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『ヱホバは彼がわづらひの床にあるをたすけ給はん。なんぢかれが病るとき、その衾裯をしきかへたまはん。(文語訳聖書 詩篇41篇3節)』
「病院考」、これまで、自分や両親や兄弟、家内や子たち、そして自分が病んでかかってきた病院のことを、さまざまな病歴を思い出して、記してみようと思います。
先月末に、ある医科大学附属病院に、検査のために行きました。予約した時間まで、時間がありましたので、初めての院内を見て回ったのです。家内の診察で、日赤広尾病院などにも行ったことがありましたが、その規模と、廊下から見える範囲の医療機器や医療関係者の働かれり有り様が、最初に入院した、1950年頃の病院と、雲泥の差でしたので、そんな思いに駆られたようです。
山奥に住んでいた時に、風邪をこじらしたのか、肺炎で、国立病院に入院したのです。小学校に入学前のことでした。その入院先は、戦前の旧連隊の病院だったのが、戦後、国立病院に移管され、その街で一番の総合病院でした。廊下を歩くと、ギシギシとした音がして、木造の古びた学校の校舎みたいでした。
下の弟が、三歳ぐらいでしたが、母が付き添ってくれ、ベッドの下で寝ていました。週末になると兄たちがやって来て、励ましかからかいか、見舞ってくれたのです。上の兄が、ベッドに横になっていて落ちて、下に置いてあったオマルに手を突っ込んだ出来事を覚えています。大きな行列で、ベッドの周りに人垣ができたことがあって、何かと思ったら、県の偉い人が見えて、院長や事務長などの大名行列だったのです。
その病院では、一大事だったのでしょう。そんな大騒ぎを、今で思うと、父が地元出身ではなく、戦時下の国への貢献の過去、戦後の県有林の払い下げ材の事業をしていた関係で、その病んだ子の見舞いが、大仰にあったのは、思えば知事選の運動の一環だったのでしょうか。学齢期前の私には、全く関係のないことであって、賑やかだけの出来事を覚えています。
その入院中の私のために、横須賀の実家に、大切に仕舞われていた、イギリス製の純毛の毛布を、父が持って来てくれ、戦後の空調などない冬の病室で寝ている私への父の愛だったのです。その毛布を、どうしたことか、暇にかまけた私は、ハサミで切り刻んでしまって、みんなが驚き呆れられてしまったのです。
その肺炎のおかげで、東京に越してから、風邪をひいた私を、電車に乗せて、立川にあった国立病院通いを、母がしてくれたのです。『今度肺炎を起こしたら死んでしまう!』と、医師に厳重に言われた母が、必死になって、大病院に連れて行ってくれたのです。うる覚えですが「マキ先生」という名の主治医だったと思うのです。小学校3年ほどまでは、その繰り返しでした。
そんな死線を彷徨いながら、生きられたのは、『死なせまい!』と、躍起に世話をしてくた母の愛、祈りだったのでしょうか。わがままな三男を、宥めたりすかしたりしての病院通いで、小学校四年になってから、突如元気になって、クラスの番長にまでなってしまったのです。
でも、基礎的な初等教育を受ける時間が少なかったのでしょうか、文字は書けて、意味は分かっても、書き順が間違っていて、今でも直しようがありません。〈くノ一〉を〈一くノ〉で書いてしまうのです。それでも聞き学問で、ラジオからの知恵だけは与えられたのは、怪我の功名だったのでしょう。何よりも、教室での立ち歩きやチョッカイ出しで、いつも怒られ、立たされたのです。
中耳炎での激烈な痛みもありました。兄の同級生のお姉さんが、自転車の後ろに乗せてくれて、街中の耳鼻科に連れて行ってもらったこともありました。あれ以来、泳ぐと耳に水が入って、すぐに中耳炎を起こしていました。鼓膜が破れ、しかも両耳だったのを、何年も何年も経って、六十才前に、知り合い方の紹介で、仙台の耳鼻咽喉科で、再生手術をしてもらいました。
そればかりか、よく怪我をしました。手傷や脛の傷は数え切れないほどの傷跡を残しています。宣教師さんの住んでいた貸家を受け継いで住むために、この方が庭に作った建て増し部分をかたずける仕事をしていて、屋根から落ちて肋骨骨折で入院したのです。結婚式を挙げさせていただいた整形医の病院に入院させていただいて、懇切に診てもらいました。
