ねんごろに

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 『時は人の心を癒すのか?』、哀しく辛い経験が、時間の経過とともに、傷付いた心が癒されるのかどうかを問い掛けています。

 昨年12月23日に、姉のように慕っていた幼馴染と死別した、次女の二人の十代の子が、「戸惑い」、「困惑」の渦中にありそうです。幼い日から一緒に育ったほどの近い交わりの中にあった、14、15の心が揺り動かされている様です。もう「死」という人生の厳粛な命題の前に立たされて、学ばなければならないわけです。

 次女からのメールに、次の様にありました。『サラちゃんがポスターをオーダーして取りに来ないのでプリント屋さんから連絡があったそう。その2枚が、ノーくんのためにオーダーしてあったもので、多分クリスマスプレゼントだったようです。アーちゃんにはお洋服を買ってくれていて、ノくんにも用意してくれていたみたいです。優しいね。ノアの好きなミュージシャンのカバーと面白い映画のカバーでした。大切にする、と言っています。』とありました。

 亡くなる前に、街のプリント店や洋服屋に行って、可愛い弟や妹へのプレゼントを用意していたのが、そう言った形でわかった次第は、嬉しいやら、辛いやらで十代の子たちにとってはどうにもやりきれない思いがありそうです。
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 『私もずーっと考えないようにしていたけど、娘を亡くす事を考えただけで心がはち切れそう。とても優しくて面白くていつも笑って話をしていた素敵なお姉さんみたいな存在との死別を真正面から受けている子どもたちの事を考えただけで辛くなります。2人ともまだ14歳と15歳、あんなに近い関係だった人を2人同時に亡くしたんだよね。』と、次女が続けています。

 送られてくる、孫たちの成長の記録を撮って、ジジババに知らせようとした多くの写真の中に、オレゴンの川でカヌーやパドルボードを、楽しそうに興じている一葉の写真がでてきました。『板子一枚下は・・・』と言われてきていますが、一枚の薄い板の下の水は、泳ぐ目的のために作られていない人にとっては、下は死の世界なのです。

 子どもたちが幼かった日、よく静岡県の静波の海水浴場に泳ぎに行きました。ある夏のことでした。長男の親しい同級生が、親戚の子の流された浮絵輪を追って、その海岸の沖で亡くなる事故がありました。慕ってくれた友の死は、長男にとっては、辛い経験だった様です。先年亡くなられた、デーケン教授が、次の様なことを言っていました。

 『感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。 
・・・身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。・・・不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。  「私だけがなぜ?」「神様はなぜ、ひどい運命を科すの?」 「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹きす。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。 』とです。

 時間だけではなく、命の付与者からの、懇(ねんご)ろな癒しと慰めと正しい理解が、愛するご主人とサラちゃんを亡くされたお母さんと二人の孫に与えられる様に願う、早春の温かな陽差しが入り込む、巴波の流れの辺りの窓辺です。

(柊〈ひいらぎ〉の花、ウイラメットの風景です)

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千年

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 『いやー明治だよ緑波(ロッパ)さん!』、日本史を学んだ私たちには馴染みの暗記例でした。明治の御維新、明治元年が ” 1868 ” 年であったからです。そして、日米英の太平洋戦争の開戦は、その七十年余り経った、1941年12月8日のことでした。その4年後、敗戦を喫してから、今年は七十有余年が過ぎているのです。私たち四人兄弟が、みな七十代になっていますから、その生まれた頃は、日本に大きな変化があった明治維新から、七十年の節目、折り返しがなされたわけです。父は1910年生まれでしたから、大変革の年から43年経っていたことになります。

 こう言った年数を勘定しますと、歴史というのは、意外と身近なのだと思わされて仕方がありません。私が日本の歴史の中で、最も関心を向けているのが、「鎌倉時代」なのです。中学の3年間の担任で、社会科を教えてくれた教師が、日本史の時間に、『日本人が最も覇気があって、潑刺としていた時代は、鎌倉時代です!』と教えてくれた時からの関心なのです。源頼朝が、鎌倉に幕府を置いて、征夷大将軍になったのは、1192年のことでした。今より千年の昔のことになります。

