春立つ

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 明日は「立春」です。文化遺産の一つと言われるのが「二十四節気(にじゅうしせっき)」でしょうか。占いとか方位とは関係がなさそうで、中国大陸の黄河流域の一年間の気象や植生などをもとにしてでしょうか、春夏秋冬の四季の移りによって定められていて、たとえば「立春」と聞きますと、『あっ、春!』と思わず思われてしまうのですが、そうしますと、どうしても心の中がポカポカしてくるではありませんか。

 この二十四侯は、それぞれが三区分されて「七十二侯」になっているのです。これからの248日頃を「東風解凍(とうふうこおりをとく)」、2913日頃を「黄鶯見睆(こうおうけんかんす)」、21418日頃をl「魚氷上(うおこおりにのぼる)」と、三区分されています。この日曜日からは、東風(こち)が吹いてきて、結氷した氷を溶かし始める時を言っています。

春立ちて まだ九日の 野山かな   芭蕉

 芭蕉は、どこを訪ねたのでしょうか、山を見渡して眺めていたのでしょう。まだ九日しか経っていないのに、野山の木々の芽や、枯れ草の中に新しい若芽が生い始めているのを見つけたのでしょうか。きっと、春というのは、感覚的なもので、先取りしたい思いが反映しているのかも知れません。それほど、寒い冬を超えてきたので、期待感が強いからでしょうか。

 「暖冬予報」だったのが、実際は、厳冬だった今冬ですが、そういえば、もう陽の光は強くなり、空気は冷たく風は寒風が吹いていても、暖かさが感じられます。位置的には、ずいぶん違う大陸の黄河流域の気象による一年の区分なのですが、そう思わされ続けてきた遠い日本の現代人の私たちは、移り変わる気象を、同じように感じてしまうのでしょうか。大きな被害をもたらせた能登半島地震のあった元旦に比べて、1ヶ月経った今は、春が待ち遠しくて、明るく暖かな春に期待するのでしょう。

春立つや 山びこなごむ 峡つづき   飯田蛇笏

 暦を見ると「立春」、昨日と今日はほとんど違いがないのですが、立春だと思うほどに、山側に立って、その山に向かって叫んでみると、山びこが返ってきたのです。その山まびこの響きも、何やら心が弾むような、和むような感じがしていたのでしょうか。

 十七文字で、季節を謳う俳人のみなさんの感性には、驚かされ、日本語の素晴らしさを感じずにはおかれません。

春立つと 聞けば聞くほど 暖かく

1 春よ来い 早く来い
  あるきはじめた みいちゃんが
  赤い鼻緒(はなお)の じょじょはいて
  おんもへ出たいと 待っている

2 春よ来い 早く来い
  おうちのまえの 桃の木の
  蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで
  はよ咲きたいと 待っている

 作詞が相馬御風、作曲が弘田龍太郎の「春よ来い」ほど、春待望を強く願った歌はありません。メロディーも春立つ感じにあふれているようです。

(ウイキペディアによる春に花「さくら」です) 

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最近の病院外来模様

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 一日、平均して数千人の患者さんが、家内も含めてですが、五十年の歴史のある医科大学病院にやって来れられておられます。みなさんは、穏やかな面持ちで、《待つこと》に徹しておられるのです。7、8分ほどの診察のために、順番を待っているわけです。こんな忍耐深い国民は、世界でも珍しいのかも知れません。

 今は病院も電子機器や電光掲示板の時代です。まず検温機の前に立って、手の消毒をし、受付機に診察券を入れますと、患者番号が印字された番号札が出てきます。受付順番の番号と、受診番号の二つの番号が印字されてあるのです。2枚同じものです。一枚には、このまま採血、採尿、レントゲン撮影に直接行くようにと指示されてあり、もう一枚は、受診時や支払い時に、掲示板に自分の番号を見つけて、診察室に入ったり支払い機の前に立つ時に必要な番号なのです。その一片の印刷紙が、一日コースをとどこおりなくすまさせてくれるわけです。

