退院

 

 

「葉桜」になった、東武宇都宮線の「おもちゃのまち駅」の近くの桜です。咲くのを待ち望んでいて、寒波や花寒の中でやっと咲き始め、満開になり、もう散り始め、今や葉も出てきています。この花は、淡くて、散り際が潔く、日本人の感性そのものなのでしょうか。私もまた、桜を愛でる一人です。

病院の病棟と、通院の治療棟と、医学部や看護学部をつなぐ庭に、桜並木があって、家内は、看護士さんに連れて行かれて、何日も観桜の日を過ごしてきました。省立医院に入院し、獨協医科大学に転院し、四月も中旬、明日は退院することになりました。これからは外来に通院して、治療が継続されて行きます。

入院中に、友人、親族、家族の多くの愛するみなさんが、お示しださった愛と親切と犠牲に、心から感謝いたします。ありがとうございました。感謝してお礼を申し上げます。来週には、中国華南の街の友人たちが、どうしてもと言って、見舞いにやってくると連絡がありました。抱きかかえるようにして、寄り添いながらお世話してくださったご婦人たちです。

『果たして咲く桜を見れるかな!』と、思うほどの病状の中からの起死回生でした。これからも予断を許せませんが、覚えてお支えくださいますようにお願いいたします。

(次男夫婦が見舞いの帰りに撮った写真です)

.

感謝のメール

 

 

◯村先生

先生に、2017年4月14日、左肩の腱板断裂を手術していただきました廣田です。仕事をしておりました中国の街から送信しました、MRIの映像で診断していただいて、要手術とのことで、帰朝早々の14日の最終で手術をしていただきました。「中国から来た日本人の患者」です。ちょうど2年が経過しましたが、快復し元気に生活をしています。

◯村先生とスタッフのみなさまに、心から感謝いたします。実は、家内が病気を得て、即帰国しまして、獨協医科大学病院に入院しました。内科系の病気ですが、今リハビリを受けております。病床から、今ではリハビリのトレーニングルームで、理学療法士の担当者から、家内は施療を受けております。

一昨々日、見舞いに参り、その部屋を訪ねて、リハビリの様子を初めて眺めていました。それで一昨年のことを思い出した次第です。

◯村先生や看護師さん、療法士の先生方、薬剤師や掃除や調理や警備のスタッフのみなさまを、懐かしく思い出しました。もう2年も経ったのだと、栃木の病院で思っていました。先生を始め、スタッフのみなさま、お元気でしょうか。

私の自慢の◯ヶ丘のリハビリの規模や施術の様子を、家内の担当療法士に話しましたら、驚いておられました今現在も、先生の病院では、多くの患者さんのために手術と理学療法が行われていることでしょう。

◯村先生のご健康、スタッフのみなさんの健康を願っております。

本当にありがとうございました。

                                                                                                               栃木の友人宅にて廣田雅仁

(札幌の羊ヶ丘の風景です)

.

いのち

 

 

東京でも大阪でも上海でも華南の街中でも、そして東武宇都宮線の車中でも、一様に見られる現代の光景の一つは、<ケイタイ>を夢中で覗き込み、操作し、返信をしている姿です。十年前には見られなかった光景で、この分だと、マニラもメルボルンもベルリンも、同じような若者たちの姿が見られるのでしょうか。

時々見掛ける喫茶店での様子も同じです。テーブルを挟んで、コーヒーカップを前に、若い二人連れが座っています。彼らには会話がないのです。二人とも<スマホ>に熱中で、二人で共高いコーヒーを飲む意味が感じられないではありませんか。目前の<恋人>よりも、目に見えない線で繋がっている<遠く情報>の方が大切なのでしょうか。

『着たメールに、すぐ返信をしないといけない!』という強迫観念も、そう言った行動を取らせているのだそうです。<無視>と<仲間外れ>が、今日日の人には怖いのです。または、情報収集のために必要不可欠な手段になっているのでしょうか。<知らないほうが好い情報>が、きっとほとんどだと思われます。思いの中をゴミ情報で満たして、思考形態がうまくいかなくなっている時代で、常に心の緊張状態が続いているに違いありません。

