好きだから

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「好きこそものの上手なれ。」とは、"大辞林"によると、『何事によらず、好きであれば自然それに熱中するので、上達する。』と解説されています。世の中って、嫌々、渋々、仕方なく生きている人が多いかも知れません。時々、買い物に行く雑貨店があるのですが、店の中に入ると、先ず、"ジロリ"と見られ、『要什么yaishenme何が欲しいんだいw?』と言われるのです。『いらっしゃいませ!』と言って迎えて欲しいのに、そう言われると、もう購買意欲がなくなってしまって、帰りたくなるのです。

思うに、この店は、窃盗されることが多くて、その対策上、来店してくれた時に、喜び迎えたいのに、『もしかしたら?」と思うからでしょうか、買い物をする私に付いて回ることもあります。もしかしたら、つまらない仕事をしていて、つい無愛想になってしまうのかも知れません。何を買っても、『ありがとう!』と言われて見たいなと思って、店を出るのですが。それでも物揃いが半端なく、多種多様なのが、この店なのです。

「カズ」と親しまれて呼ばれているサッカーの「三浦知良選手」は、50才になったのですが、来季も現役を続けていくのだそうです。十代で、ブラジルにサッカー留学をしてから、この一事に励み続けた名選手です。多くの人が、転職や退職を考え始める年齢になっても、続けていく理由を、カズは次の様に言っていました。『サッカーが好きだから!』だそうです。

私たちも、今していることを、『好きだから!』と言えるなら、80や90になっても、することができるに違いありません。23才になったプロ野球の大谷翔平選手は、小学生の低学年で野球を始めたそうです。そして、来季は、メジャーリーグですることに決めました。彼も、野球をし続けて行く理由を、『好きだからです!」と言っています。

<親子二世代>の年齢や経験の違いを超えても、この二人に共通していることが、能力があるから、不安が期待しているからだけではないのです。《夢》を実現させていくのは、その《夢》を増殖させる、『好き!』という思いなのです。幼い日の感情を持ち続けて、夢を追いかけて生きて行く姿は、素敵ですね。

そうですね、今していることを、改めて《好き》になろうと決心した次第です。
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今朝の朝顔

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ベランダの午前7時前の外気温は、11℃です。そんな中、二輪の朝顔が開きました。その内の一つです。小さな花ですが、精一杯、天に向かって咲いております。今日は日曜日、祝福の一日となります様に、心から願っています。
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どうしますか?

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我が儘、不従順、短気、無礼などについては、私が違反すると、こっぴどく父親に叱られたものです。何時も当を得た叱責でした。でも生活上の細かいことなどについては、見て見ぬ振りでしょうか、小言を言われる様なことはありませんでした。その代わり、周りのおじさんたちから、随分叱られたり、たしなめられたり、注意されたのを覚えています。

朝の通勤時間のバスの中でのことです。若い女性がスマホで話し始めたのです。結構長く話していました。乗客からは冷たい非難の視線が、彼女に向けられていました。こんな出来事に遭遇することが、時には私たちにもあります。多くの場合は、無視するか我慢してしまいます。ある人は、怒鳴ったりします。みなさんでしたら、どうされるでしょうか。公共の場での迷惑行為です。

以前、ある大学の先生たちが、こう言ったのをラジオで聞いたことがあります。だいたい次の様なことでした。

現代は、様々なことが多様化している。価値観も違う。他者に迷惑になる行動も、掛ける側も受ける側も、程度の差がある。ある人は寛容で、そのことを迷惑に感じない。でも、ちょっとしたことで、感情的になってしまう人もいる。注意されたことで不快感を感じると、自己保身で攻撃的になる。まさに動物レベルな反応である。現代は、幼児社会になっている様だ。

それで、大人として、どうしても注意しなければならないなら、次の様にすべきだと言っていました。
① 感情的に言ってはならない
② 敢えて注意しない
③ どうなっているかの事実だけを告げる

先ほどのバスの中での一件です。一人のおばあちゃんが、この女性の肩を、軽くトントンとしました。そして、小さく首を横に振って、『マナーよ。』と小声で言いました。《どうすべきか》を促したわけです。そうしたら、その若い女性は、素直に、『ごめんなさい。』と言って、スマホを切ったのです。

今は、上手に叱れない時代です。また叱られ下手です。つまり、現代人は上手に生きていけないのです。人間関係を上手にできないのは、誰にも教えられていないからです。教育が知的に偏向して、『周りと和してどう生きるか?』を学ぶことを忘れているからに違いありません。昔のおじさん、おばさんは、小うるさかったのですが、的を射て叱ってくれたのです。

