父の世代から子の世代へ

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 「今もあるのでしょうか、新宿駅の線路下に、西口と東口を結ぶ地下通路がありました。「きれいな日本」とは恐れながらも言えなかった当時、まだ公衆トイレもわずかしかありませんでした。そこには、オシッコ臭が立ち込めていたのです。両親と死に別れた「戦災孤児」が何人もいたのです。われわれ兄弟には、二親がいても、彼らには、戦争が父親と母親を奪い取っていたのです。

 そればかりではなく、米兵の子を産み落とし占領地ニッポンに、母親にも捨てられた子どもたたちを街中で見たりしました。あの戦争の落とし子たちを、沢田美喜という方が、大磯で「エリザベス・サンダース・ホーム」で、お世話しておいででした。

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 お父さんの遺品の軍帽をかぶって、九州の町で、チャンバラごっこをして少年期を過ごしたことを、話してくれた級友がいました。彼のお父さんは、中国の各地を転戦した職業軍人でした。敗戦と同時に、蒋介石率いる「国民軍」に参加して、中国大陸で戦死するのです。彼には、高名な軍人の叔父さんがいて、何よりも、お国のために戦い、死んでいった父親への誇りがありました。

 また父性の見えなかった級友がいました。いつも担任に怒られていました。父性をタップリ味わっていた自分と、この二人がいつも担任の怒叱られ役でした。終礼をスッポかしてきょうしつにもどると、『準、オジイが、すごい勢いでおこっていたぞ!』と言うので、職員室に謝りに行くと、『おお、準来たか!』と笑って迎えてくれ、なんだか世間話をして終わるのが常でした。要領の悪い彼だけが怒られていたのです。

 こうこの頃は、よく遊びに行ったこの悪友の家に、40過ぎだったでしょうか、泊めてもらったことがありました。もう家は、彼が立派に建て直していました。その泊まった室の壁に、軍帽軍服の凛々しい青年将校の写真が掲げてあったのです。彼もお父さんを、戦争で亡くして、母親の手で大きくなっていました。

 それでも、写真に写った父親の面影しか知らないで、母や親族に父を聞かされただけで、父親に抱かれた実感を持たない、二人の同級生だったのを記憶しています。戦争は、彼らから父親を奪い去ったことになりますし、彼らの子どもたちからお爺ちゃんを取り去ったことになります。二人とも、重役職についていました。

 私の父は、戦争中に、軍需工場の工場長をしていました。零戦の戦闘機の部品の生産にかかわる仕事をしていたのです。父のアルバムに、日の丸で鉢巻し、従業員と一緒に、報国、戦勝祈願をした記念集合写真を見付けえて見たことがありました。ですから、私は、陸軍が父に支払った俸給で買った食料で生きていた母の母乳や、購入したミルクや離乳食や衣服で育てられていたことになります。

 それででしょうか、私は戦後に育った子であるのに、軍国少年魂を、亡霊のように内に宿して、予科練に憧れていたのです。『若い血潮の予科練は・・・』と、七つボタンで身を包んでいるような錯覚に陥った私は、お酒を飲んでは、そう高吟するのが好きでした。

 そんな私を見て、『予科練ではなく海軍予備学生に憧れなさい!』と母に言われたことがありました。母には、広島・江田島にあった海軍兵学校に通い、戦死した幼馴染がいたのです。その彼の海軍予備学生の写真を、母の写真帳に見付けたこともありました。母は山陰で、伝道していたカナダ人宣教師の教会学校で、クリスチャンとなっています。そんな母が結婚したのも、横須賀の海軍一家の青年だったのです。父のことですが。

 そんな背景の私は、戦後の無条件降伏で、占領下に平和を与えられ、救援物資で養ってくれたアメリカなのに、まだ敵国だと思っていました。でも宣教師のみなさんは、、『こんな非道なことをする日本人が変えられるのは、福音以外にはない!』、そう一念発起して、アメリカの教会から遣わされて、日本のあちらこちらで伝道し、幾つもの教会を生み出していきました。母は、その教会に導かれたのです。

 結局、私たち4人の兄弟は、その教会で信仰を持ち、バプテスマを受けました。そして上の兄と私は、その教会で献身させていただきました。そして私は、アメリカ人宣教師から聖書の読み方や学び方を学び、さらには家庭の建設や、子供の育て方まで教わるはめになるのです。軍国少年が、アメリカ空軍の元パイロットと至近の距離にいて、8年間共に働き、聖書を学んだのですから、彼の忍耐がどれほどだったか想像に難くありません。

 イエスさまは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣によって滅びます(マタイ26・52)」とおっしゃいました。私は、自分の腰にではなく、心の中に吊り下げていた剣を捨てる必要があったのです。生まれながらに受け継ぎ、自ら好んで求めた「軍国主義の霊」とか「軍国少年魂」と言うものがあるのでしょうね。

 そういった亡霊や精神を取り扱い除くのは、一筋なわでは行かないなことだったようです。今は、平和を希求する者に変えられ、すでに天のふるさとにお帰りになられた宣教師さんに心からの感謝を覚える、真夏です。

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 真珠湾攻撃の攻撃隊長であった、淵田美津雄さんという方が、戦後、クリスチャンになられて、伝道者の道を歩まれておいででした。アメリカに行かれて、いくつもの教会で福音を語られたのです。東京の中野にあった「天門教会」で、この方のお話を聞いたことがあります。父よりも上の世代の方でした。軍人が、柔和な表情の伝道者になっておられたのですから、喧嘩に明け暮れ、心のすさんでいた軍国少年だって、「天国の使いっぱしり」にはなれるんだ、と思はされた出会いでありました。

 隣国の街の学校で、日本語を担当していた時期に、新幹線の車輌の設計に携わった、三木忠直氏のことを話ししたことがありました。戦時下で、多くの若者の操縦で米軍の戦艦に突撃をした「桜花」を設計した方でした。戦後、平和に役立つことのために生きようと、旧国鉄で、「東海道新幹線」の車輌の設計をした方です。旧軍人が、平和を願って生き直したことを、中国の学生さんに伝えたかったからでした。