<孤独>であることへの怖れが、現代人の心の中に溢れているのでしょう。時には、海や山に独り行き、瀬音や潮騒、鳥や木々を渡る風の音を聞き、遠くに目をやることが、人には必要です。時々行った、山の上の展望台から、眼下の山なみや沢を眺め、誰もいないのを幸いに、『ヤッホー!』と思いっきり叫んで見るのが、結構好きなのです。『変な爺さんが叫んでるな!』と思われても気にしないことにしてるのです。

一冊の本を懐に、山に登り、東屋に座って、読んだり「沈思黙考」するのは、人の精神活動に好いのです。煩(うるさ)い人の声を聞かなくても済むからです。もちろん、人の声を聞くことはありますので、ご心配なさらないでください。<孤立>は問題ですが、<孤独>でありたい気持ちは大事にしたいものです。    

アインシュタインが、次の様に言っています。

“ベルリンでも、何も変わりがありませんでした。その前のスイスでも。人は、生まれつき孤独なのです。”                                                                    

そんな孤独な経験が、驚くべき発明をもたらしたのでしょう。でも、悲観的になる傾向が、近頃大いにではないでしょうか。夢や幻や理想で心を満たし、無邪気さが売り物の子どもたちが、死に急いでいる傾向ほど悲しいことはありません。子どもたちが孤独を経験しながら、頂いた《いのち》を感謝して生きていって欲しいものです。

(栃木名産の「益子焼」のコーヒーカップです)

.

蔵の街

 

 

数えてみましたら、〈19〉になりました。何の数かと言いますと、結婚して所帯を持ってから〈住んだ家の数〉なのです。生まれてからですと〈25〉になります。これって多い方ではないでしょうか。

中国に行くので、長男の家を「留守宅」にし、法的な居住地にして、13年になるのですが、家内の退院と、在宅介護のために、今滞在させていただいている家に越した方が便利だ、との退院指導の看護師さんの勧めで、友人夫妻に理由をお話しして、法的な住所として転入をお許し頂いたのです。

それで昨日6時20分に家を出て、転出の手続きに出掛けてきました。帰国以来、〈南栃〉だけを生活圏にしていたのですが、渡良瀬川、利根川、荒川を渡って、東武日光線、東武伊勢崎線、JR武蔵野線、東武東上線を乗り継いで往復したのです。結構遠かったのです。そう思ったことは、以前はなかったのですが、鈍行と急行の電車に乗り継いで、2時間かかりました。

武蔵野線は、通勤と通学の時間帯でしたので、超満員で、ショルダーバックを手前にし、怪しい行動を疑われない様に、両手をその上において、じっと立っていました。これも四十数年振りのことでした。3ヶ月あまり毎日乗車してきた東武宇都宮線では、そんな経験は全くありません。

この街の市役所は、デパートの経営するスーパーの上階にあって、一階にフードコートがありましたので、昼食を、そこで摂りました。転入手続きを終え、駅前の団子店で、「みたらし団子」を二つ買って、家内の入院先に、保険証を届けたのです。何日振りでしょうか、甘い部分を取り除いた団子を〈ひと玉半〉、家内は、実に美味しそうに食べていました。

家内が、『食べたい!』と、私に注文したのです。これまで固形物は喉を通らなかったのに、何の差し障りもなく、飲み込んでいました。私と違って、自制が効いた生き方をして、生きてきた家内なので、一本全部は食べませんでした。一昨日、多くの患者さんを看護してきた、担当の看護師さんが、『◯子さんの様なケースは、極めて珍しいです!』と言っていました。

この方が、ついでに私を、『準さん!』と呼んだのです。どうして知っているのでしょうか。家内との会話で出てきて、覚えてしまったのでしょうか。みめ麗しい女性から、実名で呼ばれたのも、何十年振りになります。そうです、昨日から、《栃木県民》、《栃木市民》になりました。この街の観光キャンペーンの呼び名は《蔵の街》です。

(栃木市花の「紫陽花(あじさい)」です)

.