 受診業務を円滑にするために、この5年の間には、工夫と改善がなされているのに、驚かされます。研究している部門があるのでしょう。透明ファイルを持ち歩くことが少なくなってきています。

 病院医療事務というのは、大変なことのようですし、医療に携わる医師や薬剤師や医療技師や清掃や運搬や警備など、様々な分野に、数千人の従事者がいるのです。病院社会は。肥大化しているのです。

 もう様々な人が往来する病院世界に、圧倒されるのですが、まれにしかないと思えるのですが、高い声を上げて、自己主張している患者さんが、この五年間、何人かおいででした。これだけ多くの人の社会の中では、実にわずかな割合なのです。ほとんどの患者さん、私たちのように付き添い人も含めて、《待つ》のです。

 先週の家内の通院日に、 支払いをしようとしていましたら、七十代ほどの人が、声を荒げて、『50分も待たせやがって!』と、カウンター側に立って、中の事務員のみなさんに向かって、初めは小声だったのですが、激昂していくうちに、大声に変わって、『さっき、俺を睨んだだろう!』と言い始めたのです。聞き流していた女子事務員の方は、無言で仕事をしていたのですが、『こういう顔なんで、すみません!』と言ってしまったのです。

 そうしましたら、『責任者を出せ!』と言い始めたのです。その事務の方が、『私が責任者です!』と言ったら、しばらくゴモゴモ言と口ごもりながら、何か言って、悪態を吐きながら去っていったのです。退屈な病院受付で、一悶着を眺めていて、間に割って入ろうとしましたが、どうも自分の介入する仕事ではないなということで、傍観していたのです。

 病情が重かったり、で、なかなか待つのが厳しくなったりするのでしょうか、2年ほど前には、四十代ほどの人が、『お待たせしました!』と名を呼ばれたのです。最近は、名前では呼ばなくなっていますが、番号だけで呼び、確認は小声で名前を聞いています。『お待たせじゃあねえや。何十分も待たせやがって!』と、周りに緊張が走るようなやり取りをしていたのです。

 なかなか待てない時代になっているのかなと思いますが。大人の世界にも、様々なことがあるのでしょう。その他の週日、他の時間帯には、もっと激しいことがありそうです。華南の街の市立総合医院に、家内が入院していた時には、医師と患者がつかみ合いの喧嘩を目撃しています。あちらの医院は、前払いで治療が行われているのです。故意に支払わないのを防ぐためなのでしょうか。治療をやめられて、耐えられずに、患者が医師につかみ掛かったのです。

 どこもかしこも、人の集まる所は、悶着、不和、争い、闘いが起こるのでしょう。でも、ほとんどの人は、忍耐深く生きておいでです。胃が痛かったり、偏頭痛があったりしたら、堪忍の緒が切れてしまうこともあるのでしょうか。だから、世の中は面白いのかも知れませんが、そんな面白い光景を見せてしまわないように、自分はしたいものです。

(ウイキペディアによる獨協医科大学病院です)

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この日によろこびたのしまん

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 二月になりました。陽の光が、強く感じるようになってきて、窓から入る陽に、いよいよポカポカさを感じるようになってきました。昨日は、通院で、宇都宮まで東武宇都宮線の電車で出かけましたが、車窓から入る陽が強く、日除けが下されるほどでした。

 私たちの国では、二月を「如月(きさらぎ)」と呼んできています。中国の古語辞典には、「二月を如となす」とあり、「従う」、「赴く(おもむく)」と言う意味が、この「如」の漢字にあると言われています。それで、中国では、「如月」と呼ぶそうです。

 この月の「如月」の名の由来には、いくつも説があるようです。最も有力なのは、「衣更着(きさらぎ)」だそうです。実に昨夜は、いつもの夜具では寒かったので、夜中に、一枚重ね着をしてしまいました。暖かさへの期待は大きいのですが、現実はまだ寒いので、そうするのでしょうか。実感として、衣更着の昨夜でした。