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 三木忠直氏は、戦後クリスチャンになり、晩年になっても、鎌倉の教会で礼拝を守り、讃美歌を歌い、聖書の話に耳を向けたのです。同世代の私の父も、「主われを愛す」を口ずさみ、子どもの頃に、軍港の街、横須賀の教会で、歌った讃美歌を歌う人になりました。軍需工場で軍属として働き、召される少し前に、上の兄に導かれて、信仰告白をしています。それぞれの戦前戦後を、「戦争」を「平和」に変えて、昭和の後半を生きたのです。彼らの人生に、大きな祝福への転機があったのです。

 先週、その新幹線に、久し振りに乗車しました。ずいぶん乗らないまま過ごして、これらのことを思い出したのです。父と同世代、父は、戦時下で重い鉱石を掘りましたが、戦後は、旧国鉄の車両に、新幹線にもだったのでしょうか、車体に装着する制動機の部品を扱ったのです。一生懸命働いて、私たちを養い育っててくれました。

 父は、上の兄に満州の「満」を名前につけましたが、戦後は「円満」に生きるように願い、下の兄には大和健児の「健」を、戦後は「健康」に変えて生きるように願いました。戦後に生まれた弟には、黒鉄(くろがね)の「鉄」で、平和の時代を強く生きるように願って命名したのです。

(“ウイキペディア”の新宿御苑、エリザベス・サンダース・ホーム、Pearl Harbor、新幹線です)

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今の世への痛烈なメッセージか

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『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 0wこの御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24章3~14節)』

 熊本日日新聞は、「2026年熊本地震 ビジュアルニュース」として、次のように書き出して、その様子を伝えています。

「7月28日夕、熊本県の宇城市と氷川町で最大震度7を観測する地震がありました。揺れは東海から九州の広範囲に及び、有明・八代海に一時、津波注意報が出ました。嘉島町の「イオンモール熊本」では爆発が発生。人的被害が相次ぎ、住宅倒壊など生活への影響も出ています。最新情報をまとめました。」

 これより先、6月16日の夕刻、突然、突き上げるような響きが、建物にありました。埼玉県加須(かぞ)市を震源地とする、震度5弱の地震でした。ここ栃木でも震度4で、すぐに東日本大震災が起きた、2011年3月1日14:46の時、長男の家の二階にいたのを思い出したのです。家内の胆嚢摘出手術で待機していた時でした。家を出て近くのスーパーの駐車場に出ました。まだ電柱の電線が左右に揺れていたのです。

 地震が頻発しています。地震が起こると、『準、玄関を開けろ!」と、父に言われて、そうしたのです。関東大震災の経験者だった父は、退路を確保ししければならないとの教訓を学んでいたので、そう咄嗟に言ったのです。中国にいた時も、知人の七階の家で、招かれたテーブルについて食事をいただいている時に、大きく揺れる地震を経験したのです。ここでも、茨城南部を震源とする地震に、たびたび揺すられ、突き上げられています。

 楽しく美味しい夕餉の食事を摂っている時、ホッとしていた時に、突如として平安を打ち破るような地震でした。何度揺すぶられてきたことでしょうか、「方々に・・・地震が起こ」るのだと、イエスさまはおっしゃいました。『平和だ、平和だ!』と言っている時に、戦争が起こり、飢饉も地震も起こるのです。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」と、一連の出来事が起こると、警告されたのです。

 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦が起こり、今もウクライナロシア戦争、イスラエル対イラン戦争があり、有史以来、因縁の民族紛争は現実として絶えません。そればかりではありません。人と人、家と家、集団と集団の紛争、抗争は枚挙に暇(いとま)がありません。不和や争いは避け難い現実でもあります。イスラエルの主は、「平和の神」でいらっしゃいます。

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『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9章6節)』

ところが、「平和の君」でいらっしゃるイエスさまは、

『わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10章34節)』

 いやー、そんなことを、『地には平和、御心にかなう人にあれ(ルカ2:14)』と言われたイエスさまは、矛盾で、混乱させるために、そんなことを言ったのでしょうか。「剣をおさめさせた」のに、ペテロは剣を持っていましたし、それ自体がおかしいのに、それを鞘から抜いて、大祭司の僕の耳を切り落としてしまうのです(ヨハネ18:10)。それを見たイエスさまは、「剣をさやに収めなさい。」と言いました。

 それなのに、『「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。(ルカ22:36)』と仰られています。若い頃、剣ではなく、「拳」を、巻藁で鍛えたことがあります。喧嘩が強くなるためではなく、面白半分でしたが、それは、殺意に繋がりそうで、怖くなってやめました。まさに、これは、「剣をおさめること」であり、金属の剣ではなく、誘惑や攻撃を退ける心の防備のための武具を着けるように言っているのではないでしょうか。

 世の動きを見るに、「終末」の様相を呈している時代と言えるでしょうか。あらゆる「欺きや反逆」が起こっているではありませんか。また、「偽預言者」、おかしな非正統な聖書解釈をする牧師や教師が、世界中で輩出しているそうです。地震のニュースを聞きましたら、心を急に突き上げるような、そんな思いが強くされてしまったのです。主のおっしゃるような時の到来なのでしょう。心して、慌てず、「聖書」に記されている主のみ声に、耳を傾けていかなければならなさそうです。

 ある説教者が、やがて世界中の宗教が、エキュメニカル運動によって一つにされる、と言っていました。聖書を誤りなき神の言葉と信じる人たちは、もう政治的な発言や社会改革の主張をしなくなる。そして聖書を固く信じ、聖霊なる神さまに導かれ、聖霊に満たされていく。世界の宗教は、そんな風に、二分されていくかも知れない、とです。

