当番表

『いつまでもあると思うな親と金!』、これは父が常々言っていた言葉です。子どもをさとす実際的な格言と言えるでしょうか。そう言わないときに、父は、『金が木になるとでも思ってるのjか?』とも言っていました。正しく経済的な観念をもって生きるように願った父を、北風が木の葉を拭き落とす初冬の華南のちで思い出しております。

そんな父でしたが、中学に進学する前の年の暮れに、何を考えたのか、『雅、〇〇中に行け!』と、説明なしに一言いったのです。大正デモクラシーの自由な風が、教育界にも吹きこんで、新しい理想に燃えて建学された私立の中学に入って学ぶようにと、六年生の私に挑戦したのです。当然、兄たちが学んでいた地元の中学に入るものだとばかり考えていたのですから、寝耳に水の話でした。父が冗談を言ってると思わなかった私は、小学校の教科書や参考書を入念にみなおしながら、いわゆる進学準備にとりかかったのです。昭和31年の12月だったと思います。

この中学の校訓は、「健康・真面目・努力」でした。暁の星が暗闇の中から踊り出て、世界を照らし、輝かせ、暖かくすることができる人材を育成することを願って建てられた中学でした。たまたまでしょうか、100人ほどの入学者の列に加えてもらって、合格することができました。この中学校は、幼稚園から高校まであって、今では四年制大学もあります。ですから小学校から持ち上がってきた20人ほどの級友も、この他にいました。私が学んでいた小学校から、私立の中学に進学したのは、もう一人、同じ街で会社を経営する社長の娘でした。同じクラスの彼女は、私が入学した中学の女子部に入ったのです。同じ敷地の中にありました。そんな男女別学の学校も、時代の趨勢にみ合って、今では、男女が机を並べた共学校になっています。

その学校で、中学高校と6年間、のんびりと過ごすことが出来たことは、大きな感謝の一つです。まだまだ経済的に力のなかった時代に、私立中学に息子を進学させることは大変なことだったのだと思うのです。同級生たちは、中央競馬会の調教師や、医者や社長の息子たちでした。

そんな父に倣って、私も四人の子どもたちに教育を受けさせることができ、一応の社会人として自立した彼らを送り出すことができたのです。親業を卒業したと判断し、ほっとした私は、『今度はわれわれの番だ!』と一念発起して、天津の語学学校で中国語を学び始めたのです。それが2006年の秋でした。健康にも恵まれて、五年目の秋を華南の地で迎えた今月、家内が「胆石性膵炎」を発症し、市第二医院に入院してしまったのです。

軽率というのでしょうか、脳天気というのでしょうか、幸い健康が与えられて、病気になるということを想定しないで生きてきた私たちにとっては、その軽卒さから目覚めさせる発病と入院でした。『備えあれば憂いなし!』との格言が、思いをよぎるのですが、もう若くない自分たちの軽率さで、4人の子供たちに心配をかけてしまったことを、ほんとうに申し訳ないと思っております。

家内が猛烈な痛みと戦っています時に、私たちの友人が三人、車で駆けつけてくださって、医院(中国では病院を医院といい医院を診療所といいます)に、支えか抱えながら連れていってくれました。点滴を受けながら、救急外来の担当医は、『入院したほうがいいでしょう!』とのことで、急遽入院になった次第です。14日の日曜日のことでした。入院しましたら、日本のように完全看護ではありませんから、私たちの友人が「当番表」を作って、1週間分の表を作成し、それに従って、19日の夕方の退院の時まで、途切れることなく夜昼、交代しながら、一人、二人、三人と介護してくれたのです。

「魚釣島」の一件が起こり、中国各地で反日・抗日のデモの噂が高まっている中、かつての侵略者「日本鬼子」の末裔の私たちを、温かく支えてくださったのです。点滴が一週、間断なく行なわれていましたから、夜間に眠ることなく、無くなると看護婦を呼び、家内の下の世話、乾ききった唇をぬらし、手や顔を拭くといった愛の行為を続けてくださったのです。『遠くにいる家族よりも近くの他人』という諺がありますが、歴史的に、感情的に最も距離のある彼らが、家族にするように接してくれたことは、万感胸を打って感謝に耐えないのであります。

