和睦

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いちばんの驚きは、地震、大雨洪水、コロナ、政界や検察畑などの不正、何が起きようとも、どんなことを見聞きしても、落ち着いて、ニコニコと微笑んで生きられる日本人の特性です。ソウルや天津や上海に行っても、そこでは、みなさんは大騒ぎで叫んだり、泣いたり、慌てたりしているのを見聞きしてきた私は、驚いています。

今朝6時過ぎ、ガバッと起き上がった私は、家内の無事を確かめて、iPadでニュースを聞きました。茨城南部を震源とする地震によるもので、ここ栃木市は、〈震度4〉でした。隣家は、ご主人が夜勤で不在、生まれたばかりの赤ちゃんと息子とお母さんが騒いでいる様子はありませんでした。

すぐに、〈震度3〉の街に住む長男が、連絡してきて、『大丈夫?』と聞いてきました。これ程の反応が、日本人の標準です。梅雨前線の停滞、そこに雨雲が近づいての何十年に一度の暴雨が降って、家が流され、家人が不明になっても、マイクの前で、落ち着いて、被災者が応答されています。

災害と共存しながら、この狭い列島に住み続けて、どのくらいになるのでしょうか。経験や学習によって、様々な知恵や判断を身につけ、どう振る舞うかを自分たちのものにしたわけです。石の上に柱を置き、土で壁を塗り込み、藁や茅で屋根をふき、紙の障子や襖で間仕切りをし、竃(かまど)に薪をくべ、沢水や井戸の水で、粟や稗(ひえ)や大根や菜葉を煮炊きをし、ちゃぶ台を囲んで、子どもたちは文句なしで感謝しながら膳に着いて、生きてきたのです。

落ち着いて生きていた父や母を見ながら、様々に学んで今の私があります。けっきょく「和」なのでしょう。聖徳太子が、「和をもって貴しと為し」と言っています。

『一に曰く、和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗とせよ。
 人みな党あり。また達れる者少なし。
 ここをもって、あるいは君父にしたが順わず。また隣里に違う。
 しかれども、上和らぎ、下睦びて、事を、論うに諧うときは、
 事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

1500年も前に、その様に言った決め事を、私たちの先人は、生活の中で具現化してきたことになります。日本人が、もし優れているとしたら、「和睦」を尊んできたことなのかも知れません。それは、単に「仲良し集団」を作り上げて行くことではなく、他者を気遣いながら生きていく術を身につけたことなのでしょう、

先日、同じ階の方が、『山形の友人が送ってきましたので!』と、桜桃(さくらんぼ)を持ってきてくれました。甘くて美味しかったのです。散歩中の家内が、ご婦人に声をかけ、花をほめたら、薔薇の花を手折っていただいて帰ってきました。路上で行き合った老婦人に、遊びにくる様に招かれたりです。シャッターを上げようとしていた、怪我をされた店主に手を貸そうとしたり、住み始めた街の隣人たちと、好い交わりができています。助けられたり、助けたりできるのが、この「和睦」なのでしょうか。

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ショパン

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私は、どうも〈悔い〉が多いのです。もっと早く音楽に関心を持ちたかったというのが第一の悔いです。子どもの頃、小学校の入学式を欠席したのが初めで、病んで学校に行けない日が多かったので、家にいて、母がかけてくれるラジオを聞いて、日がな布団の中で寝ていたのです。天井を見上げると、微熱のせいで、板の節がクルクルと周り始めて、ウツラウツラするのを繰り返していました。

 あの頃、「名演奏家の時間」という番組があって、クラシック音楽が聞こえて来たり、昼過ぎになると、「昼のいこい」の小関裕而作曲のテーマ音楽が聞こえて来たり、農事通信員のお知らせが読まれたり、レコード音楽が聞こえて来ました。けっこう音楽を聞く時間が多かったのですから、音楽の道を選んだらよかったのですが、病欠の弱い男の子の私は、強くなりたくて、軟弱な音楽を嫌う様になっていきました。