昨晩、こんな讃美歌が口を突いて出てきました。

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1)千歳の岩よ わが身を囲め
裂かれし脇の 血潮と水に
罪もけがれも 洗いきよめよ

2)かよわき我は おきてに耐えず
燃ゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず

3)十字架のほかに 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみたまえ
み救い無くば 生くるすべなし

4)世にあるうちも 世を去る時も
知らぬ陰府(よみ)にも さばきの日にも
千歳の岩よ わが身を囲め

 はるか昔の聖徒たちが口ずさんだ讃歌です。年経た盤石の信仰を生きたみなさんに倣って、この時代を生きていきたいな、と思う今宵です。「地震」、今の世への痛烈なメッセージの一つなのでしょうか。被災されたみなさんの上に、主の平安をお祈り致します。熊本の友人たちに。

(“ウイキペディア”による美しい阿蘇山、“Christian clip arts“の語らうイエスさま、ハワイの岩島です)

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生きたいと願った証

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あの日の沖縄には
青い海も
優しい風もなかった
空は黒く
地面は揺れ
人々の叫び声が絶えなかった
爆撃の音が
心まで壊していく

まだ若かった曾祖母は小さな体で必死に走った
血だらけの道を
倒れた人たちの横を
もう動かない人を見ながら
涙を流す暇もなく
ただ生きるために
愛する夫の命を案じながら
「お願い 生きていて」
その想いだけを胸に
足がもつれても
呼吸が苦しくても
転びそうになっても
前へ前へと走った
しかし
その願いは
もう二度と届かなかった

その時のことを話す曾祖母の声は
今でもとても優しい
でも 私は知っている
その優しい声の奥に
今も消えない悲しみがあることを
細い足
しわしわの手
小さな背中
長い年月を生きてきたその姿を見るたび
私は戦争の重さを感じる
そして
曾祖母の右足には
今も傷が残っている
それは
戦時中 自分で引っ掻いた傷
灰色の空の下
爆撃の音が鳴り響く
恐怖と不安でいっぱいになり
右手に握った石で
自分の右足を何度も何度も引っ掻く
気づけば手も足も血だらけだった

私が真実を知った時
胸が締めつけられた
どれほど怖かっただろう
どれほど苦しかっただろう

生きたい
死にたくない
その想いだけで
曾祖母は必死に生き延びた

戦争は人を傷つける
体だけじゃない
心まで壊してしまう
家族と笑う時間
友達と過ごす日々
「また明日ね」と言える幸せ
そんな当たり前を
全て奪ってしまう
でもそれは
当たり前なんじゃない
血と涙の中を生き抜いた人たちが
命を繋いでくれたから
今の私たちはいる
もし曾祖母が
あの日 走っていなかったら
もし
あの日 命を落としていたら
私はここにいなかった

曾祖母の右足の傷は
ただの傷じゃない
「生きたい」と強く願った証
「戦争は二度としてはいけない」
という叫び
私はその想いを
これから先も伝えていく
もう誰にも
血だらけの道を
走ってほしくないから
もう誰にも
愛する人の命が奪われることに
怯えてほしくないから
もう二度と
沖縄の空を戦争で
染めてはいけないから

平和は当たり前じゃない
たくさんの人の涙と苦しみと
「生きたい」という願いの上にある
だから私は忘れない
沖縄戦で苦しんだ人たちを
愛する人を守ろうとした想いを
泣きながら生き抜いた人たちを
そして
曾祖母の右足の傷を
「生きたい」と願った証の傷を
平和な未来へと繋いでいくために

 沖縄県豊見城市豊崎中学校 2年 亀谷琉

(“ウイキペディア” 沖縄県の県花のディゴです)

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分数、分母と分子の差

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 19/20、この分数は、何だと思いますか。もう一つ、10/20です。さらにもう一つ、20/20を付け加えます。

 第108回全国高等学校野球選手権大会(主催:朝日新聞社、日本高等学校野球連盟)地方大会、栃木県大会に出場した、三校の比較を表しています。

 今日、7月24日に行われた試合に出場した二校と、すでに敗退した栃木市内の一校を比較してみたのです。

 19/20 作新学院高校(準決勝敗退)

 10/20 佐野日大高校(作新の対戦校)

 20/20 県立栃木高校(敗退)

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 何を比較したのか、もうお気付きだと思いますが、この分母はベンチインする選手数で、分子は他都道府県出身者です。作新学院高校は県外者1人、佐野日大高校は10人、栃高(とちたか)は0人です。ついでですが、長兄の母校は都立高校で都外者0人、次兄と私の母校は私立高校で0人、弟の母校も私立校で1人でした。

(“いらすとや”の甲子園球場、野球球児です)

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この夏に心したこと

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 2026年の夏、ヨーロッパは熱波に襲われ、多くの人が亡くなっています。特に日ランスでの死者は、5月下旬と6月に二度、熱波が襲っています。つい先ごろも熱波で、1万人以上の死者が出たとニュースが伝えていました。

 アフリカではなく、どうしてヨーロッパで、集中的に死者が出るのかと言いますと、もともとヨーロッパ、とくにベルギーの夏の最高気温は、22、3度程度なのだそうです。それで、エアコンの設置率は低く、ほぼ80%の家庭には未設置なのです。最高気温が40℃以上になったら、ひとたまりもなく、ニュースが伝えるように、熱波に襲われ熱中症を発症してしまうのです。

 日本の今年の夏は、去年以上の高温に見舞われ、熱中症の死者が多く出ているようです。一昨日の夜、頭痛がして、生まれて初めてのたえられないほどの痛さでした。頭痛など経験のない自分でしたが、頭のてっぺんの痛みに耐えられず、家にあった鎮痛剤を飲んだのです。朝起きましたら、その痛みがウソだったように引いていました。