 また別名もあります。「木芽月(このめづき)」や「梅見月(うめみづき)」、さらに「雪消月(ゆききえづき・ゆきげつき)」などがあるそうです。俳人や歌人が言ったのでしょうか、そんな風に思えるのも楽しいもので、暖かな春への期待が大きく膨らみそうです。

 そう言えば、中国の華南で過ごした年月が長かったので、中国のみなさんの新年を迎える気持ちの大きさを、いつも感じていました。旧暦で定める「春節」を迎える、高揚感、期待感が大きいのを痛切に感じたのです。今年は、210日が春節なのだそうです。

 晴れ着を用意し、ご馳走を作り、親族が集まるのです。子どもたちは、「紅包(hongbao お年玉)をもらえるのです。四人ものおじいさんやおばあさんから、親戚から、訪問客からももらえるようです。「紅」の色はお祝いの色彩で、スーパーマーケットなどの売り場には、真っ赤な下着が山のように積まれていて、赤一色に飾られていたのは圧巻でした。

 寒い冬が終わる区切りだったのでしょう。また新しい年、その年への期待感が大きかったのです。自分たちの子どもの頃、昭和は、お正月を迎える気持ちは大きく膨らんでいたのです。お雑煮とおせち料理、お年玉、追い羽根つき、駒回し、凧揚げなどに興じたのです。

 能登半島での地震による被害の大きさに驚かされ、ウクライナやイスラエルなどでの戦争、そのほかの紛争など、国内でも騒がしくも暗いニュースが溢れていますが、私を励まし続けてきた聖書のことばがあります。

 『これヱホバの設けたまへる日なり われらはこの日によろこびたのしまん。(文語訳聖書 詩篇11824節)』

 記念日だけではなく、365日のすべての日を、感謝をもって喜び、楽しむことを願っています。きっと暗い日も、涙の日も、苦しみを味あう日もありますが、「主への期待」を、心に溢れさせていたいと思っています。

(ウイキペディアによる紅梅です)

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Sunrise

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  アメリカのウエストコーストの “ sunrise “ の写真と、ここ栃木の朝ぼらけの写真です。日の出は、一日への期待があふれ出てくる時でしょうか。聞くのが辛いニュースの多い昨今、好いことへの期待で一日を迎えたいものです。

 『日の出る處より沒る處までの列國の中に我名は大ならん 。又何處にても香と潔き獻物を我名に獻げん 。そはわが名列國の中に大なるべければなりと萬軍のヱホバいひ給ふ。(マラキ書111節)』

 「日の出づる国」と呼ばれた日本から、ハワイでしょうか、「日の沈む国」に至る全ての国で、万軍の主、栄光の王の御名が、高らかにほめたたえられると言う預言のことばです。

世界中どこででも
新しい歌をささげよ
主に歌え ほめたたえよ
御救いの知らせを告げよ
まことに主は大いなる方
賛美されるべき方
威光と尊厳と栄誉 光栄と力
ただ主だけを礼拝せよ
天をつくり 支えている主 

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古代への浪漫 下野国版

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 東京の大森に、「大森貝塚」があり、モースによって発見され、「日本考古学の発祥の地」とされています。モースは、東京大学の教授でしたが、横浜から新橋への汽車の窓から、外を眺めていて、この貝塚を発見し、その発掘に従事しています。18776月のことでした。動物学に学者で、進化論者でしたが、三十代のモースのモースの興奮が想像されます。

 彼の日本滞在記の「日本その日その日」を、上手なスケッチ入りで残していて、講談社学術文庫として出版販売されていて、今でも購読することができます。明治初年の出来事を、外国人の目でみ滞在記を、ペンで記したもので、実に興味深い一冊です。

 この「大森貝塚」は、教科書で、私たちは学んできています。ところが、栃木県の大田原市湯津上地区に、「侍塚古墳(上下二箇所あります)」があるのです。那珂川の西側段丘の上に位置していて、それを、元禄51692)年に、あの徳川光圀が、発掘調査させているのです。

