住めば都の心地して

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 この春で、ここ栃木市に来て6年目を迎えています。家内の入院中や退院後に、実によくしてくださったご夫妻と、その息子さんご家族がいて、時々、小学生のお嬢さんが、遊びに来てくれ、お母さんは、買い物にお誘いくださって、歩いて行けない距離に、車でお連れくださるのです。娘のように、お互いに思うかのようです。

 その方のご両親は、県北の街で、牧会をなさってこられて、ご子息に教会の責任を委ねられている、同世代の牧師さんです。こちらに来られると、寄ってくださったり、お土産までいただいているのです。若い頃に、セミナーや聖会でお見受けしたことがありましたから、けっこう時間的には長い知り合いになります。

 その他に、県南の街にお住まいのご夫妻がいて、家内の散髪に、『髪の毛がだいぶののびたでしょう?』と言っては、やって来てくださって、30分ほどの散髪をしてくださっています。お母さまの掛り付け医が、近くにいて、その通院の折に、寄ってくださるのです。お母さまも奧さまも整髪していて、家内のためにも12ヶ月ごとに、忠実に訪ねてくださっているのです。お昼を一緒にして交わりが続いているのです。

 ご主人は、アメリカの西海岸の街に留学中に、クリスチャンになられ、音楽伝道をなさっておられるのです。あの東日本大震災の後は、復興支援のために移住して、上のお子さんは、あちらで誕生されているそうです。長く復興支援活動を続けておられ、今でも時々出かけておいでです。奥さまは、私たちが滞在した省の隣りの省の出身で、東京の神学校を出ておられるのです。

 またご両親は、信州りんごの栽培が盛んな街の出身で、お父さまは東京の会社に勤められ、東北地方の街の支店勤務を経て、退職まで長く都内にお住みだったそうで、県南の街に家を建てられて、今は、ご主人と死別されたお母さまと共に、栃木県においでなのです。散髪後は、カレーライスを食べたり、先日は、近くの大平山名物の焼き鳥、卵焼き、団子を食べに行ったりの交わりがあります。

 家内は、宇都宮で行われている「まちなかメディカル・カフェ in 宇都宮」の交わりがあって、私も一緒に参加しています。12月には、降誕節の祝会があって、一昨年は家内はピアノ演奏をさせていただいたりしていました。この交わり会の事務担当のご婦人は、時々、わが家に食事をお招きしたり、コーヒーを飲んだりさせていただいていて、娘のようにしていてくださり、通院にも手助けで、車を出してくださることもあります。

 この会に、顧問のようにして参加される医師のお勤めの病院で、漢方の専門医をされていて、この2、3回は、通院して診察をして頂いています。そのようなみなさんの他には、家内の散歩仲間、ラジオ体操仲間、自治会の老人会、家内参加の婦人会などで、近隣のみなさんとの交流があります。

 昨日は、「市民教養大学」の終講があって受講しました。もう2単位で「学士さま」です。2年目の受講で、ラジオ体操仲間の方も参加されておいででした。青森県の「三内丸山遺跡」と、群馬県安中市の「中野谷松原遺跡」の比較を、長年発掘調査をされて来て、退職後、國學院大学栃木短大で教鞭をとられる大工原豊氏の講座で、《古代の浪漫》に感じ入りました。まさに「住めば都」でしょうか、すっかり馴染んでいる今日この頃です。

(ウイキペディアによる、栃木の市木のトチノキです)
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今昔

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 1965年の69日の毎日新聞が、経済大国日本なのに、岩手県下には、まだ『欠食児童がいる!』という記事を全国版に載せたのです。それは自分はお腹いっぱい食べていた二十歳の学生身分の頃のことでした。

 時の総理大臣が、佐藤栄作でした。一国の宰相は、その報道に衝撃を受けたのです。『今なお欠食児童がいるのは政治の責任だ!』と言って、大臣の席を立って、花巻空港に飛行機で飛んで、県域の80%が山地である、その岩手を訪ねたのです。『このような問題こそ、われわれ(政治家、政治責任者のこと)の考えるべきこと!』と言って、4億円を国庫から緊急に支出することを決め、閣議決定を、速やかにしたのです。

 県下の小学校を訪ねた佐藤首相は、生徒たちの手をとって握手して回ったたと言われているのです。実に熱血の宰相でした。その時の様子を、生徒会の何人かが、手紙を出すのですが、その一通は、『国民の声をよく聞いて、政治に反映させるのは、本当に政治家の姿だと思います!』と手紙で感謝したのです。