でも

 

 

中学の歴史の時間だった思いますが、3年間、担任で社会科を担当し、教えてくれたK先生が、ただ中学生に対してではなく、まるで高校生か大学生に対しているかのように、《一人の学徒》として、真剣に向き合って、教えてくれたのを思い出すのです。

東北の岩手県と宮城県を流れる、「北上川」の流れの特徴が、「蛇行(だこう)」しているのを、今の様に、コンピューター映像の機器のない時代、大きな地図やスライドを教室に持って来てくれ、時には視聴覚教室で、画像を見せながら説明してくれたのです。

その「蛇行」の個所に、決まって「地蔵」があるのだと、K先生は付け加えたのです。なぜかと言いますと、気象異常で凶作になり、飢饉に見舞われた川沿いの住民が、生まれてきた子を、養育することができず、藁の籠に入れて捨てたのが、蛇行箇所に流れ着き、それを慰霊するためだったのだそうです。

ここから、物事をうやむやにしてしまったり、処分することを、〈水に流す〉という様になったのだと、教えてくれました。飢饉がもたらしいてきた歴史的な事実が、東北の郷土史の中に残され、無言のうちに伝えられてきたわけです。お腹いっぱいに食べられる中学生の私にとっては、学んだ信じがたい史実は、大きな衝撃でした。

そう言った意味で、歴史をしっかり見る目を、この先生は、私に養ってくれたのです。ところが、この「蛇行」には、積極的な役割もあるのです。一直線に流れる激流や急流を、緩やかな流れに変える務めがあります。さらに、流れの水を多くの農地に振り分けることができ、農耕には極めて重要な役割が担わされているのです。

振り返って見ますと、自分の生きてきた道筋は、随分と「蛇行」した形跡が残されているのです。北上川が、悲しい舞台になっただけではなく、意味を持っていた〈蛇行河川〉であった様に、〈蛇行人生〉にも意味や価値や副産物があるに違いありません。多くの人が、挫折や躓きや失敗を経て、今を迎えているのです。

罪や悪を除外して、《万事有益に原則》が、人の世の幹線に横たわっているのです。懊悩することだって、停滞ことだって、そして病むことだって、見方を変えますと、好いことを生み出す母胎であるのが分かります。この四月、〈前途洋々な春〉を迎える人ばかりではなく、〈停滞の春〉を迎えなければならない方もおいででしょう。でも自然界を見ると、真っ黒で真っ暗闇の土の中から、花が咲き、美味しい果物や穀物を実らせるではありませんか。

(写真は、北上川です)

.

危うさ

 

 

象牙(ぞうげ)が高価な芸術品や置物になるので、象の生息地のアフリカでは、いまだに「密猟」が絶えないそうです。その原因の一つが、日本の「象牙市場」の規制の甘さがあるのだと報告されています。密猟者にとって、高く買ってくれる日本の市場があるのが、密猟が絶えない元凶だと言うのです。

この「ぞう」に関して、「象牙の塔(ぞうげのとう)」と言うことばがあります。“goo辞書”によりますと、《(フランス)tour d’ivoire》芸術至上主義の人々が俗世間を離れて楽しむ静寂・孤高の境地。また、現実から逃避するような学者の生活や、大学の研究室などの閉鎖社会。フランスの文芸評論家サント=ブーブがビニーの態度を評した言葉で、厨川白村(くりやがわはくそん)がこれを紹介した。」とあります。

もう一つ、「部屋の中の象“erephant in the room” 」と言う言い回しが、英語にあるそうです。本来いるべきでない巨体の像が、部屋に中にいると言う、〈異常事態〉を、そう表現するのだそうです。主として芸術至上主義や学者の現実逃避を批判する意味で使われるのだそうです。

”elephant in the room “、その状況は、そこにいるみんなが気付いているのに、気付かないふりをして、その重大な問題に触れようとしないのを、そう言うのだそうです。例えば、自分の人生上の重大な問題に、対処しない危うい状況のようです。

金銭上の問題や、異性問題や、名誉に関することで、人は、敢えて触れないように生きる傾向があるのでしょう。ところが何時か、そのないがしろにし続けた問題が露見してしまいます。それで早い時期に、いえ今すぐに処置すべきなのです。