発病する前に、面識のある中華系のマレーシア人の方から、お金が送られてきていました。それを、病院に払い込むことによって、診察が開始され、投薬が始まったのです(中国では精算払いではなく、入金を確認しないと治療が始まらないのです)。感謝な出来事でした。また、ある方も経済的に援助してくれました。だれが、敵の子を援助するでしょうか、でも彼女たちは、『あなたたちは、私たちの家族だ!』と言って助けてくれるのです。

一応の治療を受けた家内の、これからの治療についても、四人の子供たちは、中国で治療を継続する派、日本に帰ってきて治療すべき派と双派に分かれていますが、こちらの友人たちも心配してくれています。この金曜日は、一人の友人叔母さんの知人が、大きな漢方薬局をしているそうで、そこに連れていって下さり、医院での治療の経過を聞きながら漢方薬を調剤してくれるというのです。そんな、もったいないほどの愛に、蒼白だった家内の顔に赤みが戻り、食欲も出てきております。愛には国境も、過去のわだかまりもなく邪魔なものの一切を押し流してしまう力があるのでしょうか。つくづく『この国に来てよかった!』と思わされる、「勤労感謝の日(日本)」であります。

(写真上は、「お見舞いの花篭」、下は、友人たちがつくって貼り出してくれた「介護当番表」です)

笑顔

「一衣帯水」を、qooの辞書で検索すると、「意味 一筋の帯のように、細く長い川や海峡。転じて、両者の間に一筋の細い川ほどの狭い隔たりがあるだけで、きわめて近接しているたとえ。▽〈衣帯〉は衣服の帯。細く長いたとえ。〈水〉は川や海などをいう。 出典 『南史(なんし)』陳後主紀(ちんこうしゅき)」とあります。これは、こちらの大学の「日本語弁論大会」で、よく聞かれる言葉です。日本と中国が、帯のように長く、時間と国家間を繋いでいることを例えることができるのでしょう。それほど緊密であるという意識から、『親子のような、兄弟姉妹のような親密な関係が、これからもさらに続いて欲しい!』と願う、こちらの学生たちが好んで用いているのです。海を隔てた中国から、私たち日本は、数えきれないほどの有形無形の物をもらい受けて、日本文化を形作ってきたことは、自明のことであります。戦争という悲しい出来事によって、壊滅的な分断がありましたが、今では多くの学生が、日本語を学んで、中日友好のために尽くしたいと願っているのです。

今、上海では、「世界博覧会(万博)」が開かれています。この国慶節の休みに出掛けた学生に聞いてみると、『4時間もならんで日本館を見てきました!』と言っていました。数ある展示館の中でも、極めて人気があるのだそうです。8月下旬、その日本館で、一つのイヴェントが行われていたようです。「梅屋庄吉と孫文」と銘打った特別展です。長崎出身の実業家の梅屋庄吉は、『中国革命の父!孫文。』と香港で出会い、国境を超えた友情で二人は交流し、孫文を経済的に援助した人でした。読売新聞の9月8日の記事(次兄が時々送ってくれます)によりますと、この特別展を見た学生が、『感動的だった。一部の悪い面だけを見て、その国を論じるのは間違っている(河南省・魏さん)』、『中国人は二人の交流を通じ、日本の軍国主義と友好的な人とは違うと知る必要がある(広東省・文さん)』と感想を述べているそうです。

『外出を控え、日本人だけで集まったりしないように。』というメールや電話がありますが、一般市民の対日感情は、それほどの厳しさを感じることはありませんので、ご安心のほど。今日も、たどたどしい中国語で「中国建設銀行」の口座を開設したのですが、いつも、どこでも無愛想な応対が普通なのですが、初めての契約の私たちを、担当行員の陳さん(既婚の若い女性)が、丁寧な事務をしてくださったので、『謝謝!』と感謝を口にしましたら、ほころびるような笑顔で、『不客気(ブ・グウ・チ、どういたしまして)』と言っておられました。今迄見たことのないような笑だったのです。

過去のことを様々に聞きますが、この時代の、特に若いみなさんは、本物の親切で接してくれています。もちろん、私たちの態度も関係があるのですが。 『もしかしたら、「一衣帯水」の「帯」は、《臍の緒》ではないだろうか!』と思わされてならないのですが。DNA鑑定を受けたら、中国と朝鮮半島のみなさんに連なるものを、自分の血の中に、きっと発見するに違いありません。そんな血の近さを覚える国で、大陸の秋を迎えております。

(写真は、百度の「霞浦」の海浜です)