 事態に即応する政治の姿は、自分の所属する会派のお金にばかり思いを向けている昨今の政治家とは大いに違い、劣化甚だしい今を感じて、悲しくなってしまいます。

 この岩手県は、古来、〈にっぽんのチベット〉と言われた貧しい地でした。仙台に向かって流れていく北上川には、人減らしで、生まれて来たわが子を水に流したという悲しい現実のあった地なのです。ところが、今や、アメリカ球界の寵児と言われる、193cm95.3kgもある大谷翔平は、奥州市の生まれ、花巻東高校の出身です。60年の今昔、欠食児童のいた県が産んだ野球選手が、信じられない契約金を得ている違いに驚くのです。

 岩手県人の今昔、政治家の今昔、さまざまに違いのあるのに驚きながら、世界の三分の一の人たちが、いまだに貧困と戦い、人類全体が、将来に不安を覚えて今を生きているわけです。それにしても、佐藤栄作の即弾力や行動力には驚かされます。

(ウイキペディアによる岩手県花の「桐の花」です)

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人が歩いて来た街道で

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 五世紀頃、唐の街道整備に倣って、日本でも統治上、街道の整備が行われ始めてきました。江戸期には、「五街道」が整備されたのです。江戸勤めの侍や旅の商人、温泉療養や寺社参拝で、江戸期の人たちは、幕府の整備した街道を、少ない携行品で旅をしました。今のような観光目的の旅は、富裕層だけの特権だったのでしょう。かく各地方にも街道が整備されていました。

 その起点とされたのが、江戸の日本橋でした。その主要街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道で、「五街道」と呼ばれていました。

 江戸から京の都までの53宿の「東海道」、江戸から武州千住、下野宇都宮から日光までの21宿の「日光街道」、江戸から宇都宮、そこから分岐して磐城白河までの24宿、白河以北の陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道郡山、福島、陸中盛岡、陸奥青森、三厩まで、そして海を渡って蝦夷松前を経て函館までの114宿の「奥羽街道」、江戸から上州高崎、信州下諏訪、信州妻籠、草津に至るまでの67宿の「中山道」、江戸から内藤新宿、甲府、下諏訪までの44宿の「甲州街道」でした。

 各街道には、「一里塚」が置かれ、「宿場」が設けられ、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、高札所、代官所が置かれていました。五年前に越して来て住み始め、今年は六年目に入った、この栃木市は、中山道の倉賀野宿から、日光に至る「日光例幣使街道」の宿場だったのです。幕府の佐野藩の統治下にあった街で、街の中央に代官屋敷跡があって、そこを見学したことがありました。

 そんな宿場町や、街道沿いに、「報謝宿(ほうしゃやど)」と呼ばれる宿泊施設が、たまにあったようです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりしている人に、宿と食べ物を提供する、今で言う、民間の篤志家による福祉施設があったのです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりした場合、宿や食事の世話をしていたそうです。

 家内の入院を機に、住み始めた街は、何よりも、日光東照宮の造営、維持のために、さらには近郷の物資の搬入は搬出にために、初期料や郷土品や日用品や資材を集積するための「舟運(しゅううん)」の河岸で栄えた商業の盛んな所でした。その舟運を担った巴波川の周辺は、そんな時代の雰囲気を残していて、舟子たちの掛け声や舟唄や、綱手道を舟を曳いて歩く水夫たちの舟唄が聞こえてきそうです。

 陸路は人が動き、舟運は物資が動き、日本中で、都賀舟や高瀬舟が、荷を運んできて、鉄道ができるまで盛んに行われたのです。今のような自由に行き来をすることができない時代で、街道筋には関所や番所があって、今のように国外に出かける時、県庁から「査証(Visa)」の発行をして、それを携行しなければならないように、国内の移動には、「通行手形」が必要でした。

 その通行手形は、武士の場合は領主が、庶民の場合は在住地の名主などが発行したもので、それを携行する必要があったのです。江戸期には、「出女」、「入り鉄砲」が厳しく取り締まられていたと小学校で学んでいましたが、女性だけの旅行は大変難しかったそうです。参詣や湯治の場合は、緩やかな方法で、関所を通過できたそうです。

