父の心、子の心

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 2005年だったと思いますが、弥生三月の春雨の中を、「単騎、千里を走る」というタイトルの映画を観に、映画館に行ったことがあります。中国の古典文学、「三国志」に登場する関羽にまつわる仮面劇の上演が、この映画があって、それが雲南省で演じ続けられてきていたのだそうです。

 その仮面劇を、雄大な自然美の中国雲南省に取材したテレビ番組を制作する息子と父親、仮面劇で「単騎、千里を走る」を、『俺だけが演じられるんだ!』と自慢する男と8才の息子ヤンヤン、この二組の父子の織り成す、いわゆる「父子物語」が筋書きの映画でした。

 私は、『父は父なるがゆえに父として遇する(出典を忘れてしまいました)』と言う言葉に出会って、とても示され教えられて、何度もお話をさせていただいたことがありまりました。『父親を、父として子に備えられたのが神さまなのです。だから、どんな父親であっても父として敬い感謝して接しなさい!』との勧めの言葉なのです。男の子は、父を慕い、やがて父から距離を置いて離れ、再び父を取り戻す、そんな過程を経て、人は父になるのでしょう。

 中学生の私が、中央線の国分寺駅の北口にあった国分寺名画座で観た、「エデンの東(原作ジョン・スタインベック)」を、「単騎・・」を観ながら思い出したのです。自分は、父親に一番愛された三男坊でしたから、ジェームス・ディーンが演じた「キャル」とお父さんとの確執は理解できませんでした。

 でも父親が倒れてから、実にかいがいしく介護する次男のキャルを受け入れて、関係回復をしていくくだりが好きで、何度、映画館に足を運んだことでしょうか。5回は観ています。「創世記」に登場するカインとアベルの兄弟と父アダム、「ルカの福音書」に出てくる、「父と二人息子の物語」が、背景にあることが、聖書を読み始めて分かったのですが。

 そんな私が2人の息子と2人の娘の父親を委託されて、育てさせてもらいました。テレビのホームドラマのような理想的な父親を果たすことが出来ないで、子どもたちには、申し訳ない気持ちが残るのですが。

 性格のひねくれていた私は、少し陰の見えるキャルに共鳴してしまい、それを演じたジェームスの大フアンになってしまいます。そんなことから私の英語のニックネームは, ” Jimmy ” なのです。19才の頃だったでしょうか、「唐獅子牡丹」や「網走番外地」という映画を、友達に誘われて観に行きました。

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 その映画の主人公を演じたのが、「単騎、千里を走る」で主演した、高倉健だったのです。高倉は、博徒や網走刑務所に収監されていた囚人役を演じていたのですが、今回は、ヤンヤンを産ませたままで8年も世話をせずに、しかも罪を犯して刑務所に入っている、囚人の父を訪問する役を演じていました。

 40年がたって、元囚人が囚人を問安して、父親に目覚めさせる役を、高倉健が演じたので、ニヤニヤしながら映画を観てしまいました。「単騎・・」で高倉が演じた父親も、息子との間に10年来の確執があったのですが、病んでいる息子に代わって、仮面劇「単騎・・」をビデオ撮影するため、彼が雲南省を訪ねるのです。

 官憲の取り計らいで、刑務所の中で収監中の囚人の父親が演じる「単騎・・」を観劇する時には、息子の死の知らせが嫁の手で、携帯電話に届いていました。死の数時間前に、妻の口述された息子からの手紙が、電話口で読まれていたのです。それは父親への苦味が氷解していく赦しの内容でした。

 この映画を監督し、制作したのが、青年期に、初めて外国映画が解禁され、中国中で上映された日本映画、「君よ憤怒の川を渉れ」を、感動をもって観た、张艺谋Zhang Yi mouでした。この監督の世代の中国人男性は、この映画に出ていた高倉健や中野良子や原田芳雄に、熱烈に憧れたと言われています。