 今は国指定の史跡となっていて、「大森貝塚」よりも遥か以前に調査が行われていますので、ここが、「日本考古学発祥の地」と言われるのです。

 私は、多摩川の西岸に、「七つ塚古墳」があることを、級友に聞いて、跳んでいって、土を木の枝で掘って、土器の破片や鏃を見つけて以来、古代への浪漫に目覚めしまったのです。中学に入ってからは、担任や社会科教師が顧問の高校の考古学発掘班に加えてもらって、日野市の日野小学校の校庭、府中市のJR分倍(ぶばい)河原駅の近くの空地、調布市の国領にあったミシン会社の敷地で、発掘調査の手伝いをしたのです。

 興味津々で、スコップや小箒を手に、先輩たちに倣って、土を起こして、貝塚や住居跡を掘り当てたのです。あんなに楽しかったことはありませんでした。あのまま考古学にのめり込んでいたら、きっと研究者にでもなっていたかも知れません。

 それで、栃木に住み始めてから、地図を眺めていましたら、隣町の壬生町にも、「古墳」があるのを知ったのです。入院中の家内の病院に行く途中、東部電車宇都宮線の沿線に、古墳らしい一廓を見つけたのです。それで、家内の退院後に、そこに出掛けてみたわけです。

 「牛塚古墳」と、「車塚古墳」で、すでに案内板が置かれていて、発掘調査も行われていたのです。壬生町の「歴史民俗資料館」にも行ってみました。「三つ子の魂百までも」で、小学生の頃の興奮が、蘇ってしまい、「古代への浪漫」、自分の祖先たちが、どんな風に生きていたのかへの興味が、いまだに尽きないのです。

 これからの課題は、「上侍塚古墳」に行ってみることです。車の運転をしなくなった自分には、交通の便が悪いので、自転車を輪行袋に入れて、電車で行ってみようと考えているところです。暖かな日が待ちどうしい浪漫ジイジです。

(ウイキペディアによる2021年発掘調査時の上侍塚古墳です)

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そこまで教えてくださった恩師方

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 社会への関心、世の中のことへの興味を呼び起こしてくれたのは、小学校5、6年の担任の先生、中学校3年間、「社会」の授業を担当し、地理や日本史や世界史などを教えていただき、担任だった先生でした。とくに、中学校の担任の先生のお宅に、5人ほどの同級生でお邪魔したことがあったのです。あの中で、後に教師になったのは自分だけだったでしょうか。仕事を選び、それを決めるのにも、強い影響力を与えてくれた教師でした。

 JRの路線の駅名にもあるお名前で、後に高校の女子部の中学校の校長をされておられたのです。高校受験を控えていた長男に、自分の出た学校を見せて上げようと、息子を連れて、訪ねたこともありました。

 ある授業で、戦争のことを学んでいる中で、「日本軍の軍人の特徴」について触れられたのです。世代的には、この先生も従軍経験がおありだったと思います。授業で、ご自分の体験談を話されることはなかったのですが、『日本人ほど、軍人になるのにふさわしい国民はないのです!』と言われたのです。軍人に最適な資質を備えていると言うわけです。

 それは、「死を恐れない」、「命令に絶対服従」、「罪悪感がない」、「残虐な行為ができる」と教えてくれました。私の父は、兵士として戦った経験はありませんでしたが、戦前の軍事教育を、学校で受けた世代でした。そう言った教育がつちかったのが、「日本精神」だったのでしょう。誰もが、そうだった、そうあるべきなのは、その時代の子たちだったのを思い出したのでしょうか。

 「忠君愛国」の日本人であることを、戦前の日本は、教育でも政治でも行政でも、広く国民に求めたのです。あの長い戦争が敗戦という形で、終戦を迎え、平和の時代に、自分は育ったのですが、神風特攻隊や予科練の勇姿に憧れていたのです。どうも「日本精神」の残り滓を持っていたのです。