 その頼朝は、公家社会から、武士中心の社会に移行した大きな転換期の中心人物であったわけです。『俺は鎌倉武士の末裔なのだ!』と、あまり誇ったりしなかった父でしたが、ただそんなことを言っていました。頼朝から拝領した土地に父が生まれ、その生家が今も残り、先年、兄と弟とで訪ねたのです。千年も前のことと自分がつながりがあることに、なんとも不思議な感覚を、初めて感じたことでした。

 歴史とは、人や時との関わりだけではなく、「土地」とのつながりでもあることを思わされるのです。時は移ろい、人は生まれては逝き、また生まれ、上物の家屋は朽ち果てては、建て直されても、「土」は残るわけです。自分が生まれた山村にも愛着を感じますが、一族が、千年もの間住み続けている街(三浦半島/横須賀)には、さらに強い思いを覚えてしまいます。その街が、やがて日本海軍の主要な軍港になり、真珠湾攻撃艦隊の軍艦の母港にもなったのです(広島・呉の軍港を経て最終的には択捉島(エトロフ)のヒトカップ湾から出港しています)。

 生まれた村には家もなく、祖伝伝来の土地には、父の生まれた家はあっても、相続権を放棄していますので、実際にはありません。たとえ「天涯の弧客(てんがいのこきゃく)」であっても、天なる故郷には、帰り迎えてくれる家が備えられていると、信じているのです。そんな思いで、この年を迎え、新しい年も三週が過ぎようとしています。何か重いものを負いながらの2021年ですが、恐れません。

(横須賀市の市花の「浜木綿〈はまゆう〉」です)

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現状

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 子どもたちが滞米中に、彼らを訪ねたことがありました。その折、アメリカの倶楽部で、お話をさせていただいたのです。四人の子を、次々にお世話くださったのが、その倶楽部でした。その時、「アメリカと私」という題での話だったのです。

 私たちは、「脱脂粉乳」を飲んだ世代でした。” LARA( Licensed Agencies for Relief in Asiaアジア救援公認団体)“ と呼ぶアメリカの団体が、太平洋戦争後の日本や朝鮮戦争後の韓国にたいして、成長期にある子どもたちへの支援物資でした。1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までに行われたと記録されています。

 甘さも脂肪分もないもので、美味しくなかったのですが、コップ一杯が配られて飲んだのです。戦後の学童を、その一杯の善意が、あの時代の子どもたちの健康を支える一助となったのだと思います。おもにアメリカの教会の婦人たちが中心になって押し進めた救援事業でした。その恩恵に浴した一人として、感謝を込めて、そのことを取り上げたのです。

 もう一つは、アメリカ映画俳優の "James Dean(ジェームス・デーン)” の主演する映画を、中学生の頃に、夢中になって観たことを話しました。スクリーンに映し出される、アメリカの物量の多さ、繁栄、若者の生態などを観て、十代の私が強烈な印象を受けたことも語ったのです。アメ横にジーパンを買いに行くほどの十代の私の憧れの俳優でした。

 そして、アメリカやカナダから遣わされた宣教師たちとの出会いをお話ししたのです。私の母は少女時代に、宗教都市の出雲で働くカナダ人宣教師家族との出会いを通して、信仰者となったことを話しました。家内の母親も、戦後アメリカから遣わされた宣教師との出会いで信仰者となり、マッカーサー極東軍事司令官が遣わした多くの宣教師に、義母は日本語を教えたことも付け加えたのです。
 
 そして、自分自身が、宣教師と8年間働いたことも語ったのです。そして子どもたちが、その教会で、霊的な成長のためのお世話いただいたこと、その時もなお、それが続いてることを感謝を込めて語りました。大統領には会う機会はなかったので、その代わりに、アメリカの西海岸の教会の講壇から、そんな様々なアメリカとの関わりについて、感謝を込めて述べたのです。
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 ある時、『アメリカがなぜ崩壊しないのか?』について、大統領付きのホワイトハウスのチャプレンの話を、恩師に聞いたことがありました。一つは、建国の父たちの理想や夢や幻に繋がっている人々が、今もなおいること、二つに、アメリカのための内外からの祈りが支えていること、三つは、アメリカの富が、長く世界宣教に献げられてきたことだということでした。

 そんな私が感謝したアメリカが、今や建国の父たちの理想、夢、幻を継承できなくなってしまっている様な現状なのです。分断が起こり、暴力が満ちて、優しさが見られない社会になってしまっています。『やがて、ある日、アメリカの国力が落ちる!』、もう40年も前に、恩師から聞いたのが、その言葉でした。