 昨日は、家内の通院日で、友人のご婦人が、車で宇都宮の病院まで送り迎えをしてくださったのです。その車中で、昨晩の頭痛のことを話しましたら、「熱中症」の症状だと、この婦人に言われて、『あれが熱中症の症状なのか!』と驚いたのです。遅きに失したのですが、家内の処方薬を、所定の薬局でいただいた折に、経口補水液の〈OS1〉を買って飲んだのです。

 何年も前に、甥が、運動部の競技中に熱中症になったのです。あっ晴れ、相手のチームのマネージャーが、その〈OS1〉を手渡してくれて、それを飲んで、危機一髪、危ないところを助けられたのだと聞いていました。それで、その経口補水液を一箱買い求めていたのです。季節が巡り、そのことを忘れての備えも忘れていての頭痛の一件でした。 

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 日本人が、〈梅干しに水〉で、命を繋いできたことも思い出させられ、塩分控えめの食習慣も、水分不足も、命取りになるのだということを再確認させられた次第です。夏場、もう泳がなくなって久しいので、水難事故に遭うことはなくったのですが、水不足、塩分不足の怖さを、初めてのひどい頭痛で感じさせられたのです。

 長女を、この5月末に訪ねて、一週間ほど生活を共にしたのですが、ひつこく、『水を飲んだの?』と言われて、ずいぶん飲んだのですが、飲んだつもりではいけないのだと、ヨーロッパやわが国の熱中症で亡くなる人のニュースを聞いて、身につまされる思いをしているところです。

 人は、だれも例外なく死ぬのですが、怠りによって死ぬことが多くあることを、身をもって経験し、『転ばぬ先の杖!』、『負うた子に教えられ!』で、〈乾く前の1.5リットルの水〉を『飲んで!』の生活習慣を、励行する必要を感じ、娘に感謝しなければなりません。

 ジャン・ジャック・ルソーが、「ソクラテスの死」について書き残しています。『ソクラテスは、自若して死んだ!』のだそうですが、『準は、水飲みの不励行で死んだ!』と言われないように、もう2、3年、平均余命の間ほど、生かしてもらおうと、心した酷暑の夏中、渦中の私なのです。

(“いらすとや”の水を飲む若者.梅干しを食べる少女です)

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先生主義と平民主義の狭間で

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 母が導かれた、私たちの母教会では、宣教師さん夫妻を、「ジャックさん」、「エドナさん」と呼んでいました。〈紙〉の会社から、《神》の教会の牧師さんになった兄は、「マンさん」と呼ばれていました。『それでは、示しがつかないのではないですか!』とのよその教会のご意見もありましたが、母教会のみなさんの呼び方が変わることがありませんでした。

 私が学んだ学校は、ミッシンスクールでした。教師も学生も、”Mister“ で呼ばれていたのです。教授も、事務の方も、「さん」をつけて呼んでいました。上下関係の難しさのない社会で、みなさんが横に一つ並びだったのです。偉さの尺度を置かない関係は、立場をわきまえながらも、和やかでした。上智大においでだった教授も、「デーケンさん」でした。親しく敬意にあふれた一年間の師弟関係でした。

 ある時、〈二十世紀日本のパウロ〉と呼ばれた牧師さんを迎えて、伝道集会が持たれました。この方は、威厳があって、寄せ付けないオーラを発しながら、牧師や宣教師の呼称の仕方を、秩序という言葉で、呼称を変えようとされたのです。この教会では、呼称の仕方でも、敬意に欠けているのではないのです。

 窓の淵を手の指でこすって、ホコリを見つけて、姉妹たちの行き届かない掃除を指摘、糾弾していました。まるで旧日本軍の上官が、内務班でするようなことだったのです。「神の国」には、それは不必要で、よその教会の牧師さんのすることではないからです。権威主義であってはならないのです。教会の主でいらっしゃるお方は、まるで僕のようにして、人々の間で謙って過ごされました。

 ある時は、イエスさまは、ひざまづいて弟子たちの足を洗うほどだったと、聖書は記しています。お隣の国で、大きな国際的な集いがあって、そこに参加したときのことでした。あるセッションで、敬称抜きで「イエス」と言っている著名な説教者が、「パウロ」と呼びにくくなったのでしょうか、「パウロ先生」と呼んだのです。義認や聖化や栄光化の十字架の贖罪の教えをするほどの鋭さに敬意を感じたのでしょうか、もう呼び捨てにできなくなって、そう言い直していました。聖書の関係を、日本的な権威主義で解釈され、平民主義の教会で育った私は、違和感を感じてしまったのです。



 パリサイ主義の碩学だったパウロは、復活のキリストと不思議な出会いをして、その僕となったのです。その福音宣教は、熱烈でした。ルステラの街で、次のような騒動に巻き込まれています。「使徒の働き14章8~18節」にそのように記述されています。

『ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。』

 『これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら言った。 「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。』

 赦された罪人の過去を持ったパウロが、キリストに弟子となって、留守寺で、その道を教えると、ギリシャの神のひとり、ヘルメスのように、ルステラの人々には、パウロが尊く思えたのです。驚いたパウロは、そんな立場にないことを証明するために、着ている服を破り、人々の間に駆け込んで、『みなさんと同じです!』と言った行動をとったわけです。イエスさまも、

『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)』

とおっしゃって、先生主義、権威主義の悪弊を指摘されておいでです。教会の社会は、そう言った兄弟姉妹の関係で、成り立っていることになります。今日は、東京駅で、乗ってきた電車から降りてきた私たちを出迎えてくれた次男夫婦の招待を受けたのです。生まれて初めて、グリーン車の座席に座って、駿河国一の鰻料理をご馳走になる旅で、三島駅に降り立ったのです。酷暑にさらされる年老いた両親を、丑の日の直前に、健康増進のために供してくれたのです。

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 その駅頭で、代議士さんを出迎える一団を見掛けたのです。上にも置かない十数人の方々がいたのです。その接遇に、お取り巻きのみなさんがあわただしかったのです。初め「ヤ◯ザの親分」さんの一行かと思わせるほどでした。その、「傅(かしず)かれる」様子の先生と目が合ってしまいました。得意げで、ちっと戸惑い風にも見受けたのです。日本社会の「大先生」でした。