 東京に出てきた父が買った家は、旧甲州街道沿いにあった家でした。なんの変哲もない、まだ舗装前の石ころも転がる道路でした。その道が、江戸期には主要街道であったことを知ってから、大名も御家人も商人も、この目の道を黙々と旅をしたことを想像すると、興味が尽きなかったのを思い出します。

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 首都高の江戸橋の出入り口に、アジアの32カ国を結ぶ、“ Asian Highway ” の起点があって、福岡から海を渡って、釜山、ブノンペン、ニューデリー、カプクレ(トルコとブルガリアの国境)を終点とする、[AH-1」があります。この首都高の標識を見ると、東京がトルコ国境まで繋がる一本の道路で結ばれていると言う、不思議な感覚に襲われるのです。その日本橋のたもとに立った時と同じ感覚で、世界を捉えられるのも不思議なものです。

 そういえば、随分、あちらこちら歩き、旅をしてきたのです。今は、散歩道を辿り、春夏秋冬の植生を目にし、人と行き交うのもまた興味深いのです。今朝は、眼下に見える日光例幣使街道は、冬の冷たい雨に濡れています。

父は、南新宿(旧甲州街道の近く)に家を買おうとし、繁華街に近いので、これから成長していく4人には相応しくないと思ってやめたり、また自分が転校し、卒業した旧制中学校のあった街の近く、国道1号線(旧東海道)沿いに家を見つけたのですが、そこもやめ、東京の郊外に家を買ったのは、私たち4人のためには懸命な決断だったようです。

(ウイキペディアによる、日本橋、アジアンハイウエーの起点です)

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枕する所

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 熊本地震で被災した友人が、次に起こる地震を考えると、家の中で眠ることができないで、車の中で、幾晩も過ごしたと言っていました。心理的な窮屈さに、身体的な窮屈さが重なっていましたので、熟睡はできなかったそうです。

 父親に叱られて、家を出て彷徨い、野宿をしたことが自分にもありました。枯れ草の中や、貨物列車の車掌室の長い板の椅子の上でした。きっとあの感覚に、地震の怖さが加わって、体験者だけしか感じられないことなのでしょう。

 今正月の能登半島地震でも、家屋の倒壊で、布団の中に眠れない人たちが多くおいでのようです。旅館をされておいでの方が、被災されたみなさんに、布団や毛布を供出されているニュースを聞いています。それで、やっと体を伸ばして、大の字になって眠れたことを感謝されておいででした。

 主イエスさまが、次のように話されたことを思い出しております。

 「イエス言ひたまふ『狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし』 (文語訳聖書 ルカ伝958節)」

 神の国を解き明かされたイエスさまに従った弟子の一人との語り合いの中で、言われたのが、このことばです。イエスさまに付き従うと言うのは、温かな寝具などない生活だったのです。イエスさまご自身、住む家も、宣教センターも、もちろん別荘もお持ちではなく、枕もベッドも毛布もない、そんな伝道生活を送られておいででした。

 召された弟子たちにも、その覚悟を求められたのです。中国の内陸を、中国服を着て、辮髪(べんぱつ/かつての中国人の髪型)にし、中国食を食べ、中国語を話して、福音宣教をしたハドソン・テーラーがいました。病気で子どもや夫人を亡くされたり、ご自分も病んだりしましたが、その奉仕は驚くほどのものがありました。最後1905年に、湖南省で召され、そこから天に帰って行かれています。

 この方も、イエスさまの真実の弟子で、今そのお孫さんが、志を継いでおられるそうです。

 今冬は、暖冬だと言われていましたが、実際には、極めて寒く、被災地の避難場所では、暖房設備がなく、低体温症が大きな問題となっています。また感染症も大きな問題となっているのです。ただご無事を祈ることしかできず、実際に行動の取れないもどかしさに、申し訳なさを感じてしまいます。災害関連死と言う悲しい事態から、被災者のみなさんが守られ、枕を高くして眠れる日が、一日も早く戻ることを切に願う週末です。

(ウイキペディアによる被災地の珠洲市の見附島です)

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コッペパン

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 ここ栃木県では、「早乙女」を、「そうとめ」と読むのです。県下のさくら市の地名で、苗字にもあるようです。「(喜連川/きつれかわ)早乙女温泉」がるあります。ちなみに、山形県山形市では、「さおとめ」と読むのです。春に田植えをする主力であった女性を、そう呼んでいたようです。

 さて、その苗字の児童文学者の早乙女勝元さんが、その自伝、「その声を力に」で、「コッペパン泥棒」という、小学生の頃の事件を述べています。それを、引用した藤原辰史さんが「給食の歴史(岩波新書)」の中である出来事を取り上げておいでです。