 『貴様と俺とは同期の桜!』と平気で歌う少年だったのです。日本人の優等性にこだわり続けていたのが、今思うに不思議でならないのです。担任の同乗する遠足のバスの中で、「軍隊小唄」、

 (一)
いやじゃありませんか 軍隊は
カネのお椀に 竹のはし
仏さまでも あるまいに
一ぜん飯とは なさけなや

(二)
腰の軍刀に すがりつき
連れてゆきゃんせ どこまでも
連れてゆくのは やすけれど
女は乗せない 戦闘機

(三)
女乗せない 戦闘機
みどりの黒髪 裁ち切って
男姿に 身をやつし
ついて行きます どこまでも

(四)
七つボタンを 脱ぎ捨てて
いきなマフラー 特攻服
飛行機枕に 見る夢は
可愛いスーチャンのなきぼくろ

を歌ってしまったのです。担任が、難しい顔で振り返って、自分を見たのが分かり、『しまった!』と思いながら、最後まで歌い切ってしまったのです。そう言った「日本精神」を、8年の間、私を育ててきださった宣教師さんは、取り扱ってくれたのです。路傍伝道で、声を振り絞って得意がっていた私に、

『かれは叫ぶことなく聲をあぐることなくその聲を街頭にきこえしめ。(文語訳聖書イザヤ書42章2節)』

を示してくれたのです。イエスさまは、路傍で、叫び声を上げることなく、穏やかな口調で、人々を教えられたことを、二十代の私に教えたのです。そんな恥体験を思い出すのです。神の国を継ぐ者には、ふさわしくないもの、「日本精神」を、取り除く務めを、教会の主は、宣教師、しかもアメリカ人の宣教師を通して、その業をなさったのを思い出すのです。

 ずいぶん前になりますが、台南の教会に参りました時に、その教会の牧師さんとの交わりの中で、その街で、日本人の宣教師が奉仕をされていたそうです。ところが、途中で帰国をされたのだそうです。『何かあったのですか?」とお聞きしましたら、『この方が持っていた「日本精神」が原因だったと思います!』と言われたのです。

 ところが私の家内は、「日本人」へのこだわりのない家庭で育って、子供の頃から英語を父親から学び、アメリカ人が出入りする家で育ったのです。結婚して彼女は、『何人(なにじん)なんてこだわらないで、同じ〈人〉としてみるべきだと思うわ!』と、よく私に言いました。そんな彼女の忠告と、八年間の私の師匠の忍耐によって、「日本精神」から自由にされることができたのです。

 今も、あの怪物が、怪しく動き始めてはいないでしょうか。日本製品や、日本人の資質の優秀さを自ら誇る心に、蠢いているかも知れません。日本がかつて支配した近隣の国が、経済力をつけて、その国々の誇りが、似たような精神を誇示しているように感じます。それがぶつかり合うような危機も感じているのです。防衛費の予算規模が膨らんでくるのは、国防という名の戦争準備でしょうか。わが父の世代が駆り出された戦争、その「大東亜」という言い方が、近隣の国にも意識され過ぎているかも知れません。こんな思いが、思い過ごし、杞憂であって欲しいのですが。

(この日曜日の朝の東の平和な空です)

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真冬の朝空に

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 何か感じたのでしょう、玄関を開けたら、空に気球が見えたではありませんか。快晴の冬空に、二つの気球が見えたのです。悠々と飛ぶ姿を、鴨が追って跳んでいました。自分たちの領域への闖入者に驚いたのでしょう。

 『後に生きて存れる我らは、彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎へ、斯くていつまでも主と偕に居るべし。(文語訳聖書テサロニケ前書417節)』

 子どもの頃の夢の一つは、あんな風に空を飛ぶことでした。翼がなくては飛べませんが、やがて、主が迎えにきてくださる時、空中に携挙されることを、今朝も思い出したのです。ある祈祷院の玄関の壁に、この携挙を描いた、一幅の絵が掲げられてありました。間もなく、その時がくることでしょう。

