防人

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古代のわが国には、筑後国(現在の福岡県)、対馬(つしま)、壱岐(いき)などに、中国、当時の唐からの攻撃に備えて、国境警備のための兵士が、配備されていました。彼らを、「崎守り(さきもり)」と呼んでいました。これは律令制度のもとにあった「兵役」の一つで、農民が徴用されて、九州北部の防備のために送られたのです。

どうしてかと言いますと、663年に、朝鮮半島の「白村江の戦い」で、百済と大和朝廷の連合軍が、唐と高句麗の連合軍に敗れてから始まった国境警備でした。この軍役は、中国で行われていた「防人(さきもり)」の制度に真似たものだったのです。世界の軍隊を調べてみますと、ほとんどの兵士が、農村から求められ、戦場に送られています。どんな気持ちで、妻は夫を、子は父を、両親は子を送り出したことでしょうか。本人も、どんな思いで九州の北端に赴いたのでしょうか。

「防人歌」が、万葉集の中にあります。そこには切々たる惜別の思いを読み込んだ歌が残されています。"ウイキペディア"からの引用ですが、次の言うな歌があります。

* 国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべ無し
* (現在語訳) 全国から集まった防人が(任務のため)船に乗って別れることを見れば、なんともなす術もない。
* わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず
* (現代語訳) 私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までもみえていて、決して忘れられない。
* 唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
* (現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに。
* 天地の いずれの神を 祈らばか うつくし母に また言問はむ
* (現在語訳) 愛おしい母と再び会って話すためには、どの天や地の神に祈ればよいのだろうか。
* ちはやぶる 神の御坂に 幣奉り 斎ふいのちは 母父がため 
* (現在語訳)荒々しい御坂の神に幣をお供えし、我が命の加護を祈願するのは母と父のためである。

まだ学校に行っていた頃、「きけわだつみのこえ」という、出陣学徒兵の遺稿集を読んだことがあります。国や、故郷や父母や弟妹、そして恋人への思いが綴られていました。当時の占領国や編集者によって、この本の内容に「改竄(かいざん/原稿と違ったものに書き改めること)」が行われたりしていたことを、後になって知ったのですが。でも、古代の「防人」と同じ様な思いが吐露(とろ)されていました。

戦になると、働き手を取られ、田畑が荒らされ、重い税を課せれた農村は、いつも悲劇の舞台でした。でも、その農村から、優秀な人材が多く出て、日本を支え、導いてきたことも事実です。これは日本ばかりではなく、世界の、どの国でも同じことでもあります。

私は、「現代の防人」と言われる自衛官のみなさんに、心から感謝しているのです。災害時の出動での貢献振りは、目を見張るものがあります。被災者をおんぶして運ぶ青年自衛官の凛々しい顔が素敵です。彼らの多くが、自分の生まれ育った国を守ろうとしているのです。高校卒業後、自衛官になろうと考えていた日も、この私にもあるのです。

(対馬だけに咲く「黄金鬼百合(おうごんおにゆり)」です)
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微風

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今朝も、ベランダで朝顔が五輪ほど咲きました。曇り空で、午前10時の室外温度は23°Cで、微風が木の枝を揺らしています。短い秋ですが、紅葉は、ここでは見られません。

好い一日をお過ごしください。
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再会

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『友と教え子あり遠方より至る!』で、先週末、熊本を訪ねました。こちらの学校で教えた方が、長崎の大学に留学し、熊本の大学の大学院で学んでいる間、この友人を、彼に紹介し、しばらくお世話してくださったのです。2ヶ月ほど前に、長崎の大学の大学院に進んで、環境保護を専攻しているそうです。

それで、五日の日曜日に、熊本の友人の所で会おうと、私が提案し、彼はバスで、4時間かけてやって来て、最寄りの駅で落ち合ったのです。久しぶりの再会でした。とても好い青年に成長されていて、日本語も上手になっていました。午前中、一緒に過ごし昼食をご馳走になり、午後も、友人の家の客間で交わりをして、『また会いましょう!』と約束して、夕方のバスで長崎に帰って行きました。

彼が帰った後、友人夫妻と「積もる話」をし、"とんかつ"を夕食にご馳走になり、『宿をキャンセルして、僕の所に泊まって!』と勧めてくれたのですが、市内の宿に車で送っていただいたのです。翌日、宿に迎えに来てくださって、去年の地震で崩れ落ちた熊本城の城壁の様子を見せていただきました。その石に、番号が朱書きされていて、気の遠くなるような作業をして、復元するのだそうです。

その後、どんどんと消えて行く市内の古書店で、残っている古書店のうちの二店の書棚を眺めて、お昼は、日航ホテルのレストランで、フランス料理をご馳走になりました。彼は、二十代に出会って、四十数年来の友人なのです。何度も何度も行き来した朋友です。彼の倶楽部のこと、他の友人たちの様子や消息など、私のことなどを話し合いながらの食事でした。