 『杜丘冬人を知っています!』と、出会って、交わりをさせていただいた、一人の大学の音楽教授に言われたので、高倉健よりも通り名となった、主人公の名の方が、この方の記憶にあったのです。中国が貧しかった時代、その映画で写し出された東京や主人公たちの服装は、驚きをもって眺め、仕草や服装は憧れとなっていたようです。この方は、『五回以上も観ました!』と言っていました。その张艺谋氏も、憧れた一人で、名監督となった時、高倉健の主演で映画を制作したのです。

 二組の父子の関係が回復されていく2つの物語に、旧約聖書の最後の書、「マラキ書」のみことばを思い出させられました。

『見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。』

(キリスト教クリップアートの「カインとアベル」です)

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ピアノ賛美

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 『日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇1133節)』

 『主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。 (詩篇10322節)』

 『わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。 (詩篇1041節)』

 『大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。 (詩篇15023節)』

 このブログを読んでくださるみなさんは、このブログの書く内容や論調が変わっているのに気づかれておいでだと思います。中国の東北部の街の語学学校に入学した頃から、始めたのですが、自分の信仰上のことは、間接的にしか述べませんでしたが、13年の滞在から帰国した段階で、まだ向こうにも読んでくださる方がおいでですから、とくに信仰上の内容を述べるのを避けていました。でも、はっきりと述べるようにと促されて、変えてしまいました。

《動画を貼り付けました》

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 それで論調が変わったのです。もともと子どもや孫に、自分の考えや思いを伝えるとつもりでしたが、やがて知人や友人、兄弟たちにも、読んでいただくようになってきました。これまで二度、実はブログが  block された経験上、政治や経済や宗教の件には触れずにいました。でも、自在に自分の信仰上のことを書こうと決心して、内容も論調も徐々に変えたのです。

 さて、上記の聖書のことばですが、「日の上るところから」という箇所ですが、七世紀頃、中国は隋の時代に、その大陸から見るとわたしたちの国は、朝日が地球上で最初に昇ってくる国ということで、「日の出る処」と呼ばれ、自らも誇り高い国と自認したのではないでしょうか。

 この国で、天地を造られ、その運行を支配される神、万物のいのちの付与者、罪に堕ちた人を救われるお方、贖罪の御業をなさるお方、救い主イエスさまの十字架の死と、死からの復活、父の神の右の座の執り成しの祈り、助け主聖霊をお遣わしくださったこと、やがて信ずる者を迎えにおいでくださる神が、日本でも賛美され、ほめたたえられ、栄光が帰されるようになるとの予言なのです。

 この街の東武宇都宮線、日光線、JR両毛線の駅頭にも、角笛、十弦の琴、立琴ならずも、廃校になった藤岡中学校から市に帰贈されたピアノが弾かれて、自由に演奏ができる様になりました。聖歌や讃美歌やchorus が高らかに響き渡って、この「三で一つの神」の御名が、ほめたたえられ、あがめられるなら、それは素晴らしいことではないでしょうか。

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 主の名が、明治以降、この街の各教会の礼拝の中で賛美されているのですが、駅頭でも賛美されると、この街が変わっていくのではと思っております。エペソの街の獄屋の中で、パウロとシラスが賛美した時に、それを聞いた天のみ使いたちが、tap を踏んだのでしょう、地震が起こり、獄の戸や囚人の鎖が解けて落ちた様に、人々を縛っている不信仰、不安、恐れなどの鎖が落ちるのではないかと思うのです。家内のピアノでのわずかな時間の賛美によって、そんな救いの御業が起こることを願っている、五月の連休明け家内です。

(「キリスト教クリップアート」、動画です)

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真情

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 『・・・狭い日本には住み飽いた!』と歌って、多くの若者たちが、中国の満州に夢を繋げ様と、出掛けて行きました。それを鼓舞するかのように、大正11年(1922年)に世に出た、「馬賊の唄(宮島郁芳作詞)」でした。歌の持っている力は大きいのです。

