東北地方の日本海側に、山形県があります。その新庄市からやってきた同級生がいました。彼は東京での生活を始めて、『東京の冬は寒い!』と言いました。寒さを代表する東北人の彼が、そう言ったので驚いた私は、『どうして?』と彼に聞いたのです。彼の答えによりますと、東北では、寒さ対策が周到になされているのだそうです。もちろん屋外は寒いのでしょうけど、屋内は、暖房が効いていて、東京のような寒さをは、上京して初めて経験したのだそうです。そういえば、天津の街で1年過ごしましたときに、紫金山路沿いの河は、パンパンに氷が張って、大学生たちがその上で遊んでいる姿を、よく見かけました。ズボン下をはかないで過ごすことは絶対にできないほどでしたが、屋内には、「暖機」という、温水の暖房機が設置されていて、Tシャツでも大丈夫なほどでした。アパートの30メートルほど先にでしょうか、大きな煙突があって、その下では温水を石炭で沸かし、周り中のアパートの部屋に、温水を送っていたのです。太い温水管がはりめぐされている光景は、夏場に初めてやってきた私にとっては、『何だろう?』と不思議に思った初めての街の様子でした。
華南の地にやって来てからは、街中に、その「送水管」が見当たらなのです、実は、黄河以南には、「暖機」はないのだということが分かったのです。ですから暖房は、それぞれの家が責任をもつのでしょうか、多くの人は室内で、外で着用している分厚いコートを着込んで、生活をしていましたので、これも驚かされたことでした。幸い、我が家には、電気温風ストーブが二基ありますので、コート無しで冬場の生活をすることが出来ています。
この学友を思い出して、同じ山形県で活躍した、一人の人物のことも思い出したのです。この山形県に、米沢という街があります。そこに「米沢藩」、江戸時代に全国から注目されていた藩がありました。名君と謳われた山内鷹山(ようざん、1751~1822年 )が藩主で、その彼の行政改革、産業改革、教育改革、社会改革が優れていたからでした。莫大な借金を十数年で返済し、その後は藩の財政が、驚くほどに潤い、その手腕が注目されたのです。倹約質素を旨とし、一汁一菜の食事で鷹山は過ごしたと言われています。この鷹山の優れていた点は、家庭にありました。
米沢藩に男子の後継者がいませんでしたので、鷹山が、婿養子として藩主となりました。結婚しました婦人は、知的な能力が10歳ほどだったそうです。鷹山は、心からの愛情と尊敬を持って、この妻を愛したのです。妻に人形を作って与え、遊び道具を工夫して与えて喜ばせたのです。20年間、妻の亡くなる日まで、その愛は変わることがありませんでした。世の常として、「跡取り」が求められ、子を産めない妻に代わって、ただ一人、10歳年上の「側室」をもちます。その人を米沢に置きましたが、妻に代わる権限を移譲することなどありませんでした。そのように妻に対しての用意周到な配慮を、おろそかにしなかったほどの人でした。
与えられた子どもたちの教育についても特筆すべきことがありました。鷹山は、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしてはいけない』『貧しい人々へ思いやりの心をもて』『恩(親と師と君主)を忘れてはいけない』『徳を高めなさい』と子どもを教えました。また、嫁いでいく娘には『生まれた国に相応しく貞淑でありなさい』との言葉を残しています。こう言った理想的な家庭を建設した人ですから、藩内で行われていた「売春宿」を禁止してしまいます。このような社会改革を行った藩は、この日本では他に見られません。『犯罪が起こるのでは!』との反対意見がほとんどでしたが、そのような心配した事件は、一件も起こらなかったと記録が残されています。
17歳で藩主になって、70歳で召される日まで、彼の生き方、在り方は変わりませんでした。彼の葬儀が行われた日、領内から数十万人が送葬の式に参列し、自分たちの祖父の死を悲しむように、哀悼を表したと言われています。日本の政治改革、行政改革が叫ばれる中、「二十一世紀の鷹山」が、この日本の若い人の中に、すでに用意されているのではないでしょうか。
(写真は、米沢城をめぐる「堀の桜」です)