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この古びた家は、看板によると「自転車屋さん」だったのです。車社会がやってくる前、自転車が、とても便利でな交通手段でした。近所に自転車屋さんが、今でも三、四軒ほど散歩道にあります。タイヤの空気入れやパンク修理で、この店先は、かつてはにぎやかだったことでしょう。とくに高校が8校もある街ですから、近辺の村や町からの通学生が多かったので、『おじさん!』と声が掛けられて便利に利用されていたことでしょう。なにやら、『チャリン!』がしてきそうでした。最近では、空気入れに〈100円〉もとられ、もうservice ではなくなっているんですね。
ここ栃木の街は、下野国の国庁が置かれ、古代から中心的な位置を占めていました。とくに家康の亡骸を埋葬した久能山から、日光に改葬して建てられた東照宮ですが、その建築資材や備品などの「日光御用」の物資を、江戸から利根川、渡瀬川、そして巴波川を利用して、ここ栃木には、舟運の「河岸(かし)」があり、その跡が残されています。その集積地が、ここ栃木で、ここから陸路で日光まで運んだのです。
その後、こちらの農産品や木材や米などを、江戸の街に運んでおり、帰り舟には、塩や塩漬けの魚や蝋(ろう)などが運び上げられていたのです。その集積地である、ここ栃木には、商人たちが買い付け、陸路を馬車などで運んでいたのです。物質や人の往来もにぎやかで、栄えていました。
家康の墓参を、徳川幕府に課された京都の朝廷は、毎年春には、「例幣使」を送り、その一行が宿を取ったりし、そのために名付けられた日光例幣使街道は、人の行き来があって、この街の人は多くを語りませんが、ちょっと怪しげに感じられた街並み、遊郭などもあったようです。その辺りは取り壊され、新しい世代の新築の住宅地に変わっているようです。
九十二歳で詩集を出した詩人の柴田トヨは、この巴波川の界隈で奉公に出されて働いたそうで、幸来橋の袂にやって来ては、奉公仲間と話をした懐かしい思い出があるようです。多くの人が渡って利用して来た橋は、語ることなく時の流れと巴波の流れを二重に写して、今も健在です。豊田トヨの詩集「くじけない」に、次の詩があります。
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何か
つれえことがあったら
母ちゃんを 思い出せ
だれかに
あたっちゃ だめだ
あとで 自分が
嫌になる
ほら 見てみなせ
窓辺に
陽がさしてきたよ
鳥が 啼いてるよ
元気だせ 元気だせ
鳥が 啼いてるよ
聞こえるか 健一 ( 『倅に』)
市立図書館への道筋に、先年廃業された「下駄屋さん」の看板が下がっています。店舗と工場があって、高級な下駄材の桐などの原料材が運ばれてきては作られていたのです。店で売られ、東京などの需要にも応えていたのでしょう。散歩の途中に、ガラス戸越しに店内を眺めたりしましたが、懐かしい下駄が陳列されていました。もう利用する人もわずかになったり、主人が亡くなったりしてしまっています。
小学校の通学は、そんな高級なものではなかったのですが、下駄でした。母の婦人用の細身の物が履きやすくて、緒をすげてもらっては、カランコロンと歩いていました。石を蹴るといい音がして、気持ちよかったのを思い出します。今でも、下駄履きで、この街を散歩してみたい衝動に駆られていますが、家内は、『うん!』とは答えてくれません。
昔恋しい巴波の桜や柳、幕末、明治のご維新には、戦いも繰り広げられて、公園には亡くなられた侍の墓も残されてあります。栄枯盛衰、そんな殺伐な時代があったなどとは、思えないほど、静かで長閑な街並みに、最近では観光客が戻ってきています。
栄えた街の影には、負の遺産も残されているようです。過去には、何もなかったようにして、今のたたずまいがありますが、人の営みにも、街並みにも、光と闇、笑いと涙、美と醜を併せ持っているのでしょう。
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