 あの話を聞いてから40年も経っていますが、アメリカの社会は、その通り経済力も低下し、何よりも世界を感化できる義が、不義に変えられてしまっています。創造の神の祝福をいただいた国が、それを失いつつあるのでしょうか。

 大都会がアメリカを代表しているかの様に、世界は見てきましたが、そうではありません。数多くの小さな村や町、そこに住む名もない市民によって、勤勉な労働と、敬虔な祈りが、長くこの国を支え続けてきていたのです。ところが、堅実な街や村が、都会の波に襲われて、とくに人々の心が荒廃し始めています。人々は政治に落胆し、富にさえも望みをおけなくなり、義を愛せなくなっています。とくに子どもたちが不安に駆られているのです。それがアメリカを弱体化していることなのでしょう。このアメリカの経済的な力、愛の実践の力、影響力を失う時、何が起こるかというと、
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 「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ21章20節)」

 《神の日時計》と言われてきたイスラエルと、その都のエルサレムが、敵対する軍隊によって包囲される日がやってくるのです。その時、世界全体の均衡が崩れ、聖書が警告してきた「滅亡」の到来が起こるというのです。それで、

 「エルサレムの平和のために祈れ。(詩篇122篇6節)」

と要請されてきています。2000年の間、離散したイスラエルの民が、20世紀になって、” Zionism シオニズム “ の機運が高まって、約束の地シオンに帰還する動きが、離散先の国々に起こり、誰いうとなく、世界中から、神の約束の地、シオンに次々と帰還し、今もなお、その動きがあります。イギリスの助けがあって、1948年にイスラエルは国を再興しました。長く様々な面で、イスラエルを支えてきたアメリカですが、その国力の低下とともに、イスラエルへの援助能力も弱くなり、やがて、援助できなくなる時がこようとしています。その時に、

 「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。(詩篇121篇4節)」

 神ご自身が、ご自分の腕を直接伸べて、イスラエルを日夜、守られる様になるのです。イスラエルは見放されることはないのです。これが週末の一つの局面に違いありません。

(「シャクナゲ」とLARAの「脱脂粉乳配り」とイスラエルの国花の「アネモネ」です)

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出会い

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 私たちの倶楽部に、ほとんど入れ替わりの様にして、何組かのアメリカ人のご家族がいたことがありました。日本の食べ物が合わなくて、月に何度か、アメリカ軍の基地に出かけては、そこで食料を買って帰ってきて、生活をされていた方がいました。ご主人は、軍籍をお持ちだったのです。せっかくの来日でしたが、けっきょく短期で帰国されてしまったのです。

 この方たちとは違って、魚の干物でも食べられる家族がいました。多くの人たちに教える力があって、とくに奥さまは、ご婦人たちに良い感化を与えておられました。地味で質素な生活をされていて、私たちと、とても良い関係を持たせていただいたのです。住んでいる山里の村でも人気のあるご家族でした。4、5年おいでの後、帰国されました。

 もうひと家族は、奥さまが日本人でしたが、私の知人の家を紹介して住んでいたのですが、家や庭の使い方や近隣の方との間でトラブルがあって、いつの間にか、山の奥の方に住まいを見つけて移って行かれ、それからは連絡が途絶えてしまいました。

 私たちと八年ほど一緒に過ごした恩師は、男のお子さんが二人おいででした。日本式の手狭な家を借りて生活をされていました。その借家全体が、弟さんと二人の遊び部屋ほどだったそうで、地方の裕福な商家の出でした。その借家を改装して、部屋を増やし、そこでお子さんのホームスクールをしていました。

 子育てをしながら、お仕事をされ、その働きを私に預けて神奈川の街に移って行かれました。その後、京都、札幌、再び京都と、多くの街で働かれて、良いお働きを残された方でした。よく腰が痛かったりしておいででしたが、厳しい病を得て、東京の入院先で召されました。六十代でした。

 この方から、人生の基本的なこと、物の見方、考え方、捉え方などを学ばせていただいたのです。この方を訪ねて来られたみなさんからも、短期間でしたが、多くのことを学んだのです。まだ教える方も、学ぶ自分も若かったのです。彼らは熱く教えてくれました。《誰に学ぶか》、《何を読むか》、《どこから情報を得るか》を、この方たちから学んだのです。