"気心が知れた仲"というのは、実に好いものです。幼馴染ではないのですが、社会的な責任を負った青年期に出会い、どれほど彼に啓発されたか知れません。互いに白髪になり、体にも不具合を覚える年齢になっても、交わす話の話題は、二十代のころと変わらないものがあるのには、不思議な思いがしてきました。

食事の後、熊本地震の震源地の「益城町(ましき)」に連れて行ってもらいました。活断層の上の被害は酷かった痕跡がうかがえました。ただ、幹線道路沿いは復興されていますが、まだまだの現状のようです。豊肥本線の鉄路も、国道も、復旧の見込みがつかないほどの被害なのだそうです。JRのローカル線の復旧には莫大な経費がかかり、その目処さえつかない現状のようです。彼の書斎の本も崩れ落ちたりだったそうです。

温泉にも連れて行ってもらいました。何度も"裸の付き合い”をして来て、阿蘇の近くの源泉の湯は、とても好かったのです。夕食は、奥様の手料理で、美味しかった!短い交わりでしたが、充実した時を持って、空港まで送ってもらい機上の人となった次第です。友も教え子も、実に好いものだと、再認識させられた素敵な旅でした。

(地震以前の熊本城です)
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朝顔

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このブログの調整中に、失われた記事がありました。ちょっと残念ですが、そんなに大切なことでもありませんから、また投稿を続けたいと思っています。

今朝のベランダの朝顔です。忠実に、私の留守中も、咲き続けていました。2週間の日本滞在でしたが、お陰様で友人たちや兄弟、子どもたち、嫁や孫にも会うことができ、市民としての義務や申請もできました。もう少し帰国の時間が欲しかったのですが、これでちょうど好いのでしょう。

中国に降り立って、昨日の午後は、27℃も気温があって、驚きでした。
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天津にて

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ここ中国での、強烈な印象の1つは、天津の外国人アパートの8階に住んでいた時のことです。天塔と呼ばれていたテレビ塔の傍の「紫金山路zijinshanlu」をしばらく歩いたところにあったアパートです。最上階の南向きのベランダから、山一つない平地がずっと彼方まで見えるのです。如何に中国大陸が広大であるか、栃木から関東平野を南に見た比ではありませんでした。

窓の外には、「暖气nuanqi」という冬場の暖房用の給温水を温める、ボイラーの煙突が見えていました。石炭を燃やしますので、冬場は真っ黒な煙が立ち上っていました。そのベランダから、朝、東から日が昇ってきて、夕方は西に落ちて行くのが眺められるのです。その夕陽が落ちて行く光景に圧倒された私は、いつも夕方になると、それを眺めていました。

「星の王子さま」ではないのですが、夕日が落ちて行く様というのは、ちょっと寂しいのですが、あんなに重そうな太陽が沈んで行くというのは、実に神秘的なのです。そして翌朝になると、決まって逆の方角から昇ってくるのです。まだ「釣瓶落とし」のように日は落ちて行きませんが、『一日ご苦労様!』と言って上げたい気分に、いつもなります。

今日は、手が空いたので、洗濯物を取り入れたのですが、ベランダには金木犀の香りが秋風に乗って漂ってきて、いよいよの秋だと思わされております。よく歌った歌に、作詞が中村雨紅、作曲が草川信の「夕焼け小焼け」があります。東京都下の八王子の恩方に生まれた中村雨紅が、遥かに故郷を思って詠んだ詩です。

1 夕焼け小焼けで日が暮れて

山のお寺の鐘が鳴る

お手手つないでみな帰ろう

烏(からす)といっしょに帰りましょう

2 子供が帰ったあとからは

円(まる)い大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは

空にはきらきら金のー星

子どもの頃に1年間、この八王子に住んだことがありました。そこでは、夕日は山に落ちて行くのでした。ところが、大陸天津の夕日は、地平線に落ちて行きました。しかも真っ赤になってでした。それはそれは壮大
で幽玄で、何とも圧倒される光景でした。夕立の日には、空の端から端へと、雷が響き渡って、雷光も雷鳴も雷雨も半端ではありませんでした。箱庭のような自然の日本から移り住んで、驚きの連続でした。

天津も、今住む街も、家の近くにお寺はありませんが、月は時々見上げることができ、金星も輝いております。夕焼けに感動するよりは遊びに夢中で、日が落ちても遊び続け子どもの日が、懐かしく思い出されてきます。そういえば、こちらではカラスを見掛けません。ただ鳴き声の綺麗な小鳥は多 くいるのですが。