俺も行くから君も行け
狭い日本にゃ住み飽いた
海の彼方にゃ支那がある
支那にゃ四億の民が待つ

俺に父無く母も無く
別れを惜しむ者も無し
ただいたわしの恋人や
夢に姿を辿るのみ

国を出た時ゃ玉の肌
今じゃ槍傷刀傷
これぞ誠の男子じゃと
微笑む面に針の髭

長白山の朝風に
剣を翳してふし見れば
北満州の大平野
俺の住まいにゃまだ狭い

御国を去って十余年
今じゃ満州の大馬賊
亜細亜高嶺の繁間より
繰り出す手下が五千人

今日吉林の城外に
駒の蹄を忍ばせて
明日は襲わん奉天府
長髪風に靡かせて

さっとひらめく電光に
今日の獲物か五万両
繰り出す槍の穂先より
荘竜血を吐く黒龍江

銀月高く空晴るる
ゴビの砂漠にゃ草枕

 4億が、現在では14億の人口を擁する中華人民共和国ですが、戸籍に未登記な人々が1億(公式)もいて、実際には、それよりも遥かに多いとも言われてる隣国は、戦前の若者には、雄飛したい国だったのです。

 結局、その野望、理想は、敗戦で崩壊してしまうのです。私の父も、満州にいる叔父を慕って、狭い日本から出掛けた一人でした。私の上の兄は、その理想国にあやかって名前が付けられたほどだったのです。

 もし、この大陸進出から終戦までの間に、日本がしたことで、良いことがあったとするなら、鉄道線路を敷設したことと言えるかも知れません。その判断は、中国のみなさんがされることなのですが。

 今でも、その当時の路線が使われ、近代中国の発展のために寄与してきたことは事実です。もちろん、近年では、高速鉄道網が、瞬く間に張り巡らされています。東北部では、人や物資の輸送は、旧来の路線が活用され、世界の物作りの基盤となっています。

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 そこに「南満州鉄道」があって、父は、若い時期に一時期、そこで働いていた様です。どの様な仕事をしていたのかは定かではありませんが、北米のオレゴンやカルフォルニア、ハワイ、南米のブラジルではなく、満州に、人生の活路を見出そうとしたのでしょう。当時の青年たちにとっては、きっと平安の昔から、良き薫陶を受けた大陸の文化的な背景や、国土の広大さは、憧れの的だったのではないでしょうか。

 南満州鉄道というのは、大連から奉天(現在の瀋陽です)、新京(現在の長春です)、ハルピン(哈尔滨)などに広がる鉄道網なのです。もう何年も何年も、いえ若い頃からなのですが、そこを訪ねてみたいという思いが心の中で温められていたのです。知り合いに、南満州鉄道株式会社のあった瀋陽で、電気工学を学んでいる学生がいたので、彼に案内を頼めるかなとも思っているたのですが、帰国してしまい叶いませんでした。

 戦争が終わって、日本は、狭い国土の中で勤勉に働き、世界に類を見ない復興を遂げ、10年の節目の1954年から、かつて侵略したアジア諸国を経済援助をし始めました。わたしが、聖書を持って、初めて降り立った北京空港も、日本の「ODA(Official Development Assistance)」、途上国への「政府開発援助」で作った空港でした。この中国への初期の経済援助、科学技術の援助で、今の経済大国になっています。十分な償いをしたと言ってもよさそうです。

 長く償いの思いで滞在した中国で、まさに家族のように受け入れられて、交わりをさせていただきました。その中国のみなさんとは、今もなお交わりが継続しております。義理の関係ではなく、真情でしょうか、真心でしょうか、彼らの示してくれる愛と心遣いは、今もなお真実で、変わらず一途なのです。

(旧資料による満鉄のシンボルの「あじあ号」です)

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永遠のいのち

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 万葉の歌詠みたちが、あんなに素敵な日本語で、人を思い、故郷を思い、明日を考えていたのを知ると、日本人の思考の深さと、日本語の美しさを感じてなりません。安芸高知の人が詠んだ歌が、万葉集にあります。

 繩(なは)の浦に 塩焼くけぶり 夕されば 行き過ぎかねて 山にたなびく

 高知の室戸岬に行く道の途中に、大山岬があります。そこに、鹿持雅澄の歌碑があるのです。高知城下に妻を残して、単身赴任した大山岬で、妻を思って詠んだ和歌が、そこに刻まれています。そこには、「愛妻之碑」とあります。