 上下関係で傅かれるのと、孝行の親子関係でもてなされるとの対比に、こちらの方がはるかに喜ばしいと感じている今宵でした。舌鼓を打つ時を設けるために、休暇を取って、嫁御を伴って、かつての東海道一の大きな宿場町、名峰富士の麓で、その伏流水で養われた、実に美味しい鰻の料理に、老親二人は感謝ばかりの一時でした。

  自分の子が美味しそうに食べている様子に、目を向けていた自分たちが、立場逆転で、次男夫婦が目を細めて、私たちを眺めているのを知って親冥利に尽きるとは、このことなのでしょうか。お店をでると、夕立が激しく降っていて、傘を持たなかったのですが、濡らすまいと、嫁御が大雨の中を跳んで出て行って、傘を用立てて戻ってきてくれ、傘を開いて差し出してくれたのです。

 この社会に中で、三度ほど「先生」と呼ばれる仕事に携わらせていただいて過ごしてきましたが、そのタイトルで生きるのを終えて、微細なキャリアもタイトルもみんな置いている、今の自分たちを、このように饗してくれる私たちの次男、それを喜んでいてくれる、一緒に育った兄姉妹の三人が、遠くから祝してくれているのです。2ヶ月前、羽田空港の行き帰りを送迎してくれた長男、同行してくれた次男、今住むハワイで出迎えてくれた長女、そこを本土から訪ねてくれた次女家族、その家族の交わりに。こんな幸せなことはありませんでした。

 子育て時代、夏休みに海水浴に出掛けて、通りかかった休憩エリヤで、イカ🦑の姿焼きを見て、食べたかった子どもたちに、買って上げなかったことを、今も悔いている自分を、そんなに篤く孝行してくれる幸いに、二人で感謝しているホテルの床の上です。明日は、名峰が見えるでしょうか。

(“いらすとや”の説経者、ルステラ、偉い人です)

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親孝行と鰻重でのもてなしに

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 臆面もなく、私たちの母教会では、宣教師さん夫妻のを、「ジャックさん」、「ベティさん」と呼んでいました。〈紙〉の会社から、《神》の教会の牧師さんになった兄は、「マンさん」と呼ばれていました。『それでは、示しがつかないのではないですか!』とのよその教会のご意見もありましたが、母教会のみなさんの呼び方が変わることがありませんでした。

 私が学んだ学校は、ミッシンスクールでした。教師も学生も、”Mister“ で呼ばれていたのです。教授も、事務の方も、「さん」をつけて呼んでいました。上下関係の難しさのない社会で、みなさんが横に一つ並びだったのです。偉さの尺度がない関係は、立場をわきまえながらも、和やかでした。上智大においでだった教授も、「デーケンさん」でした。親しく敬意にあふれた一年間の師弟関係でした。

 ある時、〈二十世紀日本のパウロ〉と呼ばれた牧師さんを迎えて、伝道集会が持たれました。この方は、威厳があって、寄せ付けないオーラを発しながら、牧師や宣教師の呼称の仕方を、秩序という言葉で、呼称を変えようとされたのです。この教会では、呼称の仕方でも、敬意に欠けているのではないのです。

 窓の淵を手の指でこすって、ホコリを見つけて、姉妹たちの行き届かない掃除を指摘、糾弾していました。まるで旧日本軍の上官が、内務班でするようなことだったのです。「神の国」には、それは不必要で、よその教会の牧師さんのすることではないからです。権威主義であってはならないのです。教会の主でいらっしゃるお方は、まるで僕のようにして、人々の間で謙って過ごされました。

 ある時は、イエスさまは、ひざまづいて弟子たちの足を洗うほどだったと、聖書は記しています。お隣の国で、大きな国際的な集いがあって、そこに参加したときのことでした。あるセッションで、敬称抜きで「イエス」と言っている著名な説教者が、「パウロ」と呼びにくくなったのでしょうか、「パウロ先生」と呼んだのです。義認や聖化や栄光化の十字架の贖罪の教えをするほどの鋭さに敬意を感じたのでしょうか、もう呼び捨てにできなくなって、そう言い直していました。聖書の関係を、日本的な権威主義で解釈され、平民主義の教会で育った私は、違和感を感じてしまったのです。

 パリサイ主義から離れたパウロは、ルステラの街で、次のような騒動に巻き込まれています。「使徒の働き14章8~18節」にそのように記述されています。

『ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。

この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、

大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。

そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。

すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。』

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 『これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。

「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。

とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」

こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。』

 赦された罪人の過去を持ったパウロが、ギリシャの神のひとり、ヘルメスのように、ルステラの人々には尊く思えたのです。驚いたパウロは、そんな立場にないことを証明するために、着ている服を破って、人々の間に駆け込んで、『みなさんと同じ人間(罪に汚れたただの人)です!』と言った行動をとったわけです。イエスさまも、

『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)』

とおっしゃって、先生主義、権威主義の悪弊を指摘されておいでです。教会の社会は、そう言った兄弟姉妹の関係で、成り立っていることになります。今日は、東京駅で、乗ってきた電車から降りてきた私たちを出迎えてくれた次男夫婦の招待を受けたのです。生まれて初めて、グリーン車の座席に座って、駿河国一の鰻料理をご馳走になる旅で、三島駅に降り立ったのです。酷暑にさらされる年老いた両親を、丑の日の直前に、健康増進のために供してくれたのです。
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 その駅頭で、代議士さんを出迎える一団を見掛けたのです。上にも置かない十数人の方々がいたのです。その接遇に、お取り巻きのみなさんがあわただしかったのです。初め「ヤ◯ザの親分」さんの一行かと思わせるほどでした。その、「傅(かしず)かれる」様子の先生と目が合ってしまいました。得意げで、少々戸惑い風に、ちょっとギルティにもお見受けしたのです。日本社会の「大先生」然でした。