《ビンタ》でも《ゲンコツ》でも《叱声》でも、昔のおじさんも教師も先輩も、自分の子の様に、弟子だから、後輩だから、本気で関心を向けてくれたのです。人としてあるべきことから外れていたら、正してくれたわけです。人の子だからと無関心にならないで、命の重さ、人の持ち物の尊さ、共に生きることの楽しさなどを、これからの子どもたちに教えたものです。
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まあまあ

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『県立の名門の旧制中学校に合格できたのは、試験官の前で、俺が「教育勅語(きょういくちょくご)」を諳(そら)んじたからだったんだ!』と、私の父が言っていたことがありました。軍国主義教育を一身に受けて、高等教育も受け、国策の企業で働き、戦闘機の部品に関わる軍需工場に奉職しながら、敗戦を迎えました。まだ三十代の若い父は、『俺は陸軍の「中佐」と同じ身分だった!』と母に語っていたそうです。

「海軍一家」で育った父の誇りは、「戦艦大和」だったのだそうです。それは、日本の造船技術の粋(すい)を尽くして建造され、「不沈艦」と言われた世界最大の軍艦でした。1937年に建造計画され、11月、秘密裏に、広島県呉の海軍造船所で建造が開始され、1940年8月に「進水式」が行われ、1941年12月に就航しました。ところが、3年4ヶ月後の1945年4月7日に、米軍の攻撃で、沖縄に赴く途中、沈没してしまいました。

「世界一病」と言う病気があります。スポーツ界でも文学界でも産業界でも、「世界一」になろうとする《野望》におかされている病気です。これは、「学級一」、「学校一」、「県一」、「日本一」が昂(こう)じて、行き着く病気です。そんなに小さな日本、国土も狭く、資源も乏しい国が、欧米諸国の近代化から置き去にされていたのを、不断の努力で、追いつき、追い越そうとしたのが、我が国でした。

『富士は日本一の山!』で満足していたら好かったのに、「新高山」のある台湾を併合し、満州を手に入れて、「五族協和」の野望を遂げようとし、そしてアメリカ合衆国に並び、それを越そうとした、「世界一病」に罹ってしまって、ついに戦いに負けてしまったのです。その敗戦の恥を雪(すす)ごうと、戦後の産業界は、品を変えたのですが、また「世界一病」を拗(こじ)らせてしまっているのが現状です。

それって、「驕(おご)り」ではないのでしょうか。社員は、一所懸命に励んできたのに、経営陣が傲慢になって、「世界一」を振り回したのですが、実力がなかったからでしょう、「不正」が行われて、今多くの有名企業が、恥を世間に晒すことになりました。総理大臣を務めた石橋湛山は、「小日本主義」を掲げたジャーナリスト出身の政治家でした。

この方は、身分相応、身の丈相応にするのが「一番」だと主張したのです。連合艦隊司令長官だった山本五十六は、近代戦争は軍艦ではなく、飛行機の時代だと主張していたのですが、「大きな物」を欲しがって、時流を読めなかった政治家や軍人は、「世界一病」で、あの戦艦大和を建造したのです。軍人の悲哀、勝てないと分かっていた戦争を、せざるを得なかった山本五十六の心情を察することができます。

「大きさ」を誇った国々は、どの国も滅んでしまいました。自分の実力を知った小国や、小企業が永らえて、活躍して輝くのです。一度だけ、「学級一」のクラスの《番長》になったことが、私はありました。ところが、指導力と実力、人望に欠けていて、翌年、下克上にあって城を明け渡さなければなりなせんでした。それ以来、「世界一病」から解放されてしまいました。まあ、「まあまあ」が一番好いのでしょう。

(神奈川県横須賀の市花の「ハマユウ」です)
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発酵食品

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ヨーグルト、キムチ、パン、納豆、チーズ、お酢、醤油、味噌、みりんという食品に共通するのは、これらが「発酵食品」だと言うことです。ここ中国には、「臭豆腐choudoufu」という、強烈な匂いにする豆腐があります。一度だけ食べましたが、不味くはありませんでしたが、進んで食べたいとは思わないのです。これも発酵食品です。東南アジアに行きますと、有名な発酵食品は、「魚醤(ぎょしょう)」と呼ばれる、魚を発酵させた醤油の一種があります。これは秋田のハタハタという魚で作る「しょっつる」と同じです。