 あの年月があって今の自分があるのだと思い返しております。『鉄は熱いうちに打て!』、柔軟な時期に受けた影響というのは、一生ものになるのでしょうか。今年小学校に入学する、私たちの小朋友のお嬢さんは、来るたびに、知的にも創作面でも成長が見える、『栴檀は双葉よりも芳し!』、将来が楽しみです。彼女にとっては、私たちは《大朋友》なのでしょう、『百合さん、準さん!』と彼女に呼ばれて、遊び相手に感じてている様です。

 中国での13年は、孫たちと接する機会が少なかったのですが、このお嬢さんは、それを補ってくれて余りあるほどなのです。ちょっと厳しくしたりすると、彼女は大粒の涙をポロリと落とすのです。歳を重ねての幼い子からの刺激は、人生の仕上げ作業の一つなのでしょうか。華南の街で出会ったみなさんからも、実に多くのことを学ばせていただいたことも忘れていません。

 数多くの多く出会いがあったのですが、言語も肌の色も国籍も民族も文化も、人はそれを超えた存在だと思うのです。同じ様に笑い、泣き、叫び、黙ります。同じ感情を表して、同じ真理に憧れて、それぞれに意識を働かせて生きます。みなさん個性的に自分の生を生きているのです。その素敵な出会いに感謝して。

 
(「栴檀」の花です)

異文化

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 アメリカでは、子どもたちが仮装して、近所や知人の家を訪ねて、その家で焼いたクッキーなどをもらって過ごす「ハローイン」という祭の日が、10月31日にあります。愛知県から留学していた、16歳の服部剛丈(はっとりよしたけ)さんが、その祭が間近かな1992年10月17日に、銃で打たれて死亡するという、悲しい事件が起こりました。ルイジアナ州バトンルージュ市で起こった射殺事件でした。

 服部さんは16歳で、交換留学で、ホストファミリーの家にお世話になっていて、その家の男の子と一緒に、招いてくれた方の家を訪ねたのです。ところが、その方の家を間違えてしまいます。その家の戸をノックしてしまい、不審に思ったその家の主人の背後からの “ freeze “ の呼び掛けが、スラングで『動くな!』が、留学間もない服部さんには理解できず、動いてしまって、射殺されてしまったというのが経緯です。

 その街では、年間に50件もの殺人事件が起こっていて、マスコミが大きく取り上げることのない事件として片付けられようとしましたが、日本での騒ぎが大きくて、けっきょく裁判で事実を明らかにすることになります。服部さんのご両親は、息子を撃ち殺したその人を、恨むことはなかったそうで、銃社会の有り様に一石を投じて、息子の死を無意味に終わらせたくなかったと伝えています。

 当時、私たちの長男はオレゴン州の街に、次女は、ハワイ州の街に留学中でした。それは彼らにも、送り出している私たちにも、衝撃的な事件でした。ある時、息子から、めずらしく電話がありました。教会の運営している寮の近くで、発砲事件があって、その銃声に驚いた息子が、祈りの要請をしてきたことがあったのです。現実のアメリカ社会に驚いたからなのでしょう。

 ですから、その服部さんの事件は、私たちにとっては〈人ごと〉ではなかったのです。かく記す私も、映画やテレビで聞く銃声しか知りませんから、実際には聞いたことがないわけです。日本の様に、警察による治安が保たれている社会とは違って、建国以来、我が身が自分でしか守れないアメリカ社会では、銃は必要悪のままでよいでしょうか。

 合法でも非合法でも銃を用いて、物事を解決しようとしたり、暴走を抑止したりすることは、理想的な方法ではありません。その服部さんの訪問時に、〈ハローイン〉の仮装をしていたのも、不審者に思われた理由であったと考えられます。また、事件の背景には、犯罪が頻発する社会の不安と恐れも、市民生活の中に潜んでいたこともある様です。
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 〈ケルト人(中央アジアに起源を持ちヨーロッパに定住した人種)の祭りを受け継ぐ、このアメリカ文化の中に、魔女やおばけの服装をゆるす習俗があることに、おかしさを私は感じていたのです。歴史の短いアメリカ社会に入り込んだ、この奇祭はキミが悪かったわけです。まあ賛否はともかく、外国に留学する子どもは、その留学先の文化に留意しなければならないのです。