 上下関係で傅かれるのと、孝行の親子関係でもてなされるとの対比に、こちらの方がはるかに喜ばしいと感じている今宵でした。舌鼓を打つ時を設けるために、休暇を取って、嫁御を伴って、かつての東海道一の大きな宿場町、名峰富士の麓で、その伏流水で養われた、実に美味しい鰻の料理に、老親二人は感謝ばかりの一時でした。

  自分の子が美味しそうに食べている様子に、目を向けていた自分たちが、立場逆転で、次男夫婦が目を細めて、私たちを眺めているのを知って親冥利に尽きるとは、このことなのでしょうか。お店をでると、夕立が激しく降っていて、傘を持たなかったのですが、濡らすまいと、嫁御が大雨の中を跳んで出て行って、傘を用立てて戻ってきてくれ、傘を開いて差し出してくれたのです。
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 この社会の中で、三度ほど「先生」と呼ばれる仕事に携わらせていただいて過ごしてきましたが、そのタイトルで生きるのを終えて、キャリアもタイトルもみんな置いて、失った今の自分たちを、このように饗してくれる次男、それを喜んでいてくれる、一緒に育った兄弟姉妹の三人が、遠くから祝してくれているのです。2ヶ月前、羽田空港の行き帰りを送迎してくれた長男、同行してくれた次男、今住むハワイで出迎えてくれた長女、そこに訪ねてくれた次女家族、こんな幸せなことはありませんでした。

 子育て時代、夏休みに海水浴に出掛けて、通りかかった休憩エリヤで、イカ🦑の姿焼きを見て、食べたかった子どもたちに、買って上げなかったことを、今も悔いている自分を、そんなに篤く孝行してくれる幸いに、二人で感謝しているホテルの床の上です。明日は、名峰が見えるでしょうか。

(“ウイキペディア”の三島宿、三島駅、”Christiancliparts”の説教するパウロ、“いらすとや“の鰻重です)

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 まだ、運転免許証を手にしていた頃、あちらこちらとハンドルを握って出掛けていたのを思い出します。アメリカ合衆国の属領グアム市内は、免許証を、そこでもらったので、米本土のハイウエーでも中国の街の工場の構内でも、国外でも走ったことがありました。日本では、北は仙台、南は熊本、日本海側は新潟の糸魚川(いといがわ)などを訪ねたでしょうか。

 首都高速の江戸橋の出入り口に、アジアの32カ国を結ぶ、“ASIAN Highway ” の起点があって、福岡から海を渡って、釜山、ブノンペン、ニューデリー、そしてカプクレ(トルコとブルガリアの国境)を終点とする、国際間道路[AH-1]があります。この首都高の標識を見ると、東京がトルコ国境まで繋がる一本の道路で結ばれていると言う、不思議な感覚に襲われるのです。もちろん海を船で渡りますが。

 その日本橋のたもとに立った時と同じ感覚で、世界を捉えられるのも不思議の思いに駆られます。江戸に幕府が置かれ、諸国とを結ぶ道路網が整備されることになって、その起点が、この日本橋でした。ところが、1974年に、東京でオリンピックが開催されることになって、首都高速道路の工事が始まり、日本橋の上を高架で走るルートが計画されて、名橋の日本橋は、高架下の陰になってしまったのです。

 道路の橋桁の下に、主要な橋がかかっているようで、お江戸の景観にはそぐわになくなったなと思っていましたら、近い将来、首都高は地下を走るようになり、日本橋は陽の目を見られるようになるそうです。

 そういえば、随分、あちらこちら歩き、旅をしてきたものです。今は、散歩道を辿り、春夏秋冬の植生の移り変わりを目にし、人と行き交うのもまた興味深いのです。先日は、眼下に見える日光例幣使街道が、梅雨の雨に濡れていました。今日も、35℃の猛暑になるとか、アスファルトが柔らかくなってしまうのではないかと心配になるほどです。

 父は、旧甲州街道の近くの南新宿あたりに家を買おうとし、繁華街に近いので、これから成長していく4人には相応しくないと思ってやめたり、また自分が転校し、卒業した旧制中学校のあった街の近くを、国道1号線(旧東海道)があって、その道沿いに家を見つけたのですが、そこもやめ、東京の郊外に家を買ったのは、私たち4人のためには賢明な決断だったようです。そこも旧甲州街道の道筋にありました。けっこうこれまで、よく道路沿いに住んできたように思います。

 五世紀頃、唐の街道の整備に倣って、日本でも統治上、街道の整備が行われ始めていました。江戸期になってからは、「五街道」が整備されたのです。江戸勤めの侍や旅の商人、温泉療養や寺社参拝で、江戸期の人たちは、幕府の整備した街道を、少ない携行品で旅をしました。今のような観光目的の旅は、富裕層だけの特権だったのでしょう。各地方にも街道が整備されていきました。

 その起点とされたのが、江戸の日本橋でした。その主要街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道で、「五街道」と呼ばれていました。それは大土木道路整備工事だったのです。ブルトーザーもパワーショベルもなければ、アスファルトもコンクリートもない時代、縄編みの簣(もっこ)や木製や鉄製のシャベルやツルハシを使っての工事だったようでした。

 江戸から京の都までの53宿の「東海道」、江戸から武州千住、下野宇都宮から日光までの21宿の「日光街道」、宇都宮から分岐して磐城白河までの24宿、白河以北の陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道でした。 郡山、福島、陸中盛岡、陸奥青森、三厩まで、そして海を渡って蝦夷松前を経て函館までの114宿の「奥羽街道」、さらに江戸から上州高崎、信州下諏訪、信州妻籠、草津に至るまでの67宿の「中山道」、江戸から内藤新宿、八王子、甲府、下諏訪までの44宿の「甲州街道」などがあったのです。

