「汝等のうち、或人これに『安らかにして往け、温かなれ、飽くことを得よ』といひて體に無くてならぬ物を與へずば、何の益かあらん。 (文語訳聖書 ヤコブ2章16節)」
「霧の都ロンドン」と呼ばれ、近代工業国家として先駆したイギリスの首都にも、時代なりの貧困がありました。様々な原因で、食べること、着ること、住むことに支障をきたしている人は、どこの国にもいました。紳士の国のイギリス、その都のロンドンも例外ではありませんでした。
現代でこそ、家庭の貧しさの問題は、マスコミで取り上げられますが、後手後手のお涙程度のお上の情けでなされ、本気の貧困対策がなされないままでありました。
幕末の日本を訪ねた外国人の宣教師や教師や商人たちは、その滞在記や日記や出した手紙で、日本の社会に、乞食が多かったことを取り上げていました。そして、疱瘡の痕を顔に残し、食べ物にも窮している問題を指摘していました。
やっと明治になって、親に捨てられた子どもたちの窮状を救うために、石井十次が、岡山に、日本最初の孤児院を開設しています。その石井十次のもとには、一時期は、1200人もの子どもたちが集められていたと言われ、亡くなるまで3000人もの子どものお世話をしたと言われています。その生涯をかけ、亡くなるまで続けた、親のいない子どもたちへの世話は、四国巡礼から戻った婦人の連れていた一人の子の世話から始まっています。
石井十次は、岡山教会で洗礼を受け、学んでいた第三中等学校の医学部(旧制の岡山医科大学)を中退して、孤児救済に生涯を捧げるのです。今年の年初に、能登半島を襲った地震の被害は甚大ですが、石井は、濃尾地震で、親を失った子ども、日露戦争で父親を失った戦争孤児たちを集めて、1892年に名古屋に、翌年は岡山に移り、そしてその翌年には、彼の故郷宮崎に孤児院を開設しています。
石井十次が啓発されたのは、1849年に始まる、ロンドンで親のない子どもたちの世話をしていた、プリマス・ブレザレン派の牧師・George Muller でした。十次の座右の銘は、『天は父なり。人は同胞なれば互いに相信し、相愛す可き事。』だったそうです。その働きを助けたのが、倉敷の大原美術館で有名な大原孫三郎でした。
同じく、ロンドンの貧民地区で、Oxfordや Cambridgeの大学生が始めた、自立自助の助けとなる福祉活動の流れで、「settlement(セツルメント/後にトインビー・ホール」がありました。31歳で夭逝されたアーノルド・トインビーが始めた奉仕でした。医療・教育・保育・授産などの活動をしたのです。心も体も人生も、温かくなるような活動でした。
私の恩師の一人は、横須賀に「キリスト教社会館」を始められた宣教師の後を引き受けて、長くその奉仕活動をされてきています。先日、自叙伝を、同じ教会メンバーだった、在米日本人教会で、ご主人と共に牧会する、同窓の在米の姉妹から、頂きました。大学で講師として教壇に立ちながら、私たちを教えてくださったのです。
公的な社会福祉活動は、民間、とくにキリスト教会が、初期に牽引役を果たしてきた歴史があります。それは尊い働き、奉仕であります。この恩師が、『詩人たれ!』と、最終講義で話された、三十代半ばの澄んだ目が忘れられません。言うだけでも、聞くだけでも足りません。愛は《行うべき》ことであります。
(ウイキペディアによる、「現在のロンドン市街」、「名物のBig Ben」です)
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