 『ある日、学校でコッペパン泥棒が出た。早乙女少年は、とっさに犯人が同じ貧乏暮らしの金田くんだと思った。金田くんは「自分のパンの半分を、弟や妹たちに持ち帰るのをのを知っていたからだ」。「学校でも給食のパンは、たいそうな貴重品で、登板から机上に配られてくると、先に目分量を確認せざるを得ない」。ゆえに、先生は怒り、「身に覚えのある者は、5分以内に前に出よと声を震わせた」。早乙女少年は「先生、ぼ、ぼくです」と身代わりなったのである。

 授業の終了後、校舎の裏に呼ばれた早乙女少年は、さきほどの理由を聞かれ、説明したのだが、先生は首を振って、「金田がパン泥棒じゃあない。むろん、お前もだ。真犯人は別にいる」と言う。名前も特定していて、「やつのこころをいれかえる」絶好のチャンスを、早乙女少年の身代わりによって失ってしまったのである。あまりにもおとなしく弱いので「勝元」ではなく「負元」とあだなされていた早乙女少年に先生は、「負元とばかり思っていたが、そうでもなさそうだ」と笑った。その勇気を見込まれて級長にさせられた、という。』

 様々なことがある学校の先生の大変さが伝わってくる、盗難事件です。半端なく貧しい級友がいて、一緒に立たされて、急に仲良くなって、ポケットを弄って小銭が出てきたので、カンパ金にして、彼に上げたことが、私にはありました。彼は、戦争孤児だったのでしょうか、本当にボロを身にまとっていて、いつの間にか転校していなくなってしまったのです。

 日本中が貧しかった時代があっての今の豊かさです。その豊かさの陰に、今も貧困があるのも現実です。それにしても、勝元少年の身代わり犯を申し出るの一件には、すごい勇気だと感心してしまいます。どういった顛末で、コッペパン紛失事件が収まったか分かりませんが、「ああ無情」の話も思い出されます。ジャン・ヴァルジャンがその主人公でした。

 『181510月のある日、ディーニュミリエル司教の司教館を、46歳の男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。姉の子ども達のために、1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していた。行く先々で冷遇された彼を、司教は温かく迎え入れる。しかし、その夜、司教が大切にしていた銀食器をヴァルジャンは盗んでしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えた」と彼を放免させた上に、残りの2本の銀の燭台も彼に差し出す。人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。(ウイキペディアから)』

 聖書に次のような箇所があります。

 『30:7 われ二の事をなんぢに求めたり 我が死ざる先にこれをたまへ

30:8 即ち虚假と謊言とを我より離れしめ 我をして貧からしめずまた富しめず 惟なくてならぬ糧をあたへ給へ

30:9 そは我あきて神を知ずといひヱホバは誰なりやといはんことを恐れ また貧くして窃盗をなし我が神の名を汚さんことを恐るればなり(文語訳聖書 箴言3089節)』

 自分の人生から、不真実と偽りの二つがないように、信じている神様を辱めるような生き方をしないように、私も生きようと決心し、そう心に決め、主に祈りながら、今日まで生きてきたでしょうか。正直に、公正に、公義を愛して生きることでしょうか。

 そう言えば、小学生の自分を夢中にさせた、東映のチャンバラ映画に、「早乙女主水之介」という侍が出てきて、額に、三日月の傷を持っていました。とても強かったのです。演じたのが市川右太衛門で、息子さんは北大路欣也で、同じように映画スターになっておられます。勧善懲悪の教えがあったのです。この早乙女勝元さんは、直木賞作家で、東京大空襲の体験から、反戦、平和主義を貫いておいででした。

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 飢えを、少なからず知っている世代としては、コッペパンを盗んで、お腹を一杯にしたかった気持ちが、痛いほど分かります。食べても、またお腹は空いてしまうのですから、心が満たされなくては、いつも盗みに誘惑されてしまうわけです。もう一度、コッペパンに、コロッケを挟んで、ソース味で食べてみたいものです。あの美味しさは、ハンバーガー・サンドに勝る物だったのです。

(ウイキペディアによるコッペパンです)

のちの日を笑ふ

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 恥ずかしながら、まだお酒を飲んでいた頃に、酔いにまかせて、格好を助けたかったのでしょうか、だいぶ夜も遅くなった電車の中で、