 それで毎日の様に聞いたクラシック音楽は、目の回る様な微熱や咳の中で聞いたので、病欠と結びついていて、大きくなって聞きたくなくなったのかも知れません。そんな中で、大人になって、映画の中で聞いたある音楽に魅せられてしまったのです。その映画が、「戦場のピアニスト」で、その中で奏でられていたのが《ショパン》の作品でした。

 ドイツ軍の砲撃の中、ワルシャワのラジオ局で、建物が崩れ落ちる中で演奏されていた曲(「ノクターン第20番嬰ハ短調」)と、戦争末期、砲弾を受けて瓦礫となった建物の静寂な中で、響き渡っていた曲(「バラード第一番」)が、私の心を打ったのです。主人公のスピルマンが演奏していたショパンの作品でした。戦争や砲弾、廃墟の瓦礫の中での美しい旋律の音楽の対比がよかったからでもあります。

 すっかり音楽に目覚めてしまったわけです。後になって、DVDを借りて何度か、映画を見直したこともあり、カンヌ映画祭でも、アメリカのアカデミー賞でも賞を得た秀逸の作品でした。その中のショパンでした。

 もう20年も前になるでしょうか、当時住んでいた街の隣街の図書館で、講演会があって、家内と一人の高校生と一緒に聞きに行きました。この映画の主人公、スピルマンの息子さんがお話をされたのです。子スピルマンは1951年生まれのポーランド国籍(現在はイギリス国籍を取得)で、父39才の時の子でした。当時は、九州産業大学や拓殖大学で客員教授をされて、「日本史」を研究されておられたのです。日本人女性と結婚されていました。

 その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。「ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)」で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで、戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が1945年に著わした「戦場のピアニスト」という本を、12才の時に見つけて読みます。そういった父の著書を通して、間接的に、父の体験を知ったのだそうです。

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 彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が、ホロコーストで、犠牲になって、だれもいなかったからでした。父スピルマンは、忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていました。そしてそんな父でしたが、年をとるにつけ、忙しくなくなると、ポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。

 その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。それで映画化が決まった翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されていきます。

 『父は真面目だった!』と、子スピルマンは語っています。1つは音楽に関してです。音楽を〈食べるための道具〉にしなかったのです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けます。ジャズも好きだったようです。そして極限の中で、『自分が発狂することなく自殺からも免れることが出来たのは《音楽》だった!』と語っています。

 もう1つは《人種問題》でした。『人を個人として見るように!』と言い続けたそうです。どの民族にもよい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない。そういった信念の人だったようです。でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。

 映画の中に出てきた、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので助かるために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。『あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けた友人たち、そしてあのドイツ人将校だったのです!』と、ご子息は言っていました。一時間半ほどの講演でしたが、ユダヤ人の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。

 民族の大危機の中にも、愛が動き、愛が示されたのですね。二度とあのような時代がこないように願い、ショパンを聞きたい心境の九州豪雨、コロナ禍の渦中の私です。

(ワルシャワのユダジンゲットーの記念建物です)

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自然の理

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このところ社会の中に、頻繁に起こっている社会現象ですが、「ごまかす」ことが横行しています。漢字では、「誤魔化す」と書くのですが、この言葉には、二通りの由来があります。一つは、『これは、<弘法大師 >が焚いた、ありがたい<護摩の灰>です!』と、ただの燃えかすの灰を売り歩いて、ご利益のある<ありがたい灰>だと言って、<護摩☞誤魔かし>て、善男善女を騙したのです。それで、この詐欺行為を、「ごまかす」と言ったのだそうです。

もう一つは、江戸時代に売られていた、「胡麻(ごま)菓子」から来ているのだそうです。この菓子の香りは良かったのですが、中身は空っぽだったのだそうで、そう言う騙しごとを、「ごまかす」といったと言うのだそうです。本物に、偽物を加えたり、混ぜたりしていることも多いのです。