 あきかぜの福井の里にいもをおきて安芸の大山越えがてぬかも

 「いも」とは、妻を言う言葉なのです。この鹿持雅澄は、奉行所の仕事を経て、藩校の教師になります。万葉の歌に魅せられて、その研究に没頭し、膨大な研究資料を残していたそうです。明治になってから、「万葉集古義」として出版されいて、その収集を命じたのが、明治天皇だったそうです。

 学校で「防人歌(さきもりのうた)」を学んだことがあります。妻や子と別れて、辺地防備のために駆り出されて、九州などの海岸部などに駆り出され、派遣された人たちのことを「防人」と詠んだのです。他の地から日本防備のためにやって来て、和歌を読んだわけです。その言葉づかいや、心の動きに驚かされてしまいます。

 先日、新小岩に出かけたのですが、その川向こうの市川市に、「真間の手児奈(ままのてこな)」が水汲みをしたという井戸が、亀井院というお寺に残されています。高橋虫麻呂が、万葉に次の歌を詠んでいます。

 葛飾の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ  手児奈し思ほふ

 葛飾の真間に、絶世の美女がいて、「てこな」と呼ばれていました。一度嫁ぐのですが、真間の親元にでしょうか戻っています。すると近郷近在、遠方から多くの男たちがやって来ては、強烈な恋心を寄せるほどだったそうです。それに耐えられないで自死して亡くなってしまうのです。そんな逸話があって、万葉に詠まれたのです。

 日本は、万葉の昔から、恋や愛のゆえに、死にゆくことを礼賛(らいさん)することがあるようです。昨今、さなざまなことが原因して、自死が目立って多くなっています。決して〈美しい死〉などあり得ません。そんなNewsを聞くと、悲しくなってしまいます。わたしの長男は、週に数日、「いのちの電話」の相談員を委嘱されて、その大切な務めを、受話器を握って担っています。

 もう何年も何年の前に、水曜日の集会に、一人の若い女性がやって来ました。集会が終わってから、お話しすると、死に場所を探していて歩いていたら、教会の明かりが見えて、つい入ったのだそうです。彼女は、信仰を告白し、バプテスマを受け、市内の教会の保育園のお手伝いをさせていただき、元気になって、故郷の家に帰って行かれました。

 もう六十近くになっておいででしょうか。幸せな結婚生活、家庭生活をしておいででしょうか。一緒に生活をし、小学生だった長女は、単身、彼女の実家を訪ねたことがありました。生き直せるきっかけになった出会い、状況がありますが、創造主、救い主に出会うなら、どんな生き辛さも超えて、生きていかれるのです。

 聖書は、たびたび「生きよ」と記しています。死に急いで、自ら命を絶つことを禁じています。それでなくとも人の死は必ず訪れるからです。「永遠のいのち」にも、聖書は言及しています。いのちの付与者である神さまは、人を生かすことがおできでいらっしゃいます。

(「ある信徒」によるイラストです)

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カラーとルピナス

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 今日は、家内の通院日で、去年も同じ道をたどって、病院に行った、その同じ道に、去年同様、きれいに 「ルピナス( Lupinus )」が咲いていて、治療を癒えての帰り道、その花園に寄ってみました。あれから一年、支えられて闘病を続けられてきた思いを込めて、どうしても寄ってみたいとの思い入れが、家内には強かったのです。

 今年は、そよ風が頬にも、花にも優しく吹いていたでしょうか。去年は風が強かったのと違って穏やかでした。39回目の化学治療を終えて、看花の後、食べられなかった家内が、回転寿司、今は新幹線のおもちゃ電車が運んでくれる店で、美味しく食べられていて、あの日々が嘘のようでもありました。退院した2019年の4月から、この同じ道を、上の息子の送り迎えで、時にはタクシーや電車で通って来たのです。みなさんのお祈りに支えられ、感謝しております。心からありがとうございます。

 上の写真は、母の日の下の息子夫婦のgift で、カラー(英名は Calla )で、別名love green と言うそうです。接写して、花から落ちようとしている「露」を撮ってみました。室内の様子が映り込んでいるのでしょうか、実に神秘的で、われながら得意になってしまった写真です。花に見える部分は、萼(がく/葉が変化したもの)なのだそうです。