 妻(つま)をめどらば才たけて
顔うるはしくなさけある
友をえらばば書を讀んで
六分の俠氣四分の熱

戀のいのちをたづぬれば
名を惜むかなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む

くめやうま酒うたひめに
をとめの知らぬ意氣地あり
簿記(ぼき)の筆とるわかものに
まことのをのこ君を見る

あゝわれコレッヂの奇才なく
バイロン、ハイネの熱なきも
石をいだきて野にうたふ
芭蕉のさびをよろこばず

人やわらはん業平(なりひら)
小野の山ざと雪を分け
夢かと泣きて齒がみせし
むかしを慕ふむらごころ

見よ西北(にしきた)にバルガンの
それにも似たる國のさま
あやふからずや雲裂けて
天火(てんくわ)ひとたび降(ふ)らん時

妻子(つまこ)をわすれ家をすて
義のため耻をしのぶとや
遠くのがれて腕(うで)を摩す
ガリバルヂイや今いかん(以下省略)  

と歌ったのです。よくも恥ずかしくもなく、あんな風に歌ったものだなあと、25歳で酒をやめた私は、あの頃を思い出して、今でも赤面を禁じ得ないのです。

 隣に座っていたおじさんが、この方も、お酒に酔っておいでで、若造の私に、『きみー!』と、声をかけて来たのです。『いないんだ、才長けた妻なんて、どこにもいなんだぞ!』と、与謝野鉄幹の詩を否定するように、ご自分の現実でしょうか、それをぶっつけて来たのです。未婚の私が、結婚を、そろそろ考え始めていた頃でした。

 聖書の箴言31には、次のような箇所があります。

10 誰か賢き女を見出すことを得ん その價は眞珠よりも貴とし

11 その夫の心は彼を恃み その產業は乏しくならじ

12 彼が存命ふる間はその夫に善事をなして惡き事をなさず

13 彼は羊の毛と麻とを求め喜びて手から操き

14 に商賈の舟のごとく遠き國よりその糧を運び

15 夜のあけぬ先に起てその家人に糧をあたへ その婢女に日用の分をあたふ

16 田畝をはかりて之を買ひ その手の操作をもて葡萄園を植ゑ

17 力をもて腰に帶し その手を強くす

18 彼はその利潤の益あるを知る その燈火は終夜きえず

19 かれ手を紡線車にのべ その指に紡錘をとり

20 手を貧者にのべ 手を困苦者に舒ぶ

21 彼は家人の爲に雪をおそれず 蓋その家人みな蕃紅の衣をきればなり

22 彼はおのれの爲に美しき褥子をつくり 細布と紫とをもてその衣とせり

23 その夫はその地の長老とともに邑の門に坐するによりて人に知るるなり

24 彼は細布の衣を製りてこれをうり 帶をつくりて商賈にあたふ

31:25 彼は筋力と尊貴とを衣とし且のちの日を笑ふ

26 彼は口を啓きて智慧をのぶ 仁愛の敎誨その舌にあり

27 かれはその家の事を鑒み 怠惰の糧を食はず

28 その衆子は起て彼を祝す その夫も彼を讃ていふ

29 賢く事をなす女子は多けれども 汝はすべての女子に愈れり

30 艶麗はいつはりなり 美色は呼吸のごとし 惟ヱホバを畏るる女は譽られん

31 その手の操作の果をこれにあたへ その行爲によりてこれを邑の門にほめよ

 この聖書の記事は、微笑みを絶やさない、穏やかな女性が、理想像のように語られている箇所です。この時代が求める理想の女性像とは、ちょっとかけ離れていますが、他者、とくに弱者を顧みることにできる、愛に動機づけられた女性を、ことさらに家族愛に溢れている女性、そんな様子を聖書は推奨しているのでしょう。

 理想と現実の違いがあるかも知れませんが、男子が女子(ひと)を得る過程に、神さまの導きがあるのを知るのです。今春、五十三年を迎え、二人が互いに支え合って生きてこられたことに、深く感謝する日々なのです。華南の街でも、今住むこの街でも、道行く私たちを見て、「好夫婦」だと言われるのですが、もしそう見えるなら、ただ神さまの助けや祝福があってのことに違いありません。