 各街道には、「一里塚」が置かれ、「宿場」が設けられ、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、高札所、代官所が置かれていました。こちらに越して来て住み始め、今年は8年目に入った、この栃木市は、中山道の倉賀野宿から、日光に至る「日光例幣使街道」の宿場だったのです。この私たちの住む街は、幕府の佐野藩の統治下にあったので、街の中央に代官屋敷跡が残されていて、ここに来た当初、見学したことがありました。

 そんな宿場町や、街道沿いに、「報謝宿(ほうしゃやど)」と呼ばれる宿泊施設が、所所にあったようです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりしている人に、宿と食べ物を提供する、今で言う、民間の篤志家による福祉施設があったのです。旅の途中での難事をした場合、宿や食事の世話を、個人や地域でしていたそうです。

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 中山晋平の作詞で、野口雨情の作曲の童謡、「あの町この町」があります。トボトボと歩いたり、スタスタと歩いた道があって、今も歩いている自分なのです。

あの町この町 日が暮れる
日が暮れる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

おうちがだんだん 遠くなる
遠くなる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

お空に夕べの 星が出る
星が出る
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

 家内の入院を機に、住み始めた街は、何よりも、日光東照宮の造営、維持のために、さらには近郷の物資の搬入や搬出のために、食料や味噌醤油の調味料や郷土品や日用品や資材を集積するための「舟運(しゅううん)」の河岸で栄えた商業の盛んな所でした。その舟運を担った巴波川の周辺は、そんな時代の雰囲気を残していて、舟子たちの掛け声や舟唄や、綱手道を舟を曳いて歩く水夫たちの仕事唄が聞こえてきそうです。

 陸路は人が動き、舟運は物資が動き、日本中で、都賀舟や高瀬舟が、荷を運んでいて、鉄道ができるまで盛んに行われたのです。今のような自由に行き来をすることができない時代で、街道筋には関所や番所があって、今のように国外に出かける時のように、県庁から「査証(Visa)」の発行をしてもらい、それを携行しなければならなかったのですが、国内の移動にも、「通行手形」が必要でした。

 その通行手形は、武士の場合は領主が、庶民の場合は在住地の名主などが発行したもので、それを携行する必要があったのです。江戸期には、「出女」、「入り鉄砲」が厳しく取り締まられていたと小学校で学んでいましたが、女性だけの旅行は大変難しかったそうです。参詣や湯治の場合は、緩やかな方法で、関所を通過できたようです。

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 東京に出てきた父が買った家は、旧甲州街道沿いにあった家でした。なんの変哲もない、まだ舗装前の石ころも転がる道路でした。その道が、江戸期には主要街道であったことを知ってから、大名も侍も農夫も商人も、あの目の道を黙々と旅をしたことを想像すると、興味が尽きなかったのを思い出します。

 この両の足で、どれほどの道を歩いて来たことでしょうか。だいぶ半月板もすり減ってきたようです。北原白秋が作詞し、山田耕作が作曲した童謡に、「この道」があります。

この道はいつか來た道
ああ さうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ さうだよ
ほら 白い時計臺だよ

この道はいつか來た道
ああ さうだよ
お母さまと馬車で行つたよ

あの雲もいつか見た雲
ああ さうだよ
山査子の枝も垂れている

 いつか来た道ですが、その道筋の景観は大きく変わったことでしょう。自分勝手に脇道も間道も歩いてきたのですが、引き返すことができました。しかしこれから歩み行く道は、「わたしが道」とイエスさまがおっしゃった道であって、永遠につながる正道、不変の道なのです。この道を行く者は、永遠のいのちを頂くことができるのです。間もなく走破することができるでしょうか。

『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:16)』

(“ウイキペディア”の日本橋、ベイブリッジ、線路下を走る国道20号線です)

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騒音か賛美か、セミの声

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 うるさいなお昼寝中のセミの声

 『蝉の声がしない!』、そんなことをよく聞くようになってしまった今日日、耳をすませるのですが、やはり聞こえてきません。どうしたことなのでしょうか。暑さの中、その暑さをいやましに感じさせる「蝉時雨」が、耳の底に残っていて、思い出させられます。小学校にプールができる前、川に行ってよく泳いだのです。その帰りに、アイスボンボンを買ってはなめながら、泳ぎ疲れての帰り道のお寺の近くで、声高にセミが鳴いていたのです。

 セミ捕りに出かけて、逃がしたセミがオシッコをして逃げて行き、その飛沫(しぶき)を被ったことが何度かありました。木造家屋が多かったり、道路も舗装される前には、いえ木々が多くあったので、セミにも住みやすかった時代だったに違いありません。

 弟の今住んでいる辺りに、けっこう大きな木があって、その幹や道路区分の鉄やコンクリートの仕切りに、セミの抜け殻、空蝉(うつせみ)と言うそうですが、それが多く残されていて、まだ幼かった甥っ子の息子に連れられて見に行ったことがありました。その多さに驚いたことがあったのです

 その木の樹皮の中で、セミが孵化するのだそうです。するとセミの幼虫は地中で樹木の根っこから、栄養分を吸って成長と、3年から10年もの長い間地中で過ごして、やっと蛹(さなぎ)となります。そして地表に出て成虫となって、飛び立つのです。飛び回る日時に比べて、成長までの時間の長さに、改めて驚かされてしまいます。

 そこは、戦後に、大きな公団住宅が、首都圏の近郊のあちらこちらに建てられた用地、皇室の御料馬場の跡地で、大きな木が多くあって、伐採されずに残された地なのです。子どもの頃に、父の家からの畑道を歩いて遊びに行った辺りでした。山の中で自分が生まれた頃に、生まれていたセミに、オジッコを見舞われたことになりそうです。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