「ハインリッヒの法則」と言うものがあります。『一件の大きな事故・災害の裏には、29件の軽微な事故・災害、そして300件のヒヤリ・ハット(事故には至らなかったもののヒヤリとした、ハッとした事例)があるとされる。重大災害の防止のためには、事故や災害の発生が予測されたヒヤリ・ハットの段階で対処していくことが必要である。危険予知訓練なども参照のこと。』とです。

多くの場合、人は、その人生の後半に、失敗を犯す傾向があるそうです。〈円熟〉とか〈悟り〉だけではない、生きている限り人は、危うさから離れられないのでしょうか。きっと、自分が生き残って、忠告者、“mentor”が亡くなってしまって、もう警告や忠告をしてくれる年配者がいなくなるからなのかも知れません。そう言えば、《老いては子に従え》と言われますが、こう言った意味でなのでしょうか。

.

季節外れ

 

 

ここ栃木の市内を流れる、かつての《舟運》で賑やかだっ「巴波川(うずまがわ)」の両岸に、鯉のぼりが、川面の上を泳いでいる光景が、先日来見られます。春の観光シーズンを飾るためです。

端午の節句に、男の子に成長を願って、庭に柱を立てて、勢いよく風になびいて泳ぐ飾りをつけるのですが、ずいぶん前から、この「鯉のぼり」が観光の目玉に使われるようになりました。清里に向かって走る車窓から、谷間を通る箇所に飾られた鯉のぼりが、春風に揺れていたのを眺めたのを思い出します。

巴波川の川底に、太陽の陽の射す角度によるのでしょうけど。鯉のぼりの影が写っていて、本物の鯉が、驚いているようです。初めてここに来ました時に、船遊びをして、女船頭さんの唄に、合いの手を入れて楽しんだのは、一昨年のことです。季節外れの〈 巴波川の鯉のぼり〉です。

(下野新聞の撮影の写真です)

.

夕顔

 

 

集まりに呼ばれた時に、家内がよく作って持って行ったのが、「手巻き寿司」です。酢飯に、キュウリ、人参、椎茸、ソボロなどをのせて、海苔巻きにしたものです。酢の効いたご飯や冷たくなったものは、敬遠して食べない中国のみなさんですが、アッと言う間に、この「手巻き」が、テーブルからなくなってしまうのです。

子どもの頃、事あるごとに、よくこの「手巻き寿司」を、母が作ってくれたことがありました。中国の街には見当たらないので、「干瓢(かんぴょう)」は家内は使いませんが、母はこれを甘辛く煮て使っていました。この栃木に参りまして、3ヶ月近く過ぎようとしているのですが、こちらの名産品がいくつかあるのに気付きました。

ここは、近年「いちご王国」で、日本一のいちご生産を誇っています。《とちおとめ》と言う品種は、抜群に甘く、「大福」に入れたものが売られていて、小豆の餡と餅とのコラボが合っていて、美味しいのです。行きつけの和菓子屋さんの店頭から、もう時期が過ぎたのでしょうか、今は消えてしまっています。

この栃木のもうひとつの名産品は、その手巻き寿司に入れる「干瓢」なのです。今から約 300年前、壬生藩主(下都賀郡壬生町にあった藩)の鳥居忠英(ただてる) というお殿様が、前任地の滋賀の木津村から「干瓢の種」を取り寄せ、この辺り「下野の国」に広めたと伝えられています。

この周辺は、「関東ローム層(黒色の火山灰土)」による土壌に覆われているため、排水が良いそうです。それに夏の暑い時期には、日光那須連山か ら発生する雷雨が地面を冷やし恵みの雨となり、水分が実を太らせ、この「干瓢」の成長を促します。 このように土壌や気象条件が、ともに栽培に適した地域であるこ ともあって、全国の97%の一大生産地となったのです。

この「壬生(みぶ)」と言う地名ですが、“ウイキペディア”には、『壬生は、もともと水辺、水生(みぶ)の意で泉や低湿地を意味し[1]、後に「壬生」の字を当てた地名、そこを出自とする一族や集団を指す。また、皇子の世話や養育を行う子代である「乳部(壬生部/みぶべ)」からの転化を含む。」とあります。

東武日光線に、この「壬生駅」があり、その2つ宇都宮に近いのが「おもちゃのまちえき駅」で下車して、10分ほどに徒歩で行かれるところに、家内が入院している「獨協医科大学病院」があります。「干瓢の里」で、「夕顔」から取った果肉を乾燥させて、「干瓢」ができるそうです。

大陸から渡って来た種が、滋賀の木津に植えられ、その種がこの壬生の地に蒔かれた経路に、大陸中国との深い関わりがあることが知らされます。そう言えば「かんぴょう」って、しばらくら食べていないのです。中国の皆さんは、この夕顔をスープにして、好んで飲むのです。夏の野菜ですが、いつか調理してみようかな、の朝です。

(夕顔の花と実です)

.