 私たちの子どもたちは、すでに四十代で、素敵な海外生活を送ることができましたが、異文化が持つ危険性はありました。オレゴンは、白人の割合が高くて、アジア系やアフリカ系は、白人優先社会の中では、酷い差別はなかったそうですが、そこそこの齟齬(そご)が生じた体験している様です。彼らは、教会関係の人たちの間にいましたから特別だったかも知れません。アメリカを愛した服部さんは、性格が明るくて、学校でもホストファミリーの中でも人気者だったそうです。

 この私たちの住む街にも、ネパールや東南アジアからの留学生が多くおいでです。働きながら学んでいて、
なかなか日本社会の中に溶け込めていない感がしています。欧米系の人たちには優しくて親切なのですが、アジアやアフリカ系のみなさんには、同じ様ではない日本の地方都市の弱さが、とくにコロナ禍のもとで気になります。

(ルイジアナ州の州の花の「マグノリア」、ネパールの国花の「ラリグラス」です)

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二期目

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 冬場は、山がせめぎ合った小川の畔の旅籠の離れは、寒かったのでしょう。きっと北海道にも匹敵する様な寒さだったに違いありませんが、そこで母は、弟と私を産んでくれたのです。そんな生まれをしたのですが、子どもの頃に、〈寒さ〉の記憶は全くありません。そんな自分は、暑さにも寒さにも強いと自負していましたが、ただ今年の北関東の冬の寒さは、身に応えるほどで、初めてのことの様な〈寒さ体験〉をしています。

 住む家の日中の窓辺が、暖かなので、陽が落ちた後の寒さが一入なのかも知れません。この一週間の寒さは、全国的に異常なほどだったそうで、そんなニュースを聞いています。先週、華南の友人から連絡があって、『今年は異常なほど寒いんです!』と言ってきて、結氷も降雪もない亜熱帯も、めずらしく寒波の影響を受けているそうです。

 窓辺にて 胡蝶蘭(はな)咲きおりし 春まぢか

 今朝、家内の誕生日に贈られた胡蝶蘭が、蕾を開いたのです。長く咲き続けて、一つずつ花を落とした後も、水やりを続けたからでしょうか、小ぶりですが、キリッとジンパクの花が咲いたのです。これまで、何度も何度も胡蝶蘭いただいて楽しんできましたが、二期目の花が咲くのは初めてのことで、大喜びです。

 

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北へ

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 日本統治下の旧満州の玄関と言われる「旅順」に、旧制の高等学校がありました。「旅順高等学校」がその校名でした。この学校を素行不良で退学された、18歳の宇田博の作詞作曲で、その高等学校の寮歌となった「北帰行」があります。この歌の歌詞を変えて、売り出されたレコードもありました。

1 窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人一人
涙流れてやまず

2 建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし

3 富も名誉も恋も
遠きあくがれの日ぞ
淡きのぞみ はかなき心
恩愛我を去りぬ

4 我が身容(い)るるに狭き
国を去らむとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か

5 今は黙して行かむ
何をまた語るべき
さらば祖国 わがふるさとよ
明日は異郷の旅路
明日は異郷の旅

 人が「北」を憧れるには、たくさんの理由が挙げられる様です。より厳しい試練に立ち向かおうとする意思、望郷の方角、負けることを「敗南」と言わないで「敗北」と言いますが、この「敗北」と果敢に挑戦して行く心意気が、人を北に向かわせるのでしょうか。傷ついた男や女が旅で向かう先は、南ではなく北にある街や港や山が多そうです。あの渡鳥の雁も、北を目指して飛んでいきます。

 年を重ねたら、暖かな南に《終の住処》を求めたらよさそうですが、私の想いは、「北」に向かってしまいます。人生の敗北者だとは思っていませんが、流氷や海鳴りのする北海の海や険しい山や荒波の削る島に行って見たくて仕方がないのです。この歌の作詞者の宇田博が、「北に帰る旅人一人」の自分が帰ろうとしたのは、満州国の北の奉天(現在の瀋陽です)でした。そこには両親が住んでいたからです。