そういったことが大手を振って、罷り通ってしまう現代社会に、呆れかえってしまいます。計量も、裁量も、報道も不正が多くみられる時代です。昔、ニューヨークからやって来た方が、こんなことを言っていました。『もし、<裁き>があるなら、最も厳しく裁かれるのは、弁護士でしょう!』とです。アメリカの社会でも、そうなのですから、日本も、何をか言わんやです。裁判所で、時に民事の裁判の時には、双方の弁護士の間で、<裏取引>をするのが通例なのだそうで、どうも、この職業が弱者の味方だとは言えないのかもしれません。

裁判官も、先頃取り沙汰されていた検事も、公正さから逸脱している例がありそうです。政治の世界も、清廉潔白な世界などではないことが、馬脚を表している様です。教育の世界はどうなのでしょうか。期待し過ぎてしまうと、裏切られることがありそうです。結局は、一人一人の生き方なのでしょう。やはり、正直に生きたいなと思うのです。騙されても、人を騙すことはしないで、もう少し生きて行きたいものです。
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朝顔の咲いている様子を、もう何年も観察し続けているのですが、自然界は、《正直な世界》だということが分かります。朝に夕に水やりをして、美しく咲く様を褒めたり感謝したりすると、気持ちが伝わるのでしょうか、精一杯に花を開いてくれます。ただ、こちらに向いてではなく、陽の光に向かって花を開くのです。

華南の街で、二度目に住んだ家には、小さな庭がありました。高い石段の下に岩があって、その端っこで、小さなが花が咲いていました。朝顔もこの小さな花も、「自然の理」に従って生きて、咲いて、見る者を喜ばせ、励ましてくれるのです。そこは、まさに「誤魔化し」のない世界です。

(華南の野花と今朝〈7月7日〉の朝顔です)

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サルビア

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サルビアと朝顔が、今朝のベランダで綺麗に咲いています。九州南部の豪雨で、多くの方々が被災され、亡くなられた方も多くおいでです。ここも今朝は雨降りです。生かされてここにあるのは、大きな恵みだと感じております。友人や兄弟や妻や子に思いを向けています。病んでいたり、悩んでいたり、被災されたりしておいでのみなさんが、今日一日の命に、祝福がある様に願うのです。好い一日をお過ごしください。

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銀漢

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明日、七月七日は「七夕(たなばた)」、伝説によると、織女星と牽牛星が、天の川で、年に一度だけ許されて逢瀬を果たす昔話です。星雲を、天空に流れ大河の様に見上げた、古代の中国の人々の感性に驚かされます。

この「天の川」を、「銀漢(ぎんかん)」だと教えてくれたのが、葉室麟が書き表した「銀漢の譜」でした。何年か前に、訪ねてくれた友人が、《面白い本》だと言って、置いて行ってくれた書籍です。そのAmazonの読者の書評に、次の様にありました。

『やられた・・・・久しぶりにすごい作品に出合ってしまった。武士も百姓も関係なく、こころざし高く気骨のある人間がみせる武士道精神。うなるような気迫と生きざまに震えた。濡れ衣を着せられ暗殺された父の仇を討つため、最後は家老にまで のし上がった男。家老になる決め手となった手柄は、藩を揺るがす百姓一揆の弾圧で、その一揆は、皮肉にも身分の違う幼き頃の親友3人が、指揮官と鉄砲隊員 対、百姓一揆のリーダーとして向い合った事件でもあった。私欲を捨て大義のために生きぬいたつもりでも、ほんの少しの気のゆるみやなにげなく振り払った火の粉が、知らないところで人に致命傷を与えているという人間界の非合理さを思い知らされた。現代人が武士の言動に感動するような ぬるい時代小説ではなく、江戸時代の武士が読んでも、きっとこの作品に共感し感涙したはず。 本気で骨太作品です。』

著者は、宋代の「蘇軾(そしょく/蘇東坡<そとうば>とも呼ばれています)」の詩「中秋月」を引いています。蘇軾は、四川眉山の出身で、政治家であり、書家でもあった人です。