三面記事

ある時、葛(くず)羊羹を食べながら、ある方と家内とで談笑していたときに、子ども時代の食べ物が話題になりました。食べ物の欠乏していた時代に、幼少年期を過ごした我々の世代としては、当然のことなのですが。学校から帰って、おやつがないときには、台所の乾物入れから、片栗粉か葛粉を見つけて、湯飲み茶碗に入れて、少量の砂糖を加ええて、お湯を注いで作った「葛湯」を、しばしば飲みました。液状ですが、歯ごたえを少し感じられるので、飲むと言うか食べると言うか、微妙な感触で胃袋の中におさめたのです。畑道を通ると、キュウリやスイカがなっているときには、あたりをうかがって、そっと頂いてしまいました。イチジクやイチゴやグミや桑の実(ドドメと呼んでいたのですが)などは、どこにいつ頃成っているかを知っていて、それらをおやつ代わりにしてしまいました。

少年期を過ごした町に、「キヨちゃん」という駄菓子屋がありました。おばさんが後ろを向いた隙に、店に並んでいたものを失敬したことがたびたびでした(これは30年近く前に3000円を持って行って謝って精算しましたが)。それでも、私の父親は、『四人の息子たちが盗みをしないように!』とでも思ったのでしょうか、喜ばそうとしたのでしょうか、日本橋や新宿や浅草の職場から帰ってくるときに、餡蜜セットとかカツサンドとかケーキとかソフトクリーム(ドライアイスを入れて)などを買って来てくれたのです。その町には、まだ売っていなかった頃のことです。そんな盗み防止の父の思惑が外れたのを、父は気づかなかったと思います。食べると、それは消化して、またすぐにお腹はすいてしまうからです。「盗んではならない」と言われていましてたし、自分の良心も、そう言っていましたから、盗みがいけないことは知っていたのですが、知っていても、空腹の誘惑のほうが強くて、抑止力にはならなかったのです。父には、申し訳なかったのですが。

あるとき、幼い長男を連れて、家内の兄夫妻のいた松本を訪問したことがありました。その週の日曜日の晩に講演会がありました。その講師が「万引きをした女校長」の話をしていたのです。退職間近の校長が、警察に捕まったというのです。彼女は、若い頃に数度万引きをしたことがあったのだそうです。教師になり、社会的に責任があったときには誘惑を拒むことができたのですが、退職が迫って不安な精神状態になったときに、つい手が出てしまったのだそうです。それを聞いたとき、衝撃を覚えたのです。

幼少年期に習慣化されたことが、正しく処理されていないと、何かの非日常的な出来事、恐怖体験などと相まって、再犯させてしまうのではないかとの恐れでした。この年になって、新聞の三面記事に載ったり、テレビのニュースで放映されたくないものです。思い巡らしてみますと、二つ、三つ未精算の過去があるのに思い付きますが、早いうちに・・・・・・。

(写真は、石川五右衛門を演じる市川小団次〈1857年作〉です)

ノラ

野良猫が、自転車置き場の近くに出没していました。人影を察知すると、さっと逃げ去って行くのです。彼が安全圏に入り込むと、深く沈みこんで、おびえた目をこちらに向けてうかがうのが、いつものパターンでした。それは捨てられた猫が負った、逃れられない宿命なのでしょうか。彼は、人は信用できないことを知っているからです。彼にはえさを備えてくれる飼い主がいませんから、毎日、自分で調達しなければならないのです。大変な人生、いえ《猫生》を生きなければならないのです。父が犬好きでいつも我が家に、犬が飼われていましたので、犬は好きなのですが、猫は好きになれないままでした。泣き声も、鋭い視線も、エサにするために人様の食物を盗む習性も嫌いなのです。

ところが次女の家で猫を二匹飼い始めたのです。彼女の主人が、職場の高校からの帰りに、捨てられていた、生まれたばかりの猫を拾って来てから飼い始めたのです。この猫が黒毛で、大きくなって来ましたら、あの野良猫と実にそっくりになりました。南信・飯田にいるはずなのに、甲府に来ているはずがないし、区別がつきません。真そっくりです。もちろん黒毛の猫はみんな同じに見えるのですが。この二匹を比べてみて、ずいぶんと違った生を生きて来たのだと、つくづく思わされて仕方がなかったのです。二匹とも、野良猫が野良で生んだか、飼い主によって邪魔で捨てられるか、どちらかだからです。片方は誰にも拾われないで、自活しています。次女たちが飼い始めた猫は、愛情いっぱいに飼われていて、水もエサも供給され、お便所の砂も換えてもらい、首にはバンダナを巻いて、ちょっとイキな感じを見せていたのです。