天来の恵み


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私たちが、住んでいる「◯◯花园huayuan(集合住宅をそういった表現を使う様です)」の裏門から出て、大通りに出られるのですが、その右の角に、大きな一軒建てのレストランがあります。その建物の左側に、「SPA」という看板が出ている、「温泉施設」があります。実は、この地域には「温泉」があるのです。もっと凄いのは、我が家の浴室に、水道の蛇口とシャワーの蛇口の他に、もう1つの蛇口を見つけたのです。温泉水の蛇口だそうです。通常は、使用できないようになっていますが、この住宅の管理会社によると、別会社があって、契約すると、温泉の供給が受けられる様です。

前の家の浴室に置いて、時々使っていた、木製の風呂桶を運んで来て、この家の浴室に置いてあります。上の娘は、契約を勧めているのですが、まだ決断していないのです。前々回、一時帰国した時に、友人の会社の宿舎を定宿にさせてもらったのです。そこには内風呂があるのですが、日本橋人形町に「銭湯」を見つけて、時間がある時に入りに行きました。江戸っ子の銭湯なのでしょうか、お湯が熱かったのです。それで、入浴客は、サッと入って出てしまう、江戸流儀の入浴法をしていました。

一番風呂に入ろうと、その銭湯の扉が空開く前に行って待っていました。ほとんどの人は息子に店を譲った様な、年配の方たちでした。大声で話さないし、体にかけるお湯も隣にかからない様に注意深くしている、そんな《江戸情緒》に触れて、流石(さすが)と感心させられたのです。

"1010"、この数字を、どう読まれますか。"せんとう(千十)」"だそうで、十月十日は、「銭湯の日」だった様です。また多摩丘陵に、温泉入浴施設があって、弟に連れて行ってもらって、何度か利用しました。『日本に帰ったら温泉に!』と思って帰国するのですが、引っ越した家で温泉に入れたら好いですね。ずっと働き続けて来て、この歳になって、それでも、こちらで仕事の機会があるのですが、何か「天来の恵み」の様に、この我が家の浴室の《温泉水コック》が感じられます。

体も心も温泉気分に浸りたい季節になって来ています。血行をよくして、体を温めて健康管理をするなら、決まって出てくる季節代わりの「腰痛」にも好いかも知れませんね。今朝、宿泊先の弟の家を出て、バス停に歩いて行く道筋の銀杏が、実を落としていました。もう晩秋です。明日は、その家に帰ります。
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熊本にて


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週末に、熊本にやって来ました。私が学校で教えた学生が、ここの大学で学び、今は長崎の大学の大学院で学んでいて、彼に私の熊本在住の友人を紹介したのです。40数年来の友人です。

今日一日、友人夫妻と交わりをして、夕刻、東京に帰る予定です。いまだに熊本を襲った地震の爪痕が残っていて、彼の住まいにも、それが見られました。

みなさんにとって好い一日でありますように!
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贈り物

 

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昔のことです。明日の朝、つまり12月25日の朝、起きると、枕元に綺麗に包装紙で包んだ「贈り物」が置いてありました。それが何かを知っている私は、急いで包みを解きました。何が入っていたか全く覚えていませんが、父が、寝ている間に置いてくれたのだと分かり、大喜びをしたのは覚えています。二人の兄と弟にも、同じようにしてくれたのだと思いますが、それを確かめた記憶はないのです。

ああ言った思っても見なかったことが、突然降って湧いたように起こる出来事に、驚き喜ぶ心というのは、子どもの時だけの経験でしょうか。父は、そういった経験をさせることが好きでした。怖かったのですが、悪戯っぽさを残した大人だったのです。この欄で、何度も取り上げていますが、「お土産」をよく持って帰宅した父でした。「神田」に美味しいトンカツ屋があって、そこの「カツサンド」を、よく買って来てくれました。『こんなに旨い物があるのか!』と思いながら、頬張ったのです。あんなに厚い肉に驚かされたのです。同じ神田から、「蒲焼き(うなぎ)」も持ち帰ってくれました。

また「あんみつ」も買って来てくれました。円筒型のプラスチック製の器の中に、餅(ギュウヒだったでしょうか)、豆、寒天、餡、黒蜜などが小袋に入れられていて、全部をその器に開けて混ぜ合わせて食べるのです。これが美味しくて、今でも好物なのです。また「ショートケーキ」、「エクレア」などがありました。満員電車の中を、潰されないように持って帰ってきては、『さあ、みんな食え!』と進めてくれました。今のような生クリームではなかったのですが、東京の味を満喫したものでした。