 やはり、北には「浪漫」があるのではないでしょうか。浪漫とは、夢や将来や永遠に連なる希望が溢れていそうです。あの白雪に覆われ、白氷に閉ざされた大地や島嶼部に、驚くべき可能性が秘められているに違いないからです。旅順と同じ満洲国の北に「満州里」と言う街があり、その街を歌った「満州里小唄」の中に、雪を割って咲き出す「アゴニカ」と言う、真紅の花が歌われています。それを見付けに、北上の旅をしてみたいのです。

 またオホーツク人の足跡を追って、稚内から樺太、シベリア、根室から北方四島、千島列島、カムチャッカからアリューシャン列島、アラスカにまで、北進したい思いでおります。《人生八十年》の今、人の作り上げた傲慢な文明に疲れた現代人が、創造の世界の神秘さを求めるのは、自然の理に敵ったことに違いありません。逃避行ではなく、被造物の中に創造主のみ手を求めたいからです。

 でも、こんな私の《浪漫志向》が、人を避けている様にみられるのも辛いのです。私は、人が好きです。虚構の世界の小説よりも、生身の現実の人への興味の方が強く、これまで実に興味深い方たちと出会ってきたからです。父や母から始まり、兄たちや弟、妻や子たちや孫たち、恩師たちや友人たちがいるからです。家内と私を「同路人」や「同工」や「師母」や「老師」と呼んで、交わりの時を共にした中国華南のみなさんは、多くのことを教えてくださった《大陸の友》なののです。

 先日も、FaceTimeで、雲南省から来られて、私たちの街で学んでおられた方が、家内の闘病の様子を聞きたくて連絡してこられました。二年前の病身での帰国の時に、空港に見送りにきてくれた方です。肥って元気にしている家内の姿を見て喜んでくださったのです。その他にも、彼と鍋をともにしていた方たちとも、久しぶりに言葉を交わすことができました。大陸の南の地にも、素敵なみなさんがおいでです。また、『いつ帰って来ますか?』と誘ってくれたのです。

(神秘的なオーロラです)

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分からない

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 初めて「マニフェスト」という言葉を聞いた時、『ナニフェスト、ナニ言ってんのだろう?』と、正直にそう思ったのです。選挙の時期に聞いた言葉でした。ですから、きっと政党や候補者が、自分が当選したら、目指そうとしている「政策項目」なんだろうと推察したのですが、ちょっと意味が似ていたのです。辞書を引くと、「選挙公約」なのだと言うのです。

 どうして「選挙公約」と言わないのかと思ったのです。この年寄りには、魔術師に謎をかけられてしまった様なのです。このコロナ禍で、「コロナ」は、皆既日蝕で太陽の周りにある炎の様な状態を言っていることは学んだことがありますし、私が乗っていた自動車名でもありました。ところがウイルスの名にも使うのだと思って意外でした。また「パンデミック」を聞いた時、どこかの国の「パン」なのかとは思いませんでしたが、「伝染病拡散」を使う方が、年寄りには《厳粛さ》が伝わってきていいと思うのです。

 学級の人気者かと思った〈クラスター〉、拳闘選手が倒れたのかと思った〈ロックダウン〉など、〈新カタカナ語〉が氾濫して、この萎縮してきた脳味噌では理解できないで、迷子状態です。毎朝毎夕、ラジオニュースを聞くのですが、その〈カタカナ語〉が多くなって、頭の中で漢字変換できずに混沌としてしまっています。

 この傾向ってなんなのでしょうか。英語やフランス語の優等性を認めて、日本語の古さを卑下している様に思えるのは、きっと私だけではなさそうです。私に多くのことを教えてくださったアメリカ人の恩師と話をした時に、私が、得意満面で「ボランティア」をしたいとか、しようとしているとかを、彼に言ったのです。まったく通じませんでした。すると、『準、"volunteer[vὰləntíər] ヴァランティィア “ だよ!」と直されてしまいました。でも日本人に話す時に、英語発音をしても気取ってると思われて、英語発音を使うのを躊躇してしまうのです。それが悲しい日本人の劣等感でしょうか。