この猫の名前が、タッカー(彼らはタッキーと呼んでいますが)で、しばしば我が家に連れて来るうちに、私は猫が好きになってしまいました。実に可愛いいのです。彼は尻尾で、私にタッチしてきたり、からかったりもして来るのです。ところが、彼らは、もう一匹、道端から拾って帰って来て飼い始めたのです。彼女はスティービーと呼ばれていました。この二匹と遊んでいますと、拾い上げられた私の人生の祝福を思い起こさせられたのです。あの野良猫のような人生を生きていて当然だった私を思い起こさせられたからです。彼のように素早しこく、生命力旺盛だったら、生きることができたかも分りません。彼だって餓死したり、自動車に轢かれるか、腕白坊主に棒で殴られるかして死んでしまったかも知れないことを考えると、自分が生かされて今日を得ていることは、驚くほどの祝福だと思ったのです。タッカーは、決しておびえた目をしませんでした。スティビーのわがままに、いつも譲っていたのです。愛された猫の特徴なのでしょうか、個性的に面白く育ってきていました。

2005年の夏に、次女夫婦が帰国することになり、この二匹を私たちが飼うことになったのです。脱走したり、隣の家に入り込んだりするタッカーの世話は、けっこう大変でした。でも、彼らを飼う楽しみもありましたが。ところが2006年の夏、今度は、中国行きを決めた私たちの手では飼うことができなくなって、この二匹の猫を、「動物保護センター」に引きとってもらわざるを得なくなったのです。それは辛い別れでした。彼らをとても愛していた家内の留守に、それを強行しました。道々、悲痛な鳴き声を上げていたのが、いまだに耳に残っています。

いま、隣の家で猫が飼われていて、我家の庭で日向ぼっこを時々していますが、この猫を見るたびに、あのタッカーとスティービーを思い出してしまうのです。大きな犠牲があって、私と家内が、ここにいることを思うのは、ただ秋だからだけではないようです。

(写真は、wannyancoolの「パンダナ」です)

多恵子

日本の代表的な企業の一つである「ソニー」の創業者、井深大氏は、『多恵子は、負わなければならない重荷であると共に、生涯の光です!』と言われました。彼は、お嬢さんの多恵子さんが障碍を負っていることを恥じたり隠したりしませんでした。そのことで、父として大変な責任を負っているという現実も否定しなかったのです。多恵子さんがいることは、困難なことだと正直に告白したのだと思います。『天が私に下さった素晴らしい機会なのですから、喜びなのです!』と言って、美化したり強がりもしませんでした。科学者として、実に現実をありのままの《事実》として認め、現実から来る感情も誤魔化しませんでした。でも、多恵子さんと多恵子さんに付随していることのすべてを、認めることができた時から、彼自身と彼の家族にとって、そして彼が創業した企業にとっても、『多恵子は・・生涯の光である!』と言い切ることができたのです。

何時でしたか、NHK教育テレビの「福祉の時間」だったと思いますが、多恵子さんが取り上げられているのを見ました。授産所で働いている多恵子さんの表情が大写しになっていました。喜びに輝いていたのです。経済的に豊かな父親に育てられている物質的な満足さから来たものではなく、父の娘として、十分な愛を受けた感情的・家族的な満足感からくる笑みだったように見うけられました。

彼女のことを知ったときに、思い出したのが、アメリカ大統領であったジョン・F・ケネディー氏の妹さんのことでした。彼女も、何かの障碍を負われていたのですが、大富豪であった父親によって、彼女とその生涯も隠蔽されたのです。まるで、『我が家には、障害を負った娘などいようはずがない!』とでも言うような形で、覆い隠されたことになります。この家族が出くわすいくつもの悲劇の背後には,こう言った家族観・人間観・障害者観があったことは無関係とは言い切れないなと思ってしまうのです。

その「ソニー」は、障碍を負われた方が働くことができるように、厚木市だったでしょうか、授産施設としてのかなり大規模の「工場」を持っています。テレビの放映が始まったころから、『エス、オウ、エヌ、ワイ・・SONY!』とのコマーシャル・ソングを聴いて育った私は、この会社の開発製品の「カセット・テープ・レコーダー」が初めて売り出された時、一月ほどの給料で一台を買いました。そのレコーダーで録音したテープの声を、今でも聞くことができます。こういった新機種を産み出した企業の創業者のご家族に、多恵子さんがいたことを知らなかったときのことでした。