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古湯の金泉湯の湯治を懐かしむ

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 温泉歴、と言うよりは、「湯治歴」の方が良いかも知れません。高校2年の修学旅行で、北海道をバスで周遊したのです。高校生の温泉ホテル宿泊というのは、風紀上いいのでしょうか、近くで酩酊しておかしな大人たちの蠢く動きの中、「修学」ではななく、「社会探訪学」に変えた方が良さそうです。

 函館の近くの湯の川温泉、大町桂月が名付けたと言う層雲峡温泉などは、あの1960年代の初め頃には、とても大きなホテルがあって、高度成長期といった活況を見せていたのです。その温泉浴場は、学校のプールが三つ分ほどの広さで、あふれるような温泉客がありました。

 家族旅行などない時代でしたから、それが自分には初めての温泉体験だったのでしょう。謳い文句は、『〇〇に効く!』の効用だったのですが、温泉願望の年齢にはまだ達していなかったので、何も覚えていません。別府出身の同級生の紹介で、九州を旅した時に、別府温泉にも行ったことがありました。硫黄臭の強さに驚いた覚えがあります。

 23歳の時に、神奈川県の県職員をしていた友人の寮に、招かれて訪ねた時、ビールを一緒に飲んだのです。キャッチボールをしようと言うことで、彼が暴投をして、塀の向こうに飛んで行っってしまいました。それを取りに、塀によじ登ったら、落ちてしまい、左腕を思いっきり地面に打ち付けてしまったのです。家に帰って、兄が通っていた整骨院に跳んで行ったら、『俺にはできないから、親父の所に行ってくれ!』と言われて、レントゲンを撮ってもらったら、複雑骨折でした。副木を当てて、ずっと固定し、息子さんの家でマッサージ治療を続けたのです。

 ところが腕が固まってしまい、どうにもなりませんでした。再度、親父先生を訪ねましたら、さすが熟練の整骨師で、『エイッ!』で伸びてしまったのです。その機能回復で、温泉行きを勧められたのです。職場の上司が、増富村に、学校関係の温泉場があるので、紹介状を書いてくれて、温浴治療をしたのです。4日ほどいたでしょうか、効果覿面で、治って、いまだ問題なしです。

 それから、温泉の効能を認めたのですが、39歳の時に、腎臓の摘出手術をしたのです。その後の養生に、温泉に入るのがいいと言うことで、上の兄が探してくれたのが、あの「信玄の隠し湯」と言われる増富温泉で、今では廃業してしまった古湯の宿、金泉湯でした。そこに一週間ほど湯治で滞在したでしょうか。

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 そこはラジウム温泉で、ラムネのような炭酸水が、細かな泡を体につけてくれ、『これが効くんです!』と、冷湯の中に、ジッと入り続けるのです。みなさん、お腹や胸や背中などに、手術痕があって、大手術の後、そこで湯治をしていたのです。癌治療のみなさんでした。人形峠にも同じ泉質の温泉があるけど、『ここが一番!』と言う湯治客が多かったのです。

 ぬるい温泉が流れ落ちる、岩の出口に、タオルを巻いて、口をつけてラジウム臭のガスを吸うのです。みんな必死だったでしょうか、死なずに生きて来て、もう少し生きたいと願う人ばかりだったのです。39歳の自分には、想像のつかない熱心さに圧倒されたのです。

 あれ以来、温泉病にかかったのでしょうか、時々、その増富温泉に出かけたのです。その部落の北側の峠を越えると、レタス栽培で有名な信州長野の川上村に行き着くのです。焼肉なんて食べたことはなかったのですが、村の中に焼肉屋さんがあって、お昼を、家内としたことがありました。放牧も盛んな地で、肉も野菜も新鮮で、あんな美味しいお昼は食べたことがありませんでした。あれから、数年の間、時々、休みの日に出かけたのです。「英気を養う」とは、あのことでした。

