燃やすものはただこの二つのみです。』と断言しました。彼の聖書の視点と解き明かそうする解釈法、霊的な姿勢は、私を忍耐して教え続けて下さった宣教師に近似しているのに驚かされます。私も、信仰的良心を保ちながら、「いのちの書」に思いを向け続けたいと思っております。

(ウイキペディアによる若き日の「矢内原忠雄(右端)」です)

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老いるということ

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 『まことに誠になんぢに告ぐ、なんぢ若かりし時は自ら帶して欲する處を歩めり、されど老いては手を伸べて他の人に帶せられ、汝の欲せぬ處に連れゆかれん』(大正訳聖書 ヨハネ2118節)」

 こんな有名な詩が、語り伝えられています。

私を見てちょうだい
あんたがたに見える私は、
ただの不機嫌な顔をしたボケ老人でしょうね。
ぼんやりとうつろな目をして、
次に何をしたらいいかも分からない老人でしょうね。
ボロボロこぼしながら食べ物を口に運び、
「ちゃんと食べて」と大声で言われても、返事もしない老人でしょうね。
看護婦さんのしてくれることには、知らん顔をして、
年がら年中、靴や靴下の片方を探している老人でしょうね。
お風呂や食事を嫌がってみても、どうせ他にすることもないからって、
結局は言いなりになる老人でしょうね。
どう、このとおりでしょう?
これが、あんたがたに見える私でしょう?

さあ、看護婦さん、
よーく、目を開けて私を見てちょうだい。
ここでじっと座って、命令されるままに動き、言われるままに食べる私が
本当はどういう人間なのか教えてあげるから。
私はね、10歳の時には、両親や兄弟の愛に囲まれた子どもだった。
娘盛りの16には、愛する人に巡り合う日を夢見る乙女だった。
20
歳で花嫁になり、心弾ませて「この人に一生を捧げます」と誓ったのよ。
25
には母親となって、子どもたちのために安らぐ家庭を築こうとした。

もう私は年老いてしまった。
年の流れは、情け容赦なく年寄りをおろかに見せ、身体をぼろぼろにし、
美しさも生気もどこかに追いやってしまう。
そしてかつての柔らかな心は、石のように閉ざされてしまった。
でも、この朽ちかけた肉体の奥には、若い娘がいまだに棲んでいるの。
この苦しみに満ちた胸は、今一度過ぎ去った日々を思い出しては、
喜びに弾み、悲しみにふさぐ。
こうして人生を慈しみながら、もう一度生きなおしているの。
駆け足で通りすぎていった、あっと言う間の年月を思うと、
人生のはかなさをつくづく思い知らされる。

そうなの、だから看護婦さん、よーく、目を開けて私を見てちょうだい。
ここにいるのは、ただの不機嫌なボケ老人じゃない。
もっと近くによって私を見てちょうだい。

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  この驚くべき詩は、著者不明なのです。スコットランドのある老人病棟から見つかったもので、言い得て余りあるほどの「老い」たご自分の現実を詠んだものです。そんなこと言いたい気持ちが、なんとなく分かる年齢になったかも知れません。

 老いてしまった自分の過去を知ってもらいたくて、若かった頃の自分にも輝いた季節があったことを、人は知って欲しいのです。そんなこの方とは違って、ユダ族に族長であったカレブは、次にように告白しているのです。

 『14:10 ヱホバこの言をモーセに語りたまひし時より已來イスラエルが荒野に歩みたる此四十五年の間かく其のたまひし如く我を生存らへさせたまへり視よ我は今日すでに八十五歳なるが

14:11 今日もなほモーセの我を遣はしたりし日のごとく健剛なり我が今の力はかの時の力のごとくにして出入し戰闘をなすに堪ふ

14:12 然ば彼日ヱホバの語りたまひし此山を我に與へよ汝も彼日聞たる如く彼處にはアナキ人をりその邑々は大にして堅固なり然ながらヱホバわれとともに在して我つひにヱホバの宣ひしごとく彼らを逐はらふことを得んと

14:13 ヨシユア、ヱフンネの子カレブを祝しヘブロンをこれに與へて產業となさしむ (文語訳聖書 ヨシュア記141013節)』

 この両者の言うことは、それぞれに嘘偽りのない主張です。老い衰えて、生きる気迫が失せて、過去に思いを向けるか、85歳になって今もなお、戦いに立てる自信を告白するか、それにしてもみんな老いるんですね。過去の栄光に立たなくとも、今をアリのままで生きたいたいものだと思わされます。

 あの人にも、恋をしていた時期がああって、ほとばしるような青春の血を躍動させて、何キロ走っても疲れなかった時があった、それでいいのでしょう。行く道だけがあって、わたしたちは来た道には戻れないのですから。

(英語版uikipediaCaleb Return of the Spies, 1860 woodcut by Julius Schnorr von Karolsfeld

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文化遺産でしょうか

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 地形的にも、気象上でも、多くの困難を経験してきた太古から、この日本列島に住み続けてきた私たちは、独特な民族の気質を養い育ててきたと言われています。大地を揺らす地震、夏から秋の台風襲来、日照りや寒冷、疫病の発生、飢饉など、さまざまな災害を経験してきたからでしょうか、そんな困難な中で、「笑う」ことを身につけてきたのです。

 もちろん悲嘆にくれてしまうこともありますし、絶望することもありました。一昨日も、能登半島に大きな地震が見舞い、甚大な被害をもたらしています。そんな経験の中で、パニックに襲われて暴動が起こるわけでも、食料品スーパーが襲われることもなく、みなさんが、その事態に冷静に立ち向かっておいでなのです。

 そんな地震と津波とに被災して、家が壊れても、諦め悔やむだけでなく、事実を容易に理解して、立ち直る次の一歩に目を向けていかれています。『大好きな街の復興のために助けとなりたい!』と、ある被災した高校生が言っていました。これこそ神が与えられた、日本人の賜物に違いありません。

 神を呪うのでも、為政者を責めるのでもなく、現実を認められるから、笑えるのでしょうか。泣く以上に、笑うことこそが、逆境を跳ね返していける原動力になってきたのが、日本人の独特な「笑い」なのでしょう。

 もうアップできませんが、明治期に外国人が撮影した写真の中で、小さな子どもから大人までが、その笑いをしている写真を見たことがありました。みなさんが同じような笑い顔なのです。ヘラヘラ笑い、お愛想笑い、追随笑い、はにかみ、どう表現したらいいのか、「あの笑い」なのです。一人が、そう笑うと、連鎖して、一人一人が笑いの輪を作って、広げていくののです。


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 その笑いが、次の瞬間を、次の時を、次の日を生かす力となって、この国を動かして、人々が生きてきたのです。厳粛な事態でも、この種の笑いを忘れなかった人たちの国、これが日本なのでしょう。

 欧米人には見られない、環境の厳しい仕打ちを跳ね除けてしまう「笑い」なのです。なかなか理解されない日本人の笑いこそ、まさに文化遺産に違いありません。被災した後、すぐに立ち上がって、シャベルや土起こしを持って、復興作業に取り掛かる力を、彼らは残してるのです。

 隣の村や国に、故郷を捨てて移り住むことをしないで、神に定められた地に、しがみついて生き続けて来た過去があります。今朝の能登の地を、創造主の神さまが顧みてくださるように祈るのみです。

(ウイキペディアによる「無邪気な子供の笑い顔」、今回震度7の地震に見舞われた「志賀町」の風景です)

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