社会の弱者に対して、どのように振る舞いどう感じるかは、私たち五体満足な者にとって大きな責任があるのでしょう。ギリシャの都市国家、スパルタのように、障碍を負った者は人としての価値を認められなかったのとは違い、一人一人の人間的価値、人権が認められ、尊ばれる近代国家に生かされている私たちは、「優しさ」、「いたわり」、「愛」といったことを学び、また実践し、彼らと「共生」するようにと召されているのではないでしょうか。中国でも、「福祉」の問題が注目されてきて、豊かさの中から、弱者への還元が考慮され始めております。

(写真上は、SONYの「VAIO」、下は、 1960年に完成したSONY厚木工場です)

博士

私たちの住んでる区域の中に、3棟の集合住宅があります。5階建てで各20戸の住宅があります。私たちは、その第一棟の一階に住んでいるのですが、もう2年以上も住んでいるので、お隣さんとの交流が少しずつできています。第二棟の一階に、そう若くない夫婦がいて、今年になってから赤ちゃんが産まれて、泣き声なども聞こえてきたり、おじいちゃんおばあちゃんがやって来て、今は同居しているようです。実はこの方は、路上のリヤカーで焼き肉を焼いて売っているおじさんにしか、どうしても見えないのです。ところが、この方のことを知っておられる方の話しによると、ドイツやアメリカに留学をされたことがあり、博士号を持った師範大学の教授なのです。どこから見ても、

「教授」の「き」の字も思い浮かばない様相の方です。日本でしたら、必ず背広・ワイシャツ・ネクタイを着て、黒革靴を履き、革の鞄を下げて、『俺、大学教授で博士!』と振舞っておいでなのに。

ここに貼りつけました写真の「自転車」は、彼の通勤用です。彼が背広を着ている姿など、ただの一度も見たことがありません。そういえば、大学の先生たちの集合写真を時々見るのですが、ほとんどの男性教師は、ジャンバー姿です。夏になると七分ズボンにポロシャツ、サンダル靴で出勤しているのです。女性教師のみなさんは、ハイヒールを履いたり、お洒落ですが、男性諸氏は洒落たいといった努力など全く見せていないのです。これが、ここ中国のよさなのかも知れませんが。法学部の学部長(彼のことは、前に書いたかも知れませんが)が、我が家に、何度かおいでになったことがありますが、もう《砂利トラの運ちゃん》そのものです。これは、ここ中国で驚かされていることの一つです。

さて、ドイツとアメリカに留学した、隣人の先生ですが、先日、家内に、『今年、ノーベル化学賞を受賞した日本人の方は、アメリカで、私の指導教官でした!』と言われたのです。鈴木さんか根岸さんか、どちらかは確かめていませんが、今日日、驚くほどの経歴を持っておられることは確かです。も、も、もしかすると、この方は20、30年後の「化学賞候補」かも知れませんね。そういった気持で、この方が赤ちゃんを抱いている姿を見ても、どうしても「焼き肉屋のオヤジ」にしか見えないのですが。

出会いとは不思議なものです。思い出したくない、辛い出会いもありましたが、忘れました。いい人たちと会ってきたこれまでの日々に感謝が湧き上がってきます。これからだって、啓発され、挑戦され、前に進むように激励してくれる人、慰めたり励ましたりして心を満ち足らせてくれる人たちとの出会いがあろうかと思っています。もちろん与える役割もあるだろうと思いますが。とにかく生きるって、いえ生かされているって、楽しくて、面白くて、意味があります!

こんな素敵な男

 

 好き嫌いの激しかった私は、食べ物も、人もはっきりと分別をしていました。ところが、あんなに嫌っていた人参は、今では生かじり、葱はどんな料理にも添えられるようになって不思議でなりません。一番嫌いで、こわいのは、実は《きんつば》なのですが。とくに人嫌いは、激しかったかも知れません。人と和すよりは、常に対立し喧嘩になっていたからです。社会人としては失格なわけです。ところが25歳くらいから、人を憎んだり罵倒したり叩いたりする対象から、出来うるかぎり、『この人の良い面、長所を観て評価しよう!』と、《人間観》を変えたのです。失敗の多かった私は、そうするように学ばされたからです。物事は、否定的に捉えるよりは、肯定的に見たり、判断する方が、好結果を生み出すことを知らされたからであります。