 ただ、歳を取った父を案内して、ああいった山間の鄙びた温泉に、連れて行って親孝行をしたかったのですが、61歳はまだ若かったのですが、誕生日を過ぎてすぐに、主のもとに帰っていったのです。し残したことがあるのが、いまだに悔やまれています。

(ウイキペディアによる増富温泉の近くの「瑞牆山(みずがき)」、現北杜市の市花の「向日葵」です) 

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誠実を愛して

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 『人よ彼さきに善事の何なるを汝に告たり ヱホバの汝に要めたまふ事は唯正義を行ひ憐憫(誠実)を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや (文語訳聖書 ミカ書68節)』

 小学生の頃に住み、3年ほど働いた、八王子の街の景観の中で、『綺麗だなあ!』と思わされたのは、国道20号線の「銀杏」の街路樹でした。春の緑も合わせ、圧巻は、秋に黄金色の葉に変わる姿です。江戸城を、甲州街道上で守るために定められ、家康没後、墓所となった日光東照宮の警護の勤めを任じられた「八王子千人隊」の隊士たちの居住区の近くの甲州街道沿いにあるのです。

 その千人隊士が、通ったのは、日光の「杉並木」です。今でも主要道路になっている、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道の「日光神領」内に、松平政綱が、20年ほどの年月を費やして整備したものなのだそうです。今でも、排気ガスにめげずに、きれいな並木の姿を見せています。旅人を、夏の熱射から守っているのです。

 この街路樹は、正綱のように、徳川の三代の将軍への敬意を込めて、寄進したものだと言われています。『ここは道路と歩道の路側帯がある!』と言う役割を担っていたのです。ちなみに、ここ栃木の街路樹は、「トチノキ(栃の木)」で、きれいな花をつけるのです。どこの街の街並みにも、特色的な街路樹が見られるようです。

 ところが店舗前の街路樹を、枯葉剤を撒いて枯らしてしまう企業のあり方に、驚かされてしまいます。それをしたのが、車両販売をし、安全の運転を促進さなければならない企業が、そんな考えをもって、店の景観だけを優先し、宣伝のためでしょうか、店舗の見えやすさのために、街路樹を枯らしてしまった行為は、車両販売会社としては、信じられない行状です。

 昨今の日本有数の企業、これも自動車を生産して来た大企業が、速度テストなどの記録を改竄していたと言うのにも、驚いてしまったのです。気の緩みか、驕りか、その両方が、そんな企業姿勢を見せ付けられてしまうと、父や我々の世代が、地道な努力をして作り上げて来た気概が、傷つけられるのは、許し難いことです。

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 《世界のトヨタ》の土台を据え、織物業が、一時期、日本の主要産業だった時代、その織機の製造にために、工夫をし続けて、諦めずに、最良の織機を作り上げた豊田佐吉は、

 『わしの今日あるのは、天の心というものだ。それなら、こちらも社会へ奉仕せにゃいかん道理だ。誠実というその字を見ろ。言うことを成せという言葉なんだよ!』、と息子の喜一郎に言い残したそうです。この企業を親会社とする、自動車製造会社が、「誠実さ」を踏み躙ったのは、許し難いことではないでしょうか。

(ウイキペディアによる八王子の銀杏並木、豊田式木製人力織機です)

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ふじのりんごと相撲と柳川鍋と

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 わが家の食卓に上る食べ物で、欠かさずに置かれる物、食後の desert に欠くことがないのが、「りんご」なのです四つ葉生協と言う生活協同組合の紹介を受けて、その組合員になって、ほぼ5年になるでしょうか。より良い食材を取り扱っていて、米、醤油、味噌、酢、魚、肉、野菜、果物などを買っていて、このりんごも、その一つです。

 ネオニコチノイド系農薬の不使用の農家が栽培している物で、我が家が購入しているのは、正規品ではなく、擦り傷や汚れのついたりんごで、先週の便で届いたのは「ふじ」でした。味は抜群で、蜜のある物が時々あります。