暮雲収盡溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

☞和訳「中秋の月」
暮雲 収め尽くして清寒溢れ
銀漢 声無く 玉盤を転ず
此の生 此の夜 長くは好からず
明月 明年 何れ(いずれ)の処にて看ん

宋代の中国と日本との間には、「日宋貿易」が頻繁に行われ、政治も経済も文学も、多大な影響を受けています。宋銭が日本に持ち込まれ、流通の面で用いられたりしています。この世の雑念を離れて、「銀漢」で友情を回復したいとの願いから、方や上級武士の将監が、百百姓の倅(せがれ)の十蔵に、この詩を書いて渡す、「友情」が素晴らしいのです。蘇軾の生まれた眉山も、島流しにされた海南島も、亡くなった常州(江蘇省)も、どんな所なのでしょうか。千年も前の人なのです。

(”百度全科”の銀漢を撮影したものです)

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日本が《文化的な国》であることを言い表すかの様に、銀座のど真ん中に、1891年に開業した本屋さんがあります。今では、世界中からの観光客、訪問客が闊歩する街、観光の名所にあるのです。かくいう私も、学校の前の停留所から、15円だかの往復切符で都電にとび乗って、お上りさんの《銀ブラ》をしていました。財布に入れるほどのお金を持たないで、ポケットにねじ込んだ、わずかな金しか持たない若者には、目の出る様な値札が付いた物が、あふれるほどに店頭に並べて売られていました。

その本屋の社長で、ある新聞の社主に、何かの用で面会に行ったことがありました。父の知人でした。『今何をしておいでですか?』と聞かれて、アメリカ人起業家のお手伝いをしながら学んでいる旨答えたのです。そうしましたら、この方が、『外国人に雇われているよりも、僕がやっている学校で学んだ方がいいですよ。奥さんは、僕のやっている保育園で働いて、経済的に、あなたを支えられるから!』と言われたのです。

ずいぶん積極的な生き方改革の勧めでしたが、私は、現状維持こそが、導きと言って、そこを辞しました。この方は、旧南満州鉄道の役職に就いておられ、戦後間もない頃には、アメリカ人が開催する講演旅行で、通訳をされていたそうです。外国人に雇われたことで、あまり良い印象が、外国人になかったので、そんな勧めをされた様です。

あの頃、地方にいないで、『東京に出て来なさい!』との勧誘の機会が多かったのです。前の職場で、一緒に働かせて頂いた、父ほどの方から、『用があるから出て来ませんか?』と、あるホテルに呼び出された私は、食事をご馳走になったことがありました。同席していたのがある私立高校の理事長夫妻で、『私たちの学校で働きませんか!』と誘われたのです。

驚いたのは、同時に、私の弟が、その春から教壇に立つことになっていた学校だったのです。弟の話が出て来て、『実は、私の弟です!』と言ったら、ご夫妻も、私を連れ出した方も、目を丸くして驚いていたのです。こんな奇遇なことってあるんですね。また、この一緒に働かせて頂いた方の勤めていた、ある女子大学にも誘われたこともあったりで、やけにこの方に気に入られたことがありました。

そんな著名な哲学者のご子息の誘惑をくぐり抜けて、地方の街で36年、恩師から受け継いだ、日本サイズの小さな倶楽部で働かせてもらいました。それは実に素敵な年月でした。自分の人生の最善の時を、家内と4人の子と、平凡な日々を、精一杯生きたのです。今になって、その街で出会った多くの人たちを思い出しております。まさに瞬(まばた)きの間の出会いと出来事でした。

(“朝日新聞社“による都電です)

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あさがお便り

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暑い日差しが、朝から輝いています。先月解体を終えた敷地に、工事の起重車が入って、いよいよ工事が始まっています。しばらく騒音が続くのでしょうか。そんな騒ぎをよそに、ベランダで四輪の朝顔が咲きました。家内が蒔いた種が花をつけたのです。しばらく楽しめそうです。花も私たちも元気でおります。

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わが世の春

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作詞が北山修、作曲が加藤和彦で、アメリカ人のベッツイ&クリスが歌ったフォークソングの「白い色は恋人の色」は、1969年に、多くの若者を虜にしていました。