 どこにも、《ちくり屋》がいます。こういったのは、今でも大・大・だいっ嫌いです。この言葉は、隠語なのでしょうか、辞書を引きましたら、『俗に、告げ口をするの意。』と出てきましたから、俗語なのでしょう。よく小学校で女の子が、『あららこらら、◯◯ちゃんはいけないんだ。せんせーに言っちゃおう!』と言われたことがあります。あれが《ちくり》なのです。『人の秘密を暴露すること。』と定義した方がいいと思うのですが。私のすぐ上の兄は、長くホテル・マンをしてきまして、《ミスター・シェイクハンド》と呼ばれるほどの名物職業人なのです。定年退職後も、請われて現場に残り、閉館まで働いていました。そのホテルが、今秋、同じ敷地に建てなおされたビルを使って、新装開業することになっています。この開業に合わせ、兄は招聘されてスタッフとして、また最前線で働くのだそうです。悠々自適な引退生活を送られる年齢なのですが、じっとしていられないのでしょうか、開店準備に今は余念が無いようです。

 この兄ですが、彼は《口の堅いホテルマン》なのです。仕事柄、要人や有名人の公私にわたる生き様をつぶさに見続けてきたのですから、醜聞の題材は枚挙にいとまないほどでしょう。『本を書けるよ!』と言いますが、職業柄知り得た個人に関わることについては、秘匿責任がありまして、それを固く守りぬいて生きているのです。それは職業人として当然です。でも、どの世界でも同様、ちょっとした噂に尾びれ背びれをつけて、面白おかしく書いて、原稿料を稼いでいる輩がおりますが、兄の漏らそうとしない頑固さには敬意を払わざるをえないのです。よく、妻や夫や恋人だった過去の人の事を、関係が壊れたあとに、秘密を《ちくる》のがいますね。こういったのは最低級の人間ではないでしょうか。名だたる人物も、愛した部下に《ちくられ》て、命を落とした歴史的大事件も、過去にありました。秘匿すべき責任を持てなくなったら、人は終わりですね。

 私は《人の秘密》には、全く関心がありません。いい生き方をしている人間にだけは興味津津です。そんな素敵な男に、こちらに来てから出会わせてもらいました。ただ、少々の困難な状況下におかれていると、今日聞きました。どうも、これも《ちくり》によるものと思われます。この困難な経験が、彼を、さらに練磨して、輝かせてくれ、ご夫人とお子たち家族、そして彼の兄弟姉妹たちをお守り下さることを楽しみにしています。彼のことを覚えていただけますように!

(写真上は、波打ち際にある「集まり場」、下は、開業を間近にしている国会議事堂の近くのホテルです)

危険

『車の免許証をとろうと思っているのですが、どうですか?』と、滞華7、8年ほどになる方に聞いたことがあります。ここ中国で、自動車を運転するなら、「国際免許証」は使えませんから、誰もが新規にこちらの運転免許を取らなければなりません。彼は開口一番、『やめられたほうが・・・・』と言って、反対されました。ここでは、交通法規は、あるのですが、残念ながら、ほとんどが守られていません。東京で運転しているつもりで、対向車や並行車に期待しても、法規通りに運転している車も電動自転車も自転車も歩行者も、ほとんどありません。新しく設置された信号だって、それに従っている車は、交差点に制服を着た警察官がいる場合だけです。 歩行者だって、道路のどこだって横切りますし、自動車だって歩道を走っているのです。40年以上の運転歴のある私でも、こちらで運転する自信はありませんが、免許証の取得を打診してみたわけです。案の定の答えをされたわけです。

10年以上前になるでしょうか、清里での交わり会に出席するために、中央道を走っていました。双葉のサービスエリヤを過ぎたころに、『この車、変な音がするわ!』と助手席の家内が言いました。『カラカラ』という金属音がし始めたのです。そうしましたら韮崎のインターチェンジの手前100メートルほどのところで、エンジンが突然止まってしまいました。スターターのキーを回しても、まったく動かないのです。ちょうど、そこは登坂車線のある所でしたから、そこに寄せて停車したのです。小雨も降っていましたし、後続の車の風圧で浮くように揺れていました。JAFにサーヴィスを依頼しましたら、間もなく、緊急停車の私の車の保護のために、道路公団の車が駆けつけてくれたのです。しかるべき措置を取ってくれましたので、後続車の追突から守られたのです。続けて来てくれたJAFの車で牽引していただいて、韮崎のインターの停車場所で調べてもらいましたが、修理不能でした。