 夏場に、奥州路の出羽国を旅した芭蕉が、尾花沢で、住民のお弟子さんからの勧めで、立石寺に出掛けて詠んだ名句です。この地は、最上川で名産の紅花を、舟運で坂田まで運び、北前船で京・大阪に運び出して有名です。その寺を開山したのは、下野国壬生に生まれた円仁でした。その生誕地の近くに、獨協医科大学の附属の大きな病院があります。深山の古寺の静けさと、蝉の声のうるささとを両方感じ、その「静けさ」を、「閑けさ」と記した芭蕉の感性にも驚かされます。

 この春に、次男夫婦が山形の地を訪れて、山形城の堀などに咲く桜を撮った写真を送ってくれました。美しい城跡が公園になっていたそうです。ついぞ知らない奥州路ですが、芭蕉が抱いた強い印象が共鳴してでしょうか、もし芭蕉か同行の曾良の手にカメラがあったら、同じように、その佇まいを映し撮ったことでしょう。またスマホがあったら、その蝉の鳴き声も録音していたかも知れません。

 今住む街にも、いくつもの公園があり、わが家の近くのうずま公園にも、メタセコイヤや樫の木などの大木があって、木陰が涼しいのですが、ジリジリジリ、ミーンミンミーン、チイチイチイ、カナカナカナの声が、8回目の夏になっても聞こえてこないのです。もしかしたら、人間の嬌声や蛮声や罵声や怒号や奇声が、騒々しく響く時代の只中にいますから、聞こえてこないのかも知れません。いや矢張り、蝉が少なくなってしまったのでしょう。

 それでも大相撲や高校野球などのスポーツの歓声や応援歌、コンサートホールの演奏会のブラーボーの掛け声や拍手、演劇や歌謡ショウの俳優や歌手への掛け声は、鬱憤を晴らすのでしょうか、声高に聞こえてきそうです。そう言えば、セミと同じように、嬉々として遊んでいる子どもの声も聞こえなくなっていないでしょうか。

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 聖書の中には、多くの声があり、詩歌や賛美があります。

『私は、あなたのすべての誉れを語り告げるために、シオンの娘の門で、あなたの救いに歓声をあげましょう。(詩篇9:14)』

『昔から、いと高き天に乗っておられる方に向かい、ほめ歌を歌え。聞け。神は御声を発せられる。力強い声を。(詩篇68:33)』

『喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。(詩篇118:15)』

『また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。(黙示録19:5〜6)』

それ故に、私たち贖われ、罪赦された者は、次のように声を発し、上げ、叫ぶのです。感謝をもって、喜び叫ぶのです。

『感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(詩篇95:2)』

 今日日、賛美の声を上げなくなってしまいました。セミの声と同じようにです。雑音や騒音が多くて、かき消されているからかも知れません。それでも、半世紀も前に、母教会を訪ねて来たアメリカ人の伝道者の方が、紹介してくださった賛美コーラスが、心の中から、唇から、その賛美の歌詞が湧き上がってくるのです。この週末、次男がやって来て、来るたびに、ウクレレを手に賛美するのです。すると家内が、それに合わせて賛美し、わが家を満たしていました。

『正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直き者にふさわしい。(詩篇33:1)』

(“いらすとくん”の蝉の抜け殻、“Christian clip arts“ の賛美です)

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甲府盆地には、桃の花が似合う

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 『七月になったのに涼しいんだけど!』と言ったら、『歳をとってきたんだから、ちゃんと暑さ対策をしてね!』と言われてしまいました。例年になく梅雨の雨が多くて、汗だくになっていてもおかしくないのに、そう感じないのは、自分たちだけかと思っているこの頃です。

 昨夕、故郷から、桃が送られて来ました。律儀な弟からの贈り物です。春先、桜の花が咲いて間も無く、桃の花が桃園に咲き始めると、甲府盆地は、まるで桃色の絨毯を引き詰めたような圧倒される光景を、見ることができるのです。御坂名物の絶景です。甲府に居を構えた太宰治が、「富嶽百景」を書き残しています。その一節です。

「河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布(ひふ)を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの咏嘆(えいたん)ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶(いうもん)でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥(いちべつ)も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。

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 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、

「おや、月見草。」

 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。

 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」

 バスの車窓から、道の端に咲く月見草を見て、老婆ならずも、富士山に似合うのは、どうも月見草らしいのです。ところが令和の世になって、郡内の河口湖から御坂道を辿って、山道を抜けて、甲府盆地が広がって、目の間に広がるのは、果物王国の一宮の桃畑です。その一面に広がる絨毯の花園は圧巻でした。甲府盆地には、桃の花が似合ふ!

 秋の葡萄、初夏の桃、広州名産の果物ですが、葡萄の花は目立ちませんが、桃の花は艶やかで、圧倒的なのです。丹精して養い育てた桃の木に、この花が咲くと、お百姓さんは「受粉作業」をするのです。それはたいへんな作業で、蜜蜂の自然受粉では間に合わないのでしょう。

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 実った瑞々しい桃の果実が、美味しそうな匂いを放って、箱を開けると部屋に満ち溢れているのです。ちょっと硬めの果肉は、実に美味しいのです。まだ小学校に上がらず、元気だった私は、甲府の街に連れ出してくれた父と、乗合バスに乗って帰宅しいました。バス停で降りた辺に、茶店があって、桃が売られていて、『準、喰ってくか!』と言った父と、店の椅子に座って食べたのが、この季節の桃でした。二、三個食べたでしょうか、それで、お腹を下した私を見て、父が母に叱られていたのを思い出します。

 今年の初桃を食べましたが、秋口には葡萄の最盛期になります。今のように大粒の改良種のなかった時代、デラという種類の小粒の葡萄も、実に美味しいかったのです。戦国の雄、武田信玄も食べたといわくつきの「甲州ぶどう」は、他県では出回らないのですが、独特に美味しいのです。父の友人から、父宛に、木箱に入った、このブドウが、毎秋に送られて来ました。美味しかったのです!

(“ウイキペディア”の桃の花、御坂峠から富士を望む錦絵です)

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