花びらの白い色は 恋人の色
なつかしい白百合は 恋人の色
ふるさとのあの人の
あの人の足もとに 咲く白百合の
花びらの白い色は 恋人の色

青空の澄んだ色は 初恋の色
どこまでも美しい 初恋の色
ふるさとのあの人と
あの人と肩並べ 見たあの時の
青空の澄んだ色は 初恋の色

夕やけの赤い色は 想い出の色
涙でゆれていた 想い出の色
ふるさとのあの人の
あの人のうるんでいた 瞳にうつる
夕やけの赤い色は 想い出の色

ベトナム戦争の反戦ソングが、日本の若者にも支持され、その流れの中で、多くのフォークソングが生まれました。この歌もそうで、やはり「昭和の歌」という感じがしてしまいます。泥沼の様にベトナム戦争が続き、中国では文化大革命が行われ、わが国では、成田に新東京空港の建設が着手されたりしていた時代でした。

日本人歌手が、アメリカの歌が翻訳されて、それを歌うことばかりでした。そん中、外国人の女性が、ギターを奏でながら、日本語で歌うということは、それまでありませんでした。しかもケバケバしくなくて、清楚な服装で、楚々として歌ったのですから、日本人、とくに若者たちが騒ぎ立ったのです。かくいう23の私も、アメリカ映画に出てくる様な、真っ赤な口紅と深いアイシャドウの出で立ちでないのが気に入ってしまいました。
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作詞の北山修は、作詞家ですが、精神科医で、大学教授を歴任しています。隣の小山市にある白鴎大学の副学長を勤めたりした方です。作曲をした加藤和彦は、”ザ・フォーク・クルセダーズ“ のメンバーの一人で、当時、日本の社会に衝撃的をもたらせた「帰ってきたヨッパライ」を作曲しています。友人に精神科医の北山修がいながら、軽井沢で60過ぎてから、うつ病が昂じたのでしょう、自死してしまいました。多くの人に、感動や安らぎを与えた人のその後の人生には、違ったことが起こってしまうのは、残念なことであります。

私は、社会人2年目で、全国で開催される研修会のお世話で、飛び回っていました。この歌がはやる前年の暮れに、〈三億円事件〉が、府中市内で起こり、私の働いていた職場にも、刑事がやって来たのです。事件は、未解決のまま今に至っていますが、犯行現場は、高校の運動部の冬季練習で、塀の周りを三周した、府中刑務所の北側の塀の外でした。

久しぶりに、この「白い色は恋人の色」を口ずさんで見ると、幼い日や、青春の日々が思い起こされてきます。ふるさとの野花や夕焼けは、瞼(まぶた)の底に焼き付いている様です。父や母がいて、兄たちや弟、近所の遊び仲間、学友などもいて、そんなに豊かではなかった時代の中で、嬉々として遊び、喧嘩し、悪戯をしていた日々が幻の様です。「白い花」が眩しかった50年も前の《わが世の春》でした。

「“Photo Chips”から白い花、ベッティとクリスです)

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朝顔2020栃木版

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昨秋11月1日に越してきたアパートの4階のベランダに、今季第一輪目の「朝顔」が、開花しました。大陸から、悲しいニュースを聞いた翌日の朝顔です。華南の街の家のベランダでも、毎年咲かせてきたのですが、今年は暗い思いの朝の開花なのです。

成績表を、学校の教務課に、定期試験の成績表を提出して、ビサの更新もかねて帰国を考えて、いつもの街と関空や成田からとは違うコース、香港経由で帰ろうと計画していました。それが実現し、香港空港でのトランジットで、空港で過ごした時は、言い知れない〈自由〉が感じられ、肩の緊張、いえ心の緊張が、〈プツン!〉と弾け飛ぶ様な経験をしました。

そんな気分が、もう味わえない様な時代を迎えてしまった様です。同じ中華系の人でも、この国の人たちの表情が全く違うのは、シンガポールや金門島に行った時に感じたのと同じです。2006年の夏に、この香港で、1週間過ごして、九龍駅から北京行きの寝台列車に、ブラジルやイギリスやアメリカからの若者たちと同乗の旅でした。なんとも言えない気の張り詰めた思いで、北京南駅の駅頭に立った日が、記憶に鮮明です。この国の祝福と、この国のみなさんの平安を願っております。