 子どもたちの安心も、老いても仲良く過ごしている様子なのです。駅のコンコースの「街かどピアノ」を弾きたくなった家内と、この月曜日に、散歩がてら出掛けました。時々声をかけてくださる方たちがいるのです。奥様の葬儀帰りに、たまたまピアノの演奏を聴いたのだそうです。奥さまがクリスチンだったとかで、讃美歌がお好きだったのを思い出して、しばらくお聞きになって、声をかけてこられたそうです。

(栃木市の街角ピアノの案内です)

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Dreames

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 母の故郷の出雲市に、「一畑(いちばた)電気鉄道」と言う電車会社の駅があります。110年ほどの歴史があるのです。その電鉄出雲市駅から出雲大社駅への「大社線」、松江しんじ湖駅への「松江しんじ湖線」があります。

 1914年に、出雲今市駅から平田駅、翌1915年に、平田駅から出雲大社駅や一畑駅、そしてしんじ湖駅まで延伸してます。地方の小都市で、頑張ってきている私鉄の会社で、母の故郷でもあることから、過疎化の波に押されて赤字路線や廃線になる場合が多いのですが、応援しています。

 この路線を背景に、映画が制作されたことがあります。映画は、「Rail ways 49 歳で電車の運転手になった男に物語」でした。往年の大スター佐田啓二の子の中井貴一が主演しています。その内容は次のようです。

 『50歳を目前に電車の運転士になる決意をした筒井肇は、大手家電メーカーの経営企画室長。取締役への昇進が内定するなど、東京で妻子とともに暮らす彼の人生は一見、順風満帆そのものだった。そんなある日、故郷・島根に住む肇の母が倒れたという一報が入る。さらに、親しかった肇の会社の同期が自動車事故で亡くなった。久々に帰郷した肇は、家庭を顧みてこなかったこれまでの人生、そして今後の人生について考えた。そして自分の子供の頃の夢だった「一畑電車の運転手になる」ことを実現すべく会社を退職し、一畑電車に中途入社することとなった。晴れて運転士となったのは肇の他にもうひとり、肘の故障でプロ野球入りの夢を絶たれた青年・宮田がいた。(ウイキペディアによる)』

 50歳で、男の夢、男の浪漫、子どもの頃の夢を、現実にしたのですから、正直、『いいなぁ!』と羨ましく思わされた映画でした。思い返しますと、今のように衛星もなければ、コンピューターもない時代、自分は、絶海の海をゆく遠洋航路の船に乗って、本国や、訪問国、海上の船たちと、モールス信号で位置確認や情報交換をする「通信士」になるのに憧れたのです。

 その動機づけは、父の机上のモールス信号の発信機でした。簡単な仕組みなのに、はるか彼方との間で、意思を疎通させる仕組みに、強烈な関心を向けたのです。父は、軍部や本社との間で、機密の連絡を取り合っていたのでしょう。それを見聞きしていた私は、『無線通信士になりたい!』を持ったのです。

 小学校に入って、56年を担任してくださったS先生、中学三年間を担任してくださり、社会科を教えてくださったK先生から、強烈な感化を受けたのです。世の中に起こったこと、起こること、社会の仕組み、世界、歴史の歩み、将来の展望、人間などについて教えられて、『教師になりたい!』と思ってのです。

 立たされ坊主なのに、散々迷惑をかけたのに、叱ったり拒絶されなかった先生に、『よく立ち直った!』と言われて、ハッと目が見開いた自分でしたが、その感動と感謝が大きかったのか、教師になれたのです。教育学を学んだのではないのですが、中学一級、高校二級の教員免許を取って、実際に、女子校の社会科教師に就くことができたのです。

 一緒にボールを、追いかけ、投げ合ったクラブ仲間が代表で、『準、本当にお前教師してるんだ!』と、訪ねて来て、目をまん丸くして、じっと見ていたのです。学園事務所の受付で、10分くらい話し合ったでしょうか。お祝いと菓子折りを持ってきてくれました。悪(わる)が教員になったのが信じられずに、確かめに来たのです。
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 牧師になった時には、もうだれも来ませんでした。ただ、お金を借りに一人の級友がやってきたことがあっただけでした。お母さんがクリスチャンだとかで、その縁ででしょうか、くたびれた格好で来たのです。二万円ほど貸さずに上げました。子育て中の流行らない牧師には身一杯でした。

 「1:15 『キリスト・イエス罪人を救はん爲に世に來り給へり』とは、信ずべく正しく受くべき言なり、其の罪人の中にて我は首なり。

1:16 然るに我が憐憫を蒙りしは、キリスト・イエス我を首に寛容をことごとく顯し、この後、かれを信じて永遠の生命を受けんとする者の模範となし給はん爲なり。(文語訳聖書 テモテ前書11516節)」