 明治のご維新後、欧米に思想の用語が、中村正直や箕作麟祥や福沢諭吉などによって日本語に翻訳されました。それを「明治翻訳語」と呼んでいます。たとえば、

individual̶ 個人
honey-moon̶ 新婚旅行
philosophy̶ 哲学
science̶ 科学
she̶ 彼女
time̶ 時間
adventure̶ 冒険
love̶ 恋愛
art 芸術
telegram̶ 電報
century̶ 世紀
common sence̶ 常識
home̶ 家庭
hygiene̶ 衛生
impression̶ 印象
trust 信用
truth 真理
democracy 民主主義
liberty 自由
politics 政治
policy 政策
right 権利 
tradition 伝統
logic 論理 etc.
(国立国語研究所名誉所員・ 明海大学外国語学部客員教授 飛田良文、他)

 政治や思想や教育や医学などの分野の専門用語は日本語に翻訳され、それが、近代中国でも、新語として用いられていきます。ところが、その翻訳語を、カタカナ語で復元してしまい、意味を曖昧にしてしまった場合が多いのです。そして現代の様に、公共放送でも新聞でも、学術論文でさえも、どっかの県では “ Alps “ を市名にしているケースもあり、カタカナ外国語が氾濫してしまいました。

 受け継いできた美しい日本語を残したいと願っています。命や生活に関する、重要な事態の説明や、緊急事態の知らせの場合は、使う方のいい気分を引っ込めて、意味が通じる言語、原語を使って欲しいのです。高校時代の英和辞書を引くにも、カタカナ語を英語に直すのは至難です。それから辞書を引く頃には、もう感染してしまいそうです。

 さらにもう一言、「カステラ」は、私の内では、和製の「かすてら」であって、すでに “ Castella "ではなくなっています。母が、よく届けてくれた「三時のおやつ」ですから、例外として表記は変えないでいただきたいのです。

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愛と爱

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 同じ漢字文化の中国で、日本語や日本文化などに関心のある若者に、日本語を教えることができ、最高の機会が与えられたことに大いに感謝しています。都市部からの入学者は一部で、内陸の村や、遠い省の小さな街からの入学者も、少数民族とされている背景のある学生も、学ぼうとしている若者の背景は多種多様でした。

 彼らに、発音を教えるのです。まさに「アイウエオ」からで、呼び掛けると、それに唱和して応えてくると言った形式で、教えたのです。もちろん、日本語専攻の学生ですから、まるで日本人の若者の様に話せ、書き表せる学生から、初歩を教えなければならない学生まで、理解度に差は大きかったのです。

 「イエアオウ」、「アイアイウエウエエオエオ」など順序を変えてついてこさせるのです。小学一年生の様な授業をしたのですが、どの年度の学年からも好反応で、大声で返してくるのです。近くの教室には迷惑だったのでしょう。こちらの一生懸命さが伝わるのでしょうか、けっこう人気がありました。上級生には、「日本の政治経済社会」、「作文」なども教えました。他の学部の学生も入り込んできていたこともあったのです。

 日本語教室の定番の「北国の春」とか「四季の唄」を歌って、授業に変化を持たせました。持参したハーモニカを吹くと、喝采がきました。そんな年月を8年ほど過ごしたのです。教えの根底に私が持っていたのは、「謝罪」の思いでした。もちろん、学校が、けっこう高額の俸給を、他の外籍教師に内緒で頂いて、生活のためには大変助かったのですが、無給でもしたいほどの思いがあったのです。

 東京の女子大で、教師になる機会が二度ほどありましたが、それをお断りして、アメリカ人起業家の助手をし続けていました。その街で34年過ごして、中国に行きましたら、天津で外国語学校で中国語を学んで一年後、天津から華南の街に導かれて、出会った方の紹介で、すぐにその日本語教師の機会が与えられたのです。

 最近、送信してくださるブログに、現代使っている「中国漢字」についての記事がありました。中国漢字は、1950年代から順次、古来からの繁体字を簡略化した「簡体字」が使われてきています。その理由は、『人民が解放前の有害な文書を読めなくす るためだ!』というのが、本意なのだそうです。例えば、「愛」を簡体字では、「心」を除いた「爱」と書いています。
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 その理由を、『人民の 心は、党が預かっています。』と言われたのだそうです。私たちが12年過ごした街で出会った中国のみなさんには、「心」の籠もった「愛」が溢れていました。学生さんたちはもとより、倶楽部でお交わりをしたみなさんは、私たち老夫婦に、大変親切でした。「邻居linji 」という隣人のみなさんも、手作り豆腐や季節の食べ物や野菜を、よく届けてくれたのです。