 診察後、家に咲いている胡蝶蘭、ガーベラにミントの葉を添えて、主治医の卓上に、そのフラワーセットを、そっと置いて帰って来ました。いつも、ニコニコと感謝して、主治医は受け取ってくれたのです。いつも、いい光景です。

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大阪府

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 わたしの父が、ゴロリと横になると、懐かしさで何度か歌っていた歌があります。名将と謳われた楠木正成(くすのきまさしげ)は、十万もの大軍を従えて、九州から攻め上ってきた足利尊氏との戦いによって、湊川で壮絶な戦死を遂げています。それを前にして、「櫻井駅(さくらいのえき)」で、息子の正行(まさつら)と別れをします。ところが、正行も、足利尊氏と戦って、討死をしてしまいます。その正成、正行を歌った、「櫻井の訣別(わかれ)」です。

1 青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に
散るは涙かはた露か

2 正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん
彼方の浦にて討死せん
汝(いまし)はここまで来つれども
とくとく帰れ 故郷へ

3 父上いかにのたもうも
見捨てまつりて我一人
いかで帰らん 帰られん
この正行は年こそは
いまだ若けれ もろともに
御供(おんとも)仕(つか)えん 死出の旅

4 汝(いまし)をここより帰さんは
わが私(わたくし)の為ならず
己(おの)れ討死なさんには
世は尊氏(たかうじ)のままならん
早く生い立ち 大君(おおきみ)に
仕えまつれよ 国のため

5 この一刀(ひとふり)は往(いに)し年
君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと
汝(いまし)にこれを贈りてん
行けよ 正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん

6 ともに見送り 見返りて
別れを惜む折からに
またも降り来る五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか哀れと聞かざらん
あわれ血に泣くその声を

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 この歌は、明治35年に、作詞作曲された歌で、戦前は、学校で歌われたもので、戦に勇ましかった楠木正成親子を題材にして、国民を鼓舞した歌でした。大阪で、一つの群れのお世話を始められた宣教師を訪ねてお邪魔した時に、この宣教師が、『近くに有名な歴史的な場所があります!』と言って、この「櫻井の訣別」の史跡のある場所に案内してくれたました。日本史の出来事として有名な地なのです。

 大阪は、その時、個人的に初めて訪問したのです。テレビ放映が始まって、わが家にもテレビが入り込んでから、ブラウン管に映された番組に、「てなもんや三度笠」がありました。関西喜劇人が出演していて、電波に乗った関西喜劇の関西弁、大阪弁を耳にした初めての時でした。

 よく「コテコテの大阪人」と言うのでしょうか、彼らが確信を持って喋る標準語以外の言葉が、major になった番組だったでしょうか。あの頃の俳優さんたちも、ほとんどのみなさんが亡くなられてしまい、寂しい思いがいたします。電波や映像で初めて接した関西、大阪でした。

 東の「山谷(さんや)」、西の「釜ヶ崎(かまがさき)」は、日雇のみなさんのドヤ街で有名です。高度成長期の建設工事現場で働いた日雇いのみなさんが、安い宿代で寝起きをされた街で、そこにキリスト教会があって、一度お招きをいただいて、お話をさせてもらったことがありました。

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 礼拝の終わったお昼に、パンやおにぎりを提供して、釜ヶ崎を支え続けていた、昭和に始まった教会なのです。アメリカ人の宣教師が始められて、そのドヤ街で信仰を持たれて牧師になられた方が、今も牧会されておいでです。通天閣の下の銭湯にも入って、大阪のコテコテ気分にひたったのは、20年以上も前でしょうか。

 豊臣秀吉の居城の大阪城が、大阪のど真ん中に復元されてあります。商都で、大阪商人の活躍は有名です。「道頓堀」の近くに泊まったことがありました。新宿、渋谷、上野、池袋などの街とは違った雰囲気の街で、生活感があって賑やかで、東京のような気取りがないので、居心地がいいなあと思わされたのです。