腕をつっている腱板を、右腕左腕を、10年の間隔で、二度も損傷し、縫合手術を行いました。一回目は、教会に来ておいでの姉妹が看護師をしておられた市立病院で、家内が英語を教えていた小学生のお母さんが病棟勤務でした。2回目は、ネットで見つけた、札幌の整形外科医院ででした。札幌には、中国から帰国した足で、スーツケースを宅配してもらい、その足で伺いました。
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治療の願いは、メールで院長に伝え、MRIの映像を送って、鍵盤断裂が確定し、治療の取り付けを前もってしておいたのです。すぐに手術だと思っての札幌行きでしたが、その医院は、一日に12人もの手術を毎日するほどの注目医院でした。押し掛けの〈中国から来た日本人の患者〉の私を、市内のホテルに一泊させて、その手術日に、〈十三番目の最終患者〉で、異例の手術してくださったのです。
手術後、系列医院でリハビリをするのが普通なのですが、この院長は、『僕の手元でお世話しますから!』と、退院まで本院に居続けさせてくださって、懇切なリハビリを受けたのです。時々、この院長には感謝と、現況を伝えております。
これまで最大の入院手術は、左腎臓の摘出でした。39才の夏に、東京の女子医科大学で行いました。末っ子が3才の時でしたが、家内のOKがあって、次兄への移植手術をしたのです。その手術は11時間を要したそうで、麻酔から目覚めた時の痛みは、これまで味わったことのないほど激烈でした。その兄は、今年83歳になり、健在でおります。
入院と手術前に、『主の十字架の痛みを、少しでも味わえたらと思っています!』と、ある方に話したのですが、その体の奥から湧き上がる術後の痛みは、想像を絶していて、じっと見守ってくださった看護師さんに、『痛いので、鎮痛剤をお願いします!』と、豪語した舌の根が渇く前に、そんな必死な嘆願してしまったのです。
主の十字架の苦しみなど、万分の一でも味わうことなどできない、ただ赦された罪人の私は、あの言葉を恥じ、『ごめんなさい!』と、主に呟いたのです。四国の大学病院から研修に来られていた女医さんが、傷口の縫合をされたと聞いたのですが、一本のメスの跡ではなく、刀傷のようにみみず腫れして、今でも、振り返るとつることがあります。
ある集会に参加した折、お風呂で、この傷口を見て、眼をマンマルくして、『ジュンせんせいは元ヤクザだったんですか?』と聞かれて、ニコニコして聞き流しました。先日も老人センターの百円風呂で、広いお風呂に入っていた先客が、私の腹部を見て、『何の傷ですか?』、と驚いて聞いてきたのです。普段は、左腕で、そこを隠しているのですが、角度が低いところから見たので、丸見えだったのでしょう。
驚きを鎮めるために、経緯をお話ししましたら、至極感心されて、『言わなかった方が良かったかな!』と思ったのです。もうお会いすることも、そうなさそうでしたので、一見の方と安心しました。
先月は、その医科大学附属病院に通院し、中国の省立や市立や大学の医学部の病院に、家内が二、三度入院し、シンガポールでも、救急搬送で治療を受けていますので、外国の病院の経験も、直接間接にありますから、病院について、語り得る資格があるのかも知れません。
医学なしの今の私はなく、いのちの付与者で、保持者の神さまの憐れみなしに、私の今はないのです。母がドクダミの葉を揉んで、傷口に当ててくれました。転んで頭を強かに打った私の頭に手を置いて、祈ってくれたこともありました。今年、八十になる私ですが、昨日、検査結果が出て、今後の治療方針を、主治医がお話しくださったのです。
驚くのは、この病院を紹介してくださった隣り人は、同じ症状で治療中なのです。《友だち》だと言ってくれ、ご夫人もご一緒に行き来や物のやり取りのある同世代の方なのです。夕方、病院の帰りしなに報告に行くと、手作りハンバーグを頂いてしまいました。善き隣人です。
(Christian clip arts によるイラスト、近所の別の方に頂いたドクダミの葉です)
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