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『神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。 (新改訳聖書第三版・創世記1章11〜12節)』
いよいよ師走、よく走らされたように思い起こしています。さて、お昼の定番は、今や「さつま芋」のわが家です。蒸しているのですが、焼き芋が一番美味しいのは分かっていますが、一番簡便な方法で食べているのです。
このさつま芋は、甘藷、人参芋、砂糖藷、饅頭藷といった味を表現した呼び名、由来の唐芋の呼称もあります。このさつま芋は、「青木昆陽」に始まるのだと歴史の時間に学んだのですが、飢饉に強い植物と言われ、非常食として重用されてきています。江戸の中期、8代将軍の徳川吉宗の時代に、青木昆陽が「蕃藷考(ばんしょこう)」という研究書を著し、将軍に上書したことに始まります。
享保の大飢饉(1732年)が、当時に日本を襲って、食物危機をもたらした教訓から、紀元前には、メキシコのアンデスで栽培されていたそうで、15世紀にヨーロッパに伝わり、やがて中国から琉球(沖縄)、沖縄から薩摩に伝わり、その昆陽の学問書を、伊奈忠逵が簡略化した「薩摩芋功能書并作り様の伝」として刊行されて、まず将軍のお膝元の関八州に、種芋とともに配布されます。ところが収穫に至らなかったのだそうです。
その状況下で、さつま芋の栽培が成功していく様子を、「上毛新聞(前橋市古市町1-50-21)」が、次のように伝えています。
『上州只上(ただかり)村(現在の太田市)の名主も、伊奈忠逵から試験栽培の任を受けた一人だった。板橋定四郎は和算家でもあったが農学研究にも熱心で、丹念に栽培記録を取ってい失敗を重ね、試行錯誤を続ける中で彼はあることに気が付く。
それが、肥沃な土よりもやせた土地の方が良く、むしろ肥料を与えない方が良質な芋がたくさんとれるという事実だった。要は蔓(つる)ぼけという、栄養の与えすぎで蔓や葉が茂りすぎて、土中の芋がちっとも大きくならない現象を見つけたのだ。これは当時の常識を覆す発見で、青木昆陽よりも早く、具体的で実践的な研究成果だった。
かくして関東最初のさつまいも栽培の成功は、上州只上村の板橋定四郎によってもたらされた。この由緒にちなんで、太田菓子工業組合発の太田銘菓「定四郎ポテト」が販売されている。おいしいスイートポテトで、さらに地域の歴史も味わえる。』
この只上村は、渡良瀬川の南岸に位置し、川を隔てた栃木県足利市に隣接しています。あの有名な岩宿遺跡(旧石器時代だとされる遺跡)も近くにあって、なじみ深い地なのです。この村で栽培、収穫に成功したさつま芋は、またたく間に全国に広まり、飢饉の時の非常食、とくに農民の主食にまでなっていったようです。今では、この地で作られる「種芋」が、全国に出荷されているそうです。令和の我が家でも、準主食になっています。
土地が肥沃な地には、それに見合った作物が生産され、そうでない地にも、違った種類の作物が育つと言うのは、やはり創造主の神さまのご配慮なのでしょうか。板垣定四郎のように、人は知恵を得て、栽培に工夫をしていったのです。
(Illust AC からのイラストです)
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