 家内は、府の南にある「堺」で、泉州と呼ばれる地で生まれています。この街は、商都大阪を形作った街で、「日明貿易(対大陸中国)」で栄えたのです。有力な商人や倉庫業者などによる、三十人ほどの「会合衆(えごうしゅう)」の自治で運営されていた特徴のある街で、茶道が誕生したりした、文化的な街でもあったのです。戦国時代に、そのような組織ができたようです。

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 成田空港ではなく、関西空港に帰って来て、家内が生まれた堺に宿をとってみたことがありました。生まれてすぐに、東京に越していますから、家内は全く記憶のない街でしたが、やはり誕生地というは、特別な感慨があるものなので、懐かしそうにしていました。お父さんは文京区の出身、お母さんは九州の筑後の出でした。

 大阪府には、33市9町1村の計43の自治体を擁し、府都は大阪市、人口は878万人、県花は梅とサクラソウ、県木はイチョウ、県鳥は百舌鳥(もず)です。明治維新の前後には、遷都の候補地として、薩摩藩の大久保利通によって、大阪が推奨されたのですが、実現しませんでした。ここは、「日本の台所」と言うほどの商都の役割を担い続けて来た地であり、維新当時の夢の追慕でしょうか、「都構想」を掲げて、実現しかけたように、東の東京に対する、西の大阪という意識が強いですし、それだけの経済財政力を持った地なのです。

 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 浪速(難波)に様々なことがあり、天下取りをかなえた秀吉は、栄華を極めたのですが、その業は、やはり夢のように儚いものであることを詠んだ歌です。何をしても、どんな建物を建てようと、どんな支配体制を確立しても、人の齢には限りがあり、六十で秀吉は死んでいます。残るのは、恥に満ちた一生だったのでしょう。

 中村郷の平凡な貧しい農家の子で一生を終えても、天下取りになっても、一切は夢に終わる人の世は、なんと儚いのでしょうか。日本一の商都となり、通天閣が建ち、大阪万博が行われ、日本の第二の都市になった逢坂、大阪と書き記されることも、想像もしなかったわけです。人はそのように来て、去っていくのでしょう。

 華南の街の学校で教えた頃、この大阪市の南港から、船に乗って、2日の船の旅程で上海に、行き帰りをしたことが何度もありました。外国航路の便数は、航空機の発達による空の旅が主になっていましたが、悠長な旅も、趣があっていいものでした。日本語を教えた学生が、日本の大学の大学院で学び、新大阪駅の近くに住んで、日本の大手企業に勤めています。日明貿易が行われた堺のことも、人の動きも、彼の将来も、この global な現代のことも、これからに日本のことも、不思議なことごとの積み重ねなのです。

(「櫻井の訣別」、「通天閣」、明治期に堺の街の様子です)

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ありがとう!

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 『 あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言2325節)』

 『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。 (申命記516節)』

 『それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。  あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。 (詩篇1391316節)』

 『私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。(2テモテ15節)』

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 私たちは、主なる神のご計画と祝福の中で、母親の胎に宿り、手と腕に抱かれ、膝にまとわりつき、背におぶわれ、乳房に養われ、手で食事を受け、手を握られて歩んで、わたしたちがあります。さまざまな事情で、母の愛を受けなかったとしても、人は胎内での温かさ、心臓や血流の音の記憶が残されていると言われています。

 肺炎で死にそうになったわたしを、献身的に世話してくれた母、「エホバ・ラファ(出エジプト1526節)」でいらっしゃる神に、平癒を叫び祈ってくれた母がいて、今日のわたしがいます。癒えて健康になって、悪戯小僧になって、バスケットボールやハンドボールやテニスボールができるようになっていきました。跳び箱もクラス一でした。

 結婚して、4人の子が与えられ、仕事も与えられ、伝道の業にも携われ、海外にも出掛けられ、今は静かな時を、家内と共に過ごしています。母業を終えた家内は、それでも一人一人の様子が気になって、今では、息子に買ってもらったスマホで、チャットを使って、毎朝、聖句を送信しています。

