江戸時代の幕末、土佐に「万葉集」を研究する国学者で、鹿持雅澄(かもちまさずみ・1791~1858)がいました。独学の人で、死後になりますが明治になって、彼の研究した「万葉集古義 (141册)」の大著が刊行されています。それは「万葉集」の注釈書で、後に大和言葉、和歌を学ぶ学徒に、貴重な資料を残したことになります。幕末の尊皇攘夷の高まりの中で、土佐勤王党を立ち上げた武市半平太は、雅澄の甥だそうで、研究の傍ら「私塾」を開くと、半平太や次代を担う多くの青年たちが雅澄を慕って、彼の門をくぐり学びを受けたようです。土佐の志士たちの「勤王思想」に強い影響を与えたことになります。半平太と共に成長し、西に東に奔走して、青春の血を燃やした坂本龍馬(1836~1867)と同じ時代人ですから、龍馬もまた彼の感化を、直接間接に受けているのかも知れません。
私が3年の間働かせてもらった職場の所長は、この鹿持雅澄の研究者で、「萬葉学の大成 鹿持雅澄の研究 」といった書を残しています。国学も万葉集も学んだことのない私ですが、日本語を教える機会を得て目覚めたのでしょうか、この恩師の書を、この度、古書店から手に入れました。「やまとことば」への関心が、とても強くなってきておりまして、『日本語の表現って、なんて美しいいのだろうか!』と、この数年、しきりに思わされているのです。
さて、中国でしばらくの間、交わりをしてきました若い友人が、日本留学の機会を得て、高知県下の高等学校に留学が決まり、彼の入学式が4月15日に行われました。そこで中国にいますご両親、祖父母の代役で出席したのです。実は、この学校の校長先生と校長室長(秘書でしょうか)が、昨秋、私たちの住んでいる華南の街を訪ねて来られました。彼の留学のことについて相談していました方から、このニュースを聞きましたので、時間を割いていただき、シャングリラホテルで、若き友人と共にお会いしたのです。その歓談のおり、『私に任せてくださいますか、彼のお世話をいたしましょう!』と、校長先生が約束してくださったのです。それから話がトントン拍子に運びました。とくに室長の先生が好意を寄せてくださり、何くれとなくご指示くださり、国際部担当の先生が事務上のことを進めてくださったのです。私の友人を、このような形で受け入れてくださり、お世話くださることへの感謝を込めての出席でした。とても良いお交わりをさせていただき、式の前には校長先生と室長、式後には事務長との機会を得て、夕刻、学校を辞しました。
この祝福の機会に、もう一つの願いを叶えたくて、時間を工面して、この萬葉研究者・鹿持雅澄の記念碑のある、安芸市大山岬を訪ねることが出来ました。ここは高知から室戸岬に行く途中に、太平洋に突出し、近くに《道の駅》もありました。もちろん、恩師の書を手にしてのことでした。その碑に、次のような和歌が刻まれていました。
「あきかぜの福井の里にいもをおきて安芸の大山越えかてぬかも」
この意味は、「冷たい秋風の吹く、高知城下の福井の里に妻を残して、ここまで来るには来たものの、まだこの大山峠を越えて行かなければいけないけれど、仕事での来訪ではあるが、残して来た妻の事が気がかりで心配でならない!」でしょうか。雅澄が、家庭志向の人であることが察せられ、そんな人柄に魅せられた恩師が、彼を高評価しているのです。この留学した若い友人は、「民俗学」に感心があって、様々な困難の中から留学の門が開かれたのです。初めての外国、日本、高校生活、寮生活、団体生活で、大きな戸惑いを覚えているのを、しばらくぶりに彼に会って感じましたが、早く日本の高校生活や風習や文化に慣れて、1年後の次の大学へのステップに進むことができるようにと願って、今夕、高知を発って羽田に戻ってまいりました。
高知から歩いて大山岬の勤務に、雅澄はついたのですが、その足跡を追った私は、高知龍馬空港でレンタカーを借りましたので、車での大山岬行した。高知城内にも彼の碑文があるのですが、これは次回に回すことしました。高知の地で、万葉学者の息吹きに触れて満足な私ですが、将来への新しいスタートを切った若き学徒が、送り出してくれたご両親と双方の祖父母への感謝を深く覚えて、耐えて励むようにと願った、今回の高知への旅でした。そういえば魯迅も孫文も周恩来も日本留学を経てのことだった事を思い出した次第です。
(写真は、高知県安芸市の「大山岬」の海に沈んでいく夕陽です)