 叶えれれた夢、叶えられかった夢がありますが、考えても見なかった、「キリスト教伝道者」になった、自分の人生の展開には、未だに驚きいったままでおります。今は責任から離れておりますが、ただ「赦された罪人」の感謝な今があるのみです。

 母ですが、母にも夢があったのでしょうね。山陰の宗教都市で、養女であった母には、結婚への夢、母親になる願いがあって、それが叶えれれただけではなく、心の奥に秘めた” Dream “ があったに違いありません。兄たちや弟は、何か母から聞いていたでしょうか。自分は聞かずじまいでした。

(ウイキペディアによる「一畑電鉄」、Christian clip arts による説教するパウロです)

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台湾の離島を懐かしみながら

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 在華13年の間、その後半頃には、3ヶ月に一度、台湾の金門島に日帰りをして、ビサの更新をしていました。一時間ほどの乗船だったでしょうか。波止場に牛肉麺屋さんがあってお昼をし、帰りの直近の便で戻るのです。一度だけ旅館に宿泊したことがありました。その近くに、知人の息子さんが、どうしても行きたくて行った、金門の “ 7-11 センブンイレブンに行ってみたのです。今、彼は、東京の名門大学に学んでいます。

 さて、一泊した翌日、drugstoreにバスで出掛けたのです。ところが、帰りのバスの便が少なく、しかも暑い日で思案にくれていましたら、一台の乗用車が、行き過ぎてから戻って来て、目の前に停まって、話しかけてくれたのです。日本人で、訪問中で、バスの便がなくて困っている旨話しましたら、『どこに行きますか?』と聞いてくれて、『アモイ行きの船の出るフェリーターミナルまで行きたいんです。』と言いましたら、親切にも、『乗ってください。お連れします!』と言ってくれたのです。

 あんなに助かったことはありませんでした。車の中で、日本に行ったことがあって、とても素敵な国だと、思い出を話してくれました。私は、以前、本島の台北から高雄まで、宣教旅行を兄と一緒にしたことがあったことなど話していたら、ターミナルに着いたのです。それで感謝をしようとしましたら、『不用buyon!!』と言って受け取らないで去って行かれたのです。爽やかな若いcouple だったのです。

 それ以前、台南にいた時に、日本語の上手な方と話をしていましたら、『日本統治の時代には、駐在所があって、家に鍵をかけなくても、治安が良くて、泥棒が入ることなどなかったんです!』、服の縫製と輸出をされれいる方が、お茶を立ててくださった時に聞いた話でした。駐在さんがいて、街を守っていてくれたので、平和だったのだそうです。対日感情は、とてもよかったのです。日本が敗戦で、撤退した後は、元の木阿弥(もとのもくあみ)、で、昔の台湾に戻ってしまったのだそうです。

 日本の侵略だけが取り上げられる中で、日本支配の優点を、台湾のみなさんが、前の世代から語り継いでいた日本への好意でした。台湾の南西部の農地は、塩分濃度が高かったそうです。それで、米などの収穫量が、他の地域に比べて少なかったのです。そんな嘉南平原が、農地の生産力を強化して、穀倉地帯に変わっていった理由がありました。

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 日本人の八田與一が、農業用水確保のために、灌漑用ダムを建設したからです。それが、「烏山頭水庫wushantoushuiku」と呼ばれた農耕用の貯水ダムなのです。これを設計し建設した、八田與一は、石川県の現在の金沢市で生まれ、東京大学で土木工学を学び、台湾総督府の土木部門に就職しています。1918年に、台南の嘉南平野の調査を始めているのです。旱魃があって、農地としては使えない状況であるのが分かって、灌漑事業の必要性を感じ、国家公務員の職を辞して、一介の技士として、ダム建設に当たったのです。

 1920〜30年の間、途中日本本土の東京を中心に襲った、関東大震災(1923年に起きました)の最中も、ダム建設に励んだのです。八田與一は、ダム建設の実務だけではなく、共に働く仲間の福利厚生面にもl気を使った人だったようです。宿舎・学校・病院なども建設整備しています。温情あふれる指導者だったからでしょうか、顕彰碑(胸像)などが、今でも烏山頭水庫の岸に建てられています。