夏場になると、驚いたことには、「ソフトクリーム」を買ってきてくれました。都心から家まで電車で一時間以上かかるので、溶けないために、<ドライ・アイス>を入れてでした。まだ残っていたドライアイスを水の中に入れて遊んだのを思い出します。どんなに喜んでパクついたかお分かりでしょう。<人を喜ばすこと>が、好きだった父でした。そんな父に真似たかったのですが、『あまり似ていなかったかな?』と、今になって反省の「节圣诞shengdanjie」の前日であります。今晩も、良い夢を見たいものです。

(写真は”proーfot”の「プレゼント」です)

両手

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私は、味噌汁を飲むときに、スプーンを使いません。椀の淵に口をつけて飲みます。飲む時には、たまに音を出してすすることもあります。ところが、中国のみなさんは、スプーンを使って、「湯(スープのことです)」を飲むので、音を立てません。わが家に来客のある時、<ラーメン>を作ってご馳走することがあります。スーパーで、豚骨スープ味の<日本ラーメン>が売っていて、それを使うのです。野菜や肉を炒めて、添えて作ったものは好評です。

みなさんの食べぶりを見ていると、決して麺を音を出してすすることをしません。アメリカ人がするように、パックンと音無しで食べるのです。それを見ていて、飲むように、すするようにして蕎麦を食べる(江戸っ子は喉で食べると言ったそうですが)日本人の私には、『美味しくないだろうな?』と思ってしまいます。いつでしたか、アメリカのオレゴンを訪問した時、子どもたちと一緒に、日本式のラーメン屋に入ったのです。韓国人の方が経営しているそうで、味は日本の味ではありませんでした。それでも、私と一緒に食べられて満足してました。なぜかと言うと、『お父さんと一緒だと、音を出して食べられるから!』だったのです。

ここに貼り付けた写真を見てください。幼い子どもが、器を両手で持って飲み干そうとしています。お腹が空いていて、好物のスープをお母さんが作ってくれたのでしょう。行儀よくスプーンを使っていたのですが、残り少なくなったのか、面倒になったのか、または美味し過ぎたのか、スプーンをテーブルの上において、飲み始めたのでしょう。『おいしいの!』との声が聞こえてきそうです。

とても健康的で、家庭的で、そして自由な感じが現れていて、とても好きな写真です。この同じ両手で、これから様々なものを持って、この子は生きて行くのです。この子が生きていくのが、平和な時代であるようにとの願いを持ちながら、私たちの子育てを委ねられた四人の幼い日のことを思い返しております。

(写真は”ナショナル・ジオグラフィック”からです)


冬至前夜

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今夕、玄関を叩く音がしました。私たちが住んでいるのは四階で(一階部分は、バス通りに向かって貸店舗になっていますので、実際には五階)、二階に住んでいるお母さんでした。『明日は、冬至で、こちらでは、これを食べるのです。作ったので食べてください!』と言って、もち米で作った一口大の餅にきな粉とすりごまでまぶしたものを頂きました。ちょうど<あんころ餅>の甘い和菓子とような感じです。九年目の暮れを、こちらで過ごしていますが、この時期に、こう言った物を食べるのを知って、食習慣が日本に似ているのを、改めて感じたのです。

きっと日本では、今晩は「ユズ湯」に入って、南瓜の煮物を食べて、明日の「冬至」を迎えるのでしょうか。以前日本で住んでいたときに、毎年、この時期になると、バケツ一杯の「ユズ」を届けてくださった方がいました。風呂にユズを浮かせるには多過ぎて持て余して、近所に配ったりしました。家内が人のお世話をする機会が多くて、喜んでしていたからでしょうか、一年中、季節季節に色々な物を頂くことがあったのです。

季節ではないのですが、オートバイの後ろに「鶏の肉」を乗せて、よく、届けてくださった方がいました。スープを作っては、育ち盛りの子どもたちに飲ませたのです。こちらでも、そういった機会が多くて、みなさんの好意を楽しむことができています。病気をすると、「鮑(あわび)」を持ってきてくださる方がいて、まだ冷凍庫の中に残っています。『日本じゃあこんなに食べられないよね!』と驚いたり、喜んだりしているのです。

明日を境に、太陽が帰ってくる、「回復」してくるのですね。古来、西洋では、「冬至の祭り」が盛んだったと聞きます。音楽を奏で、踊りを舞い、ごちそうを作ってお祝いをしたのでしょうか。素朴な民間行事には、生きとし生けるものの願いや喜びや期待が込められているのです。洗濯物を落として、階下の方にとって頂いたことで、交流、行き来が生まれています。外国人へのいたわりも感じて、心から感謝して、夕食の後ですが、小皿いっぱいの<冬至団子>を食べてお腹が膨れてしまいました。 『ユズ湯にも入りたい!』は、ちょっと願い過ぎでしょうか。

(写真は”wm”による「柚子湯」に子供を入れているものです)