バラ

 

 

この写真は、3週間も前に、長男が、卒業する生徒のご両親から、感謝でいただいた《黄色いバラ」を、先程、iPoneで撮ったものです。家内の入院先に、持って行きたかったようですが、病室に生花は持ち込めず、私の留守番先の家の玄関に、飾ってくれたのです。

大きな花が3輪残っていて、まだ綺麗なのです。やっと記念にしたくて、結婚記念日に撮ったわけです。もう直ぐ、入院先の家内の所に、出掛けようと思います。一昨日、家内に記念品を買ったのですが、これを持参します。今日も風が強いのですが、気温は17℃です。

.

芳しさ

 

 

きっと、「ふるさと」って〈匂い付き〉なんだろうと思います。目に残る景色や生活だけではなく、そこには、梅や桜、遠くから運ばれてくる桃や葡萄や林檎の花、畦道の流れの淵に咲いていた草花、両親や兄や弟の汗や涙、そんな多くのことに、懐かしい匂いや香りがあったのでしょうか。きっと〈懐かしさ〉が、匂いを付けてしまうのかも知れません。

中部山岳の山から流れてくる沢の淵の旅館の離れで生まれ、沢違いの山奥で育って、就学前に、兄たちの後を追って山の林に分け入り、木通(あけび)を採ったり、栗を拾ったり、沢の流れを泳ぐ山女(やまめ)を追ったりしました。小学校の入学式に、病んで出られず、通学もできませんでした。ただ兄に連れて行ってもらった教室で、兄の横に椅子をおいて未来、一緒に飲んだ脱脂粉乳の匂いと味は覚えています。

巡りくる季節にも匂いがありました。東京に出て来て住んだ街の里山や川や貝塚、近所の広場や旧国鉄の引き込み線の操車場が、遊びの舞台でした。多摩川の鉄橋の下で泳いだり、潜ったりして、ハヤを手で掴んだり、魚影を眺めたりしていました。お寺の庭のイチゴや木イチゴやグミ、通学路の無花果(いちじく)、こっそり食べて美味しかったけど甘酸っぱい香りがしていました。

姉や妹がいなかったからでしょうか、柔らかそうな女の子の身体に触れたくて、そばにすり寄り、もどかしく手で触わろうとする衝動に駆られた、幼い日がありました。上の兄の同級生のこぐ自転車の荷台に乗せてもらって、耳鼻科に連れて行ってもらった日、この手で触れた、電気店のお姐さんの腰の感触、そして匂いを、かすかに覚えているのです。中耳炎で痛いのに、その気持ちよさが、痛みを敗走させてしまっていたのかも知れません。ちっとませた小学生なのか、幼いなりにも男だったのでしょうか。

やっと妻を得て触れた、彼女の柔らかな唇や乳房や肌、その感触は匂い立つような、まさに真性の《乙女の芳しさ》でした。赦されて再生された者にとって、何と素晴らしくも、歓喜できることなのだと感謝したのです。後ろめたく触ってしまい、誘惑の嵐の中を彷徨い、迷いながら青年期を過ごし、その罪を悔いて、やっと妻を得て、疚(やま)しさなしに触れることができたからです。

数えきれない匂いの記憶が残されています。  健康的で、夢や希望を生み出すものです。人を元気づけ、生きる意欲を沸き立たせてくれます。この家の庭に降り注ぐ陽にも、生い出る草や花にも、土にも《創造の匂い》のあるのが感じられます。「春一番」も吹き、「桜」の花が満開になりましたが、48年前も、同じ様に桜の時期でした。かすかな春の匂いがして来ました。