また、それよりも5年ほど前にも、韮崎のインターチェンジをしばらく過ぎたあたりで、車が操作不能になってしまいました。全く故障の前兆がなかったのです。その日も、結構強い雨が降って、子供たちも同乗していたのです。そこは2車線の箇所でしたし、私の車は追越車線でアクセルを踏んでも全くエンジン音がしません。左側の走行車線を車が、次々とビューンと追い越していくのです。ところが、惰性で動いている私の車は、それを交わして故障車が緊急退避できるポイントに、するりと入ることが出来たのです。それは全くの奇跡でした。もし2車線のところだったら、追突されていて大事故につながったのですが、危機一髪で守られました。この二台とも、だいぶ走り込んだ10年以上経っていた車でした。

これ以前に、家内の妹を成田空港に迎えて帰る途中の時のことでした。上野原のインターの手前の藤野のサービスエリヤを過ぎたあたりでしたが、前を大型ダンプカーが走っていました。突然、『パーン』と言う音がしてフロントガラスが真っ白にひび割れしてしまったのです。全く前が見えなくなってしまいました。90キロほどのスピードだったでしょうか。全くのパニックでした。ところがダンプが落とした小石が当たった所に、直径2センチほどの穴が開いていました。その穴に、私の左目をつけ、かすかに前方が見えましたので、路肩に車を寄せました。そこでフロントガラスを、全部割って落として、上野原から一般道に出て、彼女たちを最寄の駅に連れて行きました。真冬でしたが、私は、その車を走らせて、私の住んでいた街の掛り付けの修理屋で廃車にしてしました。

どうも車には好かれないのでしょうか、4度目が中国で起こらないように、どうも『ノー!』のサインが出たようです。そんな私のために弟が、わざわざ、東京から自分の使い慣れたマウンテンバイクを運んで来てくれて、しばらく自転車に乗っていたことがあります。これは、自分は事故に遭っても、同乗者や他の車を巻き込む危険性がないので安心ですが、色々と思い出す大陸の秋のさなかであります。

(写真は、長距離高速バス「福建省龍岩市~福州市」です))

俺の受賞体験

小学校4年の時に、図画工作の授業で、私が描いた絵が、町の文化祭に出品されました。何と、「銅賞」の受賞でした。集中力の乏しかった小学時代の私は、根を詰めて何かをするのが苦手でしたから、絵もサラサラと書いては出すといったことの繰り返しでした。ところが、どういった風の吹き回しでしょうか、その時の絵は、ずいぶん時間をかけて、精魂を込めて描いたのです。おかげで、受賞したわけです。

長い16年間の学校生活の中で、「賞」をもらったのは、これ一回でした。実は、その文化祭には、「工作」で作った作品も出品されていまして、これまた「銅賞」を貰いましたから、二回きりといったほうが正直な回数ですが。これは私の人生の「金字塔」であって、根性のない私を激励してくれる数少ない出来事であります。だからといって、芸術に集中することなどありませんでした。『ケンカして泣いて帰ってきたら、家に入れないぞ!』 と父に言われ続けて育てれられましたから、筆を持って腕を磨くことなど考えられませんでした。病弱な私に、『強く生きよ!』と願った父流の激励だったのでしょう。ですから握り拳を振り回して、徒手空拳のケンカ修行に明け暮れていたのです。仕掛けても、仕掛けられても、けんかで負けたことがなかったのですが、暴力などは誇ることはできませんね。

私の人生にある、この二度の「受賞」は、〈自己評価〉を高めるためには、素晴らしい経験だったと思うのです。三男坊で、小学校低学年は病弱で死線をさまよいましたから、両親の大きな愛を受けて、わがままに育った自分ですが、父の訓戒や、母の教えや、多くの素晴らしい教師陣によって、少しずつ変えられていったのだと思います。これまで四人の子育ても、やっと出来ましたし、妻とは来年4月には結婚生活40周年を迎えられますが、これも妻の忍耐に尽きます。

今週、「ノーベル賞」の受賞決定のニュースが伝えられていました。「化学賞」で、日本人の鈴木章氏と根岸英一氏が受賞されました。世界で、最高峰の報奨ですから、『鈴木さん、根岸さん、ノーベル賞受賞おめでとうございます!』と、心からの祝福を申し上げます。そして、今年の全ての受賞者のみなさんに、『心からお祝い申し上げます。さらに評価された分野で、ご自分の国だけではなく、人類世界に貢献していって欲しいと願っております。おめでとうございます!』と申し添えます。