 家内が二度、街の市立医院と省立医院に入院した時には、倶楽部のご婦人たちが、二十四時間を交代で、物心両面のお世話してくれたのです。お仕事を持っている方も夜中に付き添ってくれたりしました。先週も、e-mailがあって、私たちの帰国後の生活について心配してくださっている方がいると知らせてくれました。帰国して2年も経つのに、そんな思いを向けてくださるのです。

 親兄弟にも勝る犠牲を払ってくれ、今も変わらずにいてくださるので、『十分に満たされているんです!』と言って、お断りするのですが、叱られてしまいます。「義理」などない社会の人なので、本心からの「愛」を示してくれます。お返しをすると、また叱られるのです。政府は預かったと言うのですが、彼らは預けた覚えがないのです。しっかり「心」を持ち続けて、「愛」を行っておいでです。

(象形文字の「心」です)

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温め鳥

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 鷹匠の伝承に、「温め鳥(ぬくめどり)」の話があるそうです。大空を翔ける鷹も、避けがたい弱点が足と嘴にあるそうです。寒さにその足を温めるために、小鳥を捕まえて、足元に置くのです。陽が昇って朝になると、その一夜の暖に感謝するのでしょうか、小鳥を空に放つのです。飛んで行った小鳥を追うことも、餌食として襲うこともしない、そんな伝承です。

 私の父は、子どもの弟や私を、よく抱きすくめて離さなかったのです。それは確かに愛情表現なのですが、寒い夜は、湯たんぽがわりにしたのかも知れません。それは父にも、子どもの自分たちにも温もりであったのです。” touching “ という作用が人には必要だと、公開のカウンセリング講座を受講した時に教わりました。《父の温もり》は子を精神的に安定させるものなのでしょう。

 この「温め鳥」の話を聞いて、老いたダビデが、小鳥ではなく、乙女を抱いて寝る様に、家来に進言された話を思い出したのです。重ね着をしても身体の温まらないダビデのもとに、アビシャグという娘が連れて来られて、王の世話をし始めます。鷲の様に力のみなぎっていた時には、部下の妻を横取りしたほどのダビデでしたが、この時には、「王は彼女を知ることがなかった。」とある様に、触れようとしなかったのです。自らの罪を悔い、罪の結果を刈り取った後は、二度と過ちをダビデは犯しませんでした。

 ある集まりに参加した時に、布団が薄かったのか、体調が優れなかったこともあり、しかも寒がりの私は、震えていました。それで家内に温めて欲しくて、そうしてくれる様に求めたのです。家内は、子を抱く様に私を抱いてくれ、それで体に温もりが戻ってきて、眠りにつくことができたのです。私は乙女からではなく、《契約の妻》からその暖を受けることができました。そんな「温もり」を求めたことは一度きりでした。

 人には「温もり」が、どうしても必要です。肉体的な接触だけではなく、心理的な接触を満たすためにもです。ところがスマホなしでは生きられない現代社会では、会話さえも億劫になってしまい、スマホ上で言葉に換えた〈文字〉や〈記号〉によって、自分の意思や思いを伝え、交流をする時代になってきているそうです。人と人との距離が、大きな問題をはらんで、かけ離れている時代の様です。仮想の相手や、声も温もりものない距離の交流ですませているのです。

 親元を離れ、三食の食事を食堂で摂り、六人部屋で生活をする中国の学生を、長く教えました。その学年の最後の授業が終わって、一人の女子学生が教壇の私の所に来て、『先生、私をハグしてください!』と言ったのです。まだ教子たちがいる中でした。一瞬躊躇したのですが、この学生を、胸を合わせない様にして、肩でハグしたのです。この学生の心理を考えて、言葉の応答ではなく、身体の接触を必要とした《孤独さ》と《敬意》も感じたからでした。彼女は、衒(てら)うこともなく『ありがとうございました!』と言って教室を出て行きました。

 断ることもできましたが、邪心のない願いを表現し、同級生の中で、そうしたことを求めたこの女子学生の勇気と決心を認めて、私が、そうしたことはよかったと思うのです。すでに彼女は結婚し、子を抱く年齢になっていることでしょう。学生との距離の中でなされた教師の《ハグ》にも、私への彼女の《ハグ》にも、メッセージがあったのでしょう。

(作画は小原古邨、茅ヶ崎市美術館の所収です)

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