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 2014年に、台湾映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」が、台湾で製作上映されたのですが、その映画にも、八田與一が登場する場面がありました。嘉義農林学校の野球部を、甲子園中等学校野球大会に出場させた、元松山商業の監督・近藤兵太郎が猛練習の指導をして、台湾代表として出場し、準優勝したのです。昭和6年の夏のことでした。『球(たま)は霊(たま)なり。霊正しからば、球また正し』と言い残して、野球の真髄を突いておいでです。八田と近藤は共に、台湾で活躍した代表的な日本人と言えます。

 こう言った日本人が、占領下で、政治的な思惑とは関わりなく、人道的な行いをして、活躍したと言うことこそ、21世紀の私たち日本人が忘れてはいけないことに違いありません。上の兄に誘われて台湾訪問をしたのですが、台北から高雄まで、台湾新幹線に乗って、幾つもの街で降りて、兄と私は別々の教会を訪ねて、特別集会を持たせていただいていたのです。

 すっかり台湾贔屓になって、美味しい台湾料理をご馳走になって3、4kgも体重が増えてしまいました。美味しい中国茶を飲みながら、日本統治時代を聴かせていただき、いつか家内と一緒に訪ねたいと思っていたら、大陸に導かれてしまい、13年も過ごすことになった次第です。

 この13日に、台湾の総統選挙が行われ、頼清徳氏(民進党)が、第八代総統に選ばれました。第四代の総督の李登輝氏は、新渡戸稲造の知的にも信仰的にも、強い影響を受けた指導者でした。これからの台湾政治に、その頼氏の活躍に期待します。

 この金門島の名産は何だと思われますか。包丁などの刃物なのです。大陸から打ち込まれた砲弾の破片を原材料にしているのだそうで、お土産屋さんには、たくさん並べられている、悲しい歴史があるのです。私たちにはとても懐かしい島であります。

(ウイキペディアによる「台湾風景」、嘉義農林の準優勝チームです)

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森有礼の思う壺かも

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 「劣等感」と言うと、〈劣っていて役立たず〉にみられてしまうので、” complex “ と言い換えて、劣等感に被せものをして誤魔化そうとする、心の動きが見えて仕方がありません。

 市の支援センターからの「ふれあい通信」が、今朝、配られてきました。そこに、「フルエル(震える)予防をしましょう!』とあります。ごめんなさい、歳をとると、体が震えるので予防をしよう、と言う注意勧告かと思いましたら、“ Frailty /フレイルティを、変えて言っているのが、辞書を引いて分かったのです。「フレイル加齢により心身が老い衰えた状態」の「虚弱」と言う意味だそうです。「虚弱」は、強いことばなのでしょうか。『それを使わない方がいい!』で、英語のカタカナになったのでしょうか。

 このところ、ラジオのニュースとか解説とか特別時事問題などを毎夕聞くのですが、実に、〈カタカナ〉の使用が目立つのです。で、最近は英和辞典をそばに置いて、『今なんて言ったの?』、「何ていう意味?』の答えを見つけるばかりなのです。

 これって、日本人の言語complex なのではないかと思うことしきりなのです。明治時代の書生さんが、

  デカンショ デカンショで半年暮らす  ヨイヨイ
あとの半年ゃ寝て暮らす  ヨーイ ヨーイ デッカンショ 

 薩摩芋の種類に〈デカン薯〉があって、それを言っているのかと思ったのですが、それは、「デカルト」、「カント」、「ショウペンハウエル」のことを言ってるが分かったのです。西洋思想や学問の学びの象徴と言って優れた西洋の哲学者の名を、放歌高吟した、書生さんたちの心意気で歌ったのです。

 それくらいはいいと思いますが、爺さん婆さんが聞くニュースの中に、英語のスペルをはっきり言ってくれるなら分かるかも知れないのですが、日本語化した英語を聞かされて、ただ混乱するだけで、『こんなこと知らないと時代遅れになるのではないか?』と恐れるあまり、「震える」ことなんだ、歳とると、よくおじいちゃんが震えていたからなあ!』と思い突いたわけです。

 この傾向、すなわち〈カタカナ語化〉は、どこまで行くのでしょうか。日本語が消えてなくなり、日本での英語化を提唱した、明治の要人、文部大臣を務めた森有礼の思う壺になっていくのでしょうか。日本語の表現とは、綺麗で、素晴らしいので、もっと生かして用いていただきたいものです。

(ウイキペディアによる「カタカナ表記」です)

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