これまでの受賞者の様子をみますと、研究体制が整った国の学者たちが、どうも多く受賞してきているようです。これからは、発展途上国の優秀な研究者や思想家にも、そういった機会が備えられて、このアジア圏やアフリカ圏からも、受賞者が多く起こされるようにと願っております。そういった人材が、自分の国から輩出することで、今、学んでいる小学生や中学生たちが、その素晴らしいモデルを誇りに思って、夢や幻を心いっぱいに広げて、学んでいく大きな動機づけになったら素晴らしいですね。世界や人類の明日のために、科学や芸術や平和の発展と祝福のために、貢献できる人材が、さらに出て欲しいものです。

『こんな俺だって出来るんだ!』といった自信をもらった小学校時代の「銅賞」を思い返して、これを「俺のノーベル賞」としたいと思っています。海の彼方の日本の方から、受賞の喜びの大歓声が聞こえてくるような、「国慶節」休暇の週末であります。でも、受賞には程遠い社会の隅で、小さな社会貢献をしている数多くの名のない人のいることも、決して忘れてはいけませんね。

神田川

先日、師範大学附属中学のバス停から乗って、南街のバス停で乗り換えて、西湖公園まで行きました。バスに乗り、空いていた席に座りましたら、何か聞き覚えのある音楽が聞こえてきたのです。どのバスに乗っても、ほとんど同じチャンネルのFM放送が流れているのですが。中国語で歌っていますが、メロディーは、日本のものなのです。曲名が出てきません。しばらく聞き続けていましたら、『そうだ、[神田川]だ!』と思い出したのです。日中間の関係がギクシャクしていている、この時期に、南こうせつ(「かぐや姫」)が歌った歌、

あなたはもう忘れたかしら(你也许早已忘记)                               赤い手拭いマフラーにして(将红色手帕当做围巾)                           二人で行った横丁の风吕屋(两人一起走进街边的澡堂)・・・・・・・

これを聞こうとは思いもしませんでしたから、バスの中の乗客の顔を見回してしまいました。この歌が、まさか日本の歌が原曲だと知っている人はいなかったのではないでしょうか。「吉野家」が、市内に4店舗もあるのですが、これも日本の店だと知っている方は少ないようです。天津にいましたときに、ドイツから来ていた方が、日曜日の朝の講演会が終わったあとに、『おいしい店があるので、一緒に寄って行きませんか?』と誘ってくれたのが、この「吉野家」でした。『この店は、日本の“牛丼“の店ですよ!』と言いましたら、驚いていたのを思い出します。

FMラジオの番組担当者は曲の選択には、特別なこだわりはないようで、なんだか、安心した気持ちで聞いていました。

窓の下には神田川(窗户下面就是神田川)                               三畳一间の小さな下宿(一间小小的房间)・・・・・

世界遺産に指定されている「武夷山」から流れ出ている、「闽江(minjiang)」を横切るバスの中で、三鷹にある井の頭公園の池から流れ出て、江戸の飲料水を提供した生活用水路・神田川の歌を聞くとは、こちらに来る前に日本にいたときには、考えもしませんでした。

去年も、学校に行きます時に、『さくら、さくら・・・』と、日本語で歌う歌が聞こえてきたのです。

霞みゆく景色の中に あの日の歌が聴こえる                               さくら さくら 今、咲き誇る・・・・・・

日本の国花は、菊の他に「桜」ですから、歌詞の中に「さくら」がある歌を、「牡丹」を国花とする中国の街中で聞いたのも、不思議な気持ちがいたしました。もう何年も前になりますが、「北国の春」や「四季の歌」が、この中国で、盛んに歌われたことを思い返して、この日本調のメロディーは、アジア圏で共通して好まれるものなのでしょうか。25年ほど前に台湾を訪問したときに、どの街の公園でも、年配の方々が、日本の演歌を歌っていました。

若い人の芸術文化には、国境がないのでしょうか。一緒に、心を高揚させ、生きることを激励する歌を歌って、中日交流を推し進めていきたいものです。南こうせつが、同窓だったのを知ったのは、ついこの間のことです。

(写真は、pocoさんの「神田川写真集」からです)