 この「ふじ」は、青森県南津軽郡藤崎町で、誕生した品種で、その町名から、「ふじ」と命名されています。りんご栽培は、この藤崎の隣町の「弘前」で、青森市のホームページに、次のようにあります。

 『りんごの原産地は、中央アジアの「コーカサス山脈」と中国の「天山山脈」を中心とした山岳地帯と考えられていて、ここから世界各国に伝わっていきました。原産地が山岳地帯ということで、もともと寒い地域に育つ植物です。
私たちが食べている西洋りんごは、明治4年(1871)に日本に伝わってきました。
青森県へは明治8年(1875)の春、国から3本の苗木が配布され、県庁の敷地の中に植えられたのが青森りんごの始まりです。以来、今年で130年余の歴史になります。
その後、同じ年の秋と次の年の春に数百本の苗木が国から配布され、各農家で栽培が始まりました。
平成30年産を例にとると、全国のりんご生産量は756,100トンで青森県はそのうち445,500トンで、全国の半分以上(58.9パーセント)が青森県のりんごなのです。』

 弘前市の私立東奥義塾が招いた米国人宣教師ジョン・イング師が、翌年の12月25日のキリスト降誕節に、当時の教え子や信者さんたちに、りんごを分け与えたことが、西洋りんごが、青森県に紹介された最初と言われています。

 当時の東奥義塾塾長で、弘前市長や山形県知事を歴任した菊池九郎は、そのイング宣教師から洗礼を受けています。その食べたりんごの種を、自宅の庭に植えて、後年、別の台木(だいぎ)に 穂木(ほぎ)を接木(つぎき)したのが、青森県弘前市のりんごの発祥と言われているそうです。

 1962年に、品種交配などを繰り返した結果、1962年に、製品化された「ふじ」が出荷されています。私が、義兄のいたブラジルを訪ねた時に、義兄の移民仲間の方が、このふじの栽培、貯蔵に成功し、その一箱を、滞在先にいた私のために届けてくださったのです。日本で食べた物と同じような美味しい味だったのです。華南の街の果物屋でも、「ふじ」は売られていて、美味しかったのです。

 さて、ふじ発祥の地の「藤崎町」は、「相撲の神様」と呼ばれた、力士の「大ノ里萬助(18921938年)」の生まれた町でした。。出羽海部屋所属で大関を、七年間も張った相撲取りでした。164cm97kgの小兵でしたが、相撲巧者で、とても誠実な性格だったそうです。稽古も熱心にし、後輩指導は厳しかったのですが、弟弟子たちからは、人望があつかったのだようです。

 私たちの世代は、プロレス、プロ野球、相撲に夢中で、学校の校庭でも、家の近所の空き地でも、素手をバットに、ボールをゴムマリに、野球ゲームに励み、また、その相撲も取ったのです。私たちの通っていた学校の校庭に土俵が作られ、そこで相撲巡業が行われて、兄たちの後をついて見学したことがありました。そこで巡業していたのが、二所ノ関一門で、玉の海、琴ヶ濱などの現役力士がいたのです。
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 兄たちの贔屓が、琴ヶ濱(最高位は大関)で、この力士の得意技が、《内掛け(足で、相手の足を絡めて押し倒す技)》で、これを兄たちは得意技にしていたのです。それを自分も真似て、相撲を散って、内掛けをすると、面白いように相手が倒れて行ったので、自分の得意技になったのです。大男を薙ぎ倒したこともありました。

 大相撲、テレビがない時代、ラジオのアナウンサーの取口の実況を聞いて、土俵上の取り組を思い描くのでした。そんな相撲好きの子ども時代でしたが、テレビを置かなかった頃から、疎遠になってしまいました。でも、一度くらいは、両国の国技館に行ってみたいものです。帰りに、浅草の駒形で、柳川鍋(どじょうなべ)を食べて、父を思い出してみたいな、の極寒の朝です。

(ウイキペディアによるりんごの花、柳川鍋です)

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