滋賀県に「鮒鮨」、北陸に「鯖鮨」や「なれずし」がありますが、これらも同じ発酵食品なのでしょう。日本食の中には、数多くの発酵食品があって、それが日本人の平均寿命の高記録を支えているのかも知れませんね。2週間ほど前に、餅米と麹を使って、知人の実家で作る「红酒honjiu」というお酒があって、その搾り粕をいただいたのです。やはり赤い色をしていました。魚と豚肉の料理に、これを加えて炒めて醤油や砂糖で味付けして調理してもらったのですが、これが本当に美味しいのです。これも発酵食品の一つの様です。

上海で製造した「納豆」が、冷凍庫で売っている店が、旧市街にあって、一時期、家内はバスを乗り換えて買いに行っていました。微妙に、日本で食べる物と違うように感じてしまうのですが。空気や水の違いか、大陸の大地で食べているといった単なる思い過ごしか、違いがあります。今回の帰国で、弟宅でいただいたのは、生協の物で、結構美味しかったのです。

数年前に、納豆菌で、自分で作ったという納豆を、オーストラリヤからの日系の留学生にもらったこともありました。男性で、大雑把に作ってタッパーに入れてもらったのですが、ちょっと納豆菌が少ないのか、発酵時間が足りないのか、納豆が糸を引かなかったのです。この納豆ですが、前にも書いたことがあるのですが、トーストした食パンに挟んで食べると、最初は違和感があるのですが、実に"美味"なのです。一度食べたら、癖になってしまうほどです。

そういえば我が家の冷蔵庫の中には、あの酒粕の他に、ヨーグルトとチーズが入っていて、どうも乳酸菌食品を食べる機会が多そうです。スーパーでは、キムチも売っていて、時々買いますので、健康良品を摂っていることになりそうです。あの中国の漬物の"ザーサイ"も発酵食品ですし、「お茶」だってそうなんです。特に、"プーアル茶"が有名で、以前、頂いた物があるのですが、石の様に硬くて難儀しています。このプーアル茶に似た物が、四国の「碁石茶」だそうです。

さらには、東南アジアには、何種類もの発酵食品がある様です。それぞれの気候風土に見合った発酵食品が作られ、飲んだり食べたりしている様です。きっと、偶然に生まれて、それに工夫を加えながら、人類は食べ続けてきているのでしょう。それにしても、チーズの値段が高いのです。

(東南アジアの市場の発酵食品の売り場です)
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誕生日

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今回、「会議」に出席するために、意を決して一時帰国をしました。日本橋で、一泊二日の会議が済んで、何時もの定宿である弟の家に泊めてもらいました。彼は、愛妻を病気で亡くしてから、3人の子を男手一つで育て上げて、再婚話を右と左に打ち払って、今は孫の面倒みながら、週数日、元の職場の学校で顧問をし、週一で、個人学校で半日、教壇に立ち、その他には、青少年の街頭補導を、東京警視庁の要請で共に行ったり、講演会の講師もしているのです。

退職後も、その様に忙しくしているのに、私の一時帰国に合わせて、予定を変更してまで世話をしてくれました。家にいる間の食事から洗濯までしてもらう、私は不肖の居候でした。半日だけ、多摩丘陵にある入浴施設に行って、一緒にお湯に浸かったのです。"われわれ世代"の入浴客で混んでいましたが、暫しの休息の時をともに過ごしました。

弟は、飲んでいる薬が理由で食べれないのですが、冷蔵庫の中には、孫と私のために「納豆」を買い置きしてくれていました。好物の納豆を自分は食べないのに、向こうにはないだろうからと、そういう風に、食べさせようとしてくれていたわけです。こちらも果物や和菓子などを買っては、感謝の気持ちを表したりしたのです。

さて、今日が彼の誕生日です。それで、こちらに戻る前日、すぐ上の兄の家に呼ばれていたので、ケーキを買い、一緒にお祝いをしたわけです。一週早い誕生祝いに「茶碗」を買いました。『もう何年も誕生祝いなんかしてないよ!』と彼から聞いたからです。結構喜んでくれました

『兄弟は苦しみを分け合うために生まれる!」と、私の愛読書にありますが、ともに元気で年を重ねて、助け合いながら生きておられるのは、感謝なことです。肺炎で、何度か死にかけた兄貴を、幼い二つ違いの弟が、助けようとしてくれた気持ちが、未だに残っているのでしょうか。帰る日の朝は、4時半に家を出たのですが、『旅行カバンは轢いて駅に行くから好いよ!』と言ったのに、駅まで車で送ってくれました。彼は、その日も仕事があって出掛ける用があったのに、嬉しいことです!