 昨日は、家内を母のように慕ってくれる中国人のご家族が、ご夫婦と二人のお子さん連れで、蘭花をお祝いに持参して、中国漢方薬や食材や果物をお土産にして、訪ねてくれました。お昼は、洋麺屋五右衛門という店で、食事までもご馳走してくださったのです。

 とても楽しい時を過ごすことができ、家内は大喜びでした。彼らの華南の会社の工場の応接室で、聖書研究会を持っていました。彼らは三代目のクリスチャンで、美しい海浜の村で育って、何度か彼らのふるさとにお連れいただきました。

 「母の日」に、母を思い出しました。家内は、昨日、駅に置かれ、自由に弾けるピアノの前に座って、讃美で駅頭を満たしたいと、夕方出掛けて行きました。四人の子供たちからは、『ありがとう!』の message が届きました。若い中国人のお母さんからも、『母情节快乐muqinjiekuaile!』とチャットがあり、感謝していました。

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立夏の花三昧

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 巴波川の流れの中で、まぶしいほどに黄色く咲いていた「キバナショウブ(黄花菖蒲)でしょうか、散歩途中に見かけました。大水が来て、流されないように願って撮った一葉です。家の中に咲く、「カラー( calla/オランダカイウ属科の花 )」と「胡蝶蘭」です。また球根を植えた覚えがないのですが、「アマリリス」が、鉢の中で咲きました。黄、赤、白と、内も外も鮮やかな初夏(昨日は「立夏」です。

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乾いたパンと平和

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 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは(私訳:一椀のオジヤやスイトンがあって、赦しがあるのは)、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 「家庭」とは、『夫婦・親子など家族が一緒に生活する集まり。また、家族が生活する所。(広辞苑)』だと言われます。神さまが、私たち人の保護、安息、関係作り、学習の場として与えてくださった《祝福の世界》ではないでしょうか。

 ご承知の様に、今日の世界中で見られるのは、家庭が崩壊して、機能を働かせていないばかりか、幼稚園や学校の世界に、家庭から出て行った幼い子どもたちが、心理的にも肉体的にも傷つけられているという悲しいニュースが、多く報じられていることです。今では、家庭に中にも、そう言ったことが、事件として起こっているとの報道が多くあります。

 一日の出来事を、親子で語り合い、ホッとできる交わりのできる場が、今、なくなりつつあります。神さまが意図された時間的な心理的な余裕が、心にも家庭にもなくなっていることは、悲しい事態であります。学校でも同じでしょうか。『もし祈ることができたなら!』、とわたしは思ってしまうのです。誰も祈らなけれならない課題を満ちながら、どう祈るか、だれに祈るかを知らないでいるのです。

 わたしは、この時代の大切な課題は、「家庭の回復」だと思ってやみません。4人の子育てで、家内と心掛けてきたのは、冒頭に掲げた、聖書のことばのような「家庭」でした。そこに記された家庭は、物質中心の集団ではなく、愛とか理想とか幻とかの「精神中心の場」であるように、示唆されています。そこには喜びが溢れていて、物を持ち、お腹がいっぱいにされる満足ではなく、精神の高さによる満足に違いありません。

 地球上の最高の「堡塁(ほるい)」が家庭です。親子喧嘩、兄弟喧嘩が繰り返された父の家でしたが、あれって recreation(レクレーション/気晴らし)だったように思い出すのです。あの時、住んでいた街で、一番賑やかな家だったのではないでしょうか。自分が、家に帰って来るたび、『お母さんいる?』と言って家に入るというわたしに、近所のおばさんが、〈 mother  complex 〉だ、と言ったようです。

 夫と四人の男の子が、『無事であるように!』との願いを祈りで表し、神のいますことを示してくれた母でした。信仰を強要しませんでしたが、クリスチャンを生きていた母の生き方に、強さをみていたのです。何度か病んで、死線を彷徨っていた母の無事を確かめたかったのでしょう。やがて、家族は、母の信仰を継承したのです。