今日、メールで、誕生祝いに、周りに迷惑をかけながら、長生きし様と、メッセージを送りました。持参した「干し鮑」を、上手に調理して食べてくれるでしょうか。

(弟の家から見えるとほぼ同じ位置に見える富士山です)
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小旅行

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ベランダの寒暖計は20℃を表示して、その寒暖計の横で、朝顔が一輪、今朝も咲いています。

昨日は、ビザの関係で、3ヶ月ごとに一度、国外に出なければならなくて、台湾の金門島に行って来ました。朝6時半過ぎの公共バスに乗って最寄りの駅に行き、そこから「和谐号(中国版の新幹線)」で出掛けてきました。途中小雨だったりしましたが、濡れることはなかったのです。金門島の税関を出て、すぐに建物の前にある食堂に入って、昼食に「牛肉麺」を注文しました。店内は、大陸へ帰る団体客が多くて、できるまで20分かかるとのことで、『好いですか?』とのことで、ギリギリだったのですが、注文しました。結局、家内は半分食べて、帰りの午後1時発の船に乗船するための入国審査で、その食堂を出ざるを得ませんでした。

ちょっとせわしない「小旅行」になってしまいましたが、外国人居留者の義務を果たすことができ、同じルートで帰ることができました。もう少し余裕をと思うのですが、日帰りの強行軍としては、こんなものなのでしょうか。こちらの駅に着きましたら、パラパラと小雨が降り出していました。
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泣くんじゃない!

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子どもの頃に、父親に怒られて、家に帰れなかったり、兄や上級生に殴られて、悔しかったりした時に、よく歌った歌があります。みなさんにも、自分を励ましたり、力付ける「歌」が何かあったことでしょう。昭和6年に、作詞が西條八十、作曲が佐々木俊一、歌が小林千代子で、「涙の渡り鳥 」が発表され、瞬く間に流行ったのだそうです。

1 雨の日も風の日も 
泣いて暮らす
わたしゃ浮世の渡り鳥

泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ

泣けば翼も ままならぬ

2 あの夢もこの夢も 
みんなちりぢり
わたしゃ涙の旅の鳥

泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ

泣いて昨日が 来るじゃなし

3 懐かしい故郷(ふるさと)の 
空は遠い
わたしゃあてない旅の鳥

泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ

明日(あす)も越えましょ あの山を

これは父や母に教えられたものではなかったのです 。私の父母が、歌謡曲を歌ったのを聞いたことがありませんでした。怖い父親でしたが、父が目をつぶって歌っていたのは、私の祖父に連れられて行かれたと言っていた所で歌っていた「さんびか」でした。母も同じで「さんびか」をハミングしていたのです。ある時、『若い頃に流行っていた歌を教えて!』と、母に、ぜひとせがんで教えてもらった歌が一曲だけあり、それが、「無情の夢」でした。

でも、どこで覚えたのか、この「涙の渡り鳥」の歌の後半の部分を、『泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ、泣けばカラスがまた笑う !』と、自分で歌詞を変えて歌ったていたのです。実は、今でも、失敗して自己嫌悪に陥ったりすると、歌ってしまうことがあります。寂しいという感情を感じることが、たまーにあります。この歳になってもおセンチになることがあるのです。そうすると、この『泣くんじゃない!』という箇所が、唇から自ずから突いて出てきてしまいます。

(円山応拳の絵です)
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西にも東にも

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「健気(けなげ)」と言うことばが一番似合う、朝顔の花です。朝晩の外気温が低くなってきているのに、晩秋に咲く花に、拍手を送りたい思いがして参ります。

今回の一時帰国で、私たち夫婦に、思いを寄せて、事あるごとに心を配ってくれる友と一緒に、日本橋人形町の「世界湯」の"終い湯"に入りました。月二回の"サーヴィス・デイ"で、お一人様100円の湯でした。『背中を流しましょう!』と言う彼の行為を断わりました。何か、"親分子分"のような関係になりたくなかったからです。若い頃に、そんな上下関係に嫌気が刺したことがあったからです。

そう言えば、わたしを長く導いてくれたアメリカ人起業家が、大阪だったと思うのですが、日帰り入浴施設に、裸になって一緒に風呂に入ったことがありました。この方の育った文化では考えられない行動に、驚いたのです。彼の晩年、癌に侵される直前に、私たちの近くにありたいとの必死の努力だったのかも知れません。この方は、文化の壁を越えてくれたのです。

「江戸」を彷彿とさせる至極熱い「世界湯」のお湯に、ものの2分も入っていられませんでしたが、好い気分でした。西にも東にも、友のあることは、どんな物を持つに優って素晴らしい宝なのです。
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