 喧嘩ばかりの家庭でしたが、母が父の家を回復したのです。だれも、理想的に、成功的に人生を歩むわけではないのでしょう。成功者の陰にも、辛い経験があって、それを乗り越えて生きてきたのでしょう。恵まれない環境に中で生まれ、生きてきても、素晴らしい出会いがあったり、懐かしい出来事があって、力付けられる時あって、『生きていてもいいんだ!』と、得心して生き抜いた人だっているのでしょう。

 それは、全能者、創造者の元に帰るための切っ掛けになるに違いありません。『継母のヨシエに、蔑ろにされたことがあった!』と、母と一緒になる時に、父が自分の過去を語ったのだと、母に聞きました。弱さも、自分の妻となる母に漏らしたのでしょう。その継母が亡くなって、自分も老境に差し掛かった頃、『ヨシエさんは、あの時代、シュークリームを作ったり、いろんなものを作って食べさせてくれ、料理が上手な人だったよ!』と言って、継母を懐かしんでいたことがあります。

 腹違いの弟や妹の弁当と、自分の弁当に差別があったのだそうですが、きっと思い込みや拗(す)ねた思いがあったのでしょう。子どもだった父にありそうなことです。実際、辛いこともあったのでしょう、でも歳を重ねて、それを忘れたり、赦したりして、イエス・キリストを、救い主と信じて、父は帰天したのです。

 豊かな食卓で育っても、貧相なおかずを食べて大ききくなっても、神のいます事を信じられたら、万事は益になるのでしょう。オジヤもスイトンも、懐かしくって、時々無性に食べたくなってしまいます。母は作っても、自分では食べなかったのです。子ども頃、そればっかりで育ったからだそうです。二人っきりのわが家は、「病と果敢に闘う妻」と伴にいて、今日も「平和」でおります。

(中近東で食べられる「パン」です)

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秘訣

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 『あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。  あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 (申命記241920節)』

 1960年代の終わり頃でしょうか、それまでリール式のテープに録音する大きなものでしたが、左手で掴めるくらいの大きさの「カセット・テープレコーダー」が発売されました。当時、わたしの初任給が、25000円で、その半分ほどでしたから、ずいぶん高額で買ったのです。何か高額な「若者のオモチャ」のようでした。

 Sonyの製品で、後になって知るのですが、井深大(まさる)という方が、この会社の創業者の一人で、この方がクリスチャンだったのです。大少年は、機械いじりが大好きだったそうで、時計などを見ると、親戚の家に行っても分解をし始めてしまうほどで、親戚は、彼がやって来ると、家の人は機械類を隠してしまったそうです。

 このわたしも、ドライバーとかペンチを持つと、機械を開いてみたくなってしまったのです。どうして動くのかが不思議で、科学する子どもだったようでした。そんなわたしを、父は叱らないで自由にさせてくれたのです。一番の不思議は、父の机の上に置かれてあったモールス信号機でした。どうして、線で繋がっていない遠方の地に、信号を送れるのかが不思議でならなかったのです。
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 あのままだったら、Jiny という企業を創業できたかも知れませんが、飽きっぽいわたしでしたから、だめでした。この井深大は、世界的な企業人ですから、cream cake が似合いそうですが、あんころ餅が好きだったのだそうです。わたしたちの住む街の北にある日光の出身で、会津藩士の流れを汲む家柄だったそうです。

 父より一学年上の同世代でしたし、父もあんこのきんつばが好きでしたから、何とはなしに親近感があった人でした。この井深大が書き表した、1946年の Sony「設立趣意書」には、次のようにあります。

 『・・・技術の力で祖国復興に役立てよう』、『不当なる儲け主義を廃し、・・・・徒(いたずら)に規模の拡大を追わず、』とあります。早稲田に学んだ人でしたが、恩師の影響でキリスト教会に導かれ、信仰を持たれたのです。「祈る企業人」だったのでしょうか、世界的な企業になっていったわけです。

 聖書には、「弱者保護規定」が多く見られます。Sony は、心身上に障碍を負われた方たちを多く雇い入れ、働く機会を提供してきた企業です。ここにも、世界的に名を馳せて、《良い物作り》にしてきた秘訣がありそうです。

(「カセットテープレコーダー」、「落